PACIFIC WAY
    住者たちの住民意識と地域行政
    
    −マーシャル諸島イバイ島の事例から−

研究員 黒崎岳大(くろさき たけひろ)


はじめに
 グローバル化の影響を受け、途上国地域では都市部への急激な人口流入に伴い旧市街地の周辺にスラム地区が出現、教育・保健衛生・治安政策など不備に起因する社会問題が起きる温床と化すケースが多く確認されている。この点に関して、ポートモレスビーなどメラネシア地域の一部の都市を除いて、太平洋島嶼国ではほとんど話題にあがらない。

  その理由は、そもそも太平洋島嶼地域における貧困概念が、アフリカやアジア諸国で用いる指標のみでは図りきれない諸要素を有しているからだ。例えば、マーシャル諸島は、国連における貧困指数である「1日一人1米ドル以下で生活している」人たちが、離島地域では25%以上いる。しかし、実際には大家族制度を背景とした互助的関係と比較的豊かな食糧需給による自給自足体制が確立されているため、飢餓状態を目にすることはほとんど無い。

  それでも1970年代、ミクロネシア地域で数少ないスラム街の事例として指摘されたのが、マーシャル諸島のイバイ
(Ebye)だった。

  筆者は、2003年から2006年にかけてマーシャル諸島に長期間滞在し、その間に「太平洋のスラム」と呼ばれるイバイ島の本当の姿を知るために継続的に島を訪問して、住民へのインタヴューを行ってきた。その中で明らかになったのは、アジアやアフリカのスラム地区とは全く異なるマーシャル諸島の特殊な事情であった。

  そこで本稿では、「太平洋のスラム」として知られてきたマーシャル諸島共和国クワジェリン環礁イバイ島の事例を下に、同島に共存する三種類の移住者と彼らの動向変化に伴う地方政府の公共政策の変遷について述べてみたい。
 
クワジェリン人とイバイ人
 
 2003年4月、マーシャルと米国の両政府間で行われていた自由連合協定の改定交渉が終了、両国政府代表が調印した。同協定の改定により、2004年より20年間にわたる米国からの財政支援が約束され、あとは双方での批准を待つばかりの段階に入った。

  しかしこの時、両国間では二つの重要な論点が先送りされた。一つは、ビキニ及びエヌエタック環礁で1946年から58年にかけて行われた米国核実験に対する同環礁住民、並びに同実験の被害を受けた周辺環礁
(ロンゲラップ環礁及びウトリック環礁)住民への被曝補償援助の拡大をめぐる交渉である。これに関しては、1986年の第一次自由連合協定で最終的補償を行うことで両国が合意したものの、それ以降に新たに明らかになった事実をもとにした再交渉をマーシャル側が望んでいた。マーシャル政府は、被害地域は上記の4環礁に留まらず、マーシャル諸島北部の環礁に広がっていると指摘している。

  もう一つは、クワジェリン環礁にある米軍基地の土地使用料及び使用期間を巡る交渉問題である。クワジェリン環礁南部にある環礁最大の島クワジェリン島は、第二次世界大戦後、米軍が核実験のための前線基地を設立、その時に住民は島を追われ、15マイル北に位置するイバイ島に強制移住させられた。その後、米軍はカリフォルニア州ローゼンバーグ基地から発射されるミサイル迎撃実験の基地として整備され、約20人前後の米軍人と約2000人の技術系契約社員が居住した。イバイ島に移住させられたマーシャル人は、毎日船でクワジェリン島に通勤し、基地内で清掃業やガードマンなどの単純業務者として働いた。

  同島の米軍基地としての使用は、第一次自由連合協定において1986年から30年間使用することで合意されたが、改定交渉では、米軍基地使用を50年間、更に状況に応じて20年の追加使用を可能とすることで両国が一致した。この国家間合意に対して、土地の権利を有する住民たちは、米軍との間で土地使用料の交渉が同意されない場合は米軍基地使用の延長を認めないと主張した。このとき、現地の新聞やラジオなどのマスメディア報道で強く主張されたのが、「クワジェリン島の問題は、イバイ島に住むRikwaj
(クワジェリン人)でないとわからない」という言説である。

  クワジェリン基地使用の問題を含めて、マーシャル諸島内における防衛権に関しては、自由連合協定によって米国に委ねられている。また土地使用に関しても、マーシャル諸島憲法で強制執行が認められている。とはいえ、マーシャル国内の土地は全て私有地で、実際に使用する場合には、土地に関する伝統的権利関係に基づいて権利者の同意を得ることが原則として不可欠である。ゆえに両国間の同意があっても、クワジェリンの土地権利所有者との間で合意されなければ、基地の使用延長に支障が出る可能性がある。

  この観点から筆者は、イバイ島で米軍の土地使用に関するインタヴューを実施した。そして明らかになったのは、イバイ島には多様な住民意識が存在していることであった。

  クワジェリン島からの移住を余儀なくされた経験を持つ50代以上の住民は、自らをRikwajと名乗る。一方彼らはクワジェリン環礁に土地権利を持っていないイバイ住民をRuamej
(外部者)と呼んで区別し、クワジェリン問題に関して関係ない人々として扱う。

  これに対して、イバイ島で生まれ育った20〜30代の住民は、自分たちはRikwajではあるものの、それとは若干概念が異なるRiebaje
(イバイ人)という新たな呼称で自らを表すことがある。Riebajeとは、クワジェリン環礁に土地所有権を持っている住民に加え、土地所有権の有無にかかわらずイバイ島で生まれた住民も包含する概念である。

  以上のように、イバイ島における住民意識の現状は、高齢層ほど出身環礁の違いを意識し、若い層になるにつれて、自らをRiebajeとして認識する傾向がたかまっている。
 
伝統的首長と土地制度
 
 さて、イバイ島におけるRikwajとRiebajeの呼称を考える場合に、まずマーシャル諸島における伝統的な土地所有関係について明確にする必要があるだろう。

  マーシャル諸島は伝統的にイロージ
(Iroij)と呼ばれる少数の貴族層とカチョール(Kajur)と呼ばれる大多数の平民層で構成されている。伝統的にはイロージが政治を担ってきたが、現在でも土地問題などに関しては、通常の国会とは別に、イロージ層の12人の代表で構成される伝統的首長評議会(Council of Iroij)で審議される。

  一方、カチョールもアラブ
(Alab:土地管理者)とリジャルバル(Rejarbal:労働者)から構成されている。国内の土地はウェ(Weto)と呼ばれる区画に分割されており、全てのウェトはイロージ、アラブ、リジャルバルの三層の関与が認められ、土地の使用・賃借などを決める場合には各層の代表の許可が必要となっている。ゆえに、全てのマーシャル人はいずれかのウェトに土地の権利を有している。よって、マジュロ環礁内に土地所有権を持っている人はマジュロ人(RiMajol)と名乗り、ビキニ環礁に土地所有権を持っている人々はビキニ(RiBikini)と名乗るのである。

  しかし、マーシャル諸島内でも各層の土地所有権の強弱は、地域により違いがある。首都マジュロを含む諸島東部に連なるラタック列島では、相対的にアラブの影響力が強い。ラタック列島では一人のイロージが所有する地域は比較的小さく、またイロージに対する敬意は払われているものの、各ウェトのアラブやリジャルバルの代表はイロージが専横的な態度を見せた場合には一致協力して退位を迫る事例も確認されている。

  これに対して、クワジェリン環礁や古都ジャルート環礁を含む諸島西部のラリック列島は、最北端のエヌエタック環礁を除き、全てモーチェン
(Moujen)と呼ばれる4人のイロージ一族により分割統治がされており、ラタック列島と比べてイロージの影響力が強い。
 
イバイ島の概要
 
 クワジェリン環礁の土地所有権者の多くが居住しているイバイ島は、諸島西部・ラリック列島中西部にあるクワジェリン環礁の最南部に位置する。クワジェリン島から北へ5km弱、ボートで30分くらいの小さな島である。面積は0.16平方マイルに過ぎないこの小島に、現在12,000人が住んでいる。

  住民たちの多くは米軍から支給されたコンテナハウスの中で過ごし、街中を出歩いている人の数は極端に少ない。椰子の木が少なく、日陰もないからだとも言えるが、日中に人影が見あたらない理由は別にある。

  一つは、「太平洋のスラム」というイメージとは逆に、各世帯の生活水準が比較的高いこと。多くの世帯では、家族の一人はクワジェリン島の米軍基地で働いており、そこで得た給与で家族が生活している。首都マジュロにおける最低賃金は時給2.75米ドルであるのに対して、米軍基地内での最低賃金は5米ドルと倍近い。更に基地内で有効な土木技術などの特殊技能に対しては手当が加算されるため、比較的高い賃金が確保できる。そのため基地労働者の家族たちは、イバイ島という小さな島に住まわされていると言うよりは、基地で働くためにこの島に住んでいるという方が適切であろう。事実、ほとんどのコンテナハウスにはテレビや電話などと共に、エアコンが設置されている。

  もう一つは、クワジェリン環礁内に敷かれた米軍による立ち入り禁止区域の存在である。クワジェリン環礁はローゼンバーグ基地より発射されたミサイルの迎撃実験区域として定められているため、環礁ラグーン内の自由な移動は制限されていた。そのため伝統的な生活を送るのに必要な小島間の移動や漁業は事実上不可能となった。その結果、基地労働者になれない住民は、エアコンの効いたコンテナハウス内で寝て過ごすのである。
 
イバイ島への移住者の歴史
 
 以前はクワジェリン環礁の住民のほとんどが、最南部にあるクワジェリン島に居住していた。環礁内にある小さな島には、数戸の家族が住むだけで、大半は食糧供給地として定期的にアウトリガーで訪れる場だった。イバイ島もそうした島の一つで、第二次世界大戦終了直後の島には、三家族15人が居住するに過ぎなかった。

  戦争中にクワジェリン環礁の住民の多くは、戦争回避の目的で南部のアイリンラプラプ環礁等に移住を強いられた。米軍が進攻して日本軍が玉砕したのちのクワジェリン島にはマーシャル人たちも戻り、しばらくは米軍関係者と共存した。しかし、1951年に米軍基地の本格的建設が決まり、住民たちは強制的にイバイ島へと移動させられた。この中には、クワジェリンに住んでいた住民のみならず、1946年に米軍核実験のためアイリングナエ環礁を経由してクワジェリン基地へ強制移住させられたビキニ住民たちも含まれていた。米軍は移住を余儀なくされた住民たちに対して、イバイ島内にコンテナハウスを建設していった。

  1963年になると、新たな住民が来島する。クワジェリン環礁の南部に位置するリブ島が、米軍のミサイル実験地として決定されたからだ。リブ島はマーシャルでは珍しい単独の島で、島の中央部には大きな池が存在していた。この池がクワジェリン基地から発射されるミサイルにとって望ましい目標となった。そのため、同島の100人あまりの住民が全てイバイに移された。その後1965年には同実験は終了し、1970年代初めにはリブ島出身者は故郷に戻ることが可能となったが、ほとんどの住民はイバイに残る道を選択した。

  1979年にマーシャル諸島がミクロネシア連邦から離脱して独自の憲法を制定すると、国内では独立に向けた動きが強まっていく。しかしイバイ島に関して言えば、独立に対する動きは他地域ほど強まらず、むしろ独立に伴い米軍基地が無くなるのではないかとの懸念が広がった。とりわけ1983年に実施された住民投票では、米国との核実験補償問題が未解決であったビキニ環礁などと並び、独立への反対票が賛成票を上回る数少ない地区として存在感を示し、当時の大統領アマタ・カブアを悩ませた。またこの時期、米軍がマーシャル政府との間でクワジェリン島の使用許可延長手続きに手間取っていた間隙をぬって、イバイ島住民がクワジェリン島にボートで侵入するという事件が起った。これは米国政府によるクワジェリン島の半永久的使用
(占拠)に対する抵抗の姿勢を示す行為だった。

  1986年に自由連合協定が発足すると、米国からクワジェリン基地の土地権利者に対して土地使用代が支払われるようになった。さらに、この頃になるとクワジェリンの基地で働くことを目的として、周辺環礁からイバイに移住する新たな住民たちが急増。1989年の国勢調査では、クワジェリン環礁の住民数は10,000人を超えた。

  1997年、前年末に急逝したアマタ・カブア大統領の後を引き継いで、クワジェリン環礁最大のモーチュンであり、イバイ島唯一のイロージであったイマタ・カブア上院議員が大統領に就任。この大統領は2001年に終了する第一次自由連合協定の改定交渉で、米軍基地使用に伴う土地代について積極的に交渉を進めるように期待された。そのため、この時期は多くのプロジェクトがマジュロからイバイへとシフトしていった。

  しかし、イマタ・カブア大統領の政権下では政治的分裂やカジノ建設問題に伴う宗教団体からの反発などが起こり、その結果マジュロを中心とした統一民主党に政権を奪われた。統一民主党の支援を受けて新大統領となったケサイ・ノートは、米国間で第二次自由連合協定を締結させたが、これに対してイバイの住民はクワジェリン問題に対して姿勢が消極的であると非難し。この問題は、未解決のまま継続審議事項として扱われた。抵抗を示すクワジェリンの土地権利者団体に対して、米マ両政府は、クワジェリン関連予算を凍結するなど強硬姿勢を示したが、かえって住民の反対姿勢を強化させた。

  クワジェリン米軍基地使用第一次返還期限である2016年から逆算して、基地使用延長の可否を決定しなければならない期限は2009年。期限まであと1年を残すだけとなった2008年、トメイン大統領の下で再び政権の中枢に着いたクワジェリン出身の議員たちは、米国政府に対して基地使用延長を拒否するという強硬な姿勢を示した。その結果、米国政府も姿勢を軟化させ、凍結されていたクワジェリン関連予算が執行された。

  だがその後、トメイン大統領は米軍基地問題の解決を重視する姿勢へと政策変更させたため、クワジェリン出身の議員たちはトメイン政権から離脱。これにより、再びマーシャル政府とクワジェリンの土地所有権者との間で対立が深まった。

  現在は、統一民主党が支えるマジュロの伝統的大首長
(イロージラプラプ)でもあるチューレーラン・ザダカイアが大統領を務めており、その下で融和政策が進められている。クワジェリン基地問題は、事実上2011年末に実施される総選挙の争点になると思われる。
 
イバイ島の住民意識と地方政府の政策の変容
 
(1)1970年代:出稼ぎ労働者急増の時代
 1970年代に入ると、米軍基地労働という魅力的な職を求めて、国内各地からイバイ島へと人口の流入が続いた。やがてイバイ住民の過半数を非クワジェリン環礁出身者が占めるようになり、島内には二つの住民層の違いが明確になり始めた。

  一つは強制移住させられた旧クワジェリン島民。この頃になると彼らは、故郷クワジェリン島へ戻ることが困難であるとしだいに理解するようになった。そのため、クワジェリン島への帰島要求運動を一層強める一方で、現在の生活環境を維持していくこと、さらにより好ましい生活環境を求める姿勢を示すようになる。

また、ビキニ環礁やリブ島出身者も、他の移住地への再移住や故郷の島に戻る者たちがいたものの、かなりの人数がイバイ島に残った。その理由の一つは、基地内で仕事を確保し、生活の基盤が整って、イバイでの生活にしだいに適応していったからである。彼らもまた、イバイを生活の場として日々の生活に必要な環境の整備を求めた。毎日クワジェリン島の米軍基地に通うために利用するイバイ島の港湾の整備などに対する要望が出てくるようになったのは、この時期からである。

  もう一つは、70年代に急増する、いわゆる出稼ぎ労働者である。彼らは強制移住者と異なり、米軍基地での労働に対して関心が強い。そのため、イバイでの生活に対しては、必要最低限の社会インフラの確保さえあれば良い。むしろ出稼ぎ労働者にとって重要なのは、イバイ島で居住場所と基地での職を得られるか否かが問題だった。とりわけ、1970年代後半になると、イバイ人口の急増に伴って、住居数が足りなくなり、一つのコンテナハウスに数世帯が一緒に住むという状況が日常化する。また基地内でもマーシャル人の職がいっぱいになり、イバイ島内には仕事にあぶれた住民たちが溢れかえる事態となる。この結果、イバイでは様々な社会問題(廃棄物処理・家庭内暴力・幼女虐待・青少年妊娠等)が指摘されるようになった。

  こうしてイバイは、初めは一時滞在と考えていた強制移住者たちと働き場所を求めて各地から流入してきた二種類の人たちが共存する島となった。そして彼らはみな、最低限の生活の確保と労働環境の整備を最優先に解決して欲しいと望んだのである。
 
(2)1980年代:クワジェリン環礁地方政府の成立
 1979年にミクロネシア連邦から離脱したマーシャル諸島自治政府は、諸島単独での独立に向けて、様々な政府組織を整備していく。その中で、地方自治に関しては23の地方政府を設置し、初等教育や保健衛生、廃棄物処理などを担うことが定められた。

  イバイ島は1982年、クワジェリン環礁北部に設置された米軍基地のあるロイ・ナムル島に通うマーシャル人が居住するサントウ島と一緒になり、クワジェリン環礁地方政府が成立した。この地方政府は直接選挙によって選出された市長と、10人の地方議会議員により構成されている。

  ここで注目すべき点は、地方議会議員の内訳である。クワジェリン環礁に土地所有権を持つ住民を対象とした9人の議員枠とは別に、非クワジェリン環礁人である外部出身者のための議員枠を別途設けていることである。このことは、クワジェリン環礁地方政府は単にクワジェリン環礁出身者のみではなく、強制的または出稼ぎなどの自発的な移住に関わらず、現在クワジェリン環礁に住んでいる住民のニーズを受け入れることを意図したものである。
 
(3)アービン・ジャックリック市長時代 (19821991年)
 1980年代初頭からクワジェリン地方政府市長として活動してきたのは、アービン・ジャックリックである。彼は米国で教育を受け、クワジェリンで教員の職に就いていたが、米国によるクワジェリン基地の定着化に異議を唱え、基地反対運動の騎士として活動し、初代市長に当選した。また、クワジェリン出身の上院議員イマタ・カブアらと協力し、マーシャル政府の政策は米国追従であると非難した。さらに、クワジェリン基地の土地使用期間の一時的失効時期の機会を狙い、セイル・インというクワジェリン島への上陸運動を指揮した。

  こうした運動は、住民自治という観点からは非常に大きな動きを示したものの、逆に言えば、米国との融和関係を保ちつつ、可能な限り早期、かつ経済的に有利な条件で独立を進めて以降としていたアマタ・カブア大統領率いる中央政府との間で対立が生じ、社会インフラなどの整備が後回しにされるなど様々な不利益を被ることになった。高潮などの大きな被害を受けるなど、都市としてのイバイの環境整備が著しく遅れていった理由はここにある。

  ジャックリックは、その後1991年に国政に転身したものの、イマタ・カブアの不正資金問題を巡り対立し、クワジェリンの選挙区から離れることになった。
 
(4)1990年代:社会インフラ整備の時代
 1990年代に入ると、遅れていた社会インフラの整備に対する住民の意識が高まっていく。そのきっかけとなったのは、ウィルマー・ボルケイム市長の誕生とイマタ・カブアを中心としたクワジェリン出身議員の政権加入である。

  ウィルマー・ボルケイムは、市長就任まで中央政府の官僚として、アマタ・カブア政権の下で内政の重要ポストを担い、首都マジュロの急激な都市化の対策などを進めていた。そのため、クワジェリン環礁地方政府市長就任に際しても、マジュロで起きていた都市化に伴う問題への対応をイバイにおいても適応しながら、社会インフラや生活環境の整備をいち早く進めることを主張した。

  独立後は、クワジェリン問題を巡り、マジュロの伝統的首長でもあるアマタ・カブア大統領に対して、クワジェリンの基地問題への姿勢を批判してきたクワジェリン出身議員たちは、野党の立場に終始してきた。その結果、国家規模での大プロジェクトに関しては、首都マジュロはもちろん、南部のジャルート環礁や北部のウォッジェ環礁と比べても後れを取るなどの不利益を被らざるを得なかった。

  しかし、1990年代に入ると、アマタ・カブア大統領は当時台頭してきた民主派グループと対抗するため、仇敵と目されていたイマタ・カブア議員を中心としたクワジェリン出身の議員たちと和解し、彼らを大臣などの政府の中枢に登用するようになった。さらに1997年にアマタ・カブアが死亡し、イマタ・カブアが大統領職を引き継ぐと、クワジェリンの開発にも向けられるようになった。

  このようにイバイに対する行政上の環境が整備されていくと同時に、イバイの住民たちの意識に大きな変化が見られるようになる。90年代初めになると、イバイ住民の過半数がイバイ島生まれの新世代が占めるようになった。彼らの親世代までは、出身地ごとにクワジェリン、ビキニ環礁、リブ島、あるいは出稼ぎ労働者というように、狭い島内であって異質グループとして存在していた。ところが、イバイ島で生まれた世代にとっては、「イバイ島=故郷」であるという意識が強くなり、この島での生活環境の充実を望むようになっていった。彼らの間でしきりに使用され始めたのがイバイ人という呼称である。この場合は島に土地の権利があると言うよりも、この島で生きていくための権利があるという強い意識が示されている。こうした世代の出現により、クワジェリン地方政府に対しては米政府やマーシャル政府と戦う組織という側面よりも、イバイ島という都市生活の向上を進める行政主体となることを望むようになっていった。

 以上のような行政を巡る環境の変化あるいはイバイ人という意識を持つ住民の増加を受けて、クワジェリン地方政府も、中央政府と協力してイバイの生活基盤整備を積極的に進めていくようになる。1996年には、それまでイバイにあった診療施設を大幅に拡大し、国内で二つ目の総合病院となるイバイ病院に格上げし、米国やフィリピンの医師・看護師を導入するなど保健衛生の充実を図った。また居住地区の拡大を目的として、イバイ島の北部にあるグジグ島との間を地続きにし、環礁東部幹線道路の建設を進め、そのグジグ島にクワジェリン地域で初めての公立高校クワジェリン高校の建設を計画した。
 
(5)2000年代:クワジェリン環礁出身者の不満
 このように積極的な公共事業による社会インフラや教育・保健衛生施設の改善が進められていった。しかし2000年にボルケイム市長が急逝。すると直ちに、市長代理の下でプロジェクトの実施が滞ると共に、2000年以降イマタ・カブアを中心としたクワジェリン出身議員グループの再度の政権離脱によって、多くの計画中のプロジェクトが凍結されてしまった。

  2003年の市長選挙で、イマタ・カブア元大統領の後ろ楯を得て当選したのがジョニー・レマリである。レマリ市長は、クワジェリン島に加えイバイ島においてもアラブとして土地所有権を有する、まさにイバイに対しても地元意識を持っている人物だった。また、レマリ市長の兄であるクニオ・レマリはアマタ・カブア大統領死後に大統領代理を務めるなどの重鎮議員だった。弟のレロン・レマリもラエ環礁出身のベテラン議員の一人である。このようにレマリ家は、クワジェリンを中心としたカビン・メトと呼ばれるラリック列島北西部の有力政治一家として知られている。

   レマリ市長は、市長代理時代にいっこうに進展しなかったプロジェクトを進めると共に、クワジェリン島のアラブの一人として、中央政府との間で米軍基地使用を巡る問題でリーダーシップを発揮することを約束した。審議継続となっていたクワジェリン島土地所有権でも、クワジェリン出身議員と協力して中央政府の政策を批判し、イロージ・アラブを集めた会合で全ての土地権利者から署名を集め、中央政府を攻撃した。こうした働きに、中央政府はクワジェリン政府への締め付けを強め、社会インフラ整備に使用される「クワジェリン関連予算」の一時凍結をもって応じた。

 レマリ市長はこれまでの市長とは違った。従来の市長がイバイ島との特別なつながりがあったわけではないのに対し、レマリ市長はクワジェリン島と共にイバイ島のアラブでもあるという特徴を持っていたからだ。市長就任時にイバイ島について、「若い世代にとってはすでに故郷になっており、クワジェリン(島)よりも身近な存在となっている」と指摘、若い世代の意識を理解して、新世代への対策として生活環境の整備に力を入れる政策を打ち出していった。

 具体的には、公立私立の初等教育6施設を改築し、米国や日本からのボランティアの派遣も受け入れた。また2006年には念願のクワジェリン高校を開校した。保健衛生面では、それまで秩序だった廃棄物処理制度が整備されていなかったことを反省し、イバイ島北東部のラグーン沿いにある廃棄物処理場を整備し、毎週月曜日をイバイ島民全員が参加する「クリーンアップ・デー」と名付けて、島内清掃の義務づけた。

  また、無秩序な住民増加の規制を目的として、出稼ぎ移住者のイバイへの新たな居住に制限を付けるなど、イバイ人の強化を進めていった。しかし、これらイバイ人としてのアイデンティティ強化と見られる動きも、あくまでもイバイの唯一のモーチュンであるイマタ・カブア元大統領の許可範囲内でのアイデンティティ是認であり、クワジェリン環礁に対する眼差しを持ち続けることを条件としたものであった。
 
考察
 
 本稿では、マーシャル諸島クワジェリン環礁にあるイバイ島に住む住民へのインタヴューを下に、現在のイバイ島に共存している三つの住民層について考察した。三つとは、米国の基地建設やミサイル実験などのために強制的にイバイ島に移住させられた人々、クワジェリン米軍基地で働くことを目的としてイバイ島に自発的にやってきた出稼ぎ労働者、およびイバイ島で生まれ成長していく中で、イバイこそ自分の故郷であるとの意識を持っている若い新世代である。

  それぞれの世代は、各時代の影響を受けてイバイ島で暮しており、他者との間で相互に影響を受けながら、イバイ人意識を醸成していった。こうした住民層の出現によってイバイにおける公共政策もまた変化していった。当初は強制移住者にせよ出稼ぎ労働者にせよ、いずれは故郷や新たな地に移住するまでの「一時滞在地」と見なすに過ぎなかった。よって地方政府に対しても、居住施設や食糧の確保以外には特に社会生活への介入を望むことはなく、むしろ政治的なリーダーを望む側面が強かった。しかし、イバイでの居住期間が長期化し、あるいはイバイで生まれ育った世代が多数を占めていく中で、イバイを生活の場から自らの故郷として捉える意識も生まれ、これに伴い地方政府も教育や保健衛生などの基礎的分野の整備や港湾や道路などの社会インフラの整備に目が向けられるようになっていったのである。

  もちろん、こうした「一時的滞在地」から「故郷」というような単純な図式でイバイ市の複雑な政治状況を全て語ることはできない。現在でも年配層を中心にイバイ島に住んでいるのは、いずれクワジェリンに帰島するまでの「仮の住まい」としてしか考える人々はいるし、そうした彼らはイバイ島の過度な開発に対しては批判的だ。また、通常はイバイを自らの故郷として意識していると言う人々でも、伝統的な儀礼や芸能を行うときになると、マーシャルでの伝統、すなわち母系出自を基本とした土地所有関係に基づく意識を強調したりする。こうした事例を目にするとき、「故郷」という概念は、個々人が与えられた環境の中で、状況に応じて選択されていくものなのではないかと思うのである。

  第二次世界大戦以降、常に人口の増加を示してきたイバイ島であったが、2000年代後半になり初めて人口減少の傾向を示した。その理由は、国内の不安定な政治状況及び停滞が続く経済状況の中で、クワジェリンでの生活では満足できず、自由連合協定により、移動が自由になったハワイや米国本土へと移住する傾向の拡大が影響しているものと思われる。これが一時的な現象なのか、あるいは今後急激に拡大していく傾向なのかについて結論を出すにはもう少し時間が必要である。筆者もイバイ島民へのインタヴューを継続しながら、この動きについて注視していきたい。

 

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