PACIFIC WAY
島嶼国の対外政策に関する比較研究
―パラオ共和国とニューカレドニアの事例を中心に―
 
日本大学国際関係学部講師
玉井 昇


はじめに  

 今日の太平洋諸島地域には、独立国、大国との自由連合国、あるいは海外領土、属領など様々な政治的地位を有する島々が存在する。しかし、歴史的にみれば、今日独立国となっている島々も含めてすべての島が、程度の差があるにせよ、大国による統治を受けたという共通の経験をもっている。その結果、形式的には独立国家の外観を築くことに成功した島々でも、財政、外交あるいは安全保障上の観点から依然として大国の影響を強く受けているケースが極めて多い。他方、同地域に依然として存在する多数の非独立地域は、一部には一定の自治権が認められているケースも存在するにせよ、全体として海外の行政府によって統治されていることはいうまでもない。

 そうした太平洋諸島の中で、パラオ共和国は最も近年に独立を成し遂げた国家である。

 しかし、旧国連信託統治地域としてアメリカに統治されてきたパラオは、現在、国連の加盟国であり、形式的に独立国家としての体裁を整えてはいるものの、アメリカとの自由連合協定の規定に従い、とりわけ外交および安全保障の面で、依然として強いアメリカの影響を受けている。他方、非独立諸島地域の中でこの先最も近い将来、独立に到達しそうな情勢にあるのは、フランスの海外領の一つであるニューカレドニアである。事実、1998年のヌメア協定以来、ニューカレドニアには大幅な自治権の移譲が段階的になされており、2018年までに完全な独立の是非を問う住民投票が実施されることになっている。

 両国は、アメリカあるいはフランスという執政国との間で、独立にむけて多難な交渉の道を歩んだ、あるいは現在歩んでいるという対大国関係上の共通点をもつ。一方、両国はそれぞれがアメリカあるいはフランスという旧・現執政国以外にも、対大国関係という観点から、近年日本との関係が極めて重要となってきている点でも共通している。

 そこで本稿では、島嶼国の対先進国との外交政策を考察するにあたり、最も近年独立を成し遂げたパラオと最も近い未来に独立の見込みのあるニューカレドニアをその事例研究としてとりあげる。そして、両国の執政国との将来の政治的地位をめぐる交渉過程、そして現在の旧・現執政国および日本との関係について比較考察をおこなうものである。
 
1 パラオ共和国独立までの歴史的コンテクスト  

 現在のパラオ共和国は、太平洋西部のおよそ200の島々で構成されており、その中でも主に8つの島々に人々が居住している。パラオ人たちの祖先は、紀元前およそ1000年頃からインドシナ半島より海を渡って移り住んだとされている 1)。ヨーロッパ史にパラオが始めて登場したのは1783年のことであり、その年に来島したイギリスの探検家ヘンリー・ウィルソン(Henry Wilson)がヨーロッパ人として初の訪問者であった。以後、主にイギリスを中心に、パラオとヨーロッパとの交易が始まったのであった 2)。

 その後、1885年にスペインが、パラオを含むカロリン諸島の領有を宣言し、ここにパラオの被植民地としての歴史が始まった。しかしながら、そのわずか4年後、スペインが米西戦争で敗北すると、カロリン諸島はスペインからドイツに売却された。さらに1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、イギリスと同盟関係にあった日本が日英秘密協定に従い、パラオを含むドイツ領ミクロネシアを占領した 3)。

 第一次世界大戦が終結すると、旧ドイツ領ミクロネシアは、1921年より国際連盟の委任統治領として日本に統治されることになった。日本は、パラオを含むミクロネシアを南洋群島と呼び、現在のパラオの首都コロールにその統治府である南洋庁を置いた。南洋庁は、島民に対して日本式教育を徹底させ、鉱業、漁業、農業の促進に力を注いだ。1921年に南洋興発株式会社が発足すると、日本人移民は急速に増加し、1935年頃には、南洋群島に居住する日本人が島民を数で上回るようになっていった 4)。その後、国際連盟を脱退した日本は1938年、パラオに軍事的閉鎖基地を築いた。このため、後の太平洋戦争では、パラオも日米間の主戦場の一つとなり、とりわけ、ぺリリュー、アンガウル、コロールは激戦が展開され、多くの住民が戦渦に巻き込まれていった。

 第二次大戦後のパラオは他の旧日本委任統治領とともに、1947年より国際連合の信託統治領としてアメリカに統治されることになった。しかもそれは、戦後の国連における集団的安全保障システムの構想期であったにもかかわらず、他の国連信託統治領と異なり、唯一の「戦略的」統治領として認められることになった。その結果、アメリカ連邦政府の諸計画、とりわけ、軍事戦略的なそれらが、排他的かつ秘密裏にパラオ他の信託統治領で実行されることになったのである 5)。こうしてパラオは、信託統治の名の下に、実質的には「戦略的植民地」として戦後も支配され続けることになったのである。

 1960年代に至ると、アフリカを中心に、世界中で大国の植民地支配からの独立ラッシュが始まった。太平洋諸島地域でも同様に、1962年、西サモアがニュージーランドから独立を達成したのを嚆矢として、その後多数の島々が独立を成し遂げていった。こうした情勢の中で、パラオを含むアメリカの信託統治領ミクロネシアでも自治権の移譲を求める運動が高揚し始めた。その結果、1965年にミクロネシア評議会が創設され、1969年よりアメリカとの間で将来の政治的地位に関する交渉が開始された 6)。一連の交渉の結果、1975年に北マリアナ諸島はアメリカとのコモンウェルスの地位を選択し、残りの地域は1978年の住民投票を通して三つの地域に分かれた。すなわち、ヤップ、トラック、ポナペ、コスラエは4地域でミクロネシア連邦を形成し、マーシャル諸島およびパラオは連邦構想から離脱し、それぞれ独自の道を選んだのである 7)。

 そして、ミクロネシア連邦は翌1979年、憲法を施行し、自治政府が創設された。連邦から離脱したマーシャル諸島も1979年、独自の憲法を採択し、自治政府を樹立させた。他方、同じく連邦から分離の道を選んだパラオは、独自の憲法草案が1979年に住民の圧倒的な支持を得たにもかかわらず、憲法の制定と自治政府の樹立が1981年と出遅れたのであった 8)。その最大の理由の一つは、パラオ憲法制定会議が起草した憲法草案にある非核条項が、アメリカ当局によって支持されなかったことにあるのは疑いない。つまり、非核条項を規定した最初の憲法草案は、1979年7月の住民投票を通じて92パーセントもの圧倒的な支持を受けて制定される予定であった。しかしながら、親米派の議員によってこの投票の無効が主張され、信託統治領高等裁判所(High Court of the Trust Territory)および高等弁務官によって7月の投票結果が無効とされた。この結果、非核条項が削除された修正憲法草案が1979年10月、再び住民投票にかけられたが、70パーセントの住民が反対票を投じ、修正憲法の成立を阻止した。そこで、1980年7月、元の非核条項を含む憲法草案が、3度目の住民投票によっておよそ80パーセントの支持を受け成立し、翌1980年1月より施行されたのである 9)。

 さらに、パラオ憲法の非核条項は、アメリカとの自由連合協定の承認および信託統治の終結に関しても大きな影響を与えることとなった。すなわち、パラオのように自由連合協定に対する住民の承認を憲法上の要件としないミクロネシア連邦とマーシャル諸島は、1986年にアメリカとの自由連合へ移行する形で独立を成し遂げたのに対し、パラオの独立は1994年にまで持ち越されたのであった 10)。すなわち、パラオ憲法の非核条項は協定の承認には住民投票で75パーセント以上の賛成が必要と規定していたため、過去7回の投票では、いずれもこの数値を上回る賛成が得られなかったのである。しかし、1991年にこの非核条項は、承認要件が75パーセントから過半数の承認に修正された。その結果、1993年にようやく協定が承認され、翌年パラオは独立を達成したのであった 11)。こうしてパラオ独立までの過程には、旧執政国アメリカとの交渉および協定の承認をめぐって、長い闘争の歴史があったのである。
 
2 ニューカレドニアの歴史的コンテクスト  

 オーストラリアの北東1500キロメートル、ニュージーランドの北17000キロメートルに位置するニューカレドニアは、本島グランド・テール島、北東部のロイヤルティ諸島およびその他周辺の島々で構成されるフランスの海外領である。ニューカレドニアの先住民であるカナクの祖先は、今からおよそ6千から5千年前にアジア大陸から、インドネシア、パプアニューギニアおよび他の島々を経由してこの地に到達したと考えられている。伝統的にカナクの社会は、血縁的な部族社会であり、部族はその首長によって導かれていた 12)。

 一方、この地にヨーロッパ人として最初に到達したのは、イギリスの航海士ジェームス・クックであった。1774年にグランドテール島の北端に上陸したクックは、その山並みを見て故郷スコットランドのカレドニア地方を偲び、この地をニューカレドニアと名づけた。以来、ニューカレドニアとしてヨーロッパ人の間に知られることとなったこの地には、19世紀に至ると、捕鯨師や香木商人を中心に来島するヨーロッパ人が徐々に増えていった。そして、1840年にロンドンからプロテスタントの宣教師団がニューカレドニアに到着すると、後を追うようにフランスからカトリックの宣教師団が来島した。フランスの宣教師たちの任務は、戦闘的で非服従的なカナクたちをフランスに従順なものにすることであり、島のいたるところに教会を立て、フランスのプレゼンスを拡大していった 13)。そして、ニューカレドニア統治を目指すフランスは1853年、ナポレオン3世がファヴリエ・ドゥポワント(Fabvrier Depointes)海軍少将を同地へ派遣し、抵抗するカナクを制圧した後、自国の領土へ編入した 14)。

 こうしてフランス領となったニューカレドニアでは、当時ポール・ド・フランス(port de France)と呼ばれていた現在のヌメアに総督府が置かれ、海軍による統治が行われた。そして、イル・デ・パン(Ile de Pins)には刑務所が建設され、パリコミューンの政治犯をはじめとした流刑植民地として役割が追加された。他方で、商人や開拓者などの一般の移民も次第に増加していった。しかし、フランスからの移民が増加するにつれて土地の需要が高まると、やがてカナクと衝突することになるのである。すなわち、フランスからの移民は、すべての良い土地がカナク諸部族によって独占され、そのいくつかは未使用の状態であることに不満を抱き、カナクたちを厄介な占拠者とみなすようになっていった 15)。移民者の不満に対処すべく、1855年の総督布告は、カナクの使用地と未使用地を明確に分類し、カナクの所有権を使用地のみに限定した。しかし、カナクが農耕目的で使用していなくとも、狩猟や採集目的で使用していた土地までもが未使用とみなされ、総督府によって収用されていったのであった。さらに、1860年代に島のいたるところでニッケル鉱山が発見されると、総督府による土地の収用はさらに拡大されていった 16)。

 一連の総督府のよる土地収用に対して、カナクの抵抗は徐々に拡大していった結果、1878年に大規模な紛争が起こった。この紛争には、カナクの首長アタイ(Atai)に率いられた抵抗軍に、グランド・テール島の3分の1に当たるカナクが参戦した。しかしながら、フランス軍の近代戦闘システムの前に鎮圧され、多くの戦死者を出し、生き残った者も部族の伝統的な土地を追われ、ロイヤルティ諸島へ逃れていった 17)。こうして、グランド・テールは実質的にフランス人の住む島と変わっていったのである。

 フランスにとって、ニューカレドニアの豊富なニッケルは、思いがけない利益であったことに疑いない。1880年代初め、フランスによってル・ニッケル社(SLN: Societe Le Nickel)が設立され、ニッケルの採掘がはじまると、わずか数年でニューカレドニアは世界有数のニッケル産出地域になった。そのため、フランスからばかりでなく、近隣アジア諸国からも多くの鉱山労働者がニューカレドニアに渡ってきた。その中には、日本人も数多く含まれていた。軍需産業を中心に工業化が急速に進展していた日本にとってニッケルは重要な資源であり、当時からニューカレドニアにとって日本が最大のニッケル輸出先であったのである 18)。

 第二次世界大戦後もニューカレドニアは、フランスによって統治され続けた。そして、1957年正式にフランスの海外領(oversea territory)となった。この頃から、カナクの反人種主義運動が活発になり、フランスの憲兵隊と度々衝突を起こすようになっていた。当初はカナクの民族や文化の覚醒および先住性(indigenity)をスローガンとしていたカナク運動は、1970年代に至ると独立運動にも発展し、より政治性の強いものとなっていった。そして、1980年代には、そうしたカナク運動が激化し、カナクの民兵組織とフランス憲兵隊との衝突がより激しいものとなっていった 19)。その結果、カナク運動が1988年に最高潮に達し、グランド・テールのカナラからウヴェアでカナクの大規模なフランス軍施設襲撃事件が起こった。この衝突での銃撃戦で双方がたくさんの死傷者を出し、衝突というよりもニューカレドニアは内戦に近い状態に陥ったのであった 20)。

 こうしたカナクの民族運動の高揚と独立を求める闘争の激化をうけて、ニューカレドニアの将来の政治的地位をめぐる交渉が、フランスとニューカレドニアの代表者の間で行われた。すなわち、ニューカレドニアから、独立支持派であるカナク社会主義民族解放戦線(FLNKS: Front de Liberation Nationale Kanak et Socialiste)と親仏派の「フランス人が支配する共和国の中のカレドニアのための再結集」(RPCR: Rassemblent pour la Caledonie dans la Republique)の双方の代表者がフランスへ招集され、ロカール首相との協議の結果、マティニョン協定が締結された。協定は、直後に行われた住民投票でも支持されて成立した。この協定により、主にカナク住民の居住する地域にフランス政府から開発資金が投入されることが規定され、さらに1998年までに独立に関する住民投票を実施することが約束されたのであった 21)。

 この結果、1995年よりフランスとニューカレドニアの代表者たちの間で、ニューカレドニアの政治的地位をめぐる交渉が再開された。一連の交渉の中で、FLNKSは即座の完全なフランスからの独立を主張したが、折り合いがつかず、3者が妥協する形で1998年に最終合意となったヌメア協定が締結された。この協定の主な内容は、以下の三点に集約される。すなわち、第一に現行の領土議会を廃止し、新しいニューカレドニア議会と政府を発足させ、第二に軍事、外交、税制などの一部を除いた行政権をニューカレドニア政府へ段階的に移譲する、第三にはこの先15年から20年後にニューカレドニアの完全な独立の是非を問う住民投票を実施する、というものであった 22)。そして、この協定も1998年11月に住民投票にかけられ、投票率74.24%のうち、71.87%の賛成でもって承認された 23)。協定の規定にしたがって、1999年5月、議員選挙が実施され、ニューカレドニア議会および政府が誕生した。現在、政府は社会保障、労働基準、土地保有制度などの国内問題に取り組んでいるのである。

 以上概観してきたように、大幅な自治権の移譲と完全な独立の是非を問う住民投票の近い将来の実施という現在の情勢に至るまで、ニューカレドニアはパラオ以上に統治国フランスとの闘争の歴史があったのである。
 
3 パラオの対外政策−アメリカおよび日本との関係
 
 1994年のアメリカとの自由連合への移行に伴ない、一部軍事や外交的権限がアメリカに留保されており、また、人口わずか2万人にも満たないマイクロ・ステートであるにもかかわらず、パラオは独立国として国際社会の一員となった。今日、パラオは、ESCAP、IBRD、IMF、UNCTAD、WHOなどの全世界的な国際組織のメンバーであり、国連においても総会に代表権と表決権をもつ歴とした加盟国である。また、独立国として、地域的な国際組織であるPIFやSPCなどのメンバーであることはいうまでもない。すなわち、パラオは、自由連合協定によってアメリカに委譲されている国防、軍事、安全保障の分野を除いて、自由に国際組織のメンバーとなり、その利点を活用することができるのである。

 他方で、独立国としてのパラオの政治的地位は、旧信託統治執政国であるアメリカ以外の隣国と二国間の良好な対外関係を築く上で極めて重要である。他の太平洋島嶼諸国と同様にパラオは、国土面積が極めて狭く、環境が脆弱で、資源に乏しく、地理的に偏狭な極小国家である。すなわち、国家として発展していくためには、他国からの経済的あるいは財政的、技術的な援助が必要不可欠なのである。信託統治修了後も、依然として対アメリカ関係がパラオにとって最も重要であるのは疑いないが、他方でパラオはアジアやオセアニアの近隣諸国とも友好関係を構築するために積極的に活動している。そうした近隣諸国との二国間関係の中で、パラオにとって日本は、経済的および財政的、あるいは歴史的、地理的な観点からアメリカと並んで最も重要な国家となっている。

 事実、パラオにとって主要貿易相手国の第一位がアメリカであり、日本が第二位である。パラオを主要な輸出産品であるマグロなど魚介類がグアムを経由してアメリカと日本へ輸出され、逆に機械類が両国から輸入されている。パラオの国内経済状況は、基本的に農業、漁業を中心とした生存経済社会であり、政府が主要な雇用機関となっている。最近では、その美しい海は世界有数のダイビング・スポットとして知られるようになり、観光業が急速に成長している 24)。パラオの観光業にとって、最も期待されるマーケットは、地理的な利点から日本であることはいうまでもない。実際に現在でも日本人がパラオを訪れる観光客の大多数を占めている。とはいえ、その観光的価値の高さにもかかわらず、ハワイ、グアム、サイパンに比べると日本人観光客の絶対量は圧倒的に少ない。そのため、日本の観光市場からパラオは、高い潜在的観光収入が期待できるのである 25)。

 しかしながら、全般的にパラオの国内産業は、依然として未成熟なものである。そのため、国家歳入の大部分を自由連合協定に基づくアメリカからの財政援助に依存している。すなわち、協定によって、パラオは米軍にパラオ諸島での50年間の軍事的アクセス権を保障し、その見返りとしてアメリカはパラオに15年間で7億USドルの財政援助をなすことが規定されているのである 26)。パラオ憲法の非核条項がパラオの早期独立を困難なものにしたのは、先に考察した通りである。逆にアメリカの立場からすれば、非核条項によって軍事的権益を保持するのが困難になったパラオに対しても、軍事的アクセス権を譲歩しなかった最大の理由は、冷戦後の国際情勢の中で、パラオの地政学的な戦略的重要性にあったといえる。

 そもそもアメリカは冷戦期に、ハワイからミクロネシアそしてフィリピンにかけて太平洋における戦略的支配地域を拡大し、維持してきた。そうしたアメリカの「戦略的湖」の中間に位置するミクロネシアにあってその西のコーナーに位置するパラオは、地政学的に重要な土地であった。また、パラオはその地形もアメリカによって戦略的に重視されていた。とりわけ、天然の良港であるマラカル(Malakal)湾はトライデントや原子力潜水艦の母港としての海軍基地に最も適した場所であり、バベルダオブ島のマングローブの林はジャングル戦の演習場として理想的な島であった 27)。さらに、冷戦後の1991年、フィリピンの主要な米軍基地の使用契約の満期に伴ない同国上院が、契約の更新を破棄する決議を採択した 28)。そのため、ミクロネシアの西端に位置するパラオは、太平洋とインド洋の境界に位置するゲートウェイとしてさらにその戦略的価値が増したのである。物質的資源に乏しいパラオが、超大国アメリカとの関係で唯一利用できるものはその戦略的価値であるといえよう。

 他方、近年のパラオの対外関係の中で、日本は、アメリカに次いで重要な位置を占める国家となっている。近年、日本はパラオに限らず、太平洋島嶼諸国全体にとって重要な国家となっており、とりわけ2000年4月に宮崎で開催された日本・南太平洋フォーラム会議で採択された宮崎宣言では、日本・フォーラム提携計画(Japan Forum Partnership Programme)として日本から100万USドルが援助されることが規定された。これとは別に日本は1988年より毎年フォーラム事務局の開発計画に総計670万USドルの援助を行っている 29)。独立国であるパラオは、フォーラムの加盟国として、日本からフォーラムへの拠出された援助の恩恵を受けることができるのはいうまでもない。また、二国間でもパラオにとって日本は、アメリカに次ぐ援助供与国である。今日まで、水道、道路、電気などのインフラ整備のために、日本政府より多数の財政的・技術的援助が無償で行われている。

 他方、日本の対外関係の中でも、パラオは、決して無視できる存在ではなく、むしろ重要な隣国として捉える必要がある。パラオはかつて日本の委任統治領であったという歴史が紐帯となっており、今日でも日本の影響が依然として存在している。その最たるものが言葉であり、現在のパラオ語の中にも日本語からの借用語が数多く残っているという 30)。また、現在のパラオ人の中には、日系人も多く、クニオ・ナカムラ前大統領に代表されるように、政治家として活躍している者も数多い。日系人が国民の代表者として比較的よく選出されるという状況は、それだけ親日的国民が多いと捉えるのが自然である。事実、パラオの対日関係は極めて友好的であり、それは2000年9月の国連ミレニアムサミットの場でパラオのハーセー・キョウタ(Hersey Kyota)国連代表がおこなった演説中で、次のフレーズに集約されている。すなわち、「(前略)…、安全保障理事会は、現状にふさわしい参加国の拡大という観点から改革がなされる必要がある。我々パラオ共和国は、その目標へ向けての重要な第一歩として、日本を新たに安全保障理事会の常任理事国として迎えることを期待している」 31)と。安保理の常任理事国入りを目指す日本にとってパラオは、極めて重要な友好国なのである。

 さらに貿易立国として世界有数の経済大国である日本にとって、パラオは地理的に極めて重要な位置を占めている。すなわち、北西太平洋に散らばる大小あわせて200もの群島とおよそ600キロにわたる広大な排他的経済水域を有するパラオは、日本に重要なシールートを提供しており、中東からの石油タンカーの航行やEUとの貿易上、欠かせない存在なのである。こうして、パラオは日本にとっても重要な国家なのである。

4 ニューカレドニアの対外政策−フランスおよび日本との関係
 
 1998年のヌメア協定以来、ニューカレドニアは、自分たちの地方議会と政府を創設し、現在、労働、社会保障、教育などの国内問題に精力的に取り組んでいる。他方、フランスからは、段階的な自治権の移譲が始まっている。しかしながら、ニューカレドニアの政治的地位は、依然としてフランス海外領のままである。その結果、ニューカレドニアが、国連やPIF等のメンバーになることができないのはいうまでもない。しかしながら、自治政府の発足以来、独自に国際会議に出席し、また、対外関係でも進展を目指している。

 すなわち、ニューカレドニアのレク(Leques)初代政府首長は、2000年7月に行われた国連の植民地自治委員会(Decolonization Committee)会議に参加した。同会議には、太平洋諸島から東ティモール、グアム、アメリカン・サモア、トケラウも参加しているが、同じくフランス海外領であるフレンチ・ポリネシアとウォリス・フトゥナは国連によってリスト化されていない 32)。対外関係では、主に経済面で近隣諸国との緊密な関係の構築に着手している。その一つの成果として本年3月、ニューカレドニアにとっては初めてとなる隣国オーストラリアとの国際通商協定が締結され、貿易と投資の拡大、促進および自由化が規定された 33)。この協定はオーストラリアのヴェイル通産相がニューカレドニアを訪問中にフロギール首相との間で合意に達したものであるが、隣国との対外関係の促進させるためには、現在の政治的地位を大いに利用できる。すなわち、依然としてニューカレドニアは独立国ではないため近隣諸国と外交関係を創設することはできないが、そうした諸国のフランス公館にニューカレドニアの部局を開設し、緊密な関係を築くことが可能であり、それが最も実践的な方法といえよう。

 現在のニューカレドニアにとって、対外関係上最も重要な国家は、将来の政治的地位をめぐる交渉相手であるフランスであることはいうまでもない。そして、フランスはニューカレドニアにとって唯一といっていい援助供与国である。また、貿易の面でも、フランスは輸入相手国の中で全体の41パーセントを占め、第一位の輸入先である。しかし、輸出部門では、フランスは全体の30パーセントで第二位であり、第一位は36パーセントを占める日本である。日本は戦前からニューカレドニアにとって第一の輸出相手国であり、ニューカレドニアの対外政策上、極めて重要な地位にあるのである。概して、日本にとって、あるいはフランスにとっても、ニューカレドニアに対する最大の関心事は、全世界の20パーセントに相当する埋蔵量を誇るそのニッケル産業にあるといえる。

 ニッケル産業は、ニューカレドニアにとって最大の外貨獲得手段であり、国内最大の雇用機会を提供する産業である。そのため、ニッケル産業の経営と配分をめぐり、カナク、フランス系カレドニアン、あるいはフランス本土人の間で古くから対立があり、突発的なストライキ、暴動、流血事件などが繰り返されてきた。すなわち、ニューカレドニアには、かってニッケル産業界を独占していたフランス系のSLNと、主にカナクによって運営されている南太平洋鉱山社(SMSP: Ste Min Sud Pacifique)が存在し、対立関係にあるのである。ヌメア協定の規定に従い、2000年7月にニッケル産業の配分に関してグランド・テールの南・北州およびロイヤルティ諸島の3州の間で合意がなされているが、今後ともニッケル問題は、将来の政治的地位に関する交渉過程においても、フランスとニューカレドニア間で最大の難題の一つであり続けるであろう。

 さらにニューカレドニアの最大取引先である日本にとっても、先住民とフランス系のニッケルをめぐる対立は、深刻な問題となっている。すなわち、一連のニッケル問題によって生じた不定期のストライキや暴動によって操業が中断され、輸出が止まると日本の金属産業は大きな打撃を受けることになる。また、ニューカレドニアからのニッケルを利用している太平洋金属が、現地先住民系とフランス系のニッケル会社の対立問題に巻き込まれ、契約を破棄された結果、1年間輸出が途絶えるという事態が生じたこともある。そこで、日本の金属産業界は、それぞれが先住民系、フランス系のどちらか一方、あるいは双方との緊密な関係を保ち、輸入が途絶えることのないようリスクマネージメントを行っている 34)。いずれにしても、日本にとってニューカレドニアは、国内の金属産業を支える原料供給地として重要であり、そのニッケル問題をはじめ、その将来の政治的地位をめぐる動向は、日本の対外政策にも影響を与えるものとなろう。

 こうしてニューカレドニアにとっては鉱業が国内有数の産業であるが、近年は観光業が著しく発展しており、ニューカレドニア自立にむけての「キー」となる産業として重視されている。ここでもニューカレドニアにとって日本は極めて重要な存在であり、ニューカレドニアを訪れる観光客の大多数が日本人によって占められている。このため、2000年4月からカレドニア国際航空が週2回の大阪−ヌメア間の直行便を開設し、日本からの観光客が急増している。しかしながら、カレドニア国際航空はニューカレドニアが全株式の84パーセントを保持しているにもかかわらず、この航空協定は日本とニューカレドニア単独の締結ではなく、エール・フランスも含めて3者の間でつくられている。さらに、大阪−ヌメア間の航路開設に伴ない購入されたA340型航空機もパリの税務局によって認可を受けなければならなかったのである 35)。

 こうしてニューカレドニアは自治権の確立に向けて、着実に前進しており、近隣諸国との緊密な関係の構築、中でも日本との関係にも着手し始めている。しかし、パラオとの決定的な違いは依然として非独立国としての対外関係であり、フランスの影響を強く受けていることにあるのである。
 
おわりに
 
 以上みてきたように、パラオとニューカレドニアには、その対外関係の面でいくつかの共通点と相違点があることが確認できる。まず、双方に共通する点は、統治国こそ違うが、それぞれが将来の政治的地位への移行過程で、スムーズに交渉が進まなかったという点である。この点に関しては、すでに独立国となっている他の島嶼諸国と比べれば、明らかであろう。この最大の理由は、パラオとニューカレドニアが各々の統治国にとって重要な領土であったという点にある。すなわち、アメリカにとってパラオは地政学的な戦略的価値が高く、フランスにとってニューカレドニアは鉱産資源という経済権益的見地から重要な領土であったわけである。

 しかしながら、アメリカやフランスのような大国に重要とみなされる要素を有するパラオとニューカレドニアは、他の島嶼諸国と比べて極めて有利な立場にいると思われる。すなわち、ニューカレドニアは、民族対立という難解な問題を抱えてはいるものの、経済的自立という点では、他の島嶼国を圧倒している。その豊富な鉱産資源は、かってのナウルがそうであったように、フランスをはじめ海外からの財政的な援助がなくても十分に経済的自立を達成させる。仮にニューカレドニアが現在独立国であったとすれば、その資源と成長する観光業で、パプアニューギニアやフィジーと域内で上位を争う国家となっていたに違いない。他方、パラオはニューカレドニアのような資源力をもたないが、観光資源の点でその潜在的な能力は非常に高い。とくに日本を中心としたアジア市場に近いという地理的な利点が、その決定的な要素である。現在のアメリカにとっての戦略的価値を利用して受けた財政的援助をもとに、産業を育成していけば、ミクロネシア最大の自立国家になる要素を備えていると思われる。

 以上のようなシナリオを描くとすれば、パラオとニューカレドニアの対外関係にとって重要な立場にあるのは、先にみたように、近隣の大国である日本である。双方にとっての主要貿易相手国として、援助供与国として、あるいは観光業の観点からも重要である点も明らかな共通点である。双方にとって日本との緊密な関係の構築が望まれる。

 一方、パラオとニューカレドニアの決定的な違いは、独立国か非独立国かという現在の政治的な地位である。パラオは軍事的側面など一部制限があるものの、独立国家として独自の対外関係を構築することができるが、ニューカレドニアは原則としてフランスの媒介なしには対外関係を構築する主体になることができない。したがって、ニューカレドニアはパラオ並みの独立国家としての地位を獲得することが望まれるが、国内にはフランス系カレドニアンを中心に独立反対派が存在することも否めない。

 ここで重要なのは、現状で独立できるか否かを個人的な立場からに論じるよりも、住民がどういう選択をなせるのかにあると思われる。すなわち、かつてパラオが自由連合協定の承認をめぐって住民投票を繰り返したように、ニューカレドニアの住民が納得のいく形で意思を集結させることにある。ニューカレドニアに続き今年3月、ブーゲンヴィルも将来パプアニューギニアからの独立の是非を問う住民投票が実施されることが決定した。太平洋諸島は幸いにも人口規模が極めて少なく、住民投票を行うのは困難なことではない。パラオは憲法制定から自由連合協定の承認まで、住民投票を行い、独自の対外関係を構築した。そうしたパラオの教訓をもとに、対外関係を形成する上で住民投票を実施することは、一種のパシフィック・ウエイであると結論付けることで本稿の締めくくりとしたい。
 
Acknowledgements
 

 本稿は、著者が2000年から2001年にかけてニュージーランド・カンタベリー大学大学院太平洋諸島研究科に留学していた際、同大学のマクミラン・ブラウン太平洋諸島研究所および政治学研究室に提出した英語論文“Comparative Thought on Small State Politics and Foreign Policies between Palau and New Caledonia”をベースに、今日の動向も踏まえて一部その内容を加筆および修正したものである。本稿を母国日本で提出するにあたり、その元となった英語論文に対して、留学中その内容について適切なアドバイスをくださったマクミラン・ブラウン太平洋諸島研究所所長のウアンタボ・ニーミア・マッケンジー博士(Dr. Ueantabo Neemia-Mackenzie)ならびに政治学部学部長のジョン・ヘンダーソン博士(Dr. John Henderson)にここで改めて謝意を表したい。
 
 
Notes
 

1) Roger Clark and Sue Rabbitt Roff, Micronesia: the Problem of Palau, London: the Minority Rights Group Report no.63, 1984, p.5.

2)World Reference-Palau, The U.S. Department of State Background Notes; http://www.washingtonpost.com/wp-srv/inatl/longterm/worldref/ country/palau.htm (24/10/97).

3) Roger Clark and Sue Rabbitt Roff, supra, p.6.

4) 日本の委任統治の詳細は、矢内原忠雄、『矢内原忠雄全集第3巻―南洋群島の研究』、岩波書店、1963年を参照。

5) Hal M. Friedman, “The Limitations of Collective Security: The United States and the Micronesian Trusteeship, 1945-1947”, A Journal of Micronesian Studies, vol.3 no.2 (Dry Season), 1995, pp.363-366.

6) ミクロネシアの将来の政治的地位に関する交渉過程については、John Armstrong, “Strategic Underpinnings of the Legal Regime of Free Association: The Negotiations for the Future Political Status of Micronesia”, Brooklyn Journal of International Law, vol.Z no.2, pp.179以下を参照。

7) Ibid., p.181.

8) Yash Ghai, “Reflections on Self-Determination in the South Pacific”, in Donald Clark and Robert Williamson (eds), Self-Determination: International Perspectives, New York: St.Martin’s Press Inc., 1996, pp.180-181.

9) パラオ憲法制定までの過程についての詳細は、Roger Clark and Sue Rabbitt Roff, supra, pp.12-13.および、拙稿、「パラオ共和国憲法にみる平和的生存権概念」、大学院論集(日本大学大学院国際関係研究科)第8号、9〜12頁を参照。

10) Stephen Henningham, The Pacific Island States: Security and Sovereignty in the Post-Cold War World, London: Macmillan Press Ltd, 1995, pp.57-58.

11) パラオ共和国憲法の非核条項については、Roger Clark and Sue Rabbitt Roff, supra, p.16.および拙稿、前掲論文、10~11頁を参照。

12) Ingrid A. Kircher, The Kanaks of New Caledonia, London: The Minority Rights Group Report no.71, 1986, p.4-5.

13) Ibid., p.5.

14) フランスがニューカレドニア統治を急いだ背景には、その主要な理由としてニュージーランド統治をめぐるイギリスとの競争で敗退したことにあると思われる。すなわち、フランスはバンクス半島を中心にニュージーランドでのプレゼンスを着実に高めていたにもかかわらず、1840年にマオリの首長たちとイギリスとの間でワイタンギ条約が締結され、ニュージーランド統治者の地位をイギリスに奪われた。その結果として当時、南西太平洋に海軍のプレゼンスを拡大していたフランスは、ニューカレドニアを急いで確保する必要に迫られていたものと考えられるわけである(Noboru Tamai, “Comparative Thoughts on Small State Politics and Foreign Policies between Palau and New Caledonia”, paper presened to the Macmillan Brown Cenre for Pacific Studies and Department of Political Science, University of Canterbury, 11 October 2000, p.6.)。

15) Jean-Pierre Doumenge, Du Teritoire a la Ville: Les Melanesiens et leurs Espaces en Nouvelle Caledonie, Bordeaux: Centre d’Etudes de Geographie Tropicale, 1982, p.118-119.

16) Ingrid A. Kircher, supra, p.6.

17) Ibid.

18) Ibid.

19) 一連のカナク抵抗運動の詳細に関しては、Susanna Ounei-Small, “Kanaky: The ‘Peace’ Signed with Our Blood”, David Robie (ed.), Tu Galala, Wellington: Bridgette William, 1992, pp.163-179(注解:本文献タイトルのTu Galalaはフィジー語。拙訳、主権).

20) 1988年のウヴェアを中心としたカナクの襲撃事件の詳細に関しては、Jean Guiart, “A Drama of Ambiguity: Ouvea 1988-89”, The Journal of Pacific History, vol.32 no.1 (1997), pp.85-102が詳しい。

21) Susanna Ounei-Small, supra, p.174.

22) Nic Maclellan, “The Noumea Accord and Decolonisation in New Caledonia”, The Journal of Pacific History, vol.34 no.3 (1999), pp.245-252.

23) Islands Business, December 1998, pp.30-31.

24) CIA, Factbook 2001: http://www.odci.gov/cia/publications/factbook/ geos/ps.hml (23/03/02).

25) Noboru Tamai, Supra, p.10.

26) John Armstrong and Howard L. Hills, “The Negotiations for the Future Political Status of Micronesia”, The American Journal of International Law, vol.78 (1984), pp.484-485.

27) Ed Rampell, “Nuclear-Free Isles Under Siege”, David Robie (ed.), supra, p.139.

28) Ibid., p.137 and 142.

29) Pacific Islands Report, August 24, 2000.

30) 渋谷勝己、「ミクロネシアに残る日本語A−パラオの場合」、言語28巻7号(1999年)、76〜79頁。

31) “The Statement of Republic of Palau”, remarked by Hersey Kyota, Chairman of Palau Delegation on the Occasion of the Millennium Summit of the United Nations, New York: paper pressed by the United Nations General Headquarters, September 8, 2000.

32) Les Nouvelles Caledoniennes, July 12, 2000.

33) Pacific Islands Report, March 12, 2002.

34) たとえば、日新製鋼はSLNの株式の10パーセントを保有することでフランス系との関係を維持し、住友金属はバランド社の5パーセントの株式を有することで先住民系との緊密な関係を保っている。さらに太平洋金属、日本冶金工業、日向製錬所などは、それぞれが先住民系とフランス系双方からニッケルを購入しているのである(http://www.mmaj.go.jp/mric-web/current/97-98.htm (25/09/00) )。

35) Pacific Islands Report, March 27, 2000.