PACIFIC WAY
ジョージ・スペイトとフィジー(抄訳)
− 五月の狂気 −
 
社団法人 太平洋諸島地域研究所
研究員 山桝加奈子


はじめに 
 フィジーは2000年5月のクーデターのあと、ガラセ政権のもとで一応の安定をみている。しかし、フィジーのかかえる問題は、ドラスティックに解決できるものではないため、波乱の可能性は常に存在しており、それゆえに、クーデターの分析が必要とされる。

 ここに紹介する『五月の狂気』の中でラル教授(Brij V. Lal)は、2000年のクーデターは前回(1987年)のものと明らかに異なっており、今回のクーデターは、「インド系対フィジアン」の単純な図式から起きたのではなく、「フィジアン内部の分裂」が原因であると分析している。

 その背景の一つは「伝統的権威の弱体化」である。フィジーの政治形態、生活様式の変化により、かつては尊重され、その役目が期待されていた「伝統的権威」はその力を失い、「フィジアンの権利保護」のためにもはや力を発揮できなくなっている。また、そのことにフィジアン自身が失望しはじめていたのだ。もう一つは、フィジアンの利害が、他の民族同様、多岐にわたるようになり、意思統一がはかりにくくなったことである。

 それらの背景から、フィジアンの利益保護のためにフィジアンは伝統的リーダーではないもっと強力なフィジアンリーダーを求め、性急な行動を取ったのが今回の「クーデター」であると筆者は分析している。また、これらのフィジアン自身による伝統的権威を否定する動きは「植民地政府が伝統的リーダーを利用して作った権力構造の解体の試み」であるとも述べる。

 フィジーは今、1997年の段階にもどったのだろうか。フィジアンの求める「フィジアンの権利保護」は何によって得られるであろうか。筆者は、それはスペイトの強調する「フィジアンの至高性」によってではなく、「共存」によってしか、実現され得ないと結論する。

 今後、フィジアンが長期的な展望に立ち、「共存」の道を歩みつづけられるか、その時植民地化以前からある「伝統的権威」が共存を補完する役目を担えるのか、それともやはり、スペイトらが言うように「伝統的権威」が顧みられなくなるのか。注目されよう。
 
 
T フィジーの5月
 
 五月のことから始めようと思う。この月はフィジーの現代史の中で運命的な月である。1879年の5月14日に6万人の最初のインド人労働者がフィジーに到着した。その彼らの子孫は今や全人口の43%を占めるようになり、実際に現在の危機を招いたのは、彼らインド系の首相に率いられた政府による選挙であった。ちょうどその108年後の1987年5月14日に、別の社会利益や制度のために行動していたフィジー系軍隊は、インド系フィジアンが公平な代表権を得て正当に選ばれた政府を転覆させ、この逸脱を終わらせようとした。それから13年と14日後の2000年5月19日にジョージ・スペイトと6人の暴漢は、議会を占拠し首相や政府要人を人質にとり、多民族連立に力を与えたとして一度は広く賞賛された憲法を破棄することで、再び民主主義の転覆を図った。その大変動で解き放たれた軍には潜在的に、5月19日の乱暴狼藉の首謀者が想定し望んだものを超えて、フィジアンの社会的、政治的状況を再形成し、伝統的権力関係を新たに再構成する可能性がある。五月の狂気はまだわれわれの傍にいる。

 それでも、なにがどうして起こったのかの検証や、不十分ながら将来の方向を確認することは可能である。現在ある危機はその航路に印象的な一連の出来事を残している。フィジアン優越の議会で満場一致で承認され、大酋長会議で祝福され、国際社会で暖かく迎えられた1997年憲法に象徴されている政治的和解の過程はそれらの中にある。和解の道のりは決して容易なものではなかったが、異なるコミュニティや政治信条を持つ政治的リーダーたちは、数年にわたる情熱的で心を開いた議論を経て、前述の共通の国家的議題を処理したのだ。それは憲法再検討委員会の任命の道を開き、その約12ヶ月にわたる国中の話し合いは1990年憲法の見直しのみならず、将来の方策の示唆もなされ、国家的回復に大きく貢献した。フィジーの憲法的和解の第一のゴールは委員会が推奨した多民族政府の実現を促進することにちがいなかった。「権力分立は政党の自発的な協力で達成されるべきである。フィジー国民は徐々に、しかし断固として、共同体的な代表者選出システムから離れるべきである。彼らは、党が他のコミュニティにも援助を求めることを促進するような選挙制度を採用すべきである。」これらの文言は今やほとんど死滅した時代を呼び起こす。
 
 
U 危機の背景
 
@ インド系への敵意
 今回の民族関係の緊張は、憲法見直しが成功し、状況は良いほうに向かっていると思われていた時に起きたのだ。略奪や逃走、破壊や冒涜などの傷跡を癒すにはゆうに一世代はかかるだろう。ここには私の手にあまる深刻な問題―文化や歴史やアイデンティティの問題がある。インド系フィジアンと隣同士になったフィジアン土地所有者は、未だに彼らを外国人と見なしており、彼らの居住を歓迎しもてなすが、だれの家であるか充分意識している。反スペイト派で、インド系フィジアンの恐れや野心をよく理解しているフィジー西部の酋長ですら、フィジーがキリスト教国であることを、そしてヒンドゥー教徒もムスリムも問題はキリスト教的に解決することを望んでいる。

 多くのフィジアンが、インド系フィジアンを紛争の原因であり、うるさく、鈍感で、自己中心で不寛容、不潔で、異質な宗教を持ち、社会的世界的見地から見て最も好ましくない人々だと見なしていることは、大きな皮肉である。なぜなら、さとうきび農園で奴隷同然の状態働かせるために、インド人がフィジーにつれて来られたおかげで、フィジアンは移住者に征服されるコミュニティの運命を免れたのである。そしてフィジアンは彼らの生まれた町で、酋長のリーダーシップのもと固有の生活様式で暮らし続けている。一方、インド系フィジアンは農園で働き、1920年に契約が終わると独立し土地を借りてさとうきび地帯に広がった。年季奉公の恥辱と貧困から逃れるために、インド系フィジアンの親たちは子供に教育を受けさせようと奮闘努力した。彼らは農園で生活費をかせぐことができるが、こどもや孫には出来ないだろうと考えたからである。差別撤廃条項も援助もなかったのだ。

 何度も言われてきたことだが、インド系フィジアン労働者がフィジーの経済発展に大きく貢献したことは事実である。インド系フィジアンは現在第4世代もしくは第5世代だが、いまだに生まれた地でよそ者扱いされ、対等な国民の地位や法の保護を否定される恐れがある。フィジアンを賞賛する人々は、時にはフィジアンの文化や伝統の維持のためにインド系フィジアンに同化を求める。フィジー危機について書いているサルマン・ラシディー(Salman Rushdie)は重要な点を挙げている。「移民は永遠に来訪者のままではない。」「結局新たな土地は彼らを受け入れ、彼らはその土地を所有する権利を持つ。」

 今度の危機は、暴力と財産への損害という観点からは、1987年よりもはるかに悪い。1987年の場合には軍は法と秩序の維持に責任を持っていた。名誉にかけて軍は暴徒をおさえようとした。今回は暴徒は野放しで、主な標的は地方のインド系フィジアンで彼らの家畜や収穫は略奪された。1987年以降、フィジーから海外への移民が約7、8万人いるが、ほとんどはインド系フィジアンであり、現在オーストラリア、NZ、カナダやアメリカに住んでいる。国外に移住している家族を持たないインド系フィジアンはいないと言われているほどであり、このような親族関係は国境を超えた多国籍企業を作る。現在さらに多くの人材―医者やコンピュータ技師、公認会計士、技術者などが去っている。要するに技術の流出である。「フィジーのインド人になるくらいなら、アメリカの犬になったほうがまし」これは、フィジアン暴徒に家を破壊された者の言葉である。このままインド系フィジアンの流出が続けば、おそらく将来、歴史家はフィジーにおけるインド人の存在を数千年の旅のうちの僅かな途中下車として見なすようになるだろう。
 
A 伝統的支配への懐疑
 フィジーの現代政治における中心的な存在であるラツー・カミセセ・マラ大統領が、軍により退位を要求されたことは象徴的な出来事である。フィジー共和国軍は行政権を奪い取る一方、彼を闇に紛れて兵士の警護のもとボートでラウ海に向かわせたのだ。それは議論の余地はあるだろうが、彼の傑出した経歴の悲しい結末であった。マラは過去に度々してきたように、今回も救世主の役目を果たしたかったのだ。彼は反乱を鎮めるために民主的に選ばれた政府を捨て、フィジアンの権利を促進するよう憲法を見直すことを約束した。しかし彼らはマラを解決の一部ではなく問題の一部、スペイト曰く、「君主的支配の傲慢な人物」と見なしたのだ。彼は去らねばならず、しぶしぶ従った。彼の離任は最高位の権力を持ち、個人的影響力を備えていた酋長(彼らは第二次世界大戦後の植民地政府により国家的リーダーシップの指導を受けた)による長期に亘るフィジー政治の終焉(失墜)を表わす。

 酋長は国民に影響力を持ち、また多くは国家への忠誠心や援助を統制する地方や地域的陰謀に巻き込まれたりする。そしてランブカの例は、有能で野望を持つ平民が酋長と同じように統制力があることを示した。国家的リーダーシップの役目は酋長の役目だという古い概念はもう適切でない。

 この危機はまたフィジアンの神聖な諸制度の名声を、以前なら考えられないやり方で破壊した。一つは、第二次大戦中のソロモン諸島のジャングルでの活躍や、1950年のマラヤにおける対中国共産党員との戦い、1970年代の中東での平和維持活動などの輝かしい記録を持っていた軍隊の名声である。このクーデターに直面して、軍は分裂し混乱状態に陥った。国家の安全保障のための軍隊は、偏狭性や田舎根性(地方主義)、反抗的で不規律性のビールスに感染したように見えた。その時戒厳令が宣言されず、反乱がさらに大きくなったので、軍が彼ら自身の地方や酋長を守ろうとして分裂したのももっともな事である。かつてのフィジアン権力の砦であった軍隊はいまやフィジアンの広い利益の捕虜である。軍の広報官、タラキニキ(Col.Filipo Tarakinikini)が言っているように、酋長には公平な断固たる行動はできないのだ。

 フィジアン社会内では、伝統的権力構造についての古い仮定はすでに疑問とされている。この危機は民族間の分裂というよりフィジアン内分裂にであることは今や明らかである。ジョージ・スペイトですら「フィジアンとインド系フィジアンの間の民族問題はジグソーパズルの1ピースにすぎない。」と認めている。この点で、この危機は、フィジアンとインド系フィジアン間の民族対立であると見なされた1987年の危機とは異なる。1987年のクーデターはフィジアン体制の基礎を守るためだった。それゆえ今非難が渦巻く海の向こうでもフィジアンの動機に対して多くの共感が得られた。しかし今回の危機はフィジアンの体制や伝統的権力構造に対するクーデターである。何人かはスペイトは伝統的ヒエラルキーの長い支配に対抗して、クンブナ同盟の利益を代表しているのだと論じている。
 
B 伝統的リーダーの対応
 大酋長会議(GCC)は近年、その役割と権威をフィジアンの利益のためだけでなく、国家の後見人としてのものに拡大しようとしていたが、その国家的リーダーのテストに失敗したといえる。1997年はフィジアンの歴史において、この団体が憲法的承認を与えられた初めての年である。委員会は、GCCに、フィジアン関係法の規制下に入るよりも、独自の事務局と議長を持つ独立の団体として組織することを勧めた。彼らの独立が保障されるのに伴い、その伝統的役割のほかに、国家全体の利益の後見人としての大きな役目を果たすことが期待された。しかし彼らは動揺し、彼らの審議は伝統的な同盟や地方的政策をもつれさせ、有利な地位を望むより若い酋長の独断的なやり方はさらなる分裂を招いている。彼らはスペイトを支持し、しかしその後はマラが国をリードすることを望んだ。

 また、危機が続くにつれ、長らく国家権力の中心から遠ざけられていることに不満を抱いた西部の酋長たちはフィジーの国から分離すると脅した。彼らは、西部は国家経済のエンジンであり、さとうきび、松材、金、観光業からの利益はこの地からあがるので、彼らは経済的貢献に見合った議会への代表権を要求しているのだ、と主張した。西部同盟の要求は長く続き、西部のなさぬ仲扱いへの批判が20世紀中いろいろな形で起きた。東西の分裂はあるが、現在は婚姻や親族関係でそれははっきりとした線引きはできず、広く交差している。第4同盟の動機を支持するフィジアンはかならずしも民主主義を支援、もしくは多民族国家を支持しないということを強調しておくことは大事である。西部のヴィチ・レヴからの分離という脅しは、独立して州となる事を望むザカウドロウヴ地方による部分的自治の宣言につながった。

 この宣言は信頼と権威が欠けていた。しかしこれが示している事はフィジアン国民は20世紀では考えられなかった選択を喜んで考慮するということである。われわれは、19世紀の後半に植民地政府によって創られ教育された権力構造を解体するための手探りの努力に立ち会っているのかもしれない。将来フィジアン政治は植民地化以前の言葉でのみ理解できるようになるだろう。
 
C スペイトとその支援者
 今回の危機の顔(理論的先導者ではないが)はジョージ・スペイトだった。このオーストラリアやフィジーで失敗の経験のある45歳のビジネスマンは、クーデター前は地方産業畑におり、ポゼシ・ブネ農業大臣により、フィジー松材委員会議長やハードーウッド株式会社を解雇されていた。議会襲撃の少し前にはアメリカの企業のための交渉人(フィジーのマホガニー材の伐採権獲得交渉)をしていた。伐採権は他社に決まり、スペイトは倒産を宣言。議会襲撃の頃は訴訟を起こされていたのだ。明らかに、スペイトは私的に不満があり、それを巧妙に愛国的なレトリックで隠したのだ。1987年におけるランブカのように、スペイトは彼自身をフィジアン主義の忠実な僕で、フィジアン民族の救世主として描いていたが、スペイトはランブカでもないし、彼の熱心な援助者ですらなかった。なぜ国際社会が(オーストラリアのダウナー外相やNZのゴフ氏の反応のように)フィジーに厳しい批判を行うかの理由は、スペイトがフィジアンナショナリズムの顔だからである。スペイトは明瞭に国際的メディアと戦っていたが、それでも彼がフィジアンのヒーローであることは納得できない。そして、時間がたつにつれて、彼はフィジアンの利益の代表ではなく、自分の利益の代表であることを露呈している。彼は酋長を軽視し、自分の言う通りにすることを要求した。病身で老齢のラツー・ジョセファ・イロイロ氏を大統領に就かせ、その決定に従うことに同意していたが、最高位酋長ザコンバウ(Adi Samanunu Cakobau)を首相につかせなかった。

 しかし、スペイトの行動すべてを彼が一人でしたと見なすことは重大な過ちである。もし彼だけなら、この危機は限られた取るに足らないものであっただろう。彼の背後には、彼の演説を書き、政策書を作り、大衆の動員基盤を築き、群集(失うものは殆どないが、チョードリー政権が転覆するとすべてが得られる人々)を指揮した者たちがいる。彼らの中には、前の選挙で敗北し権力から排除され、革命や復讐を望んでいる政治家がいる。アピサイ・トラ(Apisai Tora)氏やベレナド・ヴニボンボ(Berenado Vunibobo)氏がすぐに思い浮かぶ。フィジアンの野党の代表ラツー・イノケ・クヴァボラ(Ratu Inoke Kubuabola)も同様である。

 スペイトはまた彼のような金儲けに熱心な若いビジネスマンたちに支持されている。1990年代のあぶくぜにを稼ぎ、権力に接近して利益を得ていたが、新しい政府の選出により、その継続的繁栄が怪しくなったことに気づいたため、この前SVT政府のビジネスマン兼政治家たちは転覆運動を支援したのだ。
彼らにとって、チョードリー政府は立場を確立する前に去るべき存在であった。このグループには過去の成功した「人種による差別撤廃プログラム」(1990年憲法により強制された奨学金の授与、公共サービスの推進、訓練の機会均等など)により利益を受けた人々がいる。彼らは特権者の子供であった。彼らの多くは1990年代半ば、SVT政権の絶頂期に成人を迎えた。この新しいフィジアン中産階級層は偏狭で、文化的多元主義の経験が浅く、忍耐心もない。彼らは1970年代のポスト独立世代と比べられる。彼らは多元的文化の環境における労働を育て、統合を公言していた政府のもとで専門家の誇りと良い政府の主義に賛同していた。しかし「1987年代の子供たち」は1997年憲法の精神を理解も賛同もしなかった。

 フィジアンの中産階級がスペイトに頭脳を提供する一方、下層階級は体力を提供した。失業し技術もない若者は棒やナイフを持ち、スヴァの町を破壊し略奪し、スペイトたちの盾として行動したが、彼の隠れた個人的問題などは殆ど理解していなかった。彼らはある意味ではグローバリゼーションと経済的合理主義の犠牲者であり、もっと直接的には1990年代にランブカ政権により推し進められた構造改革の犠牲者である。彼らはなぜ後回しにされ貧困の泥沼にはまり、失業しているのか理解できなかった。希望も未来もなかったので、彼らはスペイトの策にはまり、安易な解決法を支持し―インド人を排除し、伝統に逆戻りし、フィジアンに政治的支配力を与えれば、そうすればすべてうまくいくだろうと思ったのだ。スペイトは彼らに目的と使命を与え、彼らはスペイトの民族的結束の呼びかけに熱狂的に答えたのだ。
 
 
V クーデターまでの経緯(チョードリー政権の成立から崩壊まで)
 
@ ランブカへの批判と99年総選挙の労働党の勝利 
 この危機はどのように頂点に達したのか?これを理解するには12ヶ月前の出来事を検証する必要がある。始まりは1997年憲法の下で行われた1999年総選挙である。チョードリー率いる労働党は独自で71議席中37議席を獲得し、連立政党(PANU、FAP、VLV)と加えると58議席を獲得した。この予想外の大勝利には二つの要因がある。一つはランブカ内閣の違反と行き過ぎに対する批判と、普通の中流階層の生活問題に焦点を合わせた選挙運動である。ランブカは、一方からは1987年のクーデターのために非難されており、反対側からは酋長支配による伝統的ヒエラルキーにおける儀礼に反するとして叩かれていた。労働党は失業の原因であるランブカ政権の構造改革計画を見直し、最低賃金制や家賃引き下げを導入し、高年齢者の社会保障の準備、長らく懸案となっていた文化的土地問題の解決等を約束した。これらの選挙運動において効果的な政策は、いざ権力の座に就いたら党にとって悩みの種になった。フィジーで最も古く、長らくインド−フィジアン問題のチャンピオンであったNFPは一議席も取れなかった。

 チョードリー政権は、批判を打ち消し支援基盤を分断から守るために、法律的な改革計画を推進し、教育や人権の委員会を設置し、汚職の調査機関を設立した。変革の出現は印象的だった。しかしそれはまた政府をメディアと共に巨大な非生産的な闘争に巻き込んだ。些細なことも政府に対する多くの疑念や不信の中で誇張される。なぜチョードリーは公務員ではなく自分の息子を私的な公務員助手に任命したのか?などである。(前政権で長い間フィジー公共事業協会局長だった人物は同族登用や汚職に厳しかったが、いったん権力を持つと、明瞭な統治に関する協議や公的な責任を無視し始めた例がある。)しかし任命には非合法なことは何もない。首相はもちろん彼の望む人を誰でも任命できるのだ。一方、功績や年功よりも民族や忠誠心に重きが置かれたランブカ政権のもとで任命されたフィジアンの公務員は重用されず、重要な意思決定においてなにも相談されないことに不満を持った。
 
A フィジアン内の交錯する利害と連立の内部対立 
 政府の直面したもう一つの問題は国民連立(People's Colition)自体の扱いにくい性格である。四つの党(労働党、PANU、FAP、VLV)からなる連立の結び付きはゆるやかなものである。いくつかの党は労働党と明らかに矛盾する考え方を支持している。たとえば、VLVはフィジーをキリスト教国にし、1997年憲法の見直しを望んでいるが、労働党はどちらも拒否している。(選挙直後にはVLVのブネは、カミセセ・マラの要請で入閣させられるまでは、チョードリーに反してフィジアン連立をリードすると脅していた。)またFAPの政策はフィジー南東部のためだったが、一方PANUは西フィジーについて独自の議題を持っている。彼らすべてが共通に持っていたのは、ランブカ自身と彼の政策の両方への堅固な反感であった。共通の問題意識からの連立というよりも、共通の敵への敵意が異なる党を一緒にしたのだ。しかし、敵(ランブカ)が敗北した選挙後すぐに、内部の差異は前面に現れてきた。労働党は議会で絶対多数を占め、チョードリーはすぐに首相になろうとした。これに対しFAPは、首相はフィジアンから選出するという連立の取り決めを労働党が破棄したと非難した。チョードリーは、フィジアン政党がチョードリーを後援し再結集することを推進していたマラによって助けられたが、彼の就任はやはり連立の分断を招いた。さらに同一党内でも分裂が生じていた。フィジアン連合党のスピード氏は副首相に就任したが、ラツ・ゾカナウト・ツァアキタウ(Ratu Cokanauto Tuaakitau)はスペイト派であった。FAPの少数派はアディ・クイニ(Adi Kuini)のリーダーシップを無視し他のフィジアン野党と協調し、結局はスペイト支持にまわった。PNUの創設者のトラは政府をかき回す暴徒になり、タウケイ運動の再燃させようとした。しかし彼の党からは3人入閣している。このようにチョードリー政権は反対派により衝撃を受け、内部分裂により窮境に陥った。
 
B 土地問題
 フィジアンを団結させる問題は土地問題である。土地問題はフィジアン政党にとり、常にデリケートな問題である。問題は土地所有権より、使用権についてである。現在フィジーの国土3,714,990エーカーの83%が生来のフィジアンにより権利を握られ、譲渡することが出来ない。国の農業の大部分、特にさとうきび農業はフィジアンの土地所有者から借りた土地で行われている。大多数がインド人である2万2千人のさとうきび生産者は1969年にできた「農業地主とテナントに関する法」(ALTA)の下で土地を借りている。これは貸借契約を30年とし、ライセンスの更新は地主と借主の間で話し合われることが定められている。このライセンスは満期となりつつあり、幾人かの地主は土地の返還を要求している。それは自分で農業をするためや、商売や住居の再区分のため、又はより多くの賃貸料を得るために、更新はしないぞと脅すためである。彼らは原住民土地信託局(Native Land Trust Board)のマリカ・ガリカウ(Marika Qarikau)局長にリードされている。彼は強硬でナショナリストで、フィジアン地主を政府に反して自分の下に集結するために、地方議会への働きかけから教会のネットワークの利用まであらゆる手段を使った。NLTBはガリカウの権力基盤であり、フィジアンの権利を守るために委任譲渡を要求した。(クーデター後には、彼は20ページもの文書を配布し、すべての国有地や自由地のフィジアン地主への返還を求めたりもしている。)

 チョードリーは土地所有者の返還要求と争わなかった。一方、彼は借地人の苦境も無視できなかった。彼らは他に技術も教育もなく、4・5世代も耕してきた土地から立ち退かせられるのだ。政府は移転した借地人にはほかの仕事で出直すために28,000Fドルを与え、土地を取り戻した地主には彼自身が農業を始めるために8,000Fドルを与えた。他方、移転借地人のための再定住問題を含む未使用の土地の確認とその生産的利用のための土地利用委員会(LUC)構想を復活させた。NLTBは対決路線のため、政府は直接土地所有者のもとに行き交渉した。2000年初旬、フィジアン土地所有者である酋長の代表を同様の委員会を持つマレーシアに視察のために送った。酋長は強い印象を受けて帰国したが、ガリカウはすでに、その企画を却下させるために地方議会の意向を統合していた。ブネ農業大臣はある地方で、LUCはインド人をフィジーに運ぶためのチョードリーの策略であると言われ、この悪意のある噂を否定した。明らかにインド航空はスヴァに事務所を開くことに興味を示しており、移住するインド人を輸送したいという目的があった。この故意の宣伝に対し、政府は早期にすべきことをした。それは大酋長会議への提案であり、大筋で賛成を得たが、政府やNLTBのさらなる協力を要請された。
 
C 反政府運動と政府の対応
 ちょうど政府が一般の票に見られるように優勢になりはじめたときにトラのタウケイ運動が西部ヴィチ・レヴで表面化し、政府に反対する極端なフィジアン世論をあおった。ザカウドロウヴ地方議会が政府に対する不信任案を可決し、他の地方もそれに続いた。ラツー・テヴィタ・ボロンボロ(Ratu Tevita Bolobolo)らは地主会議を結成し、政府を攻撃し、ライセンスの非更新を迫った。ラツーは1999年総選挙で労働党に敗北を期している。タニエラ・タンブ(Taniera Tabu 前タウケイ運動党員で労働組合主義者)はタウケイ労働者の労働組合を結成し、チョードリー政権を「公共事業のインド化」と非難した。この批判は根拠がなく、公共事業の指揮系統や政府機関の責任者の90%はフィジアンに牛耳られている。にもかかわらず多くのフィジアンは政府を不信の目で見ている。クリスチャン・デモクラーツは政府のパートナーであるが、政府を反フィジアンであると決め付けた。これは政府がフィジアンの地方で多大なシェアを占めているフィジーTV局長のケネス・クラークの労働ビザの更新を躊躇したためである。

 反政府運動―フィジアンの保護運動は、はじめは小さな秩序のないものだったが、5月が近づくにつれて勢いを増してきた。これに対し政府は、常に尊大に権力委譲の呪文を繰りかえし、トラブルが起きそうであることを認めようとしなかった。議会はすべての権限の唯一の源ではなく、NLTBは土地問題のため権力の委譲をうけており、大酋長会議は憲法のもとで一定の権限を持ち、軍隊も自身の権限を持つとした。しかし首相は競合する権限のバランスをとることに成功せず、問題を増幅させるだけであった。チョードリー自身の頑固で非妥協的な性格も反対派を活気づけ、彼は弱い内閣の強いリーダーであり、フィジアンに恐れられたが信頼はされなかった。イセキア・サヴア(Isekia Savua)警察局長の、政府はもっと不満の声に気をつけるべきだという警告を無視し、政府の政策に口出しをしたとして彼を罰した。政府の政策は実を結びつつあり、(1987年に学んだ)有権者に受け入れられると政府は確信していたので、緊張が高まってきても政府は事務的に対処していた。すべての警告や兆候を無視し、政府は軍隊のバイニマラマ司令官を公用でノルウェーに派遣した。警察局長は休暇で、大統領は誕生日を祝いにラウへ出かけていた。政府の第一回目の記念日5月19日に議会が開催された時、なんら特別の警戒態勢はとられず、議事堂周辺に警官の特別の配置はなかった。警察が大統領への請願のために公邸を目指す5000人のデモ行進に気を取られているうちに、午前10時スペイトらは、1987年のクーデターの際にランブカの要請で作られた革命部隊のメンバーに率いられて議会を襲撃したのだった。
 
 
W 原住民の権利−フィジアンの優位は何によって確保されるのか
 
@ フィジアンの至高性と差別撤廃措置
 クーデター以後2週間でスペイトは精力的に彼の目的を達成した。チョードリーの連立政権は崩壊した。ラツー・マラは立ち退き、1997年憲法は(フィジアンの政治的優位を確立するために条項を入れたいという酋長会議により取り付けられた約束と共に)廃棄された。
そしてスペイトらは人質の解放のために、免責、恩赦された。しかし今私は基本的な問いに戻りたい−彼らは何を欲しかったのだろうか?

 もちろん彼らは権力が欲しかったのだ。その動機の一つは(先に述べたように、私的なものもあるが)やはり、まずしい原住民マイノリティに感情的に訴える「原住民の権利」であろう。共感を得るために、スペイトはしばしばマオリ族やアボリジニの運命をフィジアンの運命になぞらえた。そして彼は原住民や市民の権利に関するあらゆる国際会議で彼の意見の支持を訴えた。「原住民カード」を使ったのはスペイトが最初ではない。ラツ・マラが同様のメッセージを1988年のラウ地方議会で述べている。「フィジアンはメキシコの原住民アステカム、ペルーのインカ、中央アメリカのマヤ人、トリニダートトバコのカリブ人、カナダのイヌイット、NZのマオリ人、オーストラリアのアボリジニの運命を(たどることを)恐れている。」と。しかしフィジアンは彼らとは違う。フィジアンの大部分は現在フィジーの領土のほとんどを所有している。漁場や森もそうであり、そこから得られる天然資源のローヤリティは相当額になる。軍隊も彼らのものであり、省のトップや警察の75%は彼らに握られている。彼らは、彼ら独自の統治機構やフィジアンの権利や利益に影響する立法に対する議会の拒否権を持っている。

 スペイトと彼の支持者は国際会議に彼らの犯罪を弁解するために、原住民の権利について訴えた。(特に国際労働機関協定 No.169を引用)しかし、この条文は明らかに自国で将来、少数者になるかもしれない部族や原住民のことは想定しておらず、主に(マオリやアボリジニのように)国内で原住民の文化やアイデンティティが危機に瀕している状況についてのものである。そうするとフィジアンの場合はこの条項との関連はうすい。述べてきたように、フィジアンの土地と文化的アイデンティティは、FAA(フィジアン問題法)や、NLA(原住民土地所有法)ですでに守られてきた。この2つの法律は固有のコミュニティとして原住民の特別な権利に関するものであるが、原住民が社会の他のコミュニティと同等であるのかは明らかにされていない。ILO規約169は政府に以下の確認を要請している。

 2条「(原住民や種族の)人々は、国家の法律や規則が与えている権利や機会から(その他の人と)同等の地位を得る。」3条1項は「原住民や種族の人々は、妨害や差別を受けることなく人権や基本的自由を享受する」4条「原住民は彼ら固有の政治的、経済的、社会的文化的特徴を(彼らの法制度と同様に)維持、強化する権利を持つ一方、もし望むならば、国家の政治的、社会的、文化的方式に完全に参加する権利を保持する。」

 憲法再検討委員会はこれらの文書に照らして、「国家レベルでは」原住民の諸権利は他の国民のそれと同じ立場にあると結論した。両方の法律は、他のすべての国民と共有している基本的人権や自由と同様に、固有のコミュニティとして原住民の特別な権利を認めている。しかしどちらも原住民に国政に関して優先した権利を与えるものではなく、自決事項に関する限り、権限を与えられている。

 委員会は文言「自由に彼らの政治的地位を決定する権利」は文脈のなかで解釈されるべきであると述べている。このフレーズは原住民が彼ら自身のことに支配権を持つことが出来ることを表現しており、国政への参加に影響するような政治的地位のことではない。原住民はすでに彼らの土地や社会的文化的事項について完全に自決権を行使している。委員会が強調したいのは、いかなるコミュニティも「自決権」や「主権」の引用によって、同じ国家社会を構成する他のグループに優先する地位を与えられる政治的権利を合法的に要求することはできないということである。

 スペイトは自分の犯罪を弁護するために、感情的なフレーズ「フィジアン利益の至高性」を訴えている。このフレーズにはフィジー政治の長い争いの歴史がある。この言葉を唱える人々はこの起源を譲渡証書(Deed of Cession)だとしているが、この推測は正しくない。これらのフレーズは証書にはない。証書を書いた酋長らは女王陛下の「正義と寛大さを信頼して」ヴィクトリア女王と彼女の継承者に、諸島の主権を「無条件に差し出すことを決めた」のだ。譲渡に際し、酋長の望んだことは諸島の文明化とキリスト教化(彼らの言葉での)の推進と、住民すべてにとって良い安定した政府の確保と、過去何十年にも亘った混乱の終結である。混乱の終結に向けて、女王は「酋長の権利と権威は英国の主権と植民地政府に調和するかぎり、認められる。」と約束した。それにもかかわらず、植民地政府やフィジアンの土地を欲しがる入植者コミュニティはこのフレーズを使うのだ。

 植民地政府は一部では原住民コミュニティの福祉への純粋な関心から―原住民の利益を入植者や移民よりも保護している植民地であると誇れるように、植民地政策の基礎を作った。しかしこの考えは、また、区分された植民地社会において、彼らの数や社会的貢献に見合った権力を与えて欲しいというインド系フィジアンの要求に応えた政治的変革を、政府は鈍らせることができた。本来の使い方の「フィジアン利益の至高性」はフィジアン固有の制度や、公的な議論の範疇をこえた社会的文化的な習慣を守ることを指している。他のコミュニティは後に憲法的に保護されたこの取り決めと立法をうけいれた。しかしこれにより他の国民の基本的な民主主義的権利を犠牲にして政治的な至高性を要求することは、すべての市民的、政治的、人間的権利についての世界的な取り決めを軽視し違反することになる。スペイトと彼の支持者はフィジアンとロトゥマンの差別撤廃措置を望んでいるが、1997憲法はすでにコンパクトの中にこの条項を備えている。「他のコミュニティと同じくフィジアンとロトウマンに、男性と同じく女性に、恵まれない人々すべても同様に、機会やサービスの均等を保証する差別撤廃と社会正義プログラムは、すべてのコミュニティに広く受け入れられる資源配分に基ずく。」広く受け入れられるは、フィジアンの利益が他のコミュニティの利益に従属しないための保護として「フィジアンの権利の至高性」主義を適用し続けることを政府に命じる文脈で解釈される。フィジアンは彼らの人口規模により公的援助の50%以上を受けることを期待できる。しかしフィジアンだけが援助を必要としていると考えるのは間違いである。収入レベルや貧困の度合いの研究によると、フィジアンとインド系はだいたい同じ割合の貧困者を持っているのだ。
また強調すべきことは、よく言われているほど、公的分野においてフィジアンが不利ではないということである。1985年には国家公務員の46.4%をフィジアンが、48%をインド系が、5.6%をその他が占めている。1995年10月には57.3%がフィジアン、38.6%をインド系が、4.1%がその他となっている。また31人の秘書官のうち22人がフィジアン、6人がインド系、3人がその他である。この上級公務員におけるフィジアン優位の不均衡状態は警察局などで続いている。商業分野でフィジアンが失望し続けてきたことは事実であるが、1970年代から差別撤廃措置がこの分野で採られてきた。1967年に出来たフィジー開発銀行は長年にわたりフィジアンの経済活動分野に融資(商業産業ローン、ジョイントベンチャーローン)をしてきた。1974年に国務省内に「経済界におけるフィジアン個人もしくは団体の協力、運営を援助する」ためにプロジェクト評価局が作られた、その後 Fijian Business Opportunity and Management Advisory Services(BOMAS)に名称変更した。1975年5月から1984年12月の間に、フィジーのような小国にとって少額とはいえない6,721,553Fドルのソフトローンを受けており、それらの融資は現在まで続いている。もし彼らがある程度の成功に到達できないならば、フィジアンリーダーはなぜと問わねばならない。単にさらなる差別撤廃措置を採るだけでは、望ましい結果は達成できない。フィジアンの商業的失敗の原因を見つけるには、制度的要因と同じく文化的要因の徹底的な調査が必要であろう。
 
A フィジアン利害の一体性の崩壊
 フィジアンの利益保護のためにフィジアンの政治的統合が目指されたが、現在のフィジアンは、他の国民同様、多種多様の利害関係を持っている。過去にはフィジアンは村で共通の目的や望みにより団結して自給自足の生活様式で暮らしてきた。しかし今日彼らの40%近くは都市部に住み、対立する機会や挑戦に向き合っている。そのことは、一つの政党が膨大な利害に応じられなくなる原因である。委員会が指摘したように、フィジアン統合の強調はまた、もし彼らの期待したようにならなくても、フィジアンにはフィジアン政府を選挙で追い出す自由がないということを意味する。フィジアン政府はどんなことをしても維持されるべきであるという理想は、政治的な責任に重大な影響を与える。それは政権を握る政府の行為に対する通常の民主的統制を捨てることを要求している。これは、国家全体と同じく、フィジアンコミュニティのためにも良くないことである。いずれにしても、フィジアンは1990年憲法の下で、議会で圧倒的多数を占めた。しかし、非フィジアン政党や無所属の協力を得なければ政府を作れないほど政治的に分裂した。結局、民主的ルールの仮面を投げ捨てない限りフィジアン政権を永続的に維持できる憲法などないのだ。
 
 
X 共存による発展
 
 ジョージ・スペイトは彼らの国でフィジアンにとって重要なことが徐々に侵食されることを嘆いている。この侵食はもう何十年も続いている。1980年代初め、フィジアンの地理学者で行政官のイシレリ・ラサ(Isireli Lasaqa)はフィジアンの地方社会の崩壊について同様の警告を発していた。「社会のメンバーに社会福祉を与える手段としてのフィジアン社会の組織や親族関係の絆の衰弱」や「運命を受容するより、伝統を探求し議論する精神の奨励」等である。ラサは、「社会システムはだんだん粗末になっている。言い換えれば、親族の結びつきが弱まり、商業的センスを身に着けた若い世代の個人的欲求が増大するにつれて、彼ら核家族は年をとった身内を世話することは望まないし、もはや不可能でもある。」と述べている。

 他のフィジアンリーダーや有識者も同様の感慨を述べ、現代においての伝統的制度やしきたりの効力に深い懐疑を抱いている。
 
ランブカ(Sitiveni Rabuka)
 「私は政府における慣習的酋長の優越(支配)は終末にきており、ゆくゆくは実力本位の首長の役目は伝統的酋長の役目を超えるだろうと信じている。伝統的階級と実力者階級の交代である。」
 
ロパテ・ガロ(Ropate Qalo)
 「伝統的権威は茶番である。なぜならフィジアンは新しい神を求めているからである。新しい神は金であり、新しい教会は世界銀行である。世のすべての物と同じく、伝統的権威も滅びるのだ。」
 
アセセラ・ラブブ(Asesela Ravuvu)
 「ほとんどのフィジアンには伝統的権威のくびきから自由になる機会があった。彼らは個人的権利や自由を主張し続け、新しい社会的絆や政治的協力を作った。これは長い間確立していたフィジアンの伝統的秩序や酋長的権威ヒエラルキー構造への脅威となった。」
 
ジャレ・モアラ(Jale Moala)
 「フィジアンは現在、伝統的、慣習的生活の基盤に挑戦する多くの問題に直面している。彼らが神聖だと考えたものが政治的議題となり、公的に議論され、吟味され、あざけられるようになった。フィジアンは脅威を感じ、そして今度は、その脅威は数の政治が忠誠や同盟を変えつつある彼ら自身のコミュニティの中から起きている。現代史で初めてのことなので、フィジアンコミュニティは崩壊の危機にあり、民主主義は損失をきたしている。酋長は彼らのママ(超能力)を失い、政治家は増えつつある支配権を享受している。」
 
シミオネ・ドゥルタロ(Simione Durutalo)
 「平均的フィジアン労働者はバスの運賃が値下げにならなければ、そして彼の息子がUSPを卒業したのに仕事に就けなければ、いい気分はしないだろう。たとえどんなに伝統や大酋長会議について語ろうと、彼らを食べることはできないのだ。」
 
 20年後もそれらの問題は残っているだろう。解決策?軍のスポークスマンのフィリップ・タラキニキニ(Col.Filipe Tarakinikini)は、「われわれの国が直面している問題は、フィジアンの権利や至高性を100%保障する憲法を置くことで解決することはできない。フィジアンが継承するだろうというだけでは防御にも保障にもならないだろう。フィジアンが継承する唯一の方法は、明日の繁栄のために今日を犠牲にする覚悟をきめることである。」と述べている。また、彼は数年前、ラツー・ウイリアム・トンガニヴァル(Ratu William Toganivalu)が指摘した点を繰り返して述べている。「われわれフィジアンは、インド人を抑圧することで我々が強くなる、という考えに誘惑されるべきではない。もしそうしたならば我々が抑圧されることになるだろう」と。

 社会的、経済的変革の勢いは大量の銃でも阻止できない。最後に、逃れられない真実は、フィジーは一つの島だということである。共存しか他に取るべき道はないのだ。
 

<筆者紹介>
ブリジ・ラル (Brij V. Lal)
 フィジー憲法再検討委員会のメンバーで、1997年憲法の草案になったいわゆる『リーブス報告』の執筆者の一人。現在、オーストラリア国立大学(ANU)教授。フィジーの近現代史及びフィジーの憲法政治について多数の著書、論文がある。なお、この論文はブリジ・ラル編『Fiji before the Storm: elections and the politics of development』(2000年, Asia Pacific Press, ANU) に収録されている。