PACIFIC WAY

     南洋群島時代の水産業

(社)太平洋諸島地域研究所理事長
小深田貞雄(こふかだ さだお)

 最初に関わったのが太洋真珠株式会社の設立であった。同社はオーストラリア近海で採取される白蝶貝採取を目的とする会社で、白蝶貝は釦(ぼたん)原料として輸出され、当時の南方における主要事業であった。

 木曜島周辺の日本人ダイバーの真珠貝採取は明治16年(1882年)オーストラリア人ジョンミラが横浜で37人の採取船乗組員を募集し、木曜島に出航したのが最初である。事業としては昭和5年(1930年)豪州航路の運転士であった丹下福太郎氏が丹下商会を設立し、30トンの中古鰹漁船成長丸でパラオから蘭印ドボに廻航し、白蝶貝を採取したことに始まる。白蝶貝の漁場は、オーストラリア、ニューギニアに連なるアラフラ海で、出漁船はパラオを根拠地として5月から11月にかけて操業した。丹下氏は南洋興発株式会社の傘下の海洋殖産株式会社で本事業を進めた。当時業者の対立は激しく、相互の連絡もなく発展を阻害していた。昭和12年(1937年)支那事変が勃発し、業界の不況によりトン当たり1000円から1200円であった価格が800円以下に下落し、内外市場の需給の調整、豪州業者に対抗して安定経営が急務となった。大日本真珠貝組合が結成された。

 南拓も山見嘉志郎氏を中心とする和歌山県の業者との連携強化、事業の一元化を企図し太洋真珠株式会社を設立した。昭和14年(1939年)日本の出漁隻数は77隻で、同社割当隻数は14隻。イースト沖、メルビル沖で採取に当たった。第三高千穂丸がアラフラ海で領海侵犯の疑いで豪州監視船ララキア号に拿捕され、その釈放依頼手続きのため外務省に通ったことが記憶に残っている。また真鶴で平洋丸の進水式を行ったことも忘れられない。

 海洋殖産、太洋真珠の併立は生産過剰、価格低落を招き、統制会社の設立を企図することとなり、昭和13年(1938年)当局の指導の下で、南洋拓殖、南洋興発、南洋貿易各社の提携により日本真珠株式会社が設立された。社長に児玉貞雄氏が就任し、株式の半数を南拓が引き受けた。同社は真珠貝採取事業の整備充実、内外市場に於ける生産品需給の調整等を進め、豪州業者に対抗して事業を健全化することを企図した。

 既存採取船170隻の内97隻を買取り就業し、昭和15年 (1940年)1500トンの水揚げをみた。
 オーストラリア業者の不況による退勢、これに対し我が国業界の統制の徹底、生産調整による需給の均衡、市場の安定化と業況は好転しつつあったが、昭和16年(1941年)太平洋戦争に突入した。操業は困難となり、採取船は物資輸送船に転用され軍の徴用船となった。昭和20年(1945年)終戦とともに閉鎖、解体された。

 南洋群島の鰹鮪漁業は昭和6年(1931年)頃から次第に発展した。群島内の鰹漁業許可船数と水揚げ高は、

  年度    隻数   鰹水揚げ高
 昭和 6年   24隻   3000 M/T
    7年    63隻   5200 M/T
    8年   72隻   7300 M/T
    9年   78隻   9300 M/T

と漸増し鰹節は内外市場を支配するに至った。しかし小資本による企業併立のため、有力な資本的援助が要望された。南拓は水産業を南洋群島の基幹産業として重視し、南興水産の経営に参画することを進めた。

 同社は昭和6年(1931年)静岡県焼津の庵原市蔵氏が南方鰹鮪漁業を目的とする南洋水産企業組合を設立し、パラオのマラカル島に基地を設け操業を開始したことに始まる。当初経営は難航したが、南洋興発の傘下に入ることによって経営を軌道に乗せることができた。昭和10年(1935年)社長に松江春次氏、専務取締役に庵原市蔵氏が就任し、資本金120万円を以て鰹漁業、鰹節製造業、製氷冷蔵業を事業目的とした南興水産株式会社が設立された。パラオに本社を置き、サイパンついで翌昭和11年(1936年)にトラック島夏島、ポナペ島コロニアに営業所が開設された。事業の進展に伴い、資本金の増加が必要となった。南拓は増資新株式を引き受けることによって同社の経営権を取得した。新資本金は250万円となり、社長に杉田氏が就任した。管理課の仲間の橋本氏が同社の経理課長に出向した。

 私は昭和16年(1981年)3月にパラオ本店勤務となった。

 パラオへの航海は日本郵船の定期便で11日を要した。妻と生まれて間もない長男を連れて赴任した。船は直前の航海で本願寺の大谷光瑞さんが南方調査のため乗船されたためペンキを塗り替え改装されたばかりの山城丸で、ぴかぴかの一等A室での航海であった。

 波の高い八丈島沖を過ぎ南洋群島の最北端で噴煙をあげるウラカスを望み、窓をかすめ飛ぶトビウオを眺めながらの約1000浬(かいり)の航程である。サイパン、ヤップを経てパラオ、マラカル島の波止場に第一歩を印した。

 波止場には数隻のダイバーボートが繋留されていた。アラバケツの建築後間もない南拓社員社宅に落ち着いた。この社宅から林を抜けて岩山湾に出ると、御木本真珠の真珠養殖場があった。ここでは黒蝶貝を母貝とする真珠養殖が行われていた。私が旧制佐賀高校にいたとき、同じ下宿で暮らした小川平二さんの弟の平三さんがパラオで白蝶貝養殖に成功していた。真珠貝養殖はヤルートでも行われていた。

 南興水産は昭和14年(1939年)頃から鰹漁業とともに鮪漁業へ進出した。パラオに鮪缶詰工場を設置し、鮪油漬缶詰がアメリカへ輸出された。更に冷凍鮪のアメリカ向け輸出のためパラオ、トラックの鮪延縄(まぐろはえなわ)専用船の建造、製氷冷凍冷蔵工場の拡充、冷蔵運搬船の建造等が行われた。

 杉田社長が退任され、冷凍冷蔵事業に経験豊富な加藤重治氏が就任された。太平洋戦争の勃発とともに事業計画は転換を余儀なくされた。次第に操業困難となり、総力を挙げて軍への協力体制へと転換し、群島内の冷凍冷蔵設備も軍の徴用となり、船舶の殆どは食糧の生産と輸送に当たった。昭和17年(1942年)ラバウル、アンボン基地にパラオ、トラックの所属船を派遣すると同時に製氷、冷蔵工場の建設に着工。更に、フィリピン、マニラ、ダバオ、マノクワリなどへ進出した。資本金も昭和18年(1943年)2000万円に増資したが、戦局の推移とともに各基地はその機能を失った。

 私は昭和16年(1936年)11月再び東京事務所勤務となった。帰国の船はサイパン丸で、船室は船底の船客雑居の特3であった。グアム沖を通過するとき、灯火管制、避難演習が行われた。11月30日横浜港へ着いた。12月8日、日本海軍はハワイ港を空襲した。

 再び東京事務所管理課に着任したが、戦局の激化とともに東京事務所も丸の内興銀ビルから新に買収した渋谷区穏田の結婚式場蓬莱殿へ、更に山梨県穴山の民家を借り受けた事務所へと移転した。

 昭和20年(1945年)8月、南拓大志摩社長が退任し、下田前理事が社長に就任した。終戦により9月30日付け連合国最高司令官の閉鎖命令によって南拓は閉鎖され、閉鎖機関保管人委員会の管理下に置かれた。

 下田社長は南興水産の社名を大和漁業株式会社と改め、内地に保有する鮪漁船その他の設備機材を活用して漁業の継続を企図したが、南拓の閉鎖機関指定に伴い、南興水産も閉鎖された。南拓関係会社の整理担当は相川貞吉氏であった。私は相川さんとともに新橋の三鉱館の事務所で整理に当たった。

 昭和21年(1946年)10月大和漁業の資産は処分されることとなり、競売により日本漁業株式会社に引き継がれた。しかし業績不振で昭和24年(1949年)解散した。

 南洋群島は終戦とともに30年間の日本の委任統治を離れてアメリカを施政権者とする国際連合の信託統治領となった。しかし信託統治協定の精神は、できるだけ早く非植民地化の方向に進め自立させることであった。アメリカは15年間財政援助する代わりに外交権の一部と防衛権はアメリカに任せる、内政はそれぞれの政府が行う、期間経過後はそれぞれの意思によって廃棄または継続することができるという政治形態であった。北マリアナはアメリカへの永久帰属、コモンウェルスの道を選び、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦は既に協定締結後15年を経過し、パラオも平成21年(2009年)に協定期間を終了する。いずれも経済的自立の目途は立っていない。マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦はアメリカと財政的支援を含む協定継続交渉を行っている。パラオも同じ道を辿るものと思われる。

 漁業に就いては漁村開発や機材の供与等また日本の無償資金協力が行われている。漁業は自給自足の手段として、また商業的活動として不可欠である。

 沿岸漁業としては12海里以内の乱獲を制限することによる資源保護と、沖合漁業においても200海里排他的経済水域での外国船漁業に対し、入漁料徴収等乱獲の防止と公正な利益分配のための措置がとられている。日本の漁業にとって南方海域は鰹鮪その他の漁場であるが入漁の制限や期間の短縮等は操業に少なからざる制約を与えている。南アフリカも水産資源保護を理由に本年2月以降、南アフリカの経済水域内での日本船籍の鮪船の操業を禁止することが報ぜられている。日本漁船は別の漁場確保を迫られることになる。遠洋の延縄漁業は日本の漁船にとって、操業期間確保のためにも重要な漁場である。ミクロネシアの漁業発展の可能性として合弁事業や地域協定がある。ミクロネシア連邦とマーシャル諸島共和国は漁船を持ち、直接または合弁事業として鮪漁業に参加している。しかし経済環境の近代化とグローバル経済の渦中で弱小な資本力、技術力では産業としては追い込まれざるを得ない。オーストラリアは水産資源保護のため、ニュージーランドも魚族の生態系が崩れる等の理由でそれぞれの経済水域内での漁業を制限している。海水温の変化で日本近海では鮪と鯖が15年から25年前の100分の1に激減したことが報ぜられている。ミクロネシア各国も広大な海に小さな島々が点在している状況では、自国の市場は狭小で主要な市場から遠く離れ、水産業の成立は困難である。

 ミクロネシア各国は一応政治的独立を達成したが、政府の運営や経済開発はアメリカ、日本に依存しているのが現状である。長い政治的混迷から脱してようやく勝ち取った独立を確かなものにするために、協定資金の積み立てによって作られた信託基金と観光資源の開発、水産業、農業関係の発展推進を心から願うものである。  
 
参考資料
 『南拓誌』南拓会
 『南興水産の足跡』南水会
  南洋水産叢書第二輯『南洋群島の水産』南洋水産協会
  南洋水産叢書第八輯海洋学上より観たる『南洋群島の水産』南洋水産協会 
 『日本統治下ミクロネシア文献目録』山口洋兒編著