PACIFIC WAY

     
     天皇陛下とミクロネシア
 
 

小 林 泉( こばやし いずみ )


幻の太平洋諸島訪問
 「両陛下の太平洋諸島訪問は中止」という政府発表の小さな記事が新聞各紙に載ったのは、昨年12月6日。この記事には、多くの関係者が落胆した。島々には、陛下の訪問を心待ちにしていた人たちが沢山いたからである。がっかりする島の人たちの顔が、次々と私の脳裏に浮かんでは消えた。旧南洋群島、いまのミクロネシアには、とりわけ高齢世代には、日本贔屓が多いし日本人の血を引く人たちも少なくない。そんな彼らの思いを知っていただけに、私自身も残念でならなかった。だが、私の憂いをいくらかでも払拭してくれたのが、ミクロネシア連邦のフリッツ駐日公使の言葉だった。彼は「悪い結果だけではない。天皇の意志がはっきり確認できたし、島側に不足する訪問条件もはっきりした。これで受け入れの具体的目標ができた」と今後に繋げる冷静な反応を示してくれたからである。

 かつて日本は、台湾、朝鮮、南洋群島などの海外領土を保有し、皇民化教育を進めた。その歴史が、戦後の日本の対外関係や旧被統治地域の社会に少なからず影響を及ぼしてきたのは周知の事実である。それが戦後半世紀を過ぎて今なお、天皇による「過去の清算」といった議論が浮上する理由の一つになっている。当然のこと、国際法上の観点でみればすでに決着ずみの過去の話であり、今さら国家としての清算義務云々といった議論に組みする必要は認められない。しかし、これを政治上の問題として捉えるならば、天皇の旧日本領訪問は様々な意味で意義深い外交的行為になると私は考えている。そうはいっても、朝鮮、台湾は分裂国家になっていて、現状で天皇が訪問できる政治環境は整っていない。ならば、残る地域はミクロネシアだけだ。訪問中止がいかにも残念な理由は、ここにある。

殿下と子供たちの出会い
 天皇の旧統治地域訪問は、対ミクロネシア外交にとってきわめて有意義である。しかし、そもそもこの計画は天皇陛下ご自身の訪問希望から始まったもので、日本政府による政治外交的見地からの発想ではなかっただろう。陛下のミクロネシアへの思いを若干なりとも知る私には、そのように確信できる。

 それは1979年のことである。私は、交流事業でポンペイから招いた小中学生52名を引率して、東宮御所を訪問した。当時皇太子であられた陛下は、子供たちを歓迎するお言葉の中で、「小学校の教科書には『トラック島便り』というのがあって、それを読んだ私はいつか南の島に行ってみたいと思うようになっておりましたので、皆さんにお会いするのがとても楽しみでした」とおっしゃった。また、引率リーダの一人として参加していた留学生が付けていたネームプレートに目を留めて、次のような会話を交わされた。
「ナカヤマさん? 日本人の名前ではありませんか」
「はい、私はトラック出身で、父は日系二世、祖父は神奈川出身の日本人です」
「そうですか、お父様は今どこで、なにをされておられるのでしょう ?」
「はい、父は今大統領をしております」
「ほう、日系人の大統領ですか。お父様にも是非お会いしたいものです」

 留学生は、ミクロネシア連邦の初代大統領トシヲ・ナカヤマ氏の長女ローズマリーである。当時はまだ自治政府時代ではあったが、トラック諸島出身の日系大統領と聞いて、たいそう興味を引かれたようであった。このことは、後ほどはっきりと証明されることになる。

 殿下、妃殿下との懇談は、パーティー形式で麦茶と和菓子の持てなしを受けながら30分程度行われた。子供たちの服装は、そろいのTシャツにゴム草履、引率の大人たちも同じTシャツ姿。このような格好の外国の子供たちに、自由な雰囲気の中で両殿下と懇談できる機会が与えられることなど、それ以前には例がなかったはずだ。それが実現できたのは、殿下ご自身のミクロネシアへの思いが働いていたからなのである。
 
皇居見学がないのは何事だ  
 そもそも子供たちによる御所訪問のきっかけは、こうである。私は1974年に設立された社団法人日本ミクロネシア協会(太平洋諸島地域研究所の前身)の事務局長として、日本とミクロネシアとの子供相互交流事業を実施した。日本航空からチャーターしたボーイング727で日本から約100名の子供たちをミクロネシアに運び、その復路に訪問地の子供たちを連れ帰るというプログラムである。これはパラオに始まり、次年はトラック、そして北マリアナ、ポンペイと、4地区を相手地にしてローティションで巡り、結局13年間続く事業となった。

 第一回目の交流では、パラオの子供たちが日本での10日ほどの日程を様々に過ごしたが、東京でのスケジュールも盛りだくさんだった。地下鉄試乗、高層ビル、遊園地、アイススケート等々を体験し、大いに満足したのである。子供たちは島に帰ると、とりわけ日本時代を経験してきたお祖父さん、お祖母さん世代の注目を浴び、日本についてあれこれと質問されては得意げに報告する仕事が続いた。ところが、数カ月たってパラオを訪問した私は、意外な不評を耳にする。子供たちの多くが、「東京を訪問して皇居を見てこないとは、何んたることか」と祖父母世代に叱られてしまったというのだ。日本とミクロネシアの将来の関係を築き上げていくための子供交流なのだから、できるだけ過去の出来事にとらわれたくないと私は考えていた。皇居を東京見学コースに入れなかったのも、そんな考えの反映だったのである。だが、これはまずいかな、と思うようになった。子供たちは前世代からの連続的存在であるし、子供を通して親、祖父母の世代に交流の輪を広げようというプログラムなのだから、できるだけ過去を含めて日本のありのままを見せてあげた方が良いのかもしれない。

 そこで、二年目からは見学コースに皇居を加えた。さらに、「外から見るだけでなく、中に入ることができたら凄いなぁ」と思ってしまったのだ。天皇は無理でも、皇太子なら可能性があるかもしれない、そう考えて外務省に相談した。だが、担当官は好意的に対応してくれたものの、結果についてはいかにも悲観的だった。独立国でないミクロネシアとは直接的な外交関係がないうえに、こちらで決めた日程に殿下の都合を合わせることなど全くの前例がないからだ。そもそも、殿下にお会いいただく理由も希薄である。そして、やはり私たちの願いは実らなかった。

 それからだいぶたって、ある方に子供交流の話をしたことがある。すると、「そりゃあ君、外務省や宮内庁にお願いしたって駄目だ。役所は会う理由、必要性で判断するんだから。これが実現するか否かは、殿下のお気持ち次第だね、私が打診してあげよう」とその方は言った。私は社交上、「お願いします」と応えておいたが、そんな話を信じたわけではない。ところが、それからしばらくして「子供たちが殿下に会えるかもしれないから、書類を作って持参するように」と外務省から連絡が来たのである。第4回目の交流事業で来日したポンペイからの子供たち総勢52名が、東宮御所の「檜の間」で皇太子殿下、妃殿下にお目にかかったのは、それから2カ月ほど後の1979年8月6日午後2時であった。

 その後に続いた子供交流でも、1983年、84年、87年に御所訪問が実現した。日程さえ殿下のご都合に合わせれば、毎年でも受け入れていただけたが、残念ながらこちら側の事情でそれができなかったのである。それでも御所側の最大限の便宜で4回の訪問が実現し、合計351名のミクロネシア人が両殿下にお会いできたのである。

午後のお茶に招かれた大統領
 二度目の御所訪問から数カ月ほど経った頃、ミクロネシア連邦のナカヤマ大統領から電話があった。皇太子殿下を表敬訪問したいので、よろしく頼むと言うのだ。私は早速外務省の担当課にボールを投げた。信託統治下だから、自治政府と日本政府との正式な外交ルートはアメリカ政府を通じて行うが、それほど厳密ではない案件での接触は、外務省の認可団体である日本ミクロネシア協会が窓口となって外務省に繋ぐという便宜がとられていたからである。だが、短い検討の後、会談のセットはできなかったとの返事が届いた。殿下の日程が詰まっていて時間がとれないというのが表向きの理由だったが、本当のところは子供の時と同じであっただろう。「外交関係のない自治政府の大統領だから、我々としても強くプッシュできなくて」と担当官もすまな気な顔をした。

 そこで私は、ためらいなく子供の訪問に際して何度か面識ができた東宮御所の侍従をお訪ねし、こうお願いしたのである。

 「79年に御所訪問が許された際、殿下はローズマリーとの会話で、日系大統領である貴女のお父様にもお会いしたい、とおっしゃいました。横で聞いていた私とローズマリーは、そのことを大統領に報告したところ、たいそう喜ばれました。そしてこの度、是非殿下にお目にかかれる機会を作って欲しいと言ってきたのです。大統領は独立を目指している国家を代表して殿下にお会いし、その光栄を国民に報告したいと願っています。こうした大統領の思いと、子供たちへのご配慮に対する感謝の気持ちを、どうぞ殿下に直接お伝えいただきたい」。

 私の作戦は的中した。外務省から「殿下はナカヤマ大統領にお会いします」と連絡が入ったのである。担当官は、「ところで、小林さんは何か皇室との関係があるんですか? 宮内庁によれば、殿下ご自身から表敬訪問の申し出を受けるように指示があったようです」と、いささかとまどった様子が電話口から伺えた。記憶によれば、この知らせは、私の侍従訪問からそれほど時間が経っていなかったように思う。こうして1984年5月15日、東宮御所において皇太子殿下、妃殿下とナカヤマ大統領ご夫妻の対面が現実のものとなった。両殿下は私的にお客様を午後のお茶に招くという形で、自治政府大統領の希望を叶えてくださったのである。

 私は、このような関わりの中で、時には陛下自らのお言葉から、あるいは侍従の方々に伺った話から、今上天皇のミクロネシアへの思いの一端を知ることになった。小学生時代に子供らしい夢をトラック諸島に馳せたこと、南洋群島が天皇の名の下に約30年間にわたり日本に統治されたこと、島々には日本人の血を引く日系人が2割ほどいて、独立後も日本名の大統領が複数誕生していること、日本語を話し天皇を今でも自分たちの天皇だと思っている人たちが残っていること等々、陛下にはミクロネシアに対する普通の人としての南への憧れ、そして歴史を背負った天皇というお立場からの思いが、様々に重なっておられるのではないか。それ以上は、私には想像すらできない。だが、前例を無視した私たちの申し出に、再三応えていただけた事実に、陛下のミクロネシアに対する特別な思いを察することができるのである。
 
思い込みで知る訪問計画
 2003年3月、国会議員に当選したミクロネシア連邦駐日大使のアリック氏は、私への離日挨拶で、「今度、日本との関係で私が議員としてやるべき仕事は、天皇のミクロネシア訪問を実現させることです。協力してくださいね」と言った。「えぇ!」と私は驚いて、「皇太子ならともかく、天皇は難しいかもね」と答えた。だが実は、その数カ月前から政府は、天皇のミクロネシア訪問を検討しはじめており、ちょうどその頃、外務省の高官がミクロネシアの訪問予定地を視察に訪れていた。何も知らないアリック大使と私は、天皇のミクロネシア訪問に関する夢を語り合っていたのである。

 しかし、天皇の訪問計画は、その後まもなくミクロネシアの側から伝わった。チューク(トラック)州の日系大酋長ススム・アイザワ氏が「天皇陛下がミクロネシアを訪問するから、日系人を中心にして歓迎の準備を進める」と言ってきたのだ。これでアリック大使の話に合点がいった。私は、事の真偽を確かめるため、ミクロネシアから帰国した外務省高官に尋ねた。すると、「何も決まっていません」と言うのである。「そんなはずはない。貴方はトラックのアイザワ氏に、訪問計画を話されたでしょう。そのため、ミクロネシアでは多くの人の知るところとなり、既に歓迎を巡る様々な動きが起こりつつあるのです」と私は追及した。

 天皇の外遊に関しては、周到な計画の上に、最終的には閣議決定されてはじめて正式な計画となる。しかし、ここまで知られてしまったからには、相手諸国への外交的配慮の上からも、現状をきちんと報告した方が得策だと私は考えたのである。というのも、ミクロネシア諸国側では天皇歓迎を大前提に、自分たちが知らないところで交通、宿泊、治安警備状況等々の現地調査が行われ、訪問できるか否かを決められたら困ると心配していたからだ。仮に、宿泊設備が不十分というのならば新たに建設もするし、警備に不安があるのなら改善の用意もある。それら受け入れ準備のためにも、詳細計画や施設等の要求水準を知りたがっていたのである。

 ミクロネシアに起きている騒ぎの報告を聞いて、「そこまで知っているのならば」と外務高官は口を開いた。天皇のご訪問自体は本来極秘にする事項ではないが、検討の末に諸事情で訪問が難しいとの結論もあり得るし、途中で雑音が入りすぎて可能性の幅が狭められては困る。つまり、まだ訪問計画を公表できる段階にはないが、「実現に向けて最大限の努力をしていることは、理解いただきたい」と言った。さらに、「確かにアイザワ氏をお訪ねしたが、天皇のご訪問計画に関しては一切は話していないので、どこから情報が出たのかが不思議です」と付け加えた。そんなこと言ったって、ミクロネシア側から出た最初の情報はアイザワ氏なのだから、と私は思った。ところが外務高官は、ほんとうに嘘を言っていなかったのである。その後すぐに、アイザワ氏の強い思い込みと直感から始まっていたことが判明したのだ。

 ともあれ、政府が天皇のミクロネシア訪問を前向きに検討している事実を確認した私は、計画検討の進行事情や計画骨子をミクロネシア連邦のフリッツ公使に情報として伝えた。責任の生じる役人が報告できる段階にないというのなら、民間人である私が情報提供という形で実情を伝えればいい。不確かな情報による島側の疑心暗鬼や不安を払拭するには、正しい情報の提供がもっとも効果的だからである。

 しかし、この新情報に誰よりも驚いたのは、意外にもあのアイザワ氏。訪問計画が具体的に検討されている事実を知らなかったのである。なんということだろう。では、アイザワ氏の発言は何だったのか?
 
アイザワ酋長の確信
 信託統治領ミクロネシアは、一つのアメリカ自治領(北マリアナ諸島)と三つの共和国に分裂して信託統治を終了させた。そして1999年には、パラオ共和国からクニオ・ナカムラ大統領、2001年にはミクロネシア連邦からレオ・ファルカム大統領、2003年にはマーシャル諸島共和国からケサイ・ノート大統領が日本を公式訪問し、それぞれ天皇陛下と会談した。アイザワ氏も01年のファルカム大統領の来日時に、伝統大酋長の肩書きで同行し、陛下との会談にも加わっている。同氏によれば、陛下はとりわけトラック諸島に興味を持たれ、島々に日系人がどのくらいの割合でいるのかを何度もお尋ねになった。そして、元気なうちに行ってみたいと話されたという。これを聞いたアイザワ氏は感激し、その話しぶりから数年以内に必ずミクロネシアを訪問くださると確信した。だから、外務高官の訪問を受けた折り、計画には何も触れられなかったものの、天皇訪問が近いことを直感し、その確信をいっそう深めたのだろう。そこで、歓迎受け入れ準備を始めるため、国内のしかるべき人物に天皇の来島を知らせたというわけである。ところが、来島は2年か3年後だろうと思いこんでいたから、具体的に検討されている時期が1年の猶予もない04年の2月か3月であると聞いて、仰天してしまったのだ。

 アイザワ氏の日本名は「相沢進」、オールド野球フアンの間では有名な人物である。1930年、神奈川県出身の庄太郎氏とトラック諸島トール島の酋長の娘リサさんとの間に生まれた日系二世で、母系制社会ゆえに、将来の酋長になるべく育てられた。だが、太平洋戦争の開戦で日本に返されて、1942年〜58まで日本に滞在、その間に湘南高校を卒業した後、当時の高橋ユニオンズ(現ロッテ・オリオンズ)にスカウトされてプロ野球の投手になった。選手寿命は3年と短かったが、あのスタルヒンが300勝を上げた記念すべき試合に先発出場し、勝ち試合をスタルヒンにプレゼントしたというエピソードの持ち主である。引退後はトラック諸島に戻り、事業家として貿易や地元経済の発展に牽引的役割を果たしてきた。一方、大酋長としても社会開発や日本との交流事業に尽力するミクロネシアを代表するリーダーの一人である。

 そのアイザワ氏が70歳を過ぎた残りの人生すべてをかけて、天皇陛下をお迎えしようと心に決めた。いま彼の手で、ミクロネシア日本親善協会の設立準備が進み、日系人の実数調査も始められているが、これらはみな歓迎準備の一環なのである。島々でこんな動きが始まっているのだから、やはり隠す必要のない情報はミクロネシア側に提供しておくべきだと私は思った。
 
ないはずの訪問計画が中止
 そして遂に2003年6月25日、読売新聞と英字紙ディリーヨミウリに「両陛下、太平洋諸島ご訪問」という記事が載ったのである。天皇、皇后両陛下は来年2月末から3月にかけて10日ほどの日程で、太平洋諸島のマーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオの三カ国を、初めて公式に訪問される。両陛下は、サイパンなどに立ち寄った後、マーシャル諸島、ミクロネシア、パラオの順にご訪問し、パラオでは、戦没者慰霊碑への供花も検討されているとある。

 ようやく政府も発表できる段階になったかと喜んだ私は、外務省に新聞記事を確認する問い合わせをした。すると、「新聞は政府発表の記事ではなく、今のところそのような計画はありません」といつもの答えが返ってきたのである。確かに報道は一紙だけで、読売新聞のスクープだったようだが、これだけ詳細な内容なのだから、宮内庁か外務省の関係者が意図的に漏らしたのではないか。閣議決定前に公式発表はできないが、計画概要は知らせておいた方がよい時期だと判断したのかもしれない。しかし、そうではないとすれば・・・・・、私はすぐさま、あの外務高官に連絡を入れた。私自身が情報漏洩者だと疑られては困るからだ。

 ともあれ、英字新聞に載ったこともあって、天皇訪問のニュースはその日のうちに訪問予定地のすべてに広がった。新聞を発刊しているサイパンでは、地元紙にも大きく報じられた。こうして、天皇陛下のミクロネシア訪問計画は、誰もが知ることとなったのである。ミクロネシア連邦ではアイザワ氏の動きが活発化し、パラオでは大統領府に歓迎準備室が設置され、マーシャルでも日本への公式訪問から帰国したばかりのノート大統領が歓迎の陣頭指揮をとると宣言した。このように、ミクロネシア全域に天皇陛下歓迎の機運が広がっていった。

 これら状況を見た政府は、訪問計画を検討中であることを実務レベルで相手諸国に伝えた。これで相手方の歓迎姿勢を正式に確認できたものの、それとは別に、交通事情、通信網、宿泊施設、安全警備等々の諸問題については、いまだ未解決のままであった。

 両陛下がご訪問するとなると、通常の外遊では随員、随行記者団、現地大使館員などを含めて総勢100名にも達する。これら大人数に対応できる宿泊施設はもちろん、随行マスコミが使用する通信施設の確保など、ふつうの旅行団では要求されないような準備さえも求められるのである。これら条件を地元の施設だけで満たすとすれば、訪問できる島は自ずと限られてしまうし、不足施設・設備を持ち込むとなると莫大な費用とともに、親善訪問の意義さえも問われることになる。こうして様々な可能性の検討が続いた。外務省が計画の存在自体を軽々に公表できなかったのは、こうした事情を抱えていたからであった。

 そして結局、政府は計画の中止を発表した。現地視察を踏まえ、宮内庁と警視庁は、サイパン、パラオの訪問は可能、他の地域は難しいとの結論を出したらしい。だが、陛下のお気持ち、そして外交的見地にたてば、ミクロネシア連邦とマーシャル諸島を外すことはできない。限られた島だけの訪問では、この計画の意義そのものを失うし、ミクロネシア三国に与える負の影響も大きいからである。結局のところ政府は、正式にはなかったはずの「天皇の訪問計画」の中止を、公表しなければならなくなった。苦渋の決断ではあったろう。だが、オール・オア・ナッシングという選択は、きわめて妥当な結末でもあった。

今後に期待をもてるお言葉
 12月23日は天皇誕生日である。皇居ではこの日に駐日大使を招き、陛下と歓談するのが恒例となっている。この日はミクロネシア三国から、マーシャルのカブア大使、ミクロネシア連邦のフリッツ臨時代理大使、パラオのアデルバイ臨時代理大使が出席していた。3人はそろって陛下の前に進み出て誕生日の祝賀をした後、ミクロネシア訪問が中止になって遺憾に思う気持ちをお伝えしたという。すると陛下は「皆の努力が実らずに大変残念な結果だったが、いずれこの計画が実現することを強く願っております」と答えられたそうだ。

 三国の大使らは、陛下のお言葉を聞いて今後に期待をもった。不足条件さえ整えていけば、きっと陛下の島訪問は実現できるはずであると。ミクロネシアには、陛下の来島を心待ちにしていた沢山の方々がいる。計画実現の思いを込めて、様々に尽力した方々がいる。それゆえ、この度の結果はいかにも無念であった。とはいえ私は、なによりも一番残念に思われているのは、陛下ご自身であるように思えてならないのである。

 ならば、日本とミクロネシアの双方で、速やかに天皇訪問のための障害を取り除くべく努めていかなければならないだろう。陛下のご年齢やご健康を考えるならば、それほど先延ばしにはできないし、日本統治を経験したミクロネシアの方々も高齢化が進んでいるからだ。

 それにしても天皇の訪問を阻む障害の除去は、それほど難しい仕事ではないと私は思っている。ほとんどが、施設や設備といった物理的なものに起因する障害であって、ややこしい政治上の問題や歴史文化的な懸案事項が存在しているわけではないからだ。そしてなによりも、送り出す側と受け入れる側の誰もが希望する計画が、実現しないとしたら、こんなおかしなことはないからである。両陛下の太平洋諸島訪問計画は、まだ消滅してはいないのだ。                                                       

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