1.日系酋長との別れ
2006年5月19日のことである。「アイザワさんが亡くなりました」と東京のミクロネシア連邦大使館から連絡を受けた。「えェ〜」と、私は一瞬言葉を失った。だってほんの数週間前に、元気な姿で帰国するのを見送ったばかりだったからだ。「帰ったらミクロネシア日本協会を作って、両国の人的交流に尽力する。それが私の最後の仕事になるからね」と私と堅い握手をして別れたのは、つい先月のことだったのに。
それから10ヵ月後の2007年3月29日、ナカヤマさん逝去との訃報が届いた。
「アイザワ」とは、ミクロネシア連邦チューク州の日系大酋長、ススム・アイザワ(相沢 進、享年75歳)氏であり、「ナカヤマ」とは同じくミクロネシア連邦の初代大統領、トシオ・ナカヤマ(享年75歳)氏のことである。
日系大酋長と日系大統領、この両名の死によって、旧南洋群島ミクロネシアと日本が戦後関係を形作ってきた一つの時代が終焉した、と私は感じた。彼らは、かつての日本の南進策や南進論にのってミクロネシアへ渡航した日本人あるいは日系人たちの中にあって、ある種象徴的な存在であったし、日本人が南洋雄飛に抱いた夢や理想を具現化した人物としてイメージされていたからだ。
ここ数年、独立国家の形成や日本との友好関係に大いに貢献してきたミクロネシアの日系二世たちが、次々鬼籍に入りはじめている。戦後60年以上が経過して、彼ら二世たちのほとんどが70代、80代という年齢を迎えているのだから、残念ではあっても、それは致し方ない現実として受け止めねばならないだろう。
それでも、私個人の感情からすれば、なんとも遣りきれない寂しさを拭い去ることはできない。というのもアイザワ氏やナカヤマ氏との親交は、30余年前に私が島々に関わり始めた頃からずっと続いていたからだ。私の島々での交流活動や研究活動の今日があるのも、この二人の力添えに依るところが大きかったのである。
ナカヤマ氏は、ここ数年体調を崩して入退院を繰り返しており、公の場には出られない状態が続いていた。最新情報では、ハワイの病院に入院していると聞いていた。だから少しずつ心の準備ができていて、逝去の知らせを受けたときは、驚きよりは諦めの心境が強かった。
だが、アイザワ氏の他界は突然であったから、私のショック度はなんとも表現しようのないほど大きかった。なにしろアイザワ氏は亡くなる前月の4月に、同氏を主人公にしたCSテレビのドキュメンタリー番組を制作するために、娘さんのナンシーを同行して本研究所があるホテル・アジア会館に10日ほど宿泊していたからである。
この間に私は、近年ではもっとも長い時間をアイザワ氏と共有していた。今にして思えば、それは神様が与えてくれた貴重な時間だったようにも思える。幼少のころの出来事、両親やお祖父さんについて、そして野球選手になった経緯などの昔話を、連日聞く機会に恵まれたのだから。
後日放送されたCSテレビ番組・旅チャンネル『甦る記憶・酋長になった野球選手を訪ねて』には、4月13日に千葉マリンスタジアムのロッテ対ソフトバンク戦の始球式に臨んだアイザワさんの元気な姿が映っていた。
酋長は元プロ野球の投手
アイザワ氏が始球式に招かれたのは、戦後初期の日本プロ野球創生期に選手として活躍した経歴の持ち主だったからである。彼はこれまでも日本の新聞、雑誌、テレビなどのマスコミに幾度となく登場してきた有名人なのだ。
とはいえアイザワ氏に関する話題は、野球選手としての実績がらみというより、元プロ野球の投手がミクロネシアで大酋長になっているという点にスポットが当てられたものがほとんどである。というのも、現役生活6年、通算成績8勝17敗、防御率4.20と、投手としての活躍度からすれば、それほど注目すべき選手ではなかったからだろう。それでも、一軍で記録を残したほどの選手が南洋で大酋長になったという話は、人々にロマンを感じさせるに余りある。そのため日本のマスコミによって、数々のアイザワ伝説が作り上げられていった。
例えば「南洋を統合する日系大酋長」、「南洋出身の剛速球」、「スタルヒンの300勝達成試合への貢献」といった紹介のされ方が、日本で広がる伝説の元になっていった。
人間的スケールの大きさ、豪快な性格、さらには明晰な頭脳と俊敏な体力、そしてトラック(現在名チューク)諸島における酋長という社会的地位、こうした彼の人となりを知る人たちには、数々の痛快伝説が生まれる背景が良く理解できる。しかし、伝説とは必ずしも事実を基にしたものとは限らず、むしろ誇張やら事実誤認やらを前提にして話が出来上がっていくものが少なくない。アイザワ氏に関する諸伝説もまた、御多分に洩れずの感があるが、それでも彼の魅力と偉大さを伝えようとする周囲の勇み足や実情への認識不足からきているのであって、いちいち訂正していく必要はないかもしれない。
しかしそれでも私は、できるだけ事実に近いアイザワ像を一つは残しておいた方が良いのではないかと考えた。私が敬愛したアイザワ氏の日系人としての実在証明のために、さらにはミクロネシア社会を正しく認識しておくために、そしてまた私自身のミクロネシア日系人への理解を深めるためにも「アイザワ物語り」の追究はやっておくべきだと思ったのである。
2.ススム・アイザワ物語
ススムの誕生
ススムは、1930年(昭和5年)6月9日、ミクロネシアのトラック諸島トール島(日本名水曜島)で生まれた。父は神奈川県藤沢市出身の相澤庄太郎、母はトール島南部の酋長の娘ノツムール(クリスチャン名をリサ)である。庄太郎・ノツムール夫妻は3男5女をもうけたが、ススムは12歳年上の兄に次ぐ二男としての誕生だった。
ススムが生まれた年は、日本のミクロネシア占領から16年、委任統治の開始から11年が経過しており、この時点での諸島内の邦人人口は1,106人と記録されているから、既に日本からの移民が本格化していた時期である。それゆえ、ススム少年は完全な植民地的日本社会で育っていったものと思われる。
スペイン、ドイツ領時代における近代教育は、キリスト教宣教師が教会で行う程度であったが、日本の統治時代は学校教育が導入された。それは日本人子弟が通う尋常小学校(国民学校)とミクロネシア人のための三年制公学校で、父親が日本人の場合は母親が現地人であろうとも日本人として扱われていた。
「父親同士が仲が良かったから、小さい頃はトシオやマサオたちナカヤマ・ファミリーの子供たちと一緒に育ったんだ」とアイザワ氏はよく言っていた。そのトシオとは、ススムと同じ歳のFSM初代大統領であり、マサオとは初代駐日大使のことである。
ススムと庄太郎の帰国
ススムの父、相澤庄太郎は当時の南進論が昂揚した雰囲気の中で、南洋雄飛に夢を馳せた熱き青年だったのだろう。その彼が、南洋貿易の発展を目指してトラックに足を踏み入れたのが奇しくも1914年、第一次大戦が勃発して日本がドイツ領ミクロネシアを戦わずして占領した年である。
そして、それから5年後の1919年には、国際連盟から委任統治領の認定を受け、年々島々は大量の日本人流入による日本化を進め、産業も発展していった。庄太郎がトラックに住み着いてからの20数年間とは、まさに諸島発展の歴史だった。来島時の邦人人口は24人から4,128人(昭和15年)にまで増加し、当時はコプラぐらいしかなかった買い付け品も、カツオ節、高瀬貝、木材、ボーキサイト等々と増えていた。そして何より、在留邦人に販売するための日本からの生活雑貨商品の販売量が飛躍的な伸びを示していたのである。こうした右肩上がりの情勢に、庄太郎の商売もすべてに順調な発展を遂げていった。
だが実は、庄太郎がどんな人物だったのか、詳細は分からない。小柄だが豪快、子供たちには優しい一方で、躾けには厳しかった、とのアイザワ氏の思い出談が残っているが、文書記録がない上に、彼を直接知る親族もいまは残っていないからだ。ただ、少ない情報から推測するに、日本人としての強い自覚を持ち続けた人物だったように思える。そのため子供たち、とりわけ息子たちにはしっかりと日本精神をたたき込んだ。ススムより12歳上の長男は、トラックで国民学校を終えると直ぐに兄弟の住む藤沢辻堂の実家に送り、中学教育を本国で受けさせた。この長男は中学卒業後に近衛師団への配属を希望して陸軍に入隊したが、これも父庄太郎の意向が反映されていたからだ、とアイザワ氏は述べている。この兄は、昭和19年にビルマ戦線で戦死した。
順調だった一家の暮らしに大きな変化の兆しが現れるのは1940年前後である。それは、戦争への足音がそろそろ聞こえようとしていたころだった。1941年12月、太平洋戦争の勃発。中部太平洋第四艦隊司令部が置かれていたトラックでも一気に緊張が高まり、トラック支庁は一般民間人の帰国勧告をはじめた。
この時、50歳直前だった庄太郎は、一家を連れて日本に引き揚げるか、そのままこの島に居続けるかの決断を迫られた。が、答えは既に決まっていた。ひょんなことから住み着くことになったこの島だが、その後はここで青春の情熱を賭け、大きな家族を築いてきたのだから、この島を捨てるわけにはいかない。「ここで骨を埋めるのが、俺の人生の証しだ」と思ったのである。だがこの時、二男のススムを日本に送り出すことも同時に決めた。いずれ日本の教育を受けさせなければいけないと思っていたし、国民学校も卒業したところだったからだ。こうしてススムは、1942年に父の祖国日本の土を踏んだのである。ススムは藤沢市辻堂の父の実家に身を寄せ、そこから湘南中学に通った。
だが、それからわずか二年後の1944年2月17日、トラックの連合艦隊基地が米軍の空爆で壊滅、日本の戦況は日々深刻な状況に陥っていった。そして1945年8月15日に敗戦を迎えるのである。
庄太郎一家は幸いに一人も欠けることなく生き残ったが、米軍から日本人全員に退去命令が下された。そして庄太郎は悩みに悩んだ末、単身帰国するのである。妻と5人の女児たち(三男は幼少時に死亡)を置いて帰国せざるを得なかった庄太郎の無念は、察するに余りある。だが、敗戦で一般生活も危ぶまれる日本本土に、子供たちを連れ帰る選択肢はなかったのである。
プロ野球選手になるススム
ススムが入学した湘南中学は、終戦後に新教育制度で湘南高校となった。ススムは1948年に湘南高校を卒業すると、晴海の倉庫会社に就職した。
戦中、そして終戦直後は、ほとんど勉強などできなかったし、食糧難からいつも腹がへってはいたが、それでもススムは母親譲りの大柄で、走りでも相撲でも野球でも、何でもござれのスポーツ万能少年だったらしい。これは自称だが、かなり信憑性が高いと私には思える。
こんなススムだったから、就職してからは会社務めだけでは身をもてあまし、職場の仲間たちと草野球チーム「湯島倶楽部」に所属して野球を始めた。ところが、ススムの俊敏性、パワー、運動神経は、チーム内では並はずれていた。だいたい草野球では、一番上手い奴が投手になり4番打者にもなるのだが、ススムもまたそうであった。傑出した力を示すススムの存在で、湯島倶楽部は向かうところ敵無しで、たちまち軟式野球の全国大会への出場を果たし、いきなり準優勝してしまったのである。この時の優勝投手は大友工、彼は翌年巨人に入団して後、アンダースロー投手として巨人のエースとなった。ススムは翌年も決勝戦に進んだが、この年も惜しくも優勝を逃して準優勝投手(アイザワ氏談)。しかし、この活躍ぶりに目を付けたのが、当時阪神の監督をしていた若林忠志だ。若林はハワイ出身の日系二世だったこともあって、とりわけ南洋出身のススムに関心を示したのである。
「俺と一緒にプロ野球でやろう」と若林に誘われたススムは、「晴天の霹靂、プロ野球選手になれるなんて夢のようだ」と思った。1949年、秋のことである。しかし、遊びでやっていた野球をいきなり職業にするには、とまどいもある。ススムはしばらく考えた末にようやく決心し、年が明けてから若林に連絡すると、彼は大いに喜び翌週に新橋の事務所に出向くようにと場所を指定した。
指定された時間、場所に出向くと、若林監督と球団関係者がいて、いきなり入団契約の手続きを進めることになった。だが、その球団とはススムが思っていた阪神タイガースではなく、毎日オリオンズだったのである。
「なに、毎日? そんな球団名は聞いたことがない」とススムは思ったが、目の前にいる若林が、「私がジェネラルマネージャーとなって新しく作った球団だ」というので、なんだかよく分からぬままに調印した。
その際の契約金は20万円、月給は5万円。100円のピン札で20束になる契約金をその場で渡されたススムは、上着、ズボン、オーバーのポケットにねじ込んだが、バイバンではち切れそうになった。「当時はニコヨンといわれ、日雇い労働者の日当が240円の時代だったから、今の金にして1千万円ぐらいだったかな」とアイザワ氏。
だが、二十歳の青年が突然手にした大金など、身に付くはずはなかった。連日、倶楽部時代の仲間たちや新しい同僚たちを連れて飲み歩き、遊興費で散財した。お陰で親しい友達はたくさんできたものの、「数年後の野球引退時は、文無しだ。あのころは晴海や月島あたりは空き地だらけだったから、あの金で土地でも買っておけば、今頃は大金持ちだ」と当時を懐かしそうに笑い飛ばした在りし日の豪快な笑顔が、今も思い出される。
ところで、これまでススムを扱った新聞報道を見ると、所属していた球団が毎日オリオンズだったり高橋ユニオンズだったりとまちまちで、よく分からなかった。本人に聞いたこともあるが、いまいちすっきりしなかったのである。そこで、球団史を調べて見ると、事はけっこう複雑なので、ここで整理しておきたい。
戦後の日本プロ野球はGHQのすすめで戦後すぐに始まったが、本格的に再開されたのは1949年で、とりあえず巨人、阪急、大映、南海、中日、阪神、東急、太陽の8球団のスタートだった。ところが翌50年には、既存の球団が再編成されるとともに松竹、中日、巨人、阪神、大洋、西日本、国鉄、広島のセリーグ8チームと毎日、南海、大映、阪急、西鉄、東急、近鉄のパリーグ7チームの2リーグ制になり、一気に7球団が新設されたのである。そのため野球選手が不足し、とにかく野球のできる選手をあちこちからかき集めなければならなかった。軟式野球だったススムに声がかかったのも、そうした事情からだろう。
こんな経緯で1950年に新設球団毎日オリオンズに途中入団したススムは、51年、52年は二軍暮らしで一軍登録はなく、実績の公式記録はない。53年には一軍に昇格し3試合に登板して、勝敗記録は無し。そして54年には、パリーグ8番目の球団として高橋ユニオンズが設立され、ススムはここに移籍して今でいうストッパーの役割を果たしたが、当時はセーブ記録はなく3勝5敗の成績を残した。翌55年は、高橋が買収されチーム名がトンボに変った。この年は先発投手となり、成績は4勝10敗でチームは最下位。そして翌56年にはチーム名が再び高橋に戻り、この年は1勝2敗。
このように、戦後の創生期の日本プロ野球は、球団名も球団数もコロコロと変わっていたから、ススムの所属球団名もいろいろだったのである。
そして57年のシーズンオフに、高橋ユニオンズは突如大映スターズと合併して大映オリオン図になったが、チームは事実上の解散だった。有力選手以外は他球団からの引きがなかったから、ススムも自動的に引退に追い込まれることになった。4年間の生涯成績は93試合8勝17敗、防御率4.20が公式記録である。投手として輝かしい成績とは言えないが、軟式草野球の出身としては健闘したと言えるだろう。
一軍現役生活の中で最も活躍したのはトンボ時代だったが、あのヴィクトル・スタルヒン投手が同じチームで輝かしい記録を達成した年でもあった。ススムが先発した勝ち試合をスタルヒンに譲ったことが2試合ほどあって、これが彼の自慢でもあった。ところがどうしたわけか、どこかで誤って伝わり、ススムが先発先行した勝ち試合をスタルヒンに譲って300勝が達成された、とする新聞や雑誌の記事が幾つかあるのだ。これは間違いなので、訂正しておこう。スタルヒンによる日本プロ野球史上初の300勝試合は、55年9月4日のトンボ対大映戦、先発のスタルヒンが投打に活躍して7対4で完投したのである。
こんな誤解が生じるのも、ススムの人柄的魅力ゆえだろうが、もっと凄いのがある。ススムとスタルヒンの因縁を題材に書かれた『枯れ葉の中の青い炎』という小説が、それだ(辻原登著、新潮社、2005年に川端康成文学賞)。力のすっかり衰えた300勝目前の投手スタルヒンがあと1勝に苦しんでいるのをベンチで見守る相澤投手が、南洋秘伝の禁断の呪術を使ってピンチを切り抜ける、という話だ。事実とフィクションがごちゃ混ぜになった作品だが、アイザワ伝説としてはなんとも痛快で、ありそうな話にも思えてくる。
さて、所属球団の解散消滅で引退を余儀なくされたススムは、ほどなくトラックへの帰島を決意した。もともと野球選手になるために頑張ってきたわけではなかったから、さほど野球に未練はなかったし、いずれ親や姉妹がいる島に帰るのは本土に来たときから決めていたことだ。思いがけなくプロ野球の選手になって十分刺激的だったし、二十歳の勤め人には考えられない高給も手にした6年間だっただけに、このまま本土にいてもこれに換わり得る仕事をそうそう見つけられるとも思えなかった。さらに、敗戦で帰国させられた父庄太郎も、戦後の混乱が収まるにつけ、妻や娘たちが残るトラックへ帰りたいとする思いが募るばかりだった。こうした状況であったから、ススムは何らの迷いも未練もなく帰島を考えたのである。
しかし当時の日本は、未だ海外渡航が自由化されていなかった。また、日本時代の南洋群島、すなわちミクロネシアはアメリカの施政下にあって外国人の入域は制限されていて、直ちに帰島とはいかなかった。
ススムが母の住むトラックに戻ったのは1959年、28歳のときである。2年近くもの時間を費やしてしまったのは、トラック人母との親子関係を証明する書類、身元引受人による招聘状、渡航外貨の手当等々の書類が必要で、これを整えて米日双方の政府から渡航許可を得るのに手間取ったからだ。
ススムは帰島から5年かかって地元の市民権を取得したが、そのときに日本国籍は放棄した。日本との間を自由に行き来するには、ミクロネシア市民である方が便利であったし、将来いつでも日本国籍に復帰できると聞かされたからである。
また、帰島して2年ほど経って、父庄太郎もトラックに呼び寄せることができた。それから間もなく母は病死するが、庄太郎は1972年の末に80歳でその生涯を閉じるまで、妻の里水曜島でゆったりと余生を過ごした。
そしてススムは、森小弁の次男二郎の娘ユリエと結婚、それからは諸島有数の実業家として、また、諸島民の暮らしを助ける大酋長として、冒険ダン吉的な大活躍を遂げるのである。
伝統酋長とはなんだ
ススムにはいつも、酋長とか大酋長とかの肩書きが付いていた。これを「言ってみれば、王様みたいなもんだ」という人もいるが、これではあまりにも乱暴な説明で誤解の元になるから、もう少し正確に説明しながらトラック社会の構造を見てみたい。
酋長とは、太平洋島嶼地域では、ミクロネシアやポリネシアによく見られる伝統性に基づいた世襲的な地域社会の長を指す。その出現形態や制度は島や地域によって様々だが、要するに一族や部族を纏め上げる役職を担う社会リーダーのことである。
そもそも太平洋島嶼地域の酋長という存在は、収穫物の再配分を取り仕切る差配者だったり儀式の中心となる司宰者の役割を担うという共通性があり、王様のような絶対権力者ではなかった。つまり酋長は、民の働きから搾取し命令する存在ではなく、みんなの共有地から上がった収穫物を公平に分配し、もめ事を解決する共同体社会の指導者となるべき人だったのである。だから、物事の決定もおおむねコンセンサスを重んじ、一同の意見が一致するまで辛抱強く話し合うというのが太平洋流だった。それゆえ、太平洋の伝統的な大酋長というのは、君臨する絶対者ではなく、人々の尊敬をかう畏敬の対象としての権威者であると理解した方がいい。
ススムが継承した水曜島南部地域の酋長位とは、こうした社会的地位だった。日本から帰国したばかりの彼がいきなり地域の最高位に就けたのは、既述のとおり、母系制に基づいて世襲される伝統的地位だったからである。
ところが、トラック諸島における伝統的酋長位の実際は、日本の統治により変質がはじまり、アメリカの信託統治時代に変質が加速した。そして、ススムの死により、トラックには伝統的酋長が事実上いなくなったというのが私の見方だ。しかし、こんなことを言えば、大反論するトラック関係者があちこちから出てきそうな気がする。
現代ミクロネシアでは酋長位の変質が著しいとはいえ、パラオ、ポナペ、ヤップなどには未だに酋長制が残っているのに、トラックではススムで終わりとは、どういうことなのか、私の見解は次の如くである。
日本統治による酋長の変質
狭い島々で共同体生活をしていたミクロネシアの人々にとっての位階性や酋長制は、その土地の生産形態とともにあった。限られた土地や海からの恵みは皆で分け合う、これが島嶼人の暮らし方だった。それは誰か特定の人物が富を独占すれば、たちまち共同体は機能しなくなる。生産のための労働や生産物の分配を差配する組織機能、これが酋長制度だったから、その共同体の儀礼行為や祭事も、すべてがこの酋長制に連動して実行されていった。これが、ミクロネシアにみられる伝統世界なのである。
ところがトラックの場合はポナペやパラオと比較して、位階制度や儀式方式が共同体社会の中で固定伝統化しにくい状況にあった。というのもトラック諸島では、直径60キロにもなる円形環礁の中に大小40以上もの小島嶼が分散しているという地理性により、生活集団の単位がとりわけ小さかったこと、加えて、隣接島嶼との勢力争いによる離合集散が続き、地域統合がなされる以前の段階にあったこと、これらが原因して広域に広がる組織的伝統性が育たなかったのである。日本が占領した1914年当時の社会調査では、諸島全体で126人の酋長がいると報告されているから、これだと当時の人口からしておおよそ120人に一人の割合で酋長がいる計算になる。これだけ細分化されていれば、代々引き継がれた位階システムや儀礼方式の存在があったとしても、限られた少人数が共有するだけの脆弱な伝統性になってしまうのは明らかだ。そのうえ、日本時代に南洋庁が導入した村長制が、トラック社会の脆弱な伝統を崩壊へと導く切っ掛けをつくってしまったのである。
海軍から南洋庁へと管理主体を移行させてミクロネシアの統治を始めた日本は、地元酋長を通じて住民を治める間接統治を取り入れる方針をとった。それが1922年(大正11年)に庁令をもって制定した「島民村吏の規定」だったのだ。ところがトラックの場合は、100人を超える酋長たちが犇めいていたから、その数だけ行政村をつくるわけにもいかずに、全諸島を6地区23村に統合して各地区、各村から一人ずつの6総村長、23村長を酋長の中から指名することにしたのである。
これら村長の使命は、
1.法規の周知に関すること
2.願届の進達に関すること
3.支庁長より発した命令の伝達または其の執行に関すること
とあり、要するに行政通達や命令を住民に伝える伝達者であって、地方行政の首長といった役職ではなかったが、この新たな名誉職の出現が、村長に指名されなかった酋長たちの存在を危うい立場に追い込んだのである。もはや戦闘による勢力拡大や武力を用いた名誉挽回は許されない時代になって、統治政府のお墨付きを受けた全体の2割程度の酋長と残り8割の酋長とでは、権威の差が歴然と生じてしまうからだ。
既述のとおり、ミクロネシアの酋長は、具体的な権力保持者というよりも権威の人であったから、権威の低下は存在意義の消滅にも繋がる。各島に文化として継承されてきた酋長制度にまつわる様々な伝統が崩れ始めるのは、このためだった。また、今に語り継がれるトラック諸島の伝統酋長文化が、限られたトラック人の間でしか共有されていないのも、同様の理由からである。
これに対してパラオやポナペでは、村長制の導入が伝統文化を壊す直接の原因にはならなかった。例えばパラオの場合では、2人の総村長と13の村長を指名したが、この区画(二大酋長も自管轄村を有していたので全村数は15)はその当時のパラオ伝統社会にあった酋長たちの勢力区分と完全に一致していたからである。
パラオでは、南の大酋長アイバドールと北の大酋長アルクライが、それぞれ配下の酋長たちを束ねて拮抗する島秩序ができていた。よって南洋庁は、そこにある既存社会をそのまま利用して、住民統治を行ったのである。
酋長変質傾向の加速
では、アメリカ時代になって伝統酋長の役割変質が加速した原因はどこにあったのか。この現象については、トラック諸島だけではなく、ミクロネシア全体に現れた傾向だったと言っていい。それは生産形態との関連で考えれば、当然の結果だった。
酋長とは、共有する土地や海からの生産物を平等に分け合うためのシステムの中で存在する地位であるとは、先にも指摘したとおりだが、アメリカ施政の信託統治時代になると、共有の土地や海とは別の生産手段が出てきたのである。そのため、酋長本来の采配権や分配権の発揮場面がなくなってしまった。
別の生産手段とは、すなわち行政府職員や学校の先生といった公務員、さらには彼ら給与生活者が消費するための物品を扱う商業といった新たな産業である。これらの仕事から得られる生産物は、従来のサブシステンス経済で重要であった地域共同体とは全く異なる場所で生産されるゆえ、生産活動に対して酋長が絡んでくる余地はない。
島社会は、アメリカ式民主主義の導入と行政費援助金の流入で、従来のサブシステンス経済から一気に貨幣消費経済へと向かったが、これに対応できたのは、英語教育を受けた若い世代であり、アメリカ人との交流に積極的な人々に限られた。そんな時代になって、伝統経験や年齢を重ねてしまった酋長たちに出る幕はない。また、給与収入で現金を持つ公務員と現金収入の全くない酋長との間に、貧富の格差ができてしまったのも大問題だった。住民の幸せを願い、何かと面倒を見てあげるのが酋長の仕事だったのだが、現金が必要な社会で金が無ければ、人の世話をするどころか、酋長としての威厳や体面さえ保てないからだ。こうして貨幣経済が進行するほどに、酋長の実質的パワーが小さくなっていった。
一方、信託統治下において行政制度や自治政治体制が充実するに伴い、英語を駆使する高級官吏や議員らが新しいミクロネシアのリーダーとして台頭する。だから、伝統的権威と現代的政治権力という新旧二つのパワーが並立する。これが、現状におけるミクロネシアの社会構図なのである。
パラオやミクロネシア連邦の憲法では、「伝統酋長の立場を尊重する」といった条文が掲げられている。が、それ以上の具体的な役割が規定されていないから、酋長はやがて消えゆく運命にあるのかもしれない。そうなる前に、形骸化した制度ではあっても、文化、伝統として残していく知恵を出していくべきではないかと思う。
他のミクロネシアの島々を眺めると、マリアナ諸島のグアム、サイパンやミクロネシア連邦のコスラエ島では、スペイン時代に伝統的な社会構造が消滅し、今は文化としての酋長制度の跡形も残っていない。椰子の林やパンダナスの木々がエメラルド色の海に沿って見える光景はどこも同じなのに、なぜかこれらの島々に南洋の香りが消え失せて見えるのは、私だけの思いこみなのだろうか。
大酋長へと続く道
もともと制度的基盤が脆弱だったところに、日本やアメリカといった外部からの変質要因が加わって、トラック諸島の酋長文化はいまや風前の灯火となった。こんな説明をしておきながら、私自身もススムを日系大酋長と呼ぶのはなにゆえか。もちろんそれには、十分な理由がある。彼が過ごしたトラックでの日々が、大酋長と呼ぶに相応しい伝統的な姿であり続けたからである。ではそれは、どんな生き方だったのか? ここからは、ススム・アイザワの歴史ではなく、私が知るアイザワ氏を語っていきたい。
私がアイザワ氏のビジネス拠点である春島(現在はウエノ島)を初めて訪ねたのは1976年のこと。空港から車で一本道を街に向かって5分ほど走ると、右手に「ススム’ズ・ストアー」の看板がついた大きな建物が目に入った。その横の広い駐車場を挟んで湾状に海が入り込んだところが各島からここ主要島に集まるモーターボートの係留場で、水際にガソリンスタンド。そこから道路の向かい側にある小振りの木造建物がアイザワ氏の事務所だ。このあたりが街の中心で、ガタガタ道をもう数分も走らせれば街中を突き抜けてしまう。
スーパーマーケット、ヤマハ発動機代理店、カツオ漁業、建築資材輸入販売、島嶼間運輸・・・・と、アイザワ氏はこのときすでにトラック諸島では有数のマルチ実業家として成功していたが、28歳で帰島した直後は、市民権がとれずにビジネス活動ができなかったから、故郷の水曜島で「毎日、コプラの皮むきをやっていた」という。しかし、大人になってからのこの数年間は、故郷水曜島の習慣を知り、人々の日々の暮らしに接する貴重な機会となった。また、地域住民の間にも、次なる酋長位を継承する男の認知を浸透させる期間にもなった。後にして思えば、この時期がアイザワ氏にとって酋長となるべき修行のときだったのである。
そして市民権を取得すると、直ちに春島に居を移して商売をはじめるのだが、雑貨の輸入販売やモーターボート、その部品販売まで、日本人的な勤勉さと日本人脈をフル回転させた事業は、次々に軌道に乗って利益を生んだ。気がつくと、わずか数年でトラックを代表する事業家に成長していたのである。
アイザワ氏のビジネス活動には、一つの特徴があった。それは出身の水曜島との強い絆だ。日本時代は夏島(トノアス島)が行政の中心だったが、アメリカは飛行場のある春島に地区行政庁を設置したため、政治や経済、そして人物往来まで、あらゆる重要事項が春島を中心に動いていた。諸島各地から人が集まり、いわば都会構造となった春島だから、異郷に暮らす水曜島出身者にとって、アイザワ氏は誇りであり、憧れであり、希望の星でもあった。
とはいえ、これだけ立派になったアイザワ氏も、春島では只の実業家、只の人である。水曜島の酋長家出身といえども、他の島では何らの特権も権力もなかったから、事業展開は、もっぱら自分自身の力に頼るしかない。そればからか水曜島酋長としての立場は、商売をする上でメリットよりも遙かにデメリットの方が多かったのである。
初訪問から何度目かのある日、私は売り場面積200坪以上もあるだろうか大きなスーパーマーケットであるススムズ’・ストアーを訪れた。すると、以前には商品棚に溢れんばかりに並んでいた食料品や日常雑貨がほとんどなく、店は閑散としているではないか。商売がうまくいっていないのだろうか、私は心配で恐る恐る尋ねた。すると「やぁー、この商売はいま、ほとんどやっていないんだ。水曜島の連中や親しくしている人たちが次々やってきて、後で払うからといって品物だけ持って行くんですよ。今は金がないといえば、断るわけにはいかない。これじゃ売掛金ばかり溜まって商売にはならんよ。それに、いつでも酋長のところに行けば何とかなると思っていては、島の人たちの自立心はいっこうに育たないからね」とアイザワ氏は笑いながら答えた。酋長さんも、辛いなぁ〜と私は思ったものだ。
それでも彼は、拡大する事業の中で、積極的に水曜島の出身者を雇い入れたのである。これは地元への大貢献だった。というのも、信託統治時代のミクロネシアはどこも、行政府や政府事業が生み出す公的経済が中心だったから、民間企業といっても給与生活者の消費活動に対応する小規模商業が成り立つ程度であって、勤め先などほとんどなかったからである。
さらにアイザワ氏は、多忙な仕事の合間を縫ってスピードボートで1時間ほどかかる水曜島に頻繁に足を運んだ。部落に帰っては人々の暮らしの相談にのり、求めに応じては私財を投じて老朽化した学校舎の補修や道路の造成なども進めていった。住民の生活の面倒を見て、地域の共同体社会に貢献する日常活動は、まさしく酋長の仕事だったのである。
こうしてアイザワ氏は、特別な就任儀式をするわけでもなく、自然に水曜島南部の伝統酋長として、誰もが認める重要な存在になっていった。
日本時代には、諸島地区を23村に分けて村長を指名したが、アメリカ時代になるとこれを再編成して、トラック行政管区を38区に分け、選挙により1区一人の村長を置くことになった。しかし、この区もトラック行政管区内の下部組織として村行政府を置くという仕組みにはなっていない。結局、従来の酋長位に近い名誉職であったから、ほとんどの村では伝統酋長が村長に選ばれてその職に就いた。アイザワ氏もまた、水曜島地区の村長に選ばれるのは当然の成り行きだった。そしてその後、彼は38村長が一堂に会する村長会議においても議長に推され、何期もその職を務めた。「大酋長アイザワ」といった呼ばれ方をするようになった理由の一つが、ここにある。
しかし、自地区では圧倒的な支持を受けるアイザワ氏の評価も、他の島やトラック諸島全体では別物で、特に初期の頃には、彼の活躍ぶりがすなわち悪評となって伝わった。要するに、僻み、妬み、嫉みの類である。というのも、村長は予算権も行政権もない職位だから、かつての酋長のように実質的に村民たちの面倒を見るパワーはなかったからだ。アイザワ氏のように、私財を投じて村民に仕事を与え共同体の福利に貢献したくとも、構造の変化した時代にあってはそれが叶わない。となれば、日本から帰って間もない若造の活躍は、他の島々の酋長たちには面白いはずはない。彼の地元での評判が高まれば高まるほど、相対的に伝統酋長たちの評価が低下してしまうからである。
ところが傑出した力の継続は、人々の妬み嫉みを憧れや信頼に変える。やがてアイザワ氏の評価は、水曜島周辺に留まることなく島ごとの壁を超えて諸島全体に広がっていった。そしてトラック管区の行政府も、頼りになる地元の大物としての認知度を深めていったのである。
トラック最後の大酋長
1970年以降、将来の独立を視野に入れた信託統治領ミクロネシアは、日本との関係復帰を求めて動き出すが、その際に地元議員や高級官僚たちに混じったアイザワ氏の姿を見かけるのはしばしばであったし、戦時賠償問題や戦没者慰霊団に関わる日本との交流時にも、ミクロネシア側にはなくてはならない存在になっていた。内にも外にも、その活躍ぶりはまさに大物政治家を連想させる。
信託統治下にあっては、何度かミクロネシア全体の伝統酋長会議が催される機会があったが、その際トラック地区代表の伝統酋長として参加するのは、いつもアイザワ氏だった。ここにも、「トラック諸島の大酋長」と呼ばれる所以があった。こうしてアイザワ氏は、いつしかトラック人の多くが認める諸島を代表する人物になっていたのである。
だが、誤解の生じないように、ここでもう一度整理しておこう。アイザワ氏の酋長的行動やその貢献度は、トラック諸島全体、さらにはミクロネシア全域に及んだのだから、私たちが彼をして「トラックの大酋長」と呼んで差し支えないだろう。しかし、これはあくまでも比喩的な表現であって、伝統制度に照らして正確に言えば、アイザワ氏は水曜島南部の大酋長だった。だから、彼の酋長としての権威は他島では通じなかったし、水曜島に伝わる酋長制に関わる伝統儀式の方式は、トラックの他地域でも共有される普遍性はない。つまり、アイザワ氏が「トラック諸島の大酋長」になったのは、世襲的な伝統制度にのったからではなく、彼自身の行動と生き方が人々の支持を受け、自ら大酋長になったのである。先に「アイザワ氏の死によって、トラック諸島から酋長がいなくなった」と私が言ったのは、この現実を指している。
「大酋長」でも、大統領ではないんですか?と私はよく訊かれた。そう、大統領ではなく大酋長、ここにアイザワ氏が好んだ生き方の美学が潜んでいるように思える。
「大統領はね、トシオに任せてあるから」とは、氏がしばしば口にしていた言葉だ。幼少の頃、一緒に遊んで育った同じ年の親友トシオ・ナカヤマ氏は、敗戦後も島に留まって成長し、政治家を志した。彼もまた若くしてトラックの人気政治家となり、国家建設の中心的役割を果たしてミクロネシア連邦の初代大統領となった。
アイザワ氏の酋長としての動きも十分に政治家的だったと思えるが、「俺は酋長として、トシオの政治活動をサポートしていくよ」と言っていたように、一度も制度上の政治家を試みたことはない。
ここで信託統治時代の政治制度を説明しておこう。アメリカは将来の独立、自治にそなえて、まず1957年にトラック地区議会(パラオ地区 ’55年、ポナペ地区 ’58年、ヤップ地区 ’59年と各地区によって若干ずつ設置期が異なる)を、続いて1965年に上下二院制のミクロネシア議会を設置させた。
しかしながら、例えばトラック地区議会は38村を選挙区割の基本単位としたが、この地区議会にせよ信託統治全体のミクロネシア議会にせよ、これらはアメリカが導入した近代行政・立法制度であって、先に紹介した38村とそこで選ばれた民選村長とは、制度上の基本概念が異なっていて、相互に関連はない。前者は、近代民主主義国家における「国会」であり「地方議会」であると大旨理解して間違いないが、後者の場合はやはり首長としての村長ではなく、伝統社会を治める酋長としての役割をイメージすべきなのだ。アメリカが導入したこの近代政治制度が、ミクロネシアに近代リーダーと伝統的リーダーの相克を生み出した、と私は見ている。
1986年にミクロネシア連邦として独立した後は、連邦議会(国会)ができ、トラック地区はトラック州となって州議会が設置された。州には民選の知事職が置かれたし、連邦議会の議員になれば、国会での議員互選によって大統領への道も開けていたが、それでも彼はお目当ての候補を応援したり、若手の育成に尽力したりの政治活動には関わったものの、州知事選にも国会議員選にも、一度として自らは立候補することはなかったのである。郷里での日常活動とあれほどの住民人気からすれば、いつでも議員や知事にはなれたはずだと誰しもが思ったろう。それでも頑なにそれを拒んだのは、なぜなのか。行政機構や国家を背にした権力ではなく、自ら積み上げた権威をもって人々のリーダーたろうとする、伝統大酋長本来の血流がアイザワ氏の体内に脈々と流れていたからだ、と私は思っている。
アイザワ氏が好んだ“酋長”
最後に、ここで頻繁に使ってきた「酋長」という言葉に触れておこう。近年では、とりわけ文化人類学や民俗学の分野では酋長は使用されず、代わりに「首長」という語に置き換えられている。「野蛮、未開部族の長を指して使う言葉で、差別的な意味合いが強いから」がその理由らしい。
野蛮はともかく、「未開」が差別的だと考えるのだとしたら、それこそが問題だと私は思う。未開の反対は、開花とか開発になるだろうが、未開が悪くて開発が良いとする概念は、そもそも近代文明の著しい驕りだ。開発行為の果てが、深刻な環境破壊を招いているさまざまな現実を見れば、開発至上主義の誤りが認識できていいはずではないか。
とはいえ、差別用語というものは、その語自体に差別的意味が含まれているか否かの問題よりも、その語が使われた時代背景や使用した人々が有した意識の中での差別性が問題視される。例えば「支那」とか「支那人」という言葉には、何の差別的意味も含まれていない。だが明治以後のある時期から、日本人が優位意識、あるいは差別意識をもって中国あるいは中国人を指す言葉として使ったから、この語感から中国人は当時の被差別感を連想して不快に思うのである。また、差別意識を有していた日本人の側が、今になって当時の自分を思い出いだして恥ずかしいから使いたくないというのもあるだろう。語源的意味上の差別性はどうあれ、呼称される対象者が不快に感じるから嫌だというのならば、使用しない方がいい。
では「酋長」はどうか? これを差別用語として意識しはじめるのは、主としてアイヌ研究に関わる研究者たちからだった。これまでさまざまな差別を被ってきたアイヌ人たちの中から「アイヌの酋長」とは部族の長を馬鹿にした表現だとの反発があったからのようだ。でも、南洋の酋長たちは、そんなことを言っていない。というよりも、「シュウチョウ」は日本語だから、自分たちが日本語でどう呼ばれているか知らないし、関心もないからだろう。
それでも今から20年ほど前に、次のような出来事があったのを思い出した。「現代座」という劇団があって、団の主宰者が近代的開発に抵抗するヤップのケネメデ大酋長の存在を知って、これを題材に「星と風と波と」という劇を作った。この公演はけっこう評判となり、最終公演日に向けてケネメデ氏を日本に招待する運びとなった。これを聞きつけたNHKから出演依頼がきて、劇団側や間に入った私も大いに喜んだものだ。そして事前打ち合わせの時、ケネメデ氏は流暢な日本語でNHKスタッフに挨拶して、名刺を差し出したのである。そこには「ヤップ、伝統大酋長ケネメデ」と日本語で書かれていた。
だが、これが思わぬ問題となった。NHK側は、放送禁止コードに触れる可能性があるので、テロップで流すケネメデ氏の肩書きをカタカナで「チーフ」にしたいと言ったが、老酋長はあくまで名刺のとおり日本語で「伝統大酋長」にして欲しいと拘ったからである。結局これがもとで、ケネメデ氏のテレビ出演は取りやめになった。「自分で付けた肩書きを、差別用語だから使ってはいけないという日本人の考えを、私は理解できません」とケネメデ氏は嘆いた。
アイザワ氏もまた、自らを「伝統大酋長」と日本語で名乗った。彼はこの酋長という言葉に、大いなる誇りと愛着を込めて使っていたのである。だから私も、最大の敬意を払って「酋長」を使用する。
英語ではチーフ(Chief)、ハイチーフ(High Chief)といった表現が一般的だから、私はこのカタカナ語を使うときもあるが、「首長」という言葉使いは、まるで感心しない。というのも、首長とは、近代行政・政治制度の中での市長や知事を指して使う用語であって、それらは伝統世界での酋長とは異なる概念の職位である。先にミクロネシアの現代構造は、近代型の首長(知事や市長)と伝統型の酋長の相克状態が出現していると説明したが、酋長を首長に置き換えたら、何が何んだか説明がつかなくなるではないか。
島世界が永々と築きあげてきた島々の伝統性は、近代化という名の欧米方式に取って代わられようとしている。これに必死に抵抗しながら島々の良き伝統を守り抜こうとした男が、アイザワ・ススムという日系人酋長であった。彼の生き方が、時代錯誤というのは当たらない。彼自身は、世の中の流れ、世界の情勢を十分理解しそれに対応していたからこそ、現代そのものの厳しいビジネス社会で成功をおさめたのだし、その成功が彼の酋長活動を支えてきたのだから。
しかしその一方で、自分の生き方の限界をもまた、意識していたに違いない。今という時代、国家という制度の形成なくして人々の暮らしは継続しきれない。こうした現実と自らの美学の狭間に立っていたがゆえに、近代政治家として新国家建設のために働く親友のナカヤマ氏を支援し、彼の手腕に国家の未来を託したのである。
大統領と大酋長、新旧トップリーダーが幼馴染みの親友同士で、いずれも日系二世だったのは偶然の巡り合わせだったわけではない。いまから百年前、島々に渡った先覚日本人たちが植え付けた南洋魂が、ここへ来て力を結集させたのだと私は一人思っている。
ときの流れに沿って、トラック諸島の伝統社会はやがて消えゆく運命にあろう。だが、ススム・アイザワが残した偉大なる業績は、いつまでも語り継がれていくはずだ。それゆえ私は、彼を首長ではなく、敬意を込めて「大酋長アイザワ」と呼ぶのである。
(本稿は、10月に本研究所が出版予定のJIPAS研究シリーズ2『ミクロネシアの日系人』収録文章のダイジェスト版です。)