PACIFIC WAY


            回顧録(四)    

(社)太平洋諸島地域研究所 理事長
小深田貞雄(こふかだ さだお)


 昭和59年(1984年)4月4日、叔父岩田喜雄は94歳で亡くなった。岩田俊喜さんがアジア会館会長を継いだ。私は主として関係のある各協会の運営に力をそそいでいた。 

 俊喜さんは平成8年に発病し長期入院し、私は専務理事に、更に平成9年(1997年)5月、会長に就任した。俊喜さんは間もなく亡くなった。

 同年9月20日、アジア会館は創立40周年をむかえ、全館員、各協会の役職員が参加して盛大な記念式典を催した。

 会館は建築後40年を経過し、耐震診断による改善を要する箇所もあり、平成10年より翌年にかけて新館の改築を行った。

 更に新規事業の一環として、アジア太平洋資料室を開設した。

 私の回顧録も終わりに近づいた。回顧録も学歴や職歴だけでなく、私の人間形成にかかわったと思われることについて記しておきたいと思う。

 私の父は、大分県国東半島の神職の家系に生まれた。青年時代、すなわち明治30年代に上京し、蚕糸講習所で学び、製糸の技師になった。名古屋、宇都宮の製糸会社を経て、福島県二本松の当時国内でも有数の製糸工場であった双松館の技師を務めた。その後、故郷である九州に移り、大分県豊後高田の豊中製糸工場長、中津の同本社の支配人を務め、同社退社後は福岡県の杷木で旭製糸の社長に就任し、その人生の大部分を製糸とともに歩んだ。従って私も小学校、中学校の頃は、常に製糸工場に隣接した社宅で暮らしていた。

 母は、明治40年(1907年)祖父が小学校の校長をしていた長野県上田の高等女学校を卒業して上京し、小石川指ヶ谷町にあったアメリカ人のキリスト教婦人伝道師バンファインド女史が校長を務める東京聖書学院に学んだ。この学校は後年東京神学大学に併合され、母の名も同校名簿に第2回卒業生として記載されているとのことである。母はバンファインド女史に可愛がられ、養女にと望まれたが、これは弟の喜雄叔父が「姉がアメリカに行ってしまう」と反対して実現しなかった。

 母は卒業後、バンファインド女史とともに江東鐘ヶ淵紡績の敷地に建てられた教会で布教に励んだ。この時代、日本の主力産業であった紡績会社、製糸会社はキリスト教の布教に熱心であった。その後母は福島県二本松の教会に招かれ、製糸会社双松館に勤め、教会の礼拝に出席していた父と結ばれた。

 私の幼年期、少年期のわが家は典型的なクリスチャンホームで、私たち兄弟は母の弾くオルガンにあわせて賛美歌を歌った。しかし中学校、高等学校、大学時代は大正デモクラシー、マルクス主義、唯物史観を至上とする風潮のなかで、次第にキリスト教とは離れていった。

 昭和16年(1941)、日本は太平洋戦争に突入した。弟が父の製糸業を継いで中支で華中蚕糸会社に勤務していた。弟に招集令状がくだった。弟は父宛に「もし戦死したら敵性宗教のキリスト教でなく、仏教で葬って欲しい」と遺言を送って出征した。間もなく弟は南方戦線に送られ、ブーゲンビルで戦死した。
 
父は弟を仏式で葬り、小深田家の墓が中津に仏式で建てられた。私は昭和49年(1974)にナウル共和国を訪れたが、太平洋戦争の最も悲惨な戦跡であるガダルカナル、ブーゲンビルを望みながら弟を偲んだ。 

 昭和29年(1954年)、私の一家は戦時中疎開していた流山の母の実家から、千住旭町の昭和ゴムの社宅に移転した。

 当時妻はキリスト教信仰を求め、近くの千住柳原に建てられた聖和教会の礼拝に出席しはじめた。この柳原は鐘ヶ淵からあまり遠くはない。この聖和教会の歴史を遡ると、母がかつて伝道に尽くした鐘ヶ淵教会であることを同教会創立20周年史で知った。鐘ヶ淵伝道所はいくつかの教会の統合を経て、昭和25年(1950年)聖和教会として設立されたのである。聖和の名称も、戦争による敵味方の聖なる和解を願ってつけられた。

 昭和39年(1964年)、母が中津から上京したおり聖和教会のことを話したところ、往時を懐かしみ一度訪ねたいと礼拝日に衣服を改め出席の支度をした。しかし考え直し、もし出席したら中津へ帰れなくなると出席を断念した。母は既に、父とともに仏教徒になっていたのである。後年、父も母も弟と同様に仏式により葬られた。

 妻はこの聖和教会で洗礼を受け、その後子供達も相次いで受洗した。そして最後に、私も昭和51年(1976年)4月18日の復活祭の日に洗礼を受けた。この時、私は61歳であった。
 この年、聖和教会は創立30周年に当たっていた。私は長老に選任され、30周年記念事業の委員長に推された。記念事業は会堂の改築であった。更に10年後、40周年の牧師館改築記念事業の委員長も仰せつかった。

 妻も教会の長老、教会婦人会連合の東京教区委員長、教会婦人会連合事務局の主事等を務めた。台湾で開催された婦人会連合のアジア大会にも出席した。更に房総館山に、引退婦人教職の安住の地として計画された「にじのいえ」の建設、運営にも委員長として献身的に務めた。

 平成11年(1999年)12月22日、パラオ共和国のクニオ・ナカムラ大統領が来日し、宮崎サミットの議長就任祝賀ならびに歓迎の会がアジア会館で開催された。私も主催者側として何かと遅くまで務めたが、この日から私は体調をくずし、12月31日急性肺炎と診断され、救急車で都立東部病院へ入院した。妻はリュウマチで病床にあったが、「行っていらっしゃい」と私を送り出し、教会の牧師に電話し、「私は大丈夫だから、主人のために祈ってください」と頼んだ。牧師は当日、翌1月1日と病院に来て、私のために祈りを捧げてくれた。妻は1月1日午後6時、天に召された。

 妻の葬儀が1月3日聖和教会で行われたが、私は出席することはできなかった。
 数日後退院し、私はアジア会館の職務に一応復帰したが、3月18日、会長を牟田博光君に譲り辞任した。

 かつて私が勤めていた昭和ゴムが属する明治社友会も、年月の経過、各社の状況の変化を理由に、平成12年度の総会をもってその幕を閉じた。

 私の人生行路に大きな関わりのある南洋拓殖が終戦により解体され、その後南拓会としてかつての在籍者の交わりが続いていたが、平成12年度総会で、会員の老齢化、死亡による減少を理由に解散が決議された。今後は幾人かの有志によって、友好団体としての南拓会が存続することになるはずである。

 現在、私は太平洋諸島地域研究所に気ままに出勤している。

 研究所は本年2月、外務省との共催で太平洋島嶼諸国から元大統領、その他のリーダーを招き大阪で「パシフィックウェイの共有−21世紀における太平洋国家の連帯−」と題する国際シンポジウムを開催した。更に東京でパシフィック・アイランド・セミナーも開催されたが、小林専務理事の努力が実を結んで成功裡に終了した。

 研究所が中心となって推進しているミクロネシアとの交流事業のインフラ整備も着々と進んでいる。 
 私は去る2月5日、妻が病床で最後まで心にかけていた房総館山の「にじのいえ」を訪れた。早春の館山は菜の花が満開であった。「にじのいえ」の在住者全員、心から私を迎えてくれた。  

 私は今年の10月29日に満90歳になる。もはや余生である。しかし生ある限り、南方への関わりを持ち続けたいと思っている。