PACIFIC WAY
  
     
太平洋の巨人・その足跡
      −
マラ自伝『パシフィック・ウェイ』を読む−                    
苫小牧駒澤大学教授
東 裕(ひがし ゆたか)


 太平洋の巨人、フィジーのラトゥ・サー・カミセセ・マラ(Ratu Sir Kamisese Mara)が、去る4月18日に83歳の生涯を終えた。その事跡については広く知られるところであり、本号の巻頭には小林泉氏の簡にして要を得た紹介が置かれている。その末尾に、フィジーの国民統合問題の解決には、マラの意思と思想を継承する指導者の出現を待つほかない、との言及がある。そしてそのためには、マラの政治的業績とその思想をもう一度検証、再認識することが大事であり、それがマラへの真の追悼になる、と結ばれている。

 筆者も、考えを同じくするものであり、かつて『パシフィック・ウェイ フィジー大統領回顧録』(慶應義塾大学出版会)を共に翻訳した者の一人として、その作業はこのマラ自伝を読むことから始まるとの思いを抱いてきた。そこで、この機に再びこの書を読み直し、マラのたどってきた足跡をたどるとともに、その中にちりばめられた思想の断片を拾い集めてみようと試みた。400頁に上る翻訳書を、著者の意図に即して的確に要約して紹介する才能は、筆者にない。

 以下に紹介するのは、あくまで筆者の目下の問題関心−国民統合と複数政党内閣問題−に即してこの自伝を読み、筆者の目に留まったマラの思想を表現する言葉の一端である。その意味で、マラの事跡を網羅的に紹介するものではないし、拾い上げた事実や言葉に偏りがあることはお許しいただきたい。そうであっても、マラの政治的業績とその思想の核心への接近を図ろうとするとき、一つの筋道を提供する程度の意義はある、と思う。
 
 
1.生い立ちと教育
 
 1920年、カミセセ・マラは、フィジーのラウ諸島の主要島であるラケンバ島の北、ヴァヌアンバラヴ島の南東端にあるロマロマ島に生まれ、ラケンバ島で育った。酋長家に生まれ、幼少より常に誰かが付き添い、物心ついたときから自分が特権階級の人間であると気づいていた。父は地方行政官で、フィジーで最もよく知られた惜別歌、「イサ・レイ」の作詞作曲者の一人でもあった。父はつねづねマラにこう語った。「おまえは決して金持ちにならなくていい。金など少しも必要ない。おまえの財産は領民なのだ。おまえが彼らの面倒をよく見れば、彼らはおまえの世話をしてくれるよ。」この父が亡くなったとき、遺産はわずか860.53ドルだった。

 6歳のときにラケンバを離れレヴカに行き、ロマロマ島の酋長家ラヴニサの親戚で、ドイツ人と結婚していたヴォマール婦人に預けられた。彼女は叱るときには迷うことなく棒でたたいた。それまで大切に可愛がられて育ったラケンバの生活との違いに、マラはカルチャーショックを受けるが、この経験が後々いろんなタイプの人と付き合う上で助けになったと、後年になって感謝することになる。ここで、2年間を過ごし、1928年に再びラケンバに戻ってラウ地方学校に入学し、1933年まで過ごす。この学校は全寮制で、イギリスから赴任した優秀な教師が多かった。

 ラウ地方学校時代のマラは、欠席が多かった。祖父のラトゥ・アリヘレティ・フィナウが、スヴァやバウで開催される大酋長会議にマラを連れて行ったからである。これには、2ヶ月か、ときにはそれ以上かかる長旅であった。マラは会議に出席したわけではないが、幾晩も年長者と同席することで色々なことを学んだ。ここでの経験は、マラにとって政治入門の実践教育となった。学校生活は、必ずしも人生最良の時ではなかった。一部の者にとっては、マラが酋長の地位について手出しできなくなる前にいじめておく絶好の機会であったからである。しかし、この経験もマラにとっては、のちに人々を評価するにあたっての判断基準を習得するきっかけを与える貴重な教訓となった。

 1933年にマラは、スヴァ近郊にあるクイーン・ヴィクトリア学校に入学した。ここは、酋長の子弟が行く学校として知られ、リーダーシップの養成を目指す幅広く高度な教育課程がおかれていたが、午後は週1回のスポーツの日を除いて、食糧確保のための農作業であった。

 その後、マラは、1937年にスヴァの中央医学校に入学した。これには、ラウ地方学校時代のある出来事が影響していた。1931年にフィジー全土で赤痢が流行し、マラも感染して入院するはめになった。そこで治療を受けたトマシ・マウィ医師に、病院に残って手伝いを命じられ、この経験が医学を志すきっかけとなった。中央医学校の1年生の時には化学賞を受賞し、2年生の時には解剖学金メダルを与えられ、医学の勉強が面白くて仕方なかった。ここでの経験から、マラは次のことを学ぶ。
 
 「酋長であれ一般人であれ、人間は一皮むけばみな同じだ」という最も基本的な知識を厳格かつ実践的な方法で学び得たのだった。こうした認識を補強し、私の人格を形成していく出来事は、ヴォルマー婦人の折檻棒による体得から始まり、ニュージーランドの大学まで続く。要するに、個人に対する評価は、血筋や社会的地位によって決まるのではなく、成績であれスポーツであれ、その他の何事であっても、その人物がどれだけ頑張って結果を出したかによって判断されなければならない。こうした経験があったお陰で、私が人々に投票をお願いする場面でも、全く自然に接することができたし、選挙民との間に精神的隔たりを感じずにすんだのである。」

 マラの医師としての素質を評価したヴェアリー医師らによって、NZのオタゴ大学に進学して正式な医師資格を取得するように勧められたが、校長のフッドレス博士の反対にあい、1939年から1年間スヴァにあるマリスト・ブラザーズ・スクールに送られた。ここで、マラは、ローマ・カトリックに改宗するという重大な決断をする。メソジスト教会が酋長制度ときわめて密接な関係にあって、身分の高いものが救済への道を示し与えるといった無言の雰囲気があったのに対し、カトリック教会は自己責任の概念を教えた。また、この学校は小さな多民族社会であり、33人の生徒のうちフィジー系が1人で、25人がインド系、残り7人はそれ以外の民族に属していた。ここでの経験が、マラの多民族主義思想を形成するのに影響を与えた。

 1940年から41年にかけて、大学入学資格を取得するためNZのオークランドにあるセイクリッド・ハート・カレッジに学び、翌42年にオタゴ大学に入学した。オタゴ大学では、クリケットや高跳びをはじめとするスポーツや合唱に興じるなど自由な教育環境の中で学生生活を謳歌した。とくに高跳びでは1946年に全NZ大学新記録を樹立した。この年、内科学士号・外科学士号取得のための第一段階専門試験に合格し、臨床訓練のため病院に配属となった。

 ところが、第二次大戦終結記念の戦勝パレードに参加するためロンドンにいたラトゥ・スクナ(Ratu Sir Lala Sukuna)から1通の手紙が届き、マラの人生は大きく転換することになる。この手紙は、ラトゥ・スクナがオックスフォードのワダム・カレッジ校長のモーリス・ボウラ博士と協議して、マラが経済学の学位を目指して勉強するための準備を整えたと伝えてきたのだ。この時点では、政治の世界に入る気などまったくなかったマラであったが、将来国家の仕事を手伝ってほしいと願っているラトゥ・スクナの思いを察した。医師の道を断念することに落胆したが、ラトゥ・スクナの指示に従わないわけにはいかなかった。「オックスフォードに行こう。2年間を経済学に費やし、それが終わったら医学校に戻って、医学の学位を修了してもよいではないか」。マラは自分自身にこう言い聞かせた。

 経済学の専門書を読みながら船でオックスフォードに向かったマラを迎えたボウラ博士は、ラトゥ・スクナと話し合った結果、近代史を専攻すべきだとの結論に達した、とマラに告げる。こうして、ワダム・カレッジで近代史を専攻することになったが、財政的理由により十分な食事もままならなかった。そんな中で、マラはラトゥ・スクナにしばしば手紙を書き、それに対するラトゥ・スクナの返事はマラの思考を深める契機となった。こうしたやり取りを通じて、酋長たちに要求される数々の責任、そしてまさに犠牲とはいかなるものなのかを、より深く理解し始めるようになった。そして、その最初の犠牲が、医学に別れを告げることだった、と思うようになった。1950年8月、オックスフォードでの学業を終え、マラは地方行政官として赴任すべくフィジーに帰還することになった。
 
2.フィジー行政官として
 
 1950年当時、フィジーの行政区は北部・西部・南部の3つの区域に分かれていた。マラの最初の任地はそのうちの南部地区のナヴアで、そこでの仕事は書類の整理や村の視察であった。スヴァ近郊の村は、十分な土地を持ちながらそれが活用されないため、村人の生活は貧しかった。彼らは、西欧文明のすべての施設を身近に見ながら、それでもなお気楽な惰眠をむさぼるような生活を送っていた。

 こうした有様を見て、マラはこうした村人の生活の仕方を守り続けるのが倫理的かどうか分からなくなった。伝統に縛られている共同体では個人の役割が事前に決められているので、個人が各自多様で独立した責任を持つ機会が制限されていた。逆に、集団が昔からの行動パターンを止めてしまったところでは、共同体の経済構造が変化した。この地方のインド人たちは経済的繁栄の兆候を見せていたが、それは彼らがフィジー人よりも、より早く自らの伝統や慣習から離れつつあったからであった。

 西欧の工業化された文明には数々の収入源があるが、フィジー人にとっては土地が唯一の資本であり、その活用のみが生活手段であった。自給自足から脱却するには、土地を活用する自給的やり方から貨幣経済に適した形態に変える必要があった。それは新しい作物と新しい技術の導入を意味したが、これは土地所有制度の変革なしに達成するのは困難であると思われた。土地は商品化されなければならず、土地利用は共同体と慣習を基にしたものから個人との契約を基礎にした利用形態へと変えられなければならなかった。それは、富めるフィジー人資本家たちが農地を信用貸しで資本運用ができることになるが、一方、何人かの土地所有者はその土地の労働者へと転落する可能性を秘めていた。

 1952年の3月末に、南部地区の一部に新設された中央区域の本部であるナウソリに配置換えとなった。そして1953年の9月には立法評議会の5人目の原住民メンバーとなり、このとき政治手法に関する読書に励んだ。立法評議会での経験は、マラにとって、あたたかい洗礼であった。その後ナヴアに再度配置されたあと、植民地行政の中で最もやりたいと望んでいた南部地区の海域部地方行政官に就任し、住民との対応に多忙な日々を送る。

 さらに1957年には、ヴィチレヴ島西部のサトウキビ地帯の中心であるバ地方に赴任する。ここでのおもな仕事は道路建設と植林であったが、道路建設の仕事でインド人サトウキビ労働者たちと関わることになる。この時期にできたインド人との友人づきあいはその後も長く続くことになった。また、ここで得た砂糖産業の経験は後の砂糖に関する国際交渉で役に立つことになった。

 1958年に休暇でヨーロッパを訪問した後、1959年に帰国したマラは、フィジー人担当局副長官に任命され、中央行政に参画することになる。この年の6月にサー・アラン・バーンズナイジェリア前総督を団長とする調査団が、植民地フィジーの開発方法を提言するためフィジーを訪問し、調査結果を報告書にまとめた。マラは、すべての地方評議会を回りその報告書について議論した。報告書の内容は多くは受け入れられるものであったが、フィジー人行政への非難とその将来の廃止、および報告書の傲慢な調子についてはあまねく批判された。

 ラトゥ・ペナイア(Ratu Sir Penaia K. Ganilau)は、第二次大戦の時にイギリス国王のために志願兵となって活躍したフィジー人とフィジー人行政を結びつけて、「フィジー人の組織・伝統・文化・生活に深く根ざしたイギリス国王への忠誠心をずたずたにするようなフィジー人行政の廃止を支持できない」と巧みに批判した。そして、マラは議会発言の最後を、ナイジェリアの酋長であったC.M.ミークスの言葉を引用して締めくくった。

 「一族という観点からすれば、現在生きているのはごくわずかな人々に過ぎないが、その背後には既に亡くなった数多くの人々がいて、未来にはこれから生まれてくる無数の子供どもたちがいる。土地とは、こうした巨大な一族に属しているものだ、私は考えている」と。

 1961年9月、不足している政治教育を受けるため、ロンドン大学経済政治学院で学位を取るべきだと決められ、フィジーを発った。経済・社会行政コースを修め、翌62年に帰国すると東部区域行政長官としてレヴカに配置され、キャリアの頂点に達した。

 60年代には独立に向けて憲法のあり方が活発に議論されていた。そのなかで、マラたちが構想していたのは、フィジー人の利益を守り、フィジー人の土地所有権の保障を確実にすることをあらためて宣言し、主権者たるイギリス女王の事前承認と大酋長会議の合意を得ない限り、原住民土地信託局条令に変更を加えることを禁ずるための道具としての憲法であった。フィジー人の権利や利害に関するすべての立法は、これまで通りフィジー人担当局と大酋長会議に付託されるべきであり、政府は公的制度における民族的均衡を目指して努力すべきであると考えていた。そして、これらの点が満たされた場合には、他の主要民族と協力して内政自治に向けてさらなる移行を開始する準備があった。

 63年の4月に立法評議会議員の選挙があり、マラは東部選挙区から立候補し対立候補なしで当選した。その直後、マラの地方をサー・デレク・ジェイクウェイ総督が巡回に訪れたとき、マラに運命の一撃が下った。総督は、憲法上の変革が近づいているので、フィジー人の意見を強く反映させる必要があるとして、マラにレヴカを離れスヴァに行き、政治家の職に専念してほしいと告げた。さらに、いずれマラが準閣僚級の政府メンバーに選ばれるだろうと付け加えた。マラにとっては気乗りのしない話であったが、その要請を受けることは断れない義務だと思い直し、スヴァに移り住むことになった。
 
3.政治指導者として
 
 (1)フィジー独立前後
 スヴァでは、天然資源担当の準閣僚の職務に就いた。ロンドンで憲法制定会議の開催が決まり、立法評議会の公選準閣僚もそれに出席することになった。この会議が内政自治に繋がることを前提に、ロンドンへの出発に先立ち支持者との会合を重ね、その中で共通選挙制の導入に反対すること、独立を議論しないこと、そして女王との関係が弱められるべきでないことの3点を確認した。スヴァでは一連の民族間会合が開催され、一部インド人の非協調的な態度があったが、全体的には友好的な雰囲気で、将来の民族間の緊張緩和が予感された。

 ロンドンでの憲法制定会議の結果、事前の確認事項が受け入れられた。ところが、その後の立法評議会で、「憲法制定会議の結果について出されたイギリスの白書はフィジーの将来の独立への政治的移行に十分な根拠を与えている」という動議が出され、激しい議論が展開された。この議論の中で、インド人のパテル(A.D.Patel)は何の譲歩もせず、大酋長会議に対し傲慢な態度をとり、ヨーロッパ人とフィジー人の離間を図るような発言を行った。フィジーにとっての解決策は、互いに譲歩することなのであり、その価値を信じない人々には、この国を率いる資格はない、とマラは感じた。

 マラは、その多民族主義の考えを推し進めるためには多民族政党が必要だと考えていた。フィジー人の利害を以前と同様に強く意識しながらも、フィジーにとって唯一生存可能な将来は、多民族からなる一つの国民になることであり、憲法がすべての民族に立法評議会での代表権を与えているのと同様のかたちが政党の構成にも反映されるべきだと考えていた。そこで、1966年の初めに全民族政治連合の結成を考えるための各民族団体の代表者会議を開催し、その結果、フィジー初の多民族政党である「同盟党」(Alliance Party)が結成された。

 同盟党は、多民族主義の綱領に基づき「平和・進歩・繁栄」と再配分の哲学としての「共有と配慮」の計画を掲げて1966年の総選挙に勝利した。そして、1967年9月に、マラは首席閣僚に就任した。翌1968年に実施した中間選挙では野党候補全員が得票を伸ばし再選され、野党はこの結果を勝ち誇ったため、フィジー人の反インド人感情が高まった。しかし、フィジーが独立への平和的移行に向けて前進するためには熟考と対話と譲歩が必要であると考えていたマラのもとへパテルが現れ話し合いを求めてきた。これが1970年の独立憲法に繋がる対話の始まりであった。

 1967年首席閣僚となったマラは、独立間もない英連邦諸国(ジャマイカ・トリニダード・ガイアナ・マレーシア・インド・シンガポール)を歴訪した。その目的は、フィジーに先行して独立に向かった国々の諸制度がどう機能しているか、また、フィジーと同様の民族状況を抱えた国々が、民族問題にどのように対処しているかを査察するためだった。それらの国々の政策で共通して見いだされたのは、国民の間の民族的相違は無視できないものであると同時に無視してはならないものであること、そして政府が国内のあらゆる人々の権利と願望を生かすだけの幅を持った原則を打ち出せれば調和と進歩の基盤が確保できる、という2点であった。しかし、フィジーが自らの文化に適した方法で、自国の諸問題を解決していくのは無理だと思われるような事例は目にすることはなかった。

 同盟党側は、1966年の憲法はうまく機能しているとして、それを維持する意向であったが、パテルは前進への唯一の道は共通選挙であるとして、共通選挙の導入を初めの一歩とすることに固執し、譲歩する事がなかった。しかし、そのパテルが突然亡くなってしまい、新しく野党の指導者となったコヤ氏との対話を通じて野党側との関係の改善と相互尊重の関係が進展していった。その後も、共通選挙の導入が議論の的となったが、マラたちは共通選挙に未来永劫反対するわけではないが、導入は時期尚早であるとの見解を主張した。

 共通選挙を除き準備が整い立法評議会の特別会議が招集され、そこでイギリス外務・英連邦省弁理公使のシェファード卿は、選挙制度についての合意ができなければ、独立後の最初の選挙は現行憲法の規定に沿ってイギリスが承認した方式で行われると宣言した。特にマラを満足させたのは、どの陣営からも女王との強い絆を維持したいという希望が出されたことであった。

 こうして、世界各国の憲法を検討し、その長所と短所を見極め、周到な準備を整えてロンドンでの会議に臨むことになった。ロンドンでの憲法制定会議はシェファード卿が議長を務め、下院の代表権問題で手間取ったものの、すべての事項に合意が形成されていった。

 マラは独立後のフィジーの国連外交の中での役割を考えて、「パシフィック・ウェイ」(Pacific Way)という表現をつくった。小国であっても、理論上大国と対等な立場で発言できる国連の場にあっては、フィジーが調停役として相互理解の方針に基づき、相互の相違を解決するために対話を継続し、自らの対話の経験をもとに国連で発言できると考えてのことであった。この言葉は、1970年10月の国連総会での演説の中で使われた。マラは、演説原稿をスタッフと共に2日がかりで準備した。そのなかで、パシフィック・ウェイは、フィジーを含む太平洋諸国の平穏で整然とした平和的独立への移行を表現する言葉として言及された。そして、この言葉は、この後ほどなく、太平洋島嶼諸国の連帯と文化的共通性を表わす象徴的表現として太平洋島嶼諸国地域一帯に広がっていった。

(2)同盟党政府
 1972年に新憲法に基づいて初めての選挙が実施された。マラの同盟党は52議席中33議席を獲得し、フィジー系と一般投票者の強力な支持を得たこともさることながら、インド系からも24%の支持を獲得した。そして閣内には5人のインド系大臣を起用するなど、同盟党は多民族政党としてその存在を示した。こうして1972年から77年までは、挙国一致体制がうまく機能した。また、1973年にはラトゥ・サー・ザコンバウ(Raru Sir George Cakobau)がフィジー人初の総督となった。

 1975年には国会で二つの論争が展開された。一つは、下院議員選挙の方法について検討するための王立委員会を総督が設置し、この委員会が、既存の民族別議席を維持しながら、25議席の全国民議席については民族区分のない共通議席に転換させるという選挙制度の改革を提案したことから生じた。政府は、いかなる選挙制度であっても、国家がスタートして間もない段階で変更を前提とした議論を行うべきではなく、また現に存在する憲法は十分フィジーの多民族社会に適合すると判断した。

 そして、もう一つは、フィジアン・ナショナリスト党のブタンドロカ(Sakeasi Butadroka)党首が、すべてのインド人を本国に帰還させるべきだと主張する動議を提出したことが問題となった。これに対し、マラはインド系がフィジーの発展にこれまで果たした役割と将来果たすであろう重要な役割を認める一方で、フィジー人の経済状況を改善するための政府支援政策の実施を確認する修正案を出し、承認された。

 1977年の総選挙で同盟党は予想外の敗北を喫した。全52議席のうち、国民連合党(National Federation Party)26議席に対し同盟党は24議席にとどまった。最大の敗因は1議席獲得にとどまったフィジアン・ナショナリスト党が、フィジー人票の25%を集め、同盟党の支持を奪ったことにあった。フィジアン・ナショナリスト党の強力な人種差別主義キャンペーンに対し、民族融和の考えを推進しようとした同盟党はその支持を奪われたのである。

 一方、国民連合党は、教育におけるフィジー人優遇政策を批判し、教育問題をカードに戦った。土地はフィジー人のものだが、教育はインド人のためのものと考える人が多く、そのような人々にとってはインド人政党だけが自分たちの権利を守ってくれるという思いがあった。

 この結果を受けて、マラは国民連合党に政権を渡す準備に入った。公邸を明け渡すために早速借家を手配した。政治の現場から解放されて、これまでほとんどできなかった平日ゴルフを楽しむ自由を得たことに喜びを感じるほどだった。

 ところが、第一党となった国民連合党が、政権担当を躊躇する姿勢を見せた。国民連合党内の一派閥のリーダーであるインド系のジェイ・ラム・レディ(Jai Ram Reddy)は、国民連合党の政権担当能力を疑問視し、同党の政権が軍や警察の忠誠を獲得できないのではないかとの疑念を提示した。組閣を前にした国民連合党内の党首指名選挙では、党首のコヤがマイトンガと並んで同数で首位になり、党内の指導力に問題があることが明らかになった。

 その直後に、マラは総督府に呼ばれた。総督は「憲法に定められた総督権限により首相に指名する」ことをマラに伝えた。マラは即座にこの指名を受諾し、5分もたたないうちに組閣を完了した。国民連合党は、インド人の首相を阻止する人種差別主義的意図によるものだと同盟党を批判した。しかし、マラは、フィジーの最高権威者であり最高位の酋長である総督の命に従っただけであると応えた。フィジー人であれば酋長から戦闘に加わるように命じられたとき、何の疑問ももたず献身と貢献の意志を持って酋長に従う。このフィジー人の作法に則ったものであると、政権受諾の意図を説明した。

 マラは、選挙の敗北の要因について、自らの多民族主義政策が招いたものであるとの見方をしていた。1977年9月に内閣に対する信任投票を行い、野党の反対により不信任となった結果をうけて、マラは首相職を辞任し総選挙が実施された。ところが、そこで示された結果は、同盟党が52議席中の36議席を獲得する圧勝となった。この議席数は、4月の選挙よりも12議席増え、過去の最高議席数を2議席上回るものであった。

 こうしてマラは政権に復帰し新たな内閣を組織した。一方の野党においても、ジェイ・ラム・レディが新たな指導者となったことで、同盟党政権との協力の時代の始まりを予感させた。これまでの野党指導者のコヤは、マラが手紙で大臣の任命などの憲法に規定された事項について相談しても、まったくなしのつぶてであり、そこには相互協力の姿勢の片鱗も見られなかった。

 この政権担当期間にフィジーは国連のPKOに初めて参加し、レバノンの平和維持活動に700人を越える兵員を派遣し、軍務奉仕によって国連への貢献を果たすようになった。国内では、行政の現地化を進め、お雇い外国人によって占められていたポストをフィジー出身の人材に変えていった。最後に残っていた主席判事のポストにもフィジー出身のティモズィ・トゥイバンガが任命された。

 1970年の憲法制定会議の準備会談が開かれていた69年の12月の段階で、マラはイギリスの議会制度に代わるべき挙国一致内閣(Government of National Unity)という仕組みを思い浮かべていた。それが、二大政党のバランスがよく保たれ、両党の良好な関係が続いていた80年代初めに、国民統合による挙国一致内閣を設置する好機だと考えた。80年にサンベトで開催された同盟党の委員会で挙国一致内閣を提案したが、数人の閣僚の強硬な反対にあった。しかし、マラは自分の提案を押し切り、多数派を確保し、同盟党の理論的実践家であるアフメド・アリ博士に野党党首のジェイ・ラム・レディと話し合いを持つために挙国一致内閣に関する文書の起草を依頼した。

 挙国一致内閣であれば、最適任者を登用し、同時にフィジーの各民族グループからそれぞれ代表を出す機会が与えられる。すなわち、大臣ポストは選挙における各政党ごとの獲得議席数に比例して決められることになる。そうなれば、閣僚は一丸となって内閣の決めた政策の実現に努力するようになり、政府の政策は各民族の視点からではなく、全国民的視点から評価されるようになるのではないか、と期待されたのである。この発想は、単独政権を構成することができないため一時的に組織される連立政権とは根本的に違ったものであったが、この提案に対するジェイ・ラム・レディの反応は、予想に反し敵意に満ちたものであった。
 
(3)1987年選挙とクーデター
 1987年の選挙に向けて、外貨準備高は過去最高水準にあり、砂糖生産と訪問者数は記録的な水準にあるなど、同盟党は多数の有権者の支持を期待できる確実な根拠があったが、結果は敗北であった。マラは政権の座から去ることになった。大蔵大臣、外務大臣、商業・産業大臣および法務大臣がインド人となった新政府へのフィジー人の抗議デモが全国で始まっていた。

 1987年の5月14日、フィジアン・ホテルで会議中のマラにトマシ・ヴァカトラから電話が入り、ランブカ(Sitiveni Rabuka)中佐がクーデタを実行したことを告げた。ランブカは、自分は軍人だから政府の運営はしたくないと告げ、マラに正常化の方法と手段を探すよう依頼した。マラは、フィジーが直面する危機を傍観するわけにはいかなかった。それというのも、危機の原因は1970年憲法の欠陥に由来するもので、その責任はマラにあると多くの人々が考えていたからである。1970年憲法の制定に当たって主要な役割を果たしたマラには、憲法にそれほど欠点があるとは考えていなかった。ランブカが明確に否定していたものの、同盟党がクーデタの背後にいるとの疑念をもつ者もいた。しかし、マラも同盟党もクーデターについて何も聞いていなかった。

 マラが、ランブカから求められ閣僚評議会に加わったのは、破滅に向かっているフィジーを救うために何かできるとしたら、今をおいて他にないと感じたからであった。自分の地位、信用、名誉を考えて、閣僚評議会に入るべきではないと助言する者もあったが、もし国民が殺され、国が焼かれるような事態になるのを許したとしたら、マラ自身の名誉などどこにあるといえるだろうか。フィジーのために奉仕し、フィジーを再建する義務に匹敵するほどの名誉や名声が他にあるだろうか。マラはそう考えた。意外にも、多数のインド人から、マラが閣僚評議会にはいることを歓迎するメッセージが寄せられた。マラなら、すべての国民のためになる解決策を見いだしてくれるとの期待があった。

 マラは、数ヶ月にわたって、フィジー経済を支える砂糖産業と観光業の回復に集中的に取り組んだ。また、総督の命により憲法を検討する委員会が設置されたが意見がまとまらず、9月になって「和解のための国民会議」が新たに結成された。9月22日から23日にかけて会議が開催されたが、マラの助言に反してランブカ中佐は招かれなかった。この浅慮の結果、9月25日にランブカは二度目のクーデタを実行することになった。

 数日後にランブカを交えて話し合いが行われたが、その中でランブカが提示した条件は、下院67議席中の36議席をフィジー人議席とし、総督と首相はフィジー人ポストにするというものであったが、一方では共通選挙ではなく民族別名簿による選挙や10年毎の憲法の見直しがうたわれていた。政府内における総督の指導力を支えるためにマラはこの条件に同意したが、連立のメンバーは反対し、妥協案の作成に失敗した。10月8日、総督の要請を受け、マラはイギリス王室への状況説明のためにロンドンへ向かった。ロンドンに到着すると宮殿に直行し、女王宛に次のメッセージを渡した。

 「私の国で起きているのは、価値観の闘争であります。一方に西洋的価値観があり、他方にフィジー人が有する土着の価値観があります。1987年の7月6日の『タイム』紙は、『一方に争いを好む多数決ルールがあり、他方に合意の民主主義がある』と報じました。西洋的価値観によって、フィジー人は窮地に陥れられています。

 経済面では、単に経済的利益のために外国人に連れてこられた移民によって、フィジーが征服されてきました。今、フィジー人は、こうした事実に気づいています。西欧民主主義のハイライトのすべて−言論、結社、宗教などの自由等々−が、国内におけるフィジー人の劣位状態を一層悪化させているのです。西欧のメディアは、私たちの同志をあざけり、侮辱し、中傷し、そしてフィジー人の慣習と伝統を冒涜します。慣習的・伝統的自由は、はっきりと区切られた境界線をもっていますが、西欧の自由は、境界線を知りません。総督と私は、ともに伝統的指導者ですが、西欧的価値のもとに教育され、育てられました。私たちの酋長としての地位は、私たちの両方の文化を享受する特権を与えてくれました。それにより私たちは、同胞の不安と心配に幾分か気づくようになりました。だが、この不安と心配は、多数の利益を考慮すれば、二番目に来るものです。それゆえ、まもなく私たちは同胞自身がかかえる、諸問題の解決に専心しなければならないとする焦りから抜け出せるでしょう。目下の危機は、この価値観の危機を照らし出したものだからです。

 それまで築き上げてきた経済を脅かすダメージ、切迫する流血の惨事と破壊、こうした事態に対し国民と国家のために、解決への影響を与えることができるかもしれないという思いが、私を『クーデター評議会』への参加へと駆り立てたのです。そのとき、西欧的価値観が傷つけられたとする怒りによる『デモクラシーへの裏切り者、権力亡者、腐敗、不誠実、民主的価値の破壊者』といった、非難を受けました。それは私を傷つけ、いたく精神的に痛めつけました。しかし、死者はなく焼き打ちや反乱も起きませんでした。
 クーデター後の第2回目の大酋長会議の間、絶望したタウケイ運動をすすめる人々がやってきて、私に指導者になってほしいと願い出ました。西欧のメディアによってひどく傷つき病んでいた私は、彼らの申し出を断り、自分が『西欧的価値観』と考える観点から、彼らを過剰に叱りつけました。彼らは、自分たちの本来の指導者と信ずる者に指導を求め、それがはねつけられたのです。その結果が、火付け、略奪、暴行となり、彼らは怒り狂ったのです。

 軍とタウケイ運動家は、再び総督と私を訪ね、自分たちへの指示と、指導力の発揮を要請してきました。私が直面する目前の選択は、西欧的価値観に立って、再び彼らをはねつけ、叱責し、事態の成り行きを無視するか、それとも彼らの要請に応じて法、秩序、安定、平和、そして調和への方向に導くかのどちらかでした。彼らが、理不尽かつ不自然なほどに過剰に行動したのは、彼らの切羽詰まった叫びに私たちが鈍感であったからです。

 彼らは、助けを求めている。私の本能的な感情は、それらに応えるべきだというものでした。私たちは、女王陛下の許しだけでなく、女王陛下の祝福をも積極的に求めております。私たちの元首にとどまることで私たちの祈りを聞き、一つの先例を作り出していただきたい。ラトゥ・ペナイアが、もしも大酋長会議から要請されれば、共和国大統領に就任することをお許しいただきたい。そして、私もその政府に参加いたします。」

 このメッセージに対して、女王陛下からは、もっと広い分野の指導者たちとともに、議論を重ねる時間がまだあるでしょうとの示唆を与えられたが、12月5日にはラトゥ・ペナイアを大統領とする暫定政権が誕生し、マラは暫定政権の首相に就任することを要請された。これを受け入れるに当たり、マラは時間をかけて様々な要素を真剣に考慮した。なぜなら、この職を引き受けることは、マラの長い政治経験の中で最大の挑戦であるように思えたからであった。マラは、民族・文化、あるいは宗教とは無関係に、ただ祖国とその国民を愛するがゆえにこの困難な挑戦を受けることを決意した。

 暫定政府が任命されて以来、経済の回復を最優先課題として掲げ、それは順調に推移した。問題は新憲法の作成であった。先住フィジー人の基本的利益を十分に擁護しながら、同時にインド人を主とするフィジーの他のコミュニティーの地位を公正かつ公平な基礎の上に認めることが課題であった。こうして、1990年に新しい憲法が公布された。その憲法は完全なものではなかったが、フィジーを立憲政治に戻すための現実的な枠組みを提供するものであった。8年後に再び憲法を見直すことが規定されているため、その間に政治指導者の間に善意と信頼が確立されるなら、異なったコミュニティー間の交渉は可能であるとマラは確信していた。

 また、この暫定政府の期間にフィジーは国際関係において厳しい困難に遭遇することになった。フィジーを孤立させようとする試みが一再ならずあり、とりわけフィジーに最も近い二大先進国であるオーストラリアとニュージーランドが敵対的な態度をとった。フィジーは英連邦加盟資格を失い、フィジー人の間で重要な統合機能を果たしてきた王冠との結びつきがたたれるという大きな打撃を受けた。イギリスの君主はフィジー人にとって、最高位の酋長に似た役割を占めているとみなされていたからである。

 こうして、クーデター後の4年半の暫定政権での首相としての任務を全うしたところで、この自伝は終わる。その最後、92年5月15日付けの離任前夜にしたためた大統領宛の書簡の末尾に、後任者に託す言葉として、マラは次のように記した。

 「多民族政策に対する反応がクーデターを惹起したことは、私自身にとって不幸な出来事でしたが、にもかかわらず、わが国の進むべき道は一つです。私たちは統合に向けて、共通の道を見つけなければなりません。その統合とは、民族、宗教を越え、私たちがみなフィジーの息子であり娘であると認めることです」と。
 
4.今後の課題
 
 この自伝に記されたのは以上である。その後、1994年から2000年5月の文民クーデタ事件のさなかで辞任するまで、マラはフィジー共和国大統領を務めた。その間、1997年には国民統合をさらに推進すべく新憲法が制定され、その中でマラがこの自伝の中で「挙国一致内閣」と呼んだ、先住民フィジー系とインド系が政権を共有する仕組みが「複数政党内閣」(Muiti-Party Cabinet)として制度化された。そして、1999年にはフィジー初のインド系首相のもとで原住民フィジー系とインド系の閣僚で組織される「挙国一致内閣」が実現した。しかし、この試みは、2000年5月19日の文民クーデタで崩壊し、2001年には再びフィジー系首相のもとで憲法に定める「複数政党内閣」規定に反するような組閣が行なわれ、現在もなおこの問題が解決を見ていない。
 

 フィジー社会を構成する二大民族が行政権を共有することが国民統合を達成するために不可欠であるというマラの挙国一致内閣思想に誤りはない。しかしながら、政治の現実はマラの期待通りには機能しなかったところに、マラが思い描くような政治的成熟度に達してはいないフィジー国民の政治意識の問題が指摘できそうである。ただし、ここにいうのは、先住民フィジアンだけを指しているのではなく、インド系フィジアンも含めたフィジー国民全体の政治意識のことである。

 フィジーという国が繁栄し、その果実を両民族のいづれもが享受することができるような国づくりのために何が求められるのか。このことが、何をおいてもまず考えられなければならない。その際、このマラの自伝の中に示唆に富む指摘が、数多く見出すことができよう。マラの思想を精査し、それを今日のフィジーの政治社会の中で機能するような憲法制度として現実化すること、そしてその実現のためにパシフィック・ウェイによる時間をかけた交渉が二大民族を代表する政党間で継続され妥協が積み重ねられること。

 いまのところ、この2点による以外に国民統合に向けたフィジー社会の進展は考えられないだろう。そのためにも、この自伝の中に残されたマラの経験と教訓の意味するところを丹念に読み解く努力がフィジーの政治指導者に求められるのではないだろうか。


   「パシフィック・ウェイ」
        −フィジー大統領回顧録−
          カミセセ・マラ 著

    小林 泉 ・ 東 裕 ・ 都丸潤子 訳
    慶應義塾大学出版会、定価3,800円。

    フィジーの独立・近代化・発展に献身した
        「太平洋の巨人」、待望の自伝

 
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