PACIFIC WAY

−ああ、楽園のはずが

     ポナペ・ホテル憤戦記

    −第1回− プロローグ   

茂田達郎 (しげた たつろう)


−2000年3月20日−

 ざわざわーっ。
 雑踏のざわめきに似た物音が聞こえる。耳を澄ますと、山の方から次第に近づいてくる。一陣の風がひんやり頬をなでて通り過ぎていく。ほどなくしてピシピシッ、パシッと、あたりの木々の葉を、大地を、激しく叩く雨音に変わった。
 日本では滅多にお目にかかれない大粒の雨だ。急いでナーシ(マングローブの柱と梁に椰子の葉で葺いたローカルハウス)に駆け込む。わずか10メートルほど走る間に全身ずぶぬれになる。
 島の中心部に横たわる山の稜線は中腹まで厚い雲に覆われて今は全く見えない。目を転じると、午後の海が太陽の光に燦々ときらめいている。環礁に砕ける波頭が白い一筋の線を描き、その彼方にアンツ環礁の島影が浮かんで見える。
「マタウ、戻って少し休んだら。ひどい雨だ」 
 いつの間にきたのか、カニキが背後から声をかけてきた。裸足に短パン、右手に蛮刀というポナペでよく見かける男のいでたちだ。Tシャツに収まりきれない突き出た腹が下から顔を覗かせている。
「マタウ」というのは私の現地での呼称。ポナペにきて間もなく部落の長からもらったタイトルだ。「考える人」とでも言ったらいいだろうか。そんな意味だ。
「カニキ」というのもタイトルのひとつ。彼は本名をイオアキン・ミケルという。ニックネームは「パコ(サメ)」。私がこの地に「ホテル・スノーランド」の建設を決めた1992年以来の付き合いだから、もう10年近くになる。スノーランドがオープンしてからはセキュリティー兼掃除要員だった。なんでも今勤めている港湾会社から、仕事が暇だから3か月休んでくれと言われたそうで、その間「カマケル(掃除)を手伝おう」と申し出てきた。その彼に私は1日あたり10ドルやると約束している。
「ああ。でもスコールだからすぐやむだろう」
 蛮刀を置いてタバコを取り出し、彼にもすすめる。手のひらのあちこちにマメができて、一部が破け、血が滲んでいる。この数週間、草刈りと伐採に明け暮れてきた、その勲章だ。
「無理しない方がいい。こんなに体を使うのは久しぶりだろう。それよりトゥントゥン(おちんちん)もちゃんと使わなくちゃ」
 カニキがのぞき込んで、いきなり私の股間に手を延ばしてきた。赤茶けた歯をむき出して笑っている。
「余計なお世話だ。人のことよりお前はヤップ人じゃないんだからプー(ビンロウ樹の実に石灰の粉を割り入れた嗜好品。これを噛むと歯が赤く染まる)なんかやめろよ」
そう言おうと思ったが「ま、これも余計なお節介か」と思い直し、にらみつける。
 小降りになったのを見計らって部屋に戻る。温かいシャワーが冷えた体に心地よい。傷の手当てをしてから、先ほど庭でもいできたばかりの椰子の実を片手にバルコニーに出る。プラスチック製のガーデンチェアに腰を下ろすと、体を動かして汗をかいたあと独特の気だるさのなかに快い充実感が広がる。
 スノーランドは、ポナペ島の西に面した丘の上にある。東南が低くなっている元々の地形を壊さずに、かつどこからでも眺望がきくよう施設を配置している。私の居室は敷地北端の高台ほぼ中央に建てたコンテナ・ハウスの2階部分1室で、外階段で上がり切った所に1坪ほどのバルコニーがある。ここからは、左手の山から右手の海まで半周を超える景観が遮るものなく一望できる。
 雨はあがっていて、すぐ近くの丘陵から海に突き出たマングローブの半島にかけて、手を伸ばせば届きそうな大きな虹がかかっている。北西の海の上空にさっきのスコールのなごりだろうか、黒い雲の塊があり、そこから幅広い帯が簾を下ろしたように海面へと垂れ下がっている。
 昨日まで敷地内のそこここにあった雑草や伐採した木の山はもうない。毎日のように手伝いにきてくれる嫁の親戚連中が、あるものは捨て、あるものは燃して片づけてくれたのだ。門から事務所のある建物へと通じるコンクリート道に埋め込んだ黒い玉石が雨に洗われ、鈍い光りを放っている。道の両側にはたわわに実をつけた椰子の木が、萌える緑の葉を揺らしてほどよい間隔で並んでいる。玄武岩で土止めをした花壇に純白の花弁も艶やかなポーマリアが咲き、そのかたわらに若緑の枝葉をのびのびと広げた火焔樹は可憐な真紅の花をつけている。どれも自分たちで汗してつくり、あるいは植えたものだ。ひとつひとつに思い出がある..........。
 言いしれぬ懐かしさが愛おしさとない交ぜになってこみ上げてくる。ここを離れていた期間はたった3年。なのに、この感覚は一体何なんだろうと思う。
  私にはもっともっと長い時間が経っているように感じられてならなかった。


――その1か月前――
 
 私はスノーランドの現地パートナー、ベルナード・オルペットと対峙していた。
 場所はスノーランドのナーシ。かつてレストランとして使っていた所だが、フィリピンで誂えた籐製のテーブル、椅子はもとより、調理場の冷蔵庫、フリーザー、調理器具から食器に至るまで、ことごとく失せている。椰子の葉の屋根はところどころ穴があき、そこから上空が覗いている。雨が降り注いだ床の一部は朽ちている。ボウリングのレーンを利用して造作したバー・カウンターはアリの巣に変わり果て、指先で押すとボロボロと崩れ落ちる。露草に似た雑草が我が物顔にはびこり、長い間、人の手が加えられていなかったことを物語っていた。 
 私は10ドル札、20ドル札、50ドル札、100ドル札を取り混ぜ1万5千ドルの紙幣を収めたアタッシュ・ケースを、契約書類とともに携えていた。立会人は私の息子の健と、彼の五男のジャスティン。
「いくら用意してきたのか」
 オルペットがまず口を開く。
「1万5千ドル。それと車だ。書類はここにある」
 現金が見えるようにアタッシュ・ケースを持ち替え、書類を取り出す。一瞬オルペットの緊張が伝わってくる。
「車はいくらだ」
「3千5百ドル。残りの1千5百ドルは私が帰るときまでに渡す」
「トータルでいくらくれる」
「5万だ。今年のクリスマスから毎年5千ドルずつ、6回払う」
「7万ドルもらえないか」
「だめだ。前にも言ったとおりこれ以上は出せない。これだけ大きなダメージだ。いつ再開できるかもわからないんだ」
「6万じゃどうだ」
「だめだ」
 そんなやりとりの末、彼は不承不承うなずいた。
 しばらくして公証人の資格を持つ私の息子の義弟ミッチーがやってきた。株を会社に返還する書類、土地を私の孫娘に譲るという書類にオルペットがサインする。2度とトラブルが起きないようにと弁護士が入念に用意してくれたものだ。署名が終わり、ミッチーが姿を消したのを見届けてから、アタッシュ・ケースごと金を渡す。オルペットはキーロックの番号を何度も確認してから、そそくさと用意した車に乗り、ジャスティンに運転させて帰って行った。
 それを見送り、ナーシに戻った私と息子はどちらからともなく手を出し、しっかりと握り合った。辛酸を共にしてきた父と子。言葉はいらなかった。
 「金を受け渡しするところを人に見られたくない」
 オルペットのたっての要望だった。さすがの彼も外聞をはばかったのだろう。ポナペのほとんどの人が、スノーランドによって彼がどれほど恩恵を受けてきたか、私たちがどんな目にあってきたか、知っている。
 スノーランドの土地はもともと彼のものではない。私が金を出してカニキの父親から譲り受けたのものだ。しかし、ポナペを含むミクロネシアでは法律上、外国人は土地を所有できない決まりがある。当時、息子はまだ結婚前で、身内にミクロネシア国籍を持つ者はいなかった。仕方なく私たちは彼の名義を使うことにした。もちろん万一のことを考えなかったわけではない。それなりの手も打ったつもりだった。
 スノーランドは1992年にパートナーシップの法人として現地政府外資導入委員会に認可された。現地側が土地を提供し、こちらは資金を出す形でパートナーを組む。彼には月々400ドルの給料がスノーランドから支払われることになった。
 最初のころは和気あいあいと家族同然の関係が続いた。すぐ近くに住んだ方が何かと便利だということで、スノーランドに隣接する下の土地をカニキの兄弟のカイユースから買い受け、彼の家を建てた。金、材料、すべてスノーランドからの支給だ。これを手始めにクルマ、冷蔵庫、洗濯機、ベッド、照明器具……、さまざまな物をオルペットに援助した。彼の次男と四男、それに長男の嫁がスタッフとして入る。彼と彼の家族の生活は一変して豊かになった。
 ところが、時が経つにつれ、彼からの要求と干渉がエスカレートする。「親戚の葬式がある。金を貸してくれ」「部落でカマテプ(祭り)がある。サイダーを1ケース貸してくれ」「知り合いがくる。レストランで食事させてくれ。金はあとで払う」はまだ序の口で、「草刈り機を貸してくれ」「トラックを貸してくれ」「息子を使いたい。こちらに寄越してくれ」等々、勝手気ままに言ってくる。こちらの都合などお構いなしだ。
「貸してくれ」「あとで払う」は言葉のあやで、機材以外はただの一度も戻ってきた試しがない。波風はできるだけ立てなくない。やりくりして最大限応じていたが、どうしてもいい返事ばかりしていられないときもある。すると、下から電話をかけてくる。
「茂田はいやな奴だ。俺はランドオーナーでパートナーだ。なぜ助けてくれない」
 フロントスタッフに私の悪口をぶちまける。ときにはそれが延々1時間にも及ぶ。息子が地元の女性と結婚してからは、彼女をわざわざ呼びつけて嫌みな説教をたれる。
 こんなことが度重なると、さすがにこちらも堪忍袋の緒が切れてくる。開業以来、息子は発電室のわきの自分で建てた掘ったて小屋に、私はオフィスの奥のパイプベッドに起居するという毎日を送っていた。シャワーを浴びるときは、ゲストに気づかれないよう、夜、空いている客室を選んで忍び込む。
「俺たちはだれのためにこんな思いをしながら一生懸命働いているんだ」
 虚無感が芽生え、広がっていく。神経がささくれ立ってくる。些細なことで息子と嫁がもめ、いさかいが絶えない。オルペットと手を切れればいいのだが、それができない。法的に彼は地主であり、50%の株を所有するパートナーなのだ。いざとなると、その現実の前には個人間の約束事や信義など紙切れほどの値打ちもない。金で解決するしかないが、といってこちらには鉄砲を撃ちたくても鉄砲玉がない。
 オルペットとの関係がだんだんギクシャクし、やがて険悪にさえなっていった1997年秋、ポナペ人弁護士のマーティン・ジャーノが「スノーランドを買いたいと言っている男がいる」と話を持ち込んできた。折から日本はバブル経済が崩壊、旅行代理店が次々と倒産して売掛金の回収が滞るケースが相次いでいた。
 「今がチャンスかもしれない。売ってもう一度出直そうよ、親父」
 息子と嫁の間には娘が誕生していた。
 私は売却を決意した。
 汗と涙と、そしてときには血を流して築いてきたスノーランドだ。手放すことへのためらいがなかろうはずがない。だが、それにも増して「オルペットと決別しなければ」という思いが強かった。
 この決断が、その後私たち家族に思いもよらぬ苦難をもたらすことになろうとは、そのときは予想だにしなかった。
                                       (次号に続く)