PACIFIC WAY
   ソロモン諸島紛争の一断面
          −ハロルド・ケケを巡って−                        
   岩 田 哲 弥 (いわた てつや)(1)


1.はじめに
 2003年8月10日、ソロモン諸島国内で約5年間続いていた武力抗争の主要グループ・リーダーであるハロルド・ケケ(Harold Keke)が、同国ケマケザ首相特使である日系議員Y・サトー(Y.Sato)の説得に応じ、停戦に同意、武装解除の上投降した。
 
これにより、ハロルド・ケケが率いていた武装グループ「ガダルカナル・リべレーション・フロント(Guadalcanal Liberation Front:GLF)(2)」と抗争を繰り返してきたもう一方のグループである「マライタ・イーグル・フォース(Malaita Eagle Force:MEF)」も武装を続ける主な理由が消滅した。実際に後日、MEFも武装を解除することとなった。この双方の武装グループの武装解除は、同国内政の節目を意味し、次の段階がはじまったということができる。

 現在、ハロルド・ケケは身柄を拘束され、取調べを受けている。年内(2004年)にはコモンウェルス諸国の判事で構成される裁判が予定されているので、ハロルド・ケケの生命・身体が保護されている限り、一連の紛争の事実関係が徐々に明らかになっていく筈である。裁判の過程で、更にスキャンダラスな事実関係が明らかにされる可能性は排除し得ず、同国の復興・発展には紆余曲折があることは容易に想像できるが、今後の更なる発展のためには、事実を事実として明確にしていくことが不可欠である。

 そこで本稿では、紛争の主要グループのリーダーであったハロルド・ケケに焦点を当てて、紛争の経過を辿ってみたい。というのも、今回の紛争に関する一連の報道の中で、ハロルド・ケケに関する部分の事実関係には多くの不可解な点が感じられたからである。この疑問点を明確にするため、昨年10月と今年1月に訪日した上出のY・サトー議員に数回に亘ってインタビューを行い、それらを整理し本稿の基礎とした(3)。同議員は、ハロルド・ケケが投降に至るまで同人と水面下で交渉をつづけ、最終局面では同国首相特使に任命されて、上記の通り無血武装解除と投降を成功させた人物である。また同氏は、紛争終結へ向けた交渉過程においても、地域平和維持軍に1500人規模の部隊を派遣したオーストラリア(以下「豪州」と略)のダウナー外相等と何度となく直接会談を行っている。

 なお、本稿はハロルド・ケケに焦点を当てて論じるため、関係当事者にとって表現に不足な部分が出る可能性がある。筆者の意図するところは、一定の人物・グループを善悪で色分けすることではなく、今後の紛争解決→平和構築→生活の安全に伴う国の発展を願う者として、事実関係とその背景を明確にしておきたいところにあるので、予めお断り申し上げておきたい。

 
2.ハロルド・ケケに関する不可解な取扱い
(1)外国報道機関
 2003年に入って、筆者は紛争の中心的人物でもあるハロルド・ケケの行動に関する報道情報に疑問を持ちはじめた。それは、情報入手ソースである外国報道機関等のホームページ(4)における取材記事に偏りを感じはじめたことによる。ある時点から、取材記事の内容が、ハロルド・ケケ側から受けた政府・一般民衆等の被害部分のみを取り上げて報じる傾向が強くなったのである。戦闘行為の部分のみならず政治的側面においても、2000年10月の「タウンズビル和平協定(5)」への署名をハロルド・ケケが拒否したという結果のみを殊更に取り上げ、(関係者の発言も含め)ハロルド・ケケ側が和平を望んでいないが如き記事も多くなっていった。

 ハロルド・ケケが同協定への署名を拒否した理由は、協定に主張が反映されておらず、しかも協定文の作成過程にも問題点があった(詳細は後述)ことによるためで、和平を望んでいなかったわけではない。筆者は、作為か不作為かはわからないが、こうした背後関係への配慮が欠落した報道が続き、筆者は「ハロルド・ケケ=極悪人」のイメージが出来上がっていく印象を受けた。勿論、ハロルド・ケケ自身が、抜いてはならない刃を抜き、切りつけてしまったことは事実である。これまで全て正しい行動をしてきたか否かという問いには、明らかに「否」と答えるしかないのだが、一連の報道記事から浮かび上がるハロルド・ケケ像は、長い武力紛争の間に心が荒み、当初の大義・精神を忘れた上に人格・性格も変わり果て、「カリスマ的リーダー」から「極悪非道の独裁者」に変貌を遂げてしまった人物という印象しか受けない。
 ハロルド・ケケに関する外国報道機関の報道に一定期間偏りがあったと確信を深めたのは、皮肉なことに、8月10日の投降劇報道であった。なぜなら、ハロルド・ケケという人物が、ソロモン諸島国という国の行く末を全く考えない自己中心的な人物に変貌し、報道でのイメージの如く「独裁者」か「本当の悪人」となっているのであれば、Y・サトー首相特使の説得に応じるはずはなく、投降せずに徹底抗戦することが十分に可能な状況であったからである。投降に際しての交渉の裏側は現時点では明らかにされていないが、首相特使を人質に取ることも殺害することも可能であった。またY・サトー首相特使との信頼関係が構築されたていたとしても、投降すれば何者かによって殺されてしまう可能性も高い。仮に徹底抗戦した場合には、最終的な結果は別としても、豪州・ニュージーランド等を主体とする地域平和維持軍(Regional Assistance Mission to Solomon Islands:RAMSI)も含め、更に相当数の死傷者が出ることは関係者なら容易に推測できる状況であったにもかかわらず、みすみす死地に向かうが如く投降したのはなぜなのだろうか。

(2)5年間の武力紛争における二つの事象:「武力抗争」と「クーデター」
 本来、「(武力を伴った)民族紛争」と「クーデター」は、因果関係があったとしても政治的には全く別のカテゴリーとして整理すべきものである。しかし、紛争が長期化し政府の統治能力が弱まっている場合や
、今回のソロモン諸島国の事例のように、クーデターを首謀した者が、政権のトップにつかない場合、曖昧に取り扱われることがある。

 ソロモン諸島国の事例を整理してみよう。
 まず「ソロモン諸島国の(民族)紛争」が「武力抗争」という形で表現される場合は、開始時期を 1998年12月10日に、IFMメンバーが、首都ホニアラが所在するガダルカナル島北西約40kmにあるセントラル州ヤンディナの警察署を襲撃し、保管されていた武器・小火器を奪取して「武力抗争」が開始された時点とし、終焉時期を2003年8月10日にGLF(6)リーダーのハロルド・ケケが武装解除し投降した時点、または、ハロルド・ケケのグループが武器を放棄した事実を確認した後にMEFが武装解除した時点を一応の節目として、この約5年程の期間を「武力抗争期間」と考えて大きな異論はないと思われる。

 この武力抗争の主要プレーヤーは、ハロルド・ケケ率いる武装集団とMEFである。約5年に亘る武力抗争の直接的発端原因は、ガダルカナル州アレブア知事の「土地問題」に関する発言と政治的ハンドリングが、過度にマライタ系住民とガダルカナル系住民を刺激したことにあるとされている。紛争の途中から武力紛争の表舞台に立たされたソロモン政府は、不作為による因果関係を含めれば無関係だとは言えないが、当初の武力抗争の主体ではなかった。

 一方、クーデターは、武力行為による政権奪取であり、ある種の革命である。つまり、政治的には単なる武力抗争・紛争とは違った重大な意味を持つ筈である。2000年6月5日にソロモン諸島国で発生したクーデターの首謀者は、マライタ島出身の元大蔵大臣アンドリュー・ノリ率いるMEFと警察部隊の一部であった。クーデターのターゲットとして拘束・拉致された首相(当時)は、ウルファアル首相(マライタ島出身)である。多くのクーデターの場合、クーデターを成功させた首謀者が、そのまま全てを掌握するトップの座につき、戒厳令を布くのであるが、何故かMEFのアルンドリュー・ノリは、その行動に出なかった。クーデターを起こす際の目的は「ウルファアル首相の退陣とガダルカナル紛争の打開」であったが、彼は政権につかぬまま、6月14日にウルファアル首相を退陣に追い込み、6月30日には国会を召集して、首相指名選挙においてソガワレ新首相を誕生させてしまう。非合法な形で政権を崩壊させ、不思議な形でクーデターを推移させたまま、約3週間で一応合法的な新政権を樹立させてしまったのである。

 何故ソロモン諸島国では、アンドリュー・ノリ率いるMEFのクーデター事件は重大事として大きく取り扱われず、ハロルド・ケケの関係する集団のみが悪として取り扱われているのか。また、ソガワレ新政権とMEFとは如何なる関係であったのか。
 この疑問について、Y・サトー議員は、次の要旨で回答してくれた。
 
「クーデター事件の発生した6月5日の数日前、当時まだ国会議員ではなかった私は、別件でウルファアル首相に食事に招かれたことがあった。その際、ブーゲンビル動乱の件、フィジーでジョージ・スペイトが起こしたクーデター事件の話をしつつ、ソロモンでの可能性についても意見交換をした。アンドリュー・ノリ達が、それに触発されて行動に出たのは間違いないと考えている」
「クーデターの重大性については、最近国内でも認識されるようになりつつある。自分自身もアンドリュー・ノリに対して、直接『何故クーデターを起こした時に、貴方が政権を取らなかったのか』という趣旨の話を聞いたことがある。この点については、今後裁判が進むにつれて明らかになってくることもあるのではないかと思う。ただ、彼の言動については、出身のマライタ島でも評判が悪く、その後立候補した国政選挙でも惨敗している。こうした動きを見る限りにおいて、マライタ島住民も背後関係をどの程度把握しているか個人差があるにせよ、概略状況は理解しているのだと思う」
「あまり報道はされていない事項かも知れないが、その年(2000年)の10月に署名された『タウンズビル和平協定』の草稿は、MEFのスポークスマンであったアンドリュー・ノリが作成したものである。それをソガワレ政権は殆ど修正せずに、つまりマライタ人に有利な形で合意文書として提示した。武力抗争が激化していたIFM(GRA)とMEFの和平合意文書の草稿が、MEF側のアンドリュー・ノリによって作成され、且つガダルカナル島住民に不利な内容の文書を突きつけられたのだ。ハロルド・ケケに『何故署名しないのか』と迫っても、サインできるだろうか。これは内容以前の問題である。この行為は、『我々の母なる土地の公正なる取扱いを望む』と主張し続けていたハロルド・ケケの態度を硬化させるのには十分だったと考える」

   
3.和平交渉に関するハロルド・ケケの動き
(1)紛争の推移とケケの動き
 1998年12月の紛争発生以降、2000年10月のタウンズビル協定を経て2003年8月のハロルド・ケケ投降に至るまでの間、武力紛争終結に向けた関係者の交渉は、断続的に行われていた。しかし紛争開始当初に和解を目指して行われた伝統的儀式に始まり、ハロルド・ケケ側は、本来関係者や当事者が調整した上で行われるべき手続きが必ずしもクリアされていなかったこともあって、一貫して和平拒否の姿勢を崩さなかった。

 紛争勃発から約1年後の2000年1月、マライタ側にMEFが結成され、IFMと同様、警察の武器保管倉庫を襲撃して武装した。この時期を境に「ガダルカナル系」対「マライタ系」の紛争は、「IFM」対「MEF」という組織的武装勢力同士の紛争に変化しはじめる。双方とも中央政府の動きには不満を持っていたが、補償問題等に関する対応の悪さから、特にMEFは中央政府との対立関係を深めていった。そしてついに同年6月、MEFアンドリュー・ノリを首謀者とするクーデターが発生して、その後約1ヶ月弱で新政府が誕生したのは上述の通りである。この時点を境にして、明らかにハロルド・ケケ側と新政府との関係は変化した。そして抗争は更に激化していった。

 こうした中で豪州政府は、武力紛争開始当初は事態収拾に向けたソロモン諸島政府側からの協力要請を断っていたものの、結果的には2回に亘って、豪州・ニュージーランドを中心とする近隣諸国で構成され、軍事力を伴う多国籍監視団を派遣して調停作業に乗り出した。

 一方ハロルド・ケケは、出身地域であるウェザー・コーストを拠点として闘争を続けていた。しかしハロルド・ケケは、武力闘争のみに明け暮れていたわけではなく、2003年8月に投降するまでの間、彼なりに事態収拾を模索していた(7)。その中には、正式に、ハロルド・ケケ側がソロモン政府に対して和平交渉を申し入れたものもあった。それが、2002年6月の「ミステリー・ワンウィーク」と呼ばれる時期である。またその後についても、今後の裁判の推移を見守る必要があるものの、ケケ自身が投降を決断するに至った点から考えても、事態収拾に向けての水面下での交渉が模索されていたものと思われる。
  
(2)2002年6月の不思議な1週間
 タウンズビル和平協定(その後の修正も加え)では、IFM及びMEFも含めたソロモン諸島国民が、2002年5月31日を期限として武器・小火器を放棄する届けを行い実行すれば、武器・小火器を所持していたことについては特赦を行うことが規定されていた。ハロルド・ケケは、同協定には署名していないが、彼もこの時期に武力抗争に終止符を打ちたいと考え、政府に対し具体的交渉行動に出ていた。

 この件については、ソロモン諸島国国会においても国際平和監視団(International Peace Monitoring Team:IPMT)との関係で “One Week’s Mystery” と称される質疑が行われている(8)。この質疑では、同年の国政選挙で選出されたY・サトー議員が主に質問に立って追及を行っている。そこで筆者は、本稿で公開することに了解を得た上で、筆者の持つ疑問点も含め、当事者である同議員に背景を含めてインタビューを行った。
 Y・サトー議員の語った内容を整理すると次の通りである。
    
「2002年6月4日付で、ハロルド・ケケから首相、私(Y・サトー)を含め、17名宛に招待状が送付されてきた。招待状の趣旨を一言で言えば『和平交渉の手打ちをしたい』ということである。具体的には、6月14日にウェザーコーストの指定地で会いたいということであった。ところが6月9日に突然、『ハロルド・ケケのところに10名が派遣され、現在消息不明』との断片的ニュースが伝えられた。私は、ケケに直ぐ会わなければならないと考え、政府関係者に話をしたが、彼らからは強く反対された。6月12日早朝、ホニアラから船で北西周りでウェザー・コーストに向かい、約4時間後に接岸して、昼頃約1時間ほどケケと会うことができた。この時私が現地に行った目的は2つあり、『派遣された10名』の消息確認と、ケケの和平交渉への意思確認であった」
「私の前に現れたケケは、今まで会ってきたケケと明らかに顔つきが違っていた。眼も血走っており、私は会った瞬間に何か異変が起きたのだと確信した。何が起こったのかと尋ねる私に、ケケはこう答えた。『6月7日に自分(ケケ)の暗殺を企てた10名の刺客が、ウェザー・コーストに潜入した。翌8日、まず自分の親族が殺されたが、その後我々と戦闘状態となり、結果的に刺客全員を返り討ちにした。これが同日14時頃のことだ』」
「私は、和平を望まない人々がいるということは感じており、悪い予感はしていた。しかし実際にケケに会うまで、刺客の件も含めてその前の4〜5日に現地で何が起きていたのかは知らなかった。私はケケに言って10名の所持していた武器を確認し、出所を明確にするため武器のIDを確認しようとしたが、IDは削りとられていた。刺客を放って生命を狙い、親族を殺害すれば、失敗した場合どのような状況になるか、刺客を放った側に判断できないわけはなかろう。しかし、ケケは依然として和平交渉を行う意思はあるという。私はケケの意思を確認した上で14日の交渉日を17日に変更することで合意し、同日(12日)夜にホニアラへ戻って政府側に報告した。ところが16日の夜、政府側は突然一方的に翌日の交渉をキャンセルしてしまった。何故か。私はその点も含め、背後にあるものを明確にする必要性を感じて、国会で取り上げたのだ」
 
 ここからは、2002年6月初旬にハロルド・ケケ側は和平交渉を望み、政府側が交渉の席に着くのを拒んだという事実が浮かび上がってくる。ただ政府側が、ケケのテリトリーに出向く危険性に配慮して、慎重な対応を行ったという見方もできるかもしれない。ケケと面識のあるY・サトー同議員でさえ、文字通り命懸けでの交渉に臨んでいるのである。好ましくないイメージだけを持っている者たちが、疑心暗鬼のまま会って協議に臨むのは大変なことである。同議員が追及した「更にその奥にあるもの」は今後の裁判の過程・結果を待つほかはない。
 
(3)2003年8月投降前後の動向
 2003年6月後半になると6月30日に控えた太平洋諸島フォーラム外相会議を前に、ソロモン諸島国国内紛争解決に向けて、PIF加盟各国の動きが活発になる。7月4日、ソロモン諸島政府は、閣議で豪州ハワード首相に対する協力要請書簡発出を合意、RAMSI派遣への動きも本格化する。

 この閣議のあった7月4日、Y・サトー議員は、前回と同じく船を使ってウェザー・コーストに向かい、ケケとの間で水面下での交渉を開始した。同議員によると、「最初は刺激しないよう、(ヘリではなく)片道4時間かけて船で現地に赴いてケケと話をした。地域の多くの人達とも集会を開いて意見交換をした。そして首相をはじめ関係者には、ケケも停戦を望んでおり、部隊を送り込んで武力による解決を図るのではなく、話し合いによって交渉を行うことを勧めた」という。

 同議員は、その後7月24日に再度船で現地を訪れ、以後ケケ投降前後8回に亘って(ヘリにて)現地を訪れて交渉を行った。

 さて、この交渉の中で、ウェザー・コーストの人々、更に限定して言えばケケの出身部族の人々はどのように対応したのだろうか。この点についてのY・サトー議員の説明を要約すると以下の通りである。
 
「ケケの部族長は、それまでも交渉の仲立ちをしたり、ケケの身を匿うような行動をしていた。具体的事実経過をひとつだけ紹介しよう。それはケケが投降を決断する直前の動きである。投降する3日前の8月7日、私はRAMSIの用意した軍用ヘリコプターでケケのところへ行った。時間・場所はケケと打ち合わせ済みである。ところがケケとその仲間たちはその場に現れなかった。そしてケケに代わって部族長が姿を見せ、ケケの懸念を私に語った。じつはこの時、RAMSIに対して過剰警備をしないよう要請していたのだが、私の身を案じたRAMSIサイドでは10名の兵士を同行させ、彼らが映画さながらに銃を構えて私の警護をしていたのだ。ケケの代理の部族長と話し合った私は、しきり直しにすることで合意し、その日は一旦ホニアラに戻った。翌8日、丸腰の私がヘリを降り、歩いてケケに会いに行くと、前日の部族長との約束通り、ケケが現れた。そしてケケたちと話し合いをし、ケケは捕虜の釈放と投降を決断した」
  
 部族長は、ケケの立場に立つ中で、Y・サトー議員とケケたちとの間を仲介したのである。


4.まとめ
(1)植民地支配を経験した独立国家の紛争解決・平和構築への世界的潮流
 近年、世界各地で国家体制崩壊に伴う紛争、または逆に民族・部族紛争に伴った国家体制崩壊が発生し、紛争によって破壊された社会・経済を復興させるために、「平和構築」というキーワードのもとに、国際機関及び関係各国が支援を行っている。

 では、これらの国家体制崩壊または国家崩壊が発生した原因は何であったのか。そのもともとの原因を探るためには、少なくとも現在の国家というものが成立する前から、その場所で生活していた住民の「国家」という概念に対する基本的考え方、捉え方、感じ方、そして国家が成立する過程にまで遡る必要がある。

 旧植民地から独立した国々は、国家の成立過程からみると、大きく二つのグループに分けることができる。第一のグループは、独立するための革命や闘争等を伴ったグループ、つまり血を流して自ら独立を勝ち取り国家を成立させたグループ。第二のグループは、旧宗主国側の事情も含め、何らかの事情で「国という器」、つまり国家という枠組みが与えられて、その中で独立した国家グループである。

 第二次世界大戦後に独立した太平洋島嶼国における「過去20年間に発生した紛争の共通点」として、2000年6月に開催された大洋州地域フォーラム安全保障委員会(FRSC)に提出した論文の中で、ロン・クロコーム博士は4つの要素を指摘している。それは、「1.民族的差異、2.土地問題、3.経済的格差、4.紛争を公平に満足いくように解決する政府能力への信頼の欠如。権力を持ったものは、政治腐敗か非効率のどちからに偏る。そのため、法は無視され、安全は破壊される」(9)という4点である。そしてソロモン諸島国で発生した「ガダルカナル紛争」もまさにこのカテゴリーに入るものとして位置づけられている。
 
(2)ソロモン諸島国
 本稿において論じたソロモン諸島国は、所謂「独立させられた国家グループ」として独立した結果、同博士が述べる要素を内在したまま、今日に至ってしまった。今回の紛争の中で、武力による解決を求めて「犯罪者」となってしまった人々や、紛争の過程で命を落とした人々に如何なる名誉/懲罰を与えるべきなのか。そしてソロモン諸島国の現状をどう捉えたら良いのだろうか。

 筆者もソロモン諸島国のこの紛争を、一括りに「国家崩壊」として理解しようとしたことがある。しかし、ソロモン諸島国の過去からの経緯を知るにつけ、必ずしも「国家崩壊」ではないかもしれないと考えるようになってきた。この紛争を「崩壊への過程」と考えるか、「飛躍への準備期間」と捉えるかは、つとにソロモンの人達の気持ちの持ち方によって決まるのではないだろうか。そして現実に「国家崩壊」と表現される側の人々は、外界から貼られたこのレッテルに、相当な心理的抵抗があるようである(10)。筆者は、ソロモン諸島国の現状を、人間の発達段階に置き換えれば、まさに思春期の段階であり、国内で様々な葛藤をしつつ、正に羽ばたこうとしていると思いたい。

 歴史的に見れば、わずか150年前の江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本においても、新しい国の有り様を巡って各地で多くの戦いが発生し、多くの血が流れた。幕府、薩摩・長州藩連合、そして新政府。ソロモンにも政府があり、GLF、MEFが出現した。異なるのはGLFとMEFが、未だお互いの過去を清算して利害を調整し、新しい国造りをしようという目標を共有していないところである。親族を殺された人々にとって、その事件を忘れることはできないだろう。その恩讐の念を正面からソロモンという国の政府が理解し、丁寧に解決することにより、今回の紛争で命を落としていった人々の死が無駄でなかったといえるようになるのではないかと考える。人々が武器を取ることなく、多くの痛みを乗り越えてもう一度 “Happy Isles”(11)と呼ばれる国を創造していくことを願ってやまない。そしてそのためには、今回、投降し逮捕されたハロルド・ケケから、彼の体験してきた事実関係を闇に葬ることなく余す所なく聴取し、同時に相反する立場の人々の声を聴取する必要性を強く感じている。ハロルド・ケケは時代が求めて生まれてきたのかもしれない。
 筆者のこの考えに、Y・サトー議員は次の通り結んでくれた。
 
「約5年間続いてきた国内の武力紛争により、ソロモンという国は計りしれない大きなダメージを受けてしまった。私達はこの哀しい事件のひとつひとつを忘れることなく教訓として今後に活かすことを考える必要がある。誤解を懼れずに言えば、大洋州地域で発生したクーデターは、ソロモンにしてもフィジーにしても、社会システムから落ちこぼれた人達の行動という共通点があったのではないかと思う。この点も胸に刻み、伝統と慣習、グローバル・スタンダード下の制度というどちらも捨象しえない現実の中で、如何に『法と秩序』を構築していくかが大きな課題である。ソロモンの人口の半分は、日本で云えば未だ中学生以下の年齢である。ソロモンという国が、将来、真の独立国となることができるよう頑張っていきたい。また、多くの日本人の方々にも理解してもらえるよう努力していきたい」
 
<付記>
  ソロモン初の日系国会議員であり、紛争終結と今後の国造りに向けて大きな役割を果たしているY・サトー議員には、昨年10月と本年1月の訪日中に、超多忙な日程の合間を縫ってインタビューに応じていただいた。本稿で初めて明かされた様々な真相はもっぱら同議員のご厚意によるものであるが、筆者の力不足でそのすべてを的確に表現できなかったかもしれない。失礼な質問や疑問に対しても、嫌な顔ひとつせず(寧ろニコニコと)丁寧に応じ、時に深夜まで計十数時間も筆者につきあって下さったY・サトー議員には心より御礼を申し上げたい。また同議員発言は筆者による要約であり、不適切な表現や誤った記述があった場合は、すべからく筆者の責任に帰すことを念のため申し添える。
(2004年1月脱稿)



(1)
岩田哲弥(いわた・てつや):当研究所会員。法政大学大学院修士課程終了(政治学専攻)。なお、本稿は筆者個人の見解であることを念のため申し添える。

(2)
この呼称は、ソロモン・スター紙がハロルド・ケケ率いるグループの正式名として用いているもの。1998年12月の武力抗争開始時には、「イサタンブ解放戦線」(通称IFM:Isatabu Freedom Movement)、或いは国内で一般に使用されているとして「ガダルカナル革命軍」(通称GRA:Guadalcanal Revolutional Army)をほぼ同義語として使用していた。外国報道機関のThe Australian紙をはじめとする各種報道機関等は現在も「GRA」を多用しているが、Y・サトーによれば、ケケのグループはGLFと表現するのが正確とのこと。

(3)
Y・サトー議員には、筆者が以前作成し用意した「ガダルカナル紛争にみる民族・部族紛争の背景と原因」(非公開)という400字詰め原稿用紙にして約70枚程度のものに目を通していただき、本論のたたき台とした。

(4)
ソロモン諸島放送協会(SIBC)のホームページ(http: /www.commerce.gov.sb/others/sibc_news_head lines.htm)、ラジオ・オーストラリアのホームページ(http: //www.abc.net.au/ra/solomons/newsrasi/ default.htm)等で確認可能。但し、時間的に古くなると削除されていく可能性はある。また筑波大学・関根久雄助教授ホームページ(http://member.social.tsukuba.ac.jp/sekine/)には、豪州をはじめとする各報道機関の報道内容要旨(2003年6月17日から7月19日まで)が簡潔に和文で整理されている。

(5)
正式英文名は“The Townsvill Peace Agreement” である。現在のところ和文定訳はないと思われるが、権利義務を伴う公文書では、“ Agreement”を一般に「協定」と訳すことから、本稿では「タウンズビル和平協定」とした。

(6)
IFM(別称GRA)はその後いくつかのグループに分派しており、GLFはその中のメイングループであった。

(7)
Y・サトー氏への聞き取りによる。

(8)
ソロモン諸島国国会審議議事録(速記録)は、同国会事務局にて有料で入手可能。

(9)
ロン・クロコーム(山枡加奈子訳)「太平洋安全保障の推進」(『パシフィック・ウェイ』通巻118号、2001年、18頁)、(社)太平洋諸島地域研究所。

(10)
Y・サトー議員によれば、2003年秋に開催されたソロモン諸島国に関する国際会議の席上、豪州大使が「ソロモン諸島国の国家崩壊」という趣旨の表現を使用した際、同国のノーラン・レニ大臣が「ソロモン諸島国は崩壊していない。国家崩壊という表現は当たらない」という趣旨で応酬した例もある由。

(11)
ギリシャ神話、ローマ神話に記された“the Isles of the Blessed (the islands of the Blessed)”「極楽島」は、世界の西の果てにある、善人や英雄が死後永遠に幸せに暮らす島である。スペイン人アルバロ・デ・メンダーニャは、大西洋から太平洋へ進む航路において西洋人として初めてソロモン諸島に到達した。そして旧約聖書に記されているソロモン王の宝物との関連を想い浮かべ、ソロモン諸島と名付けたという経緯があるだけに、この語には甘美な香りが含まれている。


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