PACIFIC WAY

          
            回顧録(二)

(社)太平洋諸島地域研究所 理事長
小深田貞雄(こふかだ さだお)


 私は10年間の南拓ならびに閉鎖機関整理委員会の勤務を了えて昭和23年(1948年)4月、昭和ゴム株式会社へ入社した。当時、叔父岩田喜雄が社長であった。

 同社は昭和12年(1923年)、南方に於けるゴム園経営を目的とし、明治製糖系のスマトラ興業株式会社と同系のゴム製品の加工販売を目的とした明治護謨工業株式会社、並びに森村財閥系のゴム園経営を目的とした株式会社南亜公司と同系のゴム製品製造販売を行っていた東京護謨工業株式会社の4社の合併によって発足した会社である。

 同社の生ゴム生産高は年4,500トン以上で、英、米、仏、蘭、等の大ゴム園と肩をならべていた。生ゴム生産から製品製造までの一貫作業形態で戦前、戦時中と業績は進展し、更に昭和20年(1945年)、本邦最古の歴史を持つ三田土ゴム株式会社も吸収合併した。

 戦時下では南拓のセレベス事業所開設と同時期にマカッサルでゴム製品の加工工場を経営した。

 終戦により、生ゴム生産を中心とした外地事業の一切を失い、内地に於いても軍需産業から民需産業へと転換した。

 私が入社した頃は、京橋の明治製菓ビルに本社があり、かつて東京護謨工業の工場であった千住工場、三田土ゴムの工場であった尾久工場、ならびに元相模海軍工廠を転用した相模事業所が稼働していた。

 主な製品は千住工場が自転車とリヤカーのタイヤ、チューブ、ゴムホース、ゴムベルト、ゴム工業用品、医療用品等、尾久工場が軟式テニスボール赤M、軟式野球ボールS.G 等で、相模事業所はゴム加工部門、畜産部門、窯業部門等が稼働していた。

 私は先ず本社総務課配属となった。最初の仕事は、日東タイヤ株式会社の創立事務であった。これは昭和ゴムの技術と東急系列の資本による相模事業所で、自動車タイヤの生産を目的とした新会社を設立する計画であった。五島慶太さんの指示により出資要請のため関東一円の自動車会社、運送会社を訪問した。この会社は設立を終え運営も一応軌道に乗ったが、結局は東急傘下の会社となった。

 昭和25年(1950年)、千住工場検査課長を命ぜられた。この課は製品の検査を担当していたが、課長の仕事は官庁や国鉄への納入品の検査官の対応が主たる仕事であった。

 しかし品質管理の講習会へ行ったり、その内容を社内で講義したり、何かと勉強になった。ゴム製品は戦時中から統制時代まで価格統制と配給統制が行われたが、25年4月から統制が撤廃され、自由競争の時代にはいった。同年6月には朝鮮動乱が勃発し、我が国経済も活況を呈した。ゴム業界も生産、販売ともに多忙を極めた。しかし戦局が小康状態にはいると景気も中弛み状態となり、ゴム業界も下降線を辿った。会社の業績も次第に悪化し、苦しい決算が続いた。

 昭和27年(1952年)、京橋の本社総務課長になった。同年12月、当社株式180万株が東京証券取引所に登録され、外部に対する信用を一段と高めた。課長の重要な仕事の一つに総会屋対策があった。私の南拓時代の旧知に、戦後総会屋に変身した二人の大物がいた。この二人は何かと私に協力してくれた。

 昭和29年(1954年)、私の一家は戦時中に疎開した流山から10年ぶりに千住工場に隣接した旭町社宅へ移転した。

 この頃政府の緊縮財政により景気は更に後退し、ゴム業界もその影響を受け、昭和ゴムも同年3月期は赤字決算となった。

 同時期、叔父は南方の新規事業計画策定のためインドネシアを訪問した。また、南方農林協会を設立し、私もその事務を担当した。叔父は更に政府の賠償審議会のインドネシア担当委員や、新設されたアジア協会の副会長に就任した。昭和ゴム社長は辞任し、相談役となった。

 会社の機構も簡素化され、私も旧債整理を担当する課長を命ぜられ、不況に因る焦げ付き債権整理のため、全国を駆け回った。私の最も苦難の時期であった。

 昭和30年(1955年)に入って国際収支もやや改善され、経済も安定の道を辿りはじめた。

 昭和32年(1957年)、総務部次長になった。生産も拡大基調となり、私も工場労務者募集のため、東北地方を駆け回った。

 当社工場は、千住、尾久両工場でいずれも市街地にあり、設備増設や新規事業の計画等は困難な状態なので、将来の飛躍に備えて適地を調査中であったが、昭和36年(1961年)、千葉県柏市から新工場用地を斡旋された。柏市十余二の所有権者20名、畠地2,000坪を含む山林20,000坪を買収することになり、私は市当局、地主等との折衝を担当することとなった。買収も進捗し、従業員社宅、工場建設も始まった。

 昭和40年(1965年)2月11日、私は市役所の担当者を訪問する約束があった。当日、工場建設要務のため、中沢顧問、渡辺課長、浦山係員も現地へ行くので自動車へ同乗を勧められたが、私の約束の時間に合わないので私一人電車で出かけた。
 この自動車は同日午後、東武鉄道野田線の流山町初石二十山の無人踏切で、電車と衝突。乗っていた3人は亡くなった。私も遭難したものと思われていた。忘れられない出来事である。

 第1期工事はデュラライト工場および柏社宅の建設であったが、昭和40年(1965年)6月末建築を完了した。

 柏工場の建設に伴い、主力工場である千住工場の敷地9,300坪を日本住宅公団に売却することになった。私ども家族の住んでいた旭町社宅も、本社事務棟建設のため取り壊すこととなった。偶々、田崎取締役が移転のため小岩所在の住宅を売却したいとの意向をもっておられたので譲り受けることとなり、昭和39年(1964年)11月、現在の住居に移転した。

 柏の新工場も逐次完成し、稼働を開始し、昭和41年(1966年)10月、私は55歳の定年を迎えた。私はかねて叔父が理事長をしているアジア会館へ移ることを考えていたのでその旨を申し出ると、安倍社長は次の改選期に役員に推す事を考えているとのことであったが、私のアジア会館への思いは強く、同年11月1日、18年間勤めた昭和ゴムを辞し、アジア会館へ入館した。
−続く−