去る7月16日、ミクロネシア連邦の首都ポンペイ州パリキールで、正副大統領の就任式があった。近隣諸国の要人はもちろん、日本からも沢山の関係者らが参列した。
2007年5月11日の第15期国会で7代目の大統領に選出されたのは、チューク州のイマニュエル・モリ(Emanuel Mori)氏である。その名前から推察できるように、ミクロネシア連邦では初代のナカヤマ氏に次ぐ二人目の日系大統領であり、あの森小弁から数えて直系の4代目にあたる。日・ミ関係史に多少とも関心のある人ならば、森小弁の名には幾度となく出会っているだろう。土佐出身のいごっそう、1892年に百トン足らずの汽帆船天祐丸でトラック諸島(現チューク)に渡ってそのまま帰国することなく、地元で一大ファミリーを築いた南進のパイオニアだ。もう一人、南進パイオニアの子孫である初代大統領のナカヤマ氏が、この3月に75歳でその生涯を閉じた。そしてその直後に、同じチューク州出身の日系大統領が誕生したのは、なにかの因縁だろうか。
少しでも日本人の血が入った者を日系人とするならば、日本が統治したミクロネシア地域には2割程度の日系人がいる、これが私の調査結果である。それからすれば、7人出た大統領のうちの2人が日系であるのは、順当な出現率と言っていい。さらに、マーシャル諸島のケサイ・ノート、パラオのトーマス・レメンゲソウの両大統領も母方の祖父が日本人だと本人が言っていたから、ほんとうならばミクロネシア三国の現職大統領すべてが日系人となる。過去に遡れば、マーシャルのカブア初代大統領、パラオのナカムラ前大統領も日系だったことが思い出される。それらを思うとモリ大統領の誕生は、まさに日本とミクロネシアとの歴史的関係の大きさを、あらためて想起させる出来事になったといえるだろう。
ところでそのモリ氏は、1948年12月生まれの58歳。チューク諸島のフェファン島で生まれ、グアム大学を卒業した後は、信託統治領政府や民間銀行で金融・財務関係の専門畑を歩き、ミクロネシア連邦銀行の副総裁も務めた。2003年の13期国会、05年の14期国会にはチューク州から2年制議員として当選している。今年の15期国会議員選挙では4年制議員に立候補して当選、大統領への道が開けた。
ここで、ミクロネシア連邦の大統領選出方法を説明しておこう。国会は一院制だが、議員は4州から各1名づつ選出される4年制議員と州の人口比で選出される10名の2年制議員(ポンペイ3,チューク5,ヤップ1,コスラエ1)の計14名からなる。正副大統領は、全国会議員によって4年制議員の中から選出されるが、正副大統領が選ばれると出身州に議員欠員ができるので、後に補充選挙を行うことになる。
この国には政策論争をする政党がなく、ここにあるのは各州間の利害政治だと言っていい。しかしそれだと、議員数の一番多いチューク州が常に有利となり、いつもチューク出身の大統領が出現する可能性がある。そこで大統領選出に関しては、各州の輪番制にしようとの紳士協定ができたのである。だが、これは必ずしも厳格に守られてこなかった。
とはいえ、最大人口を誇るチューク州が大統領を出したのは初回だけだったから、今回はチュークの順番だとするおおよそのコンセンサスは出来上がっていたようだ。それゆえ、チューク州での4年制議員選挙は大いに盛り上がった。事実上の大統領選挙である上に、日系モリ氏と2期にわたり副大統領を務めている大物アメリカ系キリオン氏の一騎打ちだったからだ。これを「日米決戦だ」などと煽って面白がる者たちも多かったが、地元社会には選挙母体となるような日系あるいはアメリカ系のコミュニティーなどが形成されていないし、両氏ともに現地同化しているので、実際には日米決戦とは名ばかりだった。選挙とは、しばしば人々を熱くさせるのである。
ともあれ、こうして当選したモリ氏とともに副大統領に選ばれたのは、コスラエ州出身のアリック・アリック前駐日大使だった。彼は4年前に将来の大統領職を目指して4年制議員に挑戦したのだが、議員2期目にして確かな地歩を築いた。コスラエ州出身の大統領は、2期目の途中で病気退陣した3代目オルター大統領の残余任期を務めたネナ氏だけだから、次の大統領席はアリック氏に回る公算はきわめて大きいのだ。
日系大統領と日本経験の豊富な副大統領のコンビだけに、対日姿勢は今まで以上に友好的に進められるだろう。それは、新政権がさっそく外務大臣に前外務次官のローリン・ロバート氏を指名したことにも現れている。同氏は、連邦内では最も知日・親日的な官僚と言われている人物だからである。
(小林 泉)