PACIFIC WAY

   ミクロネシア連邦における安全保障問題

 大阪学院大学大学院      
河崎 邦昭(かわさき くにあき)

1.はじめに
2.ミクロネシア連邦の植民地化
3.外国からの軍事的脅威
4.外国からの武力攻撃以外の安全保障上の脅威
5.経済の安全保障
6.むすびに


1.はじめに
 
 安全保障の利益や安全保障に対する認識は人によって異なる。「安全保障」とは、欧米の概念によると「国家が国境の外側から発している脅威に対して国家自身や国民を保護する」という意味で使われてきた。ところが、太平洋極小島嶼国には必ずしもこの概念は当てはまらない。なぜなら、この地域の安全保障の歴史は、植民地化によって常に他国の安全保障に利用されてきたからである。
 太平洋諸島地域の安全保障問題の歴史は、ヨーロッパ人にとっての大航海時代(1) 、つまり16世紀ごろから始まる。島々の存在を「発見」したヨーロッパ人はその後、サンダルウッド(白檀)、燐鉱石、真珠、金、コプラ、鯨、さらには土地を獲得するために続々と太平洋に進出し、その地を植民地化していった。

 この地域の伝統的社会の構造は、土地を生産の手段として生活集団が共有する共同体社会が形成されていたという点での共通性があった(2) 。それは個人が土地を「所有」しているのではなく、「利用」しているという形態として見られる。このように、彼らは何世紀にもわたって、日本や欧米の近代社会の土地所有概念とは異なる土地の所有形態を維持し、また発展させてきた。故に、そうした社会での土地の収奪は、伝統性を破壊し、人間の安全保障にも影響を及ぼすことになったのである。

 それゆえ、太平洋極小島嶼国における安全保障を考察する場合には、次の二つの視点が重要となるだろう。第一は「誰のための安全保障か」、第二は「脅威はどこから発生するのか」である。そこで本稿では、太平洋極小島嶼国の中でもスペイン、ドイツ、日本、アメリカと次々と統治者が変わり、現在は独立国家となったミクロネシア連邦を取り上げ、ここでの安全保障問題を考察してみたい。同国を選んだ理由は、以下のごとくである。第一に、太平洋戦争で日米間の戦場として他国の安全保障問題に巻き込まれた。第二に、軍事的・経済的超大国であるアメリカとの「自由連合」という特殊な状況下での独立国家である。第三に、伝統社会が変容しつつある発展途上国である。それらには、いずれも国家と人間の安全保障にまつわる問題の縮図が見て取れるからだ。

 筆者は2001年9月にミクロネシア連邦を訪れる機会を得、同19日にミクロネシア大学(College of Micronesia )を訪問した。そのとき、日本語クラスでミクロネシア連邦の安全保障に関して、学生たちに次の2点についてアンケートをとった。@外国からの武力攻撃による自国の安全保障への脅威を感じるか否か。A外国からの武力攻撃以外に安全保障上の脅威を感じるか否か。この結果を参考に、上述した二つの視点から考察をすすめたい。

 なお、本稿で用語として使用する「ミクロネシア」は、オセアニア島嶼部を三つに区分する際のギルバート諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島を含む地域を指し、「ミクロネシア連邦」は独立国家としてのミクロネシア連邦(Federated States of Micronesia)が主権を有する地域を指すものとする。
 
(1)ポリネシア系の先祖は、今から三千年以上も前にサモアやトンガの西ポリネシアに定着し、ヨーロッパの西暦が開始される以前には、すでにタヒチやマルケサス諸島の東ポリネシアを発見していた。中嶋弓子『ハワイ・さまよえる楽園−民族と国家の衝突』(東京書籍、1993年)18ページ。
(2)小林泉『太平洋島嶼諸国論』(東信堂、1994年)160 ページ。


2.ミクロネシア連邦の植民地化
 
 世界一周途上のマゼランは1521年グアムに到着した。これが西洋によるミクロネシアの「発見」である。1565年にグアムの領有権を宣言したスペインはマリアナ諸島の統治を始め、その後、ミクロネシア連邦が属するカロリン諸島も獲得した。ところが、スペインはミクロネシアの島々をほとんど航海する船舶の補給基地としてしか考えず、その大部分を放置したので、ミクロネシア連邦に対する植民地統治が本格的になるのはポンペイに行政府が置かれた1886年からである。これ以後、同地域の諸制度は大部分無視され、人々は外国支配のもとであらゆる政治参加を禁じられることになった。そして、これは同地域を統治する諸外国が先住民の意思を無視して、自分達の利益のために同地域を利用することになる時代の到来を意味していた。

 スペインの島民に対する統治方法は極めて専制的であった。植民地の法律はすべて本国政府の制定したものを採用し、植民地経営はもっぱら本国の利益のためにのみ行われた(1) ので、ポンペイでは1887年7月に暴動が発生し、スペイン、島民双方に多くの死傷者が出た。また、1890年にも同様の暴動が発生し多数の者が殺害され(2) 、緊張状態が続いていた。そのため、スペインの植民地当局は海軍の増援隊を呼び入れ、反抗者に援助を与えるおそれのある密輸入貿易を監視するようになった(3) 。ただ、統治のノウハウを持たないままヨーロッパ諸国の中で植民地統治を行う最初の国となったスペインにとって、本国から遠く離れたこの地域は、自国の安全保障上に及ぼす影響は全くなく、キリスト教の浸透に重きを置くだけであった。その伝統ゆえに今では、ポンペイの人々はカソリック教会あるいはプロテスタントに属する熱心なキリスト教徒となっている。     

 米西戦争の翌年の1899年、カロリン諸島はマリアナ諸島(アメリカ領となったグアムを除く)と共にドイツに売却された。ヤップ、ポンペイ以外のミクロネシア連邦の領土を放置していたスペインとは異なり、ドイツは未開発の土地を開発、利用することをミクロネシア統治の目標とし、ヤシを植林してコプラ生産を行った。このような経済的開発は、ポンペイでは原住民の伝統的な制度、慣習を無視した土地制度の根本的改革を実施する形になった。その結果、「ジョカージの乱」と言われる島民の反乱が起こり、ドイツ派遣軍による鎮圧の結果、首謀者17人が銃殺刑に処せられた(4)。ただ、ドイツにとってもこの地域は自国の安全保障上に及ぼす影響は全くなく、単純な投資植民地であったと言える。

 1914年10月5日、コスラエ沖に錨を降ろした日本海軍南洋分遣隊はミクロネシアの支配者がドイツから日本へと変わる先駆けとなった。7日、同隊はソケース水路を通ってポンペイ港に入港し、12日には、戦艦鞍馬が巡洋艦1隻と共にチュークに停泊した。ヤップの港には戦艦薩摩が2隻の巡洋艦と共に入港した。同年夏にヨーロッパで第1次世界大戦が勃発した時、ポンペイにいたドイツ海軍東アジア分遣隊は
、中国シャントン半島のチンタオ基地には戻らず、太平洋を東進してホーン岬を回り、大西洋を通ってドイツへ向かったので、日本分遣隊は何の抵抗もなくミクロネシアを占領することができた(5)

 占領後、日本はチュークに司令部を置き、サイパン、パラオ、チューク、ポンペイ、ヤルートの5つの軍管区(1915年にヤップが加えられて6つになる)から成る臨時南洋群島防備隊による軍政をしいた(6) 。1918年7月1日、民政署が防備隊内に創設され、1920年7月には、防備隊司令官がすべての権限を民政署に譲渡し、翌年、民政署はパラオに移された(7) 。第一次世界大戦終了後の1920年、ミクロネシアは国際連盟の委任統治領として日本の支配下に入ることになり、1922年、防備隊が撤退して完全な文民行政府である南洋庁が開設された。

 日本の統治は、国際連盟を脱退するまでは産業開発政策を遂行し、南洋興発の製糖業や南洋水産の水産業を中心に現地産業を発達させた。そして、その労働は大部分が日本人移民によってなされたので在住日本人はついに原住民を上回った。これは、スペインやドイツの統治下では見られなかった現象である。

 一方、国際連盟脱退後、日本海軍は国民にミクロネシアの島々が日本の安全保障にとっての生命線として死活的であるということを信服させるための運動を指揮した(8) 。そして、1939年に日本海軍は南洋の防衛という任務を課されたチュークに司令部を置く第4艦隊を編成し(9) 、少なくとも太平洋戦争の勃発までに、ミクロネシアの島嶼群はある程度まで軍事化されてきていたのである(10)

 その結果、ミクロネシア連邦にあった日本の基地は太平洋戦争の最初の数週において大きな攻撃上の価値を有することを証明し、また、チュークの基地はソロモン海海戦での連合艦隊の前進基地として大いに強化された(11)。そして1944年、マーシャル諸島の環礁が1つずつアメリカ側の手に落ちていった時、東カロリン諸島やマリアナ諸島が日本本土防衛の前線になった(12)ことは、日本が現在のミクロネシア連邦の島々を日本の安全保障にとって非常に重要な拠点として位置づけていたことを証明している。

 1945年、第二次世界大戦の終結によってミクロネシア地域の日本の委任統治領は、アメリカ軍が占領することになり、1947年には国際連合の信託統治協定によってアメリカによる信託統治が始まった。アメリカによるミクロネシア統治の目的は、これらの島嶼を軍事的に使用することであり、その統治は『ソロモン報告』で示されたように、同地域の戦略的重要性を充分に認識した政策の下で行われた(13)

 このことは、国際連合の下で信託統治制度が創設されるにあたり、国連憲章の作成過程で第82条で指定されることができると規定された「戦略地区」に、11の信託統治地域のうちミクロネシアだけが指定されたことからもうかがえる。憲章第83条1項では「戦略地区に関する国際連合のすべての任務は、信託統治協定の条項及びその変更又は改正の承認も含めて、安全保障理事会が行う」と定められ、理事会で拒否権を有するアメリカにとっては、ミクロネシアを戦略地区に指定することによってこの地域を自国の戦略構想に組み入れることが可能になった。そして、実際にマーシャル諸島のビキニ、エニウェトク環礁における原水爆実験、クワジェリン環礁における迎撃ミサイル発射実験などが行われたのである。

(1)矢崎幸生『ミクロネシア信託統治の研究』(御茶の水書房、1999年)27ページ。
(2)同上、26ページ。
(3)Mark R. Peattie, Nan'yo: The Rise and Fall of the Japanese in Micronesia, 1885-1945,University    of Hawaii Press, 1988, p.19.              
(4)矢崎幸生、前掲書、34ページ。
(5)Peattie, op.cit., pp.38-44.
(6)Ibid., p.64.
(7)Ibid., pp.67-68.
(8)Mark R. Peattie,“The Nan'yo: Japan in the South Pacific, 1895-1945 ”,
   Ramon H. Myers and Mark R. Peattie, eds, The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton    University Press, 1984. p.199.
(9)Ibid., p.202.
(10)Ibid., p.201.
(11)Ibid., p.204.
(12)Ibid., p.206.
(13)『ソロモン報告』については、小林泉『アメリカ極秘文書と信託統治の終焉』(東信堂、1994年)を参照。

3.外国からの軍事的脅威
 
 前述したように、筆者はミクロネシア大学日本語クラスの学生たちに、外国からの武力攻撃による自国の安全保障への脅威を感じるか否かについてアンケートをとった(回答数18)。同大学で筆者が訪問できたのはこのクラスだけであり、ミクロネシア連邦の人々の安全保障についての意識を探るにはサンプル数が少なすぎるのは承知の上で、とりあえず結果を表記してみたい。それによると、肯定が8名、否定が10名であった。肯定の回答のうち、どの国からの脅威を感じるかという問いに対しては、アフガニスタンが2名、イランが1名、サウジアラビアが1名、日本が1名、攻撃を意図したり、試みたりするいかなる国もが1名、テロ組織を持ついかなる国もが1名という結果であった。これは、9月11日のニューヨークとワシントンでの同時多発テロ事件を大いに反映したものとなった。

 ミクロネシア連邦の安全保障を考える場合「国家がその政治的独立、領土の保全や国民の生命と財産を守る」という意味での国家安全保障の概念は、適当ではないだろう。なぜならば、同国のような軍隊を持たない軍事的に脆弱な国家は、外部の大国と同盟関係を結ぶ以外に外国からの軍事的脅威に対抗する手段はないからである。その点において、アメリカとの自由連合協定によって、ミクロネシア連邦は世界最大の軍事力に守られているので、基本的には外国からの軍事的脅威は極めて低いと言えるだろう。アンケートの回答でも過半数が外国からの軍事的脅威を感じないと答えているのがうなづける。しかし、パール・ハーバー攻撃によって始まった日米間の戦争がまさに「太平洋戦争」となり、現在のミクロネシア連邦の領土・領海が戦場となったように、近隣地域で起こった紛争が波及してくる危険性は存在する。また、ミクロネシア連邦は現在中国と外交関係を有し、中国はコロニアに大使館を置き、コロニア港でも中国船が見かけられる。逆に、東隣りのマーシャル諸島共和国は台湾と外交関係を有している。このように中国と台湾は太平洋の小さな島々にまでその勢力争いを繰り広げており、もし中国・台湾紛争が勃発すれば、何らかの圧力が加えられる可能性もある。

 だがむしろ、ミクロネシア連邦にとっての国家安全保障上の脅威は、国家の外部に存在するものではなく、国家としての脆弱性ゆえに、内在するものであると言える。何世紀もの発展のプロセスの結果として建設された欧米の国家と違って、現在の形態での第三世界の国家構造は無条件の正統性を享受できない。そこでは、国家が深刻に考える脅威は外部からよりもむしろ国境の内部から実質的に広がっていく(1)

 そして、ミクロネシア連邦における安全保障も、まさにこうした特徴を有している。そこで次に、外国からの武力攻撃以外の国家安全保障上の脅威について考察してみたい。
 
(1)Mohammed Ayoob, “Regional Security in the Third World, ”in Mohammed Ayoob, eds., Regional Security in the Third World Boulder: Westview Press 1986, p. 8-10.

4.外国からの武力攻撃以外の国家安全保障上の脅威
 
 筆者が行ったアンケートの二つめは、外国からの武力攻撃以外に安全保障上の脅威を感じるか否かであった(回答数18)。その結果、肯定が16名、否定が2名であった。肯定の回答のうち、どのような問題に脅威を感じるかという問い(複数回答を認める)に対して、麻薬が8名、病気が8名、自然災害が7名、人口増加が7名、核汚染が6名、外国の犯罪組織による犯罪が4名、国際的テロが4名、非核環境7染が3名、国内騒乱が3名、経済的格差が2名、不法移民が2名、民族的差異が1名、土地所有に関する紛争が1名、その他(アメリカの脅威)が1名であった。以下、これらの問題を考察していくことにする。

 麻薬が最多回答にあがったことは、麻薬の脅威の深刻さが世界的なものになり、ついにこの太平洋の小さな島国にまで及んだ感を受ける。年齢的にも学生達は自分の身近な範囲でこの脅威を感じ取っているのであろう。中南米のように麻薬取引にマフィアが暗躍するような状況にまでは程遠いが、将来、グアムやサイパンに根拠を置く中国人マフィアやフィリピン人マフィアが乗り込んでくると、新たな安全保障の問題となるだろう。現在は、現地で栽培された大麻を、夜になると店先等で売人が販売していることもあり、麻薬及び対象となる薬物の輸出・輸入・所持はすべて刑罰の対象で、5,000 ドル以下の罰金または5年以下の懲役となる(1)

 保健医療問題では、糖尿病の急増が注目される。ポンペイにおける糖尿病の罹患率は、1994年に35%に達し米国の2倍となった。そして、1980年の死亡原因では7位であったが1997年には2位となっている(2) 。しかし、住民の糖尿病への認識は十分ではなく、きちんと検診を受けないケースが多いそうである(3) 。過食や運動不足といった従来の生活習慣にアメリカ型の食生活が浸透すれば、健康に対する住民の知識不足と相まって、健康問題が人間の安全保障という面で、ミクロネシア連邦にとって脅威となりうるだろう。
 
 自然災害で最も深刻な問題はエルニーニョ現象の影響による台風の被害である。エルニーニョ(スペイン語で「神の子、男の子」)とは、元来ペルー沿岸でバナナの収穫期にあたる12月から3月にかけて起こる海水温の上昇に名付けた言葉であるが、この水温の上昇が赤道太平洋にまで広がる現象がエルニーニョ現象と呼ばれるようになった。そして、この現象の影響によって、本来夏期に多い台風の発生が冬期にも増えはじめ、しかも巨大台風が発生しやすくなって、防御施設のほとんどないミクロネシア連邦に深刻な被害をあたえている。

 急激な人口増加も経済成長を阻む原因となる。ミクロネシア連邦の国家統計によれば、1990年から1999年の年間の人口増加率は2.0 %と高い割合を示している。1986年から1999年までの期間におけるGDPは、年平均で2.3 %の経済成長を記録している(4) ので、せっかくの経済成長が人口増加によってほぼ相殺されていることになる。また、現在では、若年出産が大きな問題となっており、今後もさらなる人口増加が懸念される。

 核汚染の問題は、ミクロネシア連邦にとって他人事ではすまされない問題である。前述したように、アメリカはミクロネシア連邦の隣国であるマーシャル諸島のビキニ環礁やエニウェトク環礁で核実験をおこなった。フランスは、1960年代半ば以降、モルロア環礁で核実験をしつづけている。ミクロネシア連邦が1979年5月10日に施行した憲法において、第13条第2節で同国政府の明示的な承認がなければ同国の管轄区域内での放射性物質の実験、貯蔵、使用、または処理を禁止すると規定したのは、自国を核の脅威から守ろうとする同国の強い決意の表れである。

 ミクロネシア連邦にとって、安全保障を脅かす核以外の環境問題としては真っ先に地球温暖化があげられるだろう。同国では地球温暖化を原因とした海水面の上昇というデータは今のところあがってきていないが、2001年3月、ファルカム大統領が来日した際には、日本政府に温暖化防止の方策を進めるよう訴えた。

 不法移民の問題は、現段階ではミクロネシア連邦にとって深刻なものとはなっていないが、今後その対応に備えておくべき問題である。2001年8月、密航船でインドネシアからオーストラリアに向かう途中に遭難したアフガニスタン人ら約430 人が、彼らを救助したノルウェーの貨物船でオーストラリアに入港しようとした事件があった。8月16日、オーストラリアのハワード首相はその入港拒否を決定したが、同貨物船はオーストラリア領クリスマス島で立ち往生した後、結局、ニュージーランドとナウルが密航者を受け入れることで合意した。この解決方法は、「パシフィック・ウェイ」(5) であるかもしれないが、人口1万人ほどのナウルにとって多くの難民を抱えることは社会を不安定にさせる要因になりかねない。故に、この事件は、ミクロネシア連邦にとっても対岸の火事として済ますことができない問題なのである。

 国際的テロについては、2002年8月15−17日にフィジーで開催された太平洋フォーラムの年次会議が、テロに対する協力強化などを含む共同声明を発表し、議長であるフィジーのガラセ首相は「太平洋の島国はテロに対して脆弱だ」と警戒を呼びかけた(6) 。ミクロネシア連邦のようなミニ国家がテロリストの攻撃対象になった場合、その対策もほとんどできていない状況を考えると、国家そのものが乗っ取られるような被害を生じるだろう。

 最後に、アンケートの回答にはあがっていなかったが、伝統社会の崩壊が進行するにつれて起こる国内の混乱が懸念される。ミクロネシア連邦は酋長を中心とした伝統的な秩序システムを保持する条項を有しているが、市場経済の浸透と英語を公用語とする近代行政機構は従来の酋長の権威を低下させる方向に進んでいることは否定できない。その一例を挙げると、今回のミクロネシア訪問の際に、ナンマドール遺跡を訪れた時、拝観料にあたる金額を遺跡を管理する責任者である酋長宅で支払ったにもかかわらず、新たにできた遺跡への近道を通ろうとすると、その入り口でその道を開いた住民にも支払いを請求された。我々はすでに酋長に支払った旨を伝えたが、それについては関知しないと言われた。この一件は、酋長の伝統的な権威が低下してきていることを如実に表している事件であった。今後、伝統的権威と近代的権力の綱引き状態の中から、国家安全保障上の不安要因が発生しないとは断言できないのである。
 
(1)外務省海外安全情報、http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/anzen/oceania/083.html(2001年10月24日)。
(2)林君枝「ポナペの保健事情−住民の健康意識から−」『POHNPEI2000』(前本真貴子他編大阪学院大学・小林泉研究室、2001年)
(3)2001年9月21日、筆者による青年海外協力隊員(栄養指導)への聞き取り調査。
(4)小林泉『太平洋諸国の産業開発と伝統社会の変容−ミクロネシア連邦−』(日本・南太平洋経済交流協会、2001年)9ページ、16ページ。
(5)フィジーの初代首相であり初代大統領でもあったカミセセ・マラが提唱した主義。
   直訳すれば「太平洋流」という意味であるが、「異なった人種、意見、文化を持った人々が共に生き、すべての人の利益のために働き、違いがあっても憎しみを持たず認め合うことができ、暴力なしに国家が治められ、すべての人々に利益を与える意思を持ち合わせた理性ある人々が責任を果たす」(2001年2月6日・7日に大阪国際交流センターで開催された国際シンポジウム「パシフィック・ウェイの共有−21世紀における太平洋国家の連帯−」での6日に行われたパネルディスカッション「パシフィック・ウェイの共有」の中のマラの発言)という主義。
(6)『朝日新聞』2002年8月18日、朝刊。

5.経済の安全保障
 
 冷戦後の世界を見ると、内戦や国内紛争は発展途上国に多く発生している。「持たざる者」が独力で自分たちの状況を改善できない時、その不満は憎悪や反抗から簡単に紛争へと転化する。故に、今日の国家の安全保障を国内的必要条件から考えると、国家は経済の発展、雇用の確保、教育の向上、健康の維持などを国民に保証することが必要となってくる。

 そこで最初に、経済発展の推進力となる投資の面からミクロネシア連邦の経済を見てみると、1999年において、民間銀行(ミクロネシア連邦銀行、グアム銀行、ハワイ銀行)の預金合計は1億1,400万ドルあるにもかかわらず、貸し付け総額は5,100 万ドル弱にすぎず、しかも事業投資用の貸し付けはそのうちの3分の1である(1) 。預金合計に対して投資用の貸し付け額が少ないのは、外国籍のグアム銀行とハワイ銀行にとって土地取得に関するミクロネシア連邦憲法の規定が障害となっているからである。ミクロネシア連邦では外国人は土地を取得することができず、外国法人であるこれら2行とは土地を担保にした融資関係が成立しないのである。だが、国内貯蓄の不足で潤沢な投資の資金源がないミクロネシア連邦にとって、現地経済に貢献する外資を導入するために、政府が自国を外国人にとって魅力ある投資先にすることは必須の要件である(2)

 次に、ミクロネシア連邦の雇用と財政の関係を見てみよう。1997年の数字では、国内の賃金労働者数18,669人のうち、公務員が約5割の9,917人を占めている(3) 。このことは公務員賃金が民間へ、そして民間からの税金が政府収入になるという政府支出を基盤とした国内循環型経済の様相を示している。そして、政府歳入の約6割以上(1995年)をアメリカからの援助金が占め、生活必需品の輸入の多くをアメリカに頼っている。以上のことから、ミクロネシア連邦の経済がアメリカからの援助金というパイを国内で分け合い、回し合っている経済であることが指摘できる。故に、同国にとってこのアメリカ依存型経済から脱却するためには、新たな産業を起こすことにかかっているのだが、その可能性は極めて低いと言える。

 投資・雇用・財政におけるこのような状況の下で、ミクロネシア連邦はどのような経済安全保障の道を探っていけばいいのだろうか。アマルティア・センは、日本および東アジア、東南アジアの経済発展プロセスの特色として、次の三点を挙げている(4)。@変革の主な原動力としての基礎教育の重視、A教育・人材養成・土地改革・信用供与などによる基本的な経済エンタイトルメント(人々が十分な食糧などを得られる経済的能力や資格)の広範な普及、B開発計画において、国家機能と市場経済の効用の巧みな組合せ。

 これをミクロネシア連邦に当てはめてみると、同国の教育制度は、アメリカの教育制度をモデルにしており、8年間の初等教育が義務教育でその就学率は約90%、4年間の中等教育の就学率は約60%である。高等教育機関としてはミクロネシア大学があり、ポンペイ以外の島々からも学生が来ている。しかし、個人の能力開発という点ではまだまだ設備やノウハウの不足の問題があり、経済的能力向上や資格取得へのサポート体制は十分ではないと言える。国家機能の面では、独立後20年にも満たないミクロネシア連邦はまだ国民国家として未成熟であり、貨幣経済と伝統的自給自足経済が混在する現在の経済状況を同国が自力で完全な市場経済に移行する力はない。レオ・ファルカム大統領は、グローバリゼーションについて、「その波はいずれ我が国にもやって来るのだから、その準備をしておかなければならない」と述べたが(5) 、近代国家としての一面と伝統的共同体社会としての一面との間の矛盾やギャップの多い同国にとって、経済的自立という経済面での根本的安全保障はいまだに確立されていない。
 
(1)小林泉『太平洋諸国の産業開発と伝統社会の変容−ミクロネシア連邦−』(日本・南太平洋経済交   流協会、2001年)43-44 ページ。
(2)ミクロネシア連邦およびポンペイ州の外資導入政策については、同上第四章に詳しく述べられている。
(3)同上、19-21 ページ。
(4)アマルティア・セン(大石りら訳)『貧困の克服』(集英社、2002年)20ページ。
(5)2001年9月17日、大統領府での筆者によるレオ・ファルカム大統領へのインタビュー。

6.むすびに
 
 以上のように、欧米の概念による「国家が国境の外側から発している脅威に対して国家自身や国民を保護する」という安全保障観とは異なって、ミクロネシア連邦にとっては外国からの軍事的脅威に対する安全保障より国内の安全保障に留意することの方が緊急の課題である。そこで中心的問題となるのは同国における伝統社会の漸進的崩壊傾向である。伝統社会を構成する重要な要素としての土地所有制度は、共同所有から個人所有への移行に向かいつつあり(1) 、土地所有に関する紛争が生じてきている。また、伝統的自給自足経済の下では、市場経済的な物質的豊かさは無くとも「貧困」ではなかった生活状態が、市場経済の導入につれてそれまで生活必需品でなかった物が生活必需品(それらのほとんどは外国からの輸入品である)となり、西欧的価値観の流入と共に消費欲と物質欲を満たすことができない「貧困感」の増大が懸念される。

 市場経済の浸透やグローバリゼーションの進展はこの小さな島国が世界経済の一員になることができるか否かの試金石となっている。時間にとらわれない自給自足生活を送ってきたミクロネシア連邦の人々が近代産業の労働者として適した資質を備えているかも問題である。かつて同国が日本の委任統治下にあった時、当時の日本の同化政策の影響とはいえ、現地の日本企業がミクロネシア人を雇用するよりも日本からの労働者を多く導入した経緯から見ても、同国が自力で市場経済の大海の中に漕ぎだすことを予想することは難しい。

 また、同じミクロネシア連邦の中でも、最大の島で降雨量が多く水が豊富なポンペイ州とチュークのような小島が集まった州とでは経済状況にも差があり、その格差が連邦内の不協和音に発展する恐れもある。さらに、同じポンペイの中でも、現金収入を得られるサラリーマン階層が出現してきたことは、今までのような伝統的農耕生活を送っている人々との間でさまざまな面でのギャップを生じていくことになろう。

 このように、ひとまとめにはできないミクロネシア連邦の多様性の中にも、同国にとっての安全保障を脅かす原因が潜んでいると言えるだろう。
 
(1)小林泉『太平洋島嶼諸国論』(東信堂、1994年)、164 ページ。
 

【参考文献】
Ayoob, Mohammed, “Regional Security in the Third World, ”Regional Security in the Third World (Ayoob, Mohammed ed. )Boulder: Westview Press, 1986.
Peattie, Mark R., Nan'yo: The Rise and Fall of the Japanese in Micronesia, 1885-1945, University of Hawaii Press,   1988.
Peattie, Mark R., “The Nan'yo: Japan in the South Pacfic, 1895-1945, ”The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton University Press, 1984.
アマルティア・セン(大石りら訳)『貧困の克服』集英社、2002年
小林泉『アメリカ極秘文書と信託統治の終焉』東信堂、1994年
小林泉『太平洋島嶼諸国論』東信堂、1994年
小林泉『太平洋諸国の産業開発と伝統社会の変容−ミクロネシア連邦−』日本・南太平洋経済交流協会、2001年
中嶋弓子『ハワイ・さまよえる楽園−民族と国家の衝突』東京書籍、1993年
矢崎幸生『ミクロネシア信託統治の研究』お茶の水書房、1999年
片木晴彦「日本の委任統治下におけるミクロネシアの法制度」(畑博行他編『南太平洋諸国の法と社会』)有信堂高文社、1992年
甲山員司「ミクロネシアと国連信託統治制度」(畑博行他編『南太平洋諸国の法と社会』)有信堂高文社、1992年
清水昭俊「ミクロネシア連邦における近代化と伝統」(畑博行編『南太平洋諸国の法と社会』)有信堂高文社、1992年
林君枝「ポナペの保健事情−住民の健康意識から−」(前本真貴子他編『POHNPEI2000』)大阪学院大学・小林泉研究室、2001年
ロニ−・アレキサンダー「太平洋諸国の安全保障問題」(畑博行編『南太平洋諸国の法と社会』)有信堂高文社、1992年