PACIFIC WAY
パ ラ オ の 農 産 業
 
社団法人 太平洋諸島地域研究所
理事長 小深田 貞雄

 私は昭和16年(1941年)当時の南洋群島パラオ諸島コロール島アラバケツの南洋拓殖株式会社社員社宅で、約8ヶ月家族とともに暮らした。社宅の前庭はクロトンの垣根で囲まれ、ハイビスカスが咲いていた。パパイヤが黄色に実りバナナは幾房も成熟していた。

 郷里から野菜の種子を送ってもらって播いたところ、茄子の茎は樹枝のように伸びたが実はならなかった。サツマイモは茎は伸びたが芋はつかなかった。 昭和12年(1937年)南洋群島並びにそれに連なる南方諸地域の資源開発を目的とする国策会社南洋拓殖株式会社が設立され、私はその第一期生として入社した。南拓の事業は南方開拓のための各種事業にわたっており、経営形態も多角的であった。アンガウル、ファイス等の燐鉱の採掘、パラオ、ポナペ、ヤップ等の農場経営、セレベス島における各種事業、関係会社による農林、鉱工業、水産業と多岐にわたっていた。

 私は入社以来、業務課、管理課、企画課と所属した課は変わったが、仕事は一貫して関係会社の設立、管理等の仕事であった。

 南洋群島は豊かな天然資源による観光、広大な海洋のもたらす漁業、四季の別のない高温多雨の自然条件のもたらす農産業と多くの可能性を持っている。気候風土は熱帯圏の海洋性で気候は一年を通じて変化が少ない。

 第一次世界大戦で南洋群島を占領した日本は、大正8年(1919年)委任統治領としてこの地域を管轄統治することになった。大正11年(1922年)南洋庁が設置された。亜熱帯性気候の南洋群島は、日本農業には全く未経験の分野であり、南洋庁は熱帯産業研究所を設置して研究に当たったが、その成果を上げるには相当の期間を要した。大正13年(1924年)から農業適地調査が行われ、翌年植民地が土地開拓の必要と農民の農業に対する観念の啓発を志向して設定された。

 パラオに3カ所、ポナペに1カ所の官営植民区画地がもうけられたが、パラオ、ポナペが対象になったのは両島が狭小な群島の中では広い面積と未墾地が多く存在していたことによるものである。パラオにおいては官有地を無料貸下げし、日本人による農業植民地の造成計画を進めた。初期は困難な経過を辿ったが、ガルミスカン川の上流の農耕可能な500町歩に清水村を、比較的地味の肥えているアイライの一部に瑞穂村を、ガルミスカン川流域の一部に朝日村を、ガバドール川流域に大和村の各植民地が設定された。最初に移住者が入植したのは朝日村で、大正15年(1926年)に北海道から6戸、宮城県から1戸、神奈川県から1戸の計8戸が入植した。その後各植民地とも入植者が漸増し、昭和15年(1940年)3月末に移住者の統計は376戸、2,021人を数えた。移住者の数が増加し産業的に一応の成立を見たのは昭和11年(1936年)に南洋群島開発10カ年計画が政府で作成され、それに応じて南拓が創立されてからである。

 南拓の設立によりパラオ本島の開発が進められた。昭和15年(1940年)から多数の日本人家族移民が入植し、ガルミスカン、ガスパン、アイライの各農場が開設された。ガスパン農場はガスパン川の上流約25ヘクタール、パイナップル、甘藷、蔬菜類が作付けされた。ガルミスカン農場はガルミスカン川中流左岸に開拓され、面積10ヘクタールに甘藷、胡瓜が栽培された。アイライ農場はアルミズ水道を隔ててコロール島の対岸近くに位置し、約10ヘクタールの農地に他の農場と同じ作物が作付けされていた。これらの農場は南洋庁熱帯産業研究所適作物研究の結果を取り入れ、その指導を受けつつ南拓の農業関係担当小笠原金亮(一般)、粟野亀三(鳳梨)、岡本象三(キャッサバ)等が研究を重ねて作付けした物である。主要作物のパイナップル在来種がスムースカイエン種に変わり、カカオ、アガリッタムなどの果実栽培も研究が重ねられた。また南洋庁の補助を得て水稲の試作も行われたが、これは低水温と害虫のため成功しなかった。パイナップルは当初、奨励農作物には指定されていなかったが、土壌の性質をあまり問題ともせず、在来種は病害に対してかなりの耐抗性があった。そのため熱帯農業に経験のない農家でも容易に栽培することができた。

 昭和7年(1932年)南洋拓殖公司が朝日村に鳳梨缶詰栽培事業を企画し、同村に南洋鳳梨株式会社を設立した。昭和8年(1933年)度からは南洋庁は鳳梨
の増産を図るため鳳梨栽培奨励金を下付し、南洋群島における鳳梨産業はパラオの朝日村、清水村植民地を中心として展開するに至った。

 南拓も直営事業のほか、昭和12年(1937年)南拓鳳梨株式会社を設立し、既存の南洋鳳梨株式会社、株式会社祭原商店のガルミスカン、ガルドック、アイライ所在の年産60,000函〜80,000函生産の缶詰製造工場を譲り受け生産を開始した。南拓鳳梨は鳳梨その他の食品の缶詰製造及び販売を伴い、朝日村に第一工場を、さらに清水村、瑞穂村並びにポナペの春来村の3カ所にも工場を設置した。原料の鳳梨その他は植民地から供給をうけた。昭和13年(1938年)度の缶詰生産高は60,000函、翌14年(1939年)は100,000函を計画するに至った。鳳梨は南洋群島の適作物であり、これにより農業を興しさらに移民事業の一助となるものと考えられた。生産された缶詰のほとんどが内地に出荷された。生産量の増加により植民地の鳳梨栽培面積は拡大し、パラオを代表する農産物となった。朝日村は全村鳳梨農家という状況を呈した。

 缶詰生産高も逐年漸増したが、太平洋戦争の勃発、時局の推移とともに空缶配給統制の強化、製品販路の業績も低下し、終戦とともに事業は終焉を告げた。 昭和13年(1938年)南拓は明治製糖株式会社と提携し、カカオ豆の生産を目的とする熱帯農産株式会社を設立した。当時カカオ豆の需要は漸増し、南洋庁も群島適作物としてカカオ樹の植え付けを奨励していた。同社はガスパンのカカオ栽培用耕地492ヘクタールに農夫約1,000人を入植させ、直営農場として開拓植え付けを進め、昭和15年(1940年)200ヘクタールの開墾を完了した。種苗はロタ島、セレベス島等より入手し植え付けが行われた。昭和16年(1941年)に最初の収穫があり、明治製菓でチョコレートが作られ、日本国内での最初の製品として昭和天皇に献上された。この会社は叔父岩田善雄が代表で、支配人の北村三郎さん、次の乾周市さんとは私も昭和ゴム、アジア会館で長く関わり合いがあった。

 キャッサバは澱粉作物で、原住民にとっては常食作物である。地下に根が育ち、良質な澱粉を含んでいる。キャッサバは食料、菓子類材料の他織物用糊として需要がある。南洋庁はその栽培を奨励し、南拓にその事業経営を勧奨した。南拓は昭和13年(1938年)本事業に経験のある豊順洋行と提携し、豊南産業株式会社を設立した。同社はパラオ官営植民地に約450町歩のキャッサバ栽培を実施させたが、さらに南洋庁より苗園農場用地30町歩、直営農場用地450町歩の貸下げを受け、移民60家族を入植させた。なお生産されたキャッサバからルート製造のために、ガルドック、ガルミスカンに工場を建設した。

 私は昭和15年(1940年)韓国移民約10家族をパラオに移送するため、釜山へ出張した。航海中出産があったり思い出はつきない。田中初三郎常務の旺盛な事業欲で同社の基礎は築かれた。

 パラオにおける農林関係事業としては、関西ペイント株式会社との共同出資で、アガリッタム樹の植林、油脂及びタンニンの製造を目的とした熱帯油脂組合が設立された。またパラオにおける繊維植物資源の開発利用、加工販売を目的として東洋紡績工業株式会社との共同出資で熱帯繊維組合が設立された。

 これらの事業は昭和16年(1941年)太平洋戦争の勃発により、総ての様相が一変した。農林関係事業は、軍並びに当局の要請により一元統制となった。戦況の推移とともに各事業は機能することもなく衰退し、終戦とともに終止符を打った。

 戦時中は統制への移行に伴い、植民地は食糧生産の拠点へと姿を変えた。軍は糧秣保持のため、朝日村、オギワル、瑞穂村各地の農地開拓を進め、在来の開拓農民、コロールから移動した邦人を使役し、甘藷栽培に重点をおき、農地拡張を企図した。末期には軍官民挙げて自活のため甘藷、タピオカの生産に努めた。敗戦とともに邦人、日本企業による農産業は終止符を打った。この日本人の開拓した植民地はジャングルに戻り、かつての痕跡はない。

 戦後のミクロネシアは信託統治協定に基づきアメリカ人以外の投資を制限したが、自立のため必要な産業の開発を目的として昭和28年(1953年)、この投資制限を解除した。外国人、特に日本との資本の導入、技術協力を希望し、この要請のため数回にわたりミクロネシア議会議員団を中心とする使節団が来日した。しかし具体的な進行はほとんど見られなかった。その原因の一つは、土地の所有権に関するもので、現在は土地の個人所有が認められるが、長期間伝統的に認められず借地権のみが認められていたという点にある。

 パラオは戦後アメリカを施政権者とする国連の信託統治のもとにあったが、昭和50年(1975年)自治政府を発足させ、それ以降憲法と自由連合協定の扱いをめぐり国内政治が混迷を続けた。この間空港、道路、電機等の社会資本の整備はアメリカの財政援助によって進んだ。また日本の無償援助による地方道路、農道網整備計画、バベルダオブ送電計画等が進められた。

 パラオ共和国は平成6年(1994年)に自由連合協定が施行され、独立を達成した。この協定の下でパラオは最初の15年間はアメリカから資金と役務の提供をうけることとなった。しかし国民生活に必要な食糧、衣料、飲料は凡て輸入に依存している。経済開発計画も明確な方向を示さないままで、単に政府のための現在の財政を続ければ15年後の2009年には盟約基金は底をつくことになる。環境保護と持続的な開発の達成、外資の誘致が今後のパラオの命運を決することになる。1981年、パラオ政府は日本のオイスカに対し、農業開発と青年育成の協力を要請した。オイスカは技術要員を派遣し、研修センターを設立して同地域の農業開発への寄与を企図した。しかしパラオ住民はこの計画に反応を示さなかった。住民による従来の作物による農業は継続されているが、農産業の近代化、企業化等は見られない。

 アメリカの統治下では、アメリカの物資とともに通貨も生活の中に入り込み、言葉も英語になった。1981年、自治政府の発足とともに徐々にインフラ整備が進められたが、住民の生活はアメリカからのコンパクトマネーに支配された。インフラ整備とともに、目指した経済開発も徐々に進んだ。日本の援助によるK−Bブリッジの再建。日米の協力によるコーラルリーフセンターの建設。バベルダオブ周回舗装道路なども徐々に進んでいる。

 1998年、パラオの開発プロジェクトはパラオ政府に移管された。しかし信託統治が終わり独立となれば、最低限の国会維持のための収入が必要である。財政的基盤が固まらない限り自立は不可能である。

 戦後アメリカを施政権者とする信託統治領で財政援助を協定した自由連合国のうちマーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦は既に15年を経過したが経済的自立には遠く、財政支援問題を含む協定継続に関する交渉も開始されている。国家の成立には経済的自立が必要条件である。そのためには熱帯圏、海洋気候、地理的条件からも、農産業、水産業の開発は不可欠である。

 日本の統治時代、政府の企図した開拓移民、経済開発を目的として設立された南拓その他の企業体によって農産業は進められた。しかし世界経済のグローバル化、IT革命の進行はこの構想から離れつつある。パラオは平成6年(1994年)アメリカとの自由連合協定が発効し、15年間アメリカからの財政援助を受け、期間経過後はそれぞれの意思によって破棄または継続することができるという形態となり、2009年には協定期間が終了する。しかし独立後8年を経過した現在も、開発計画は進行していない
。自立するために開発が望まれる農産業も、日本の統治時代より遙かに後退している。

 協定資金の積み立てによって作られた「信託基金」と観光開発及び漁業関連の開発が順調に推移すれば、経済自立は可能と考えられる。平成6年(1994年)10月1日、長い政治的混迷から脱して勝ち取った自立を確かなものにすることを、心から願うものである。