PACIFIC WAY
     ―ああ、楽園のはずが―
ポンペイ島滞在記 第10回  
    
茂田 達郎(しげた たつろう)


第2章 ここはポナペ(その5) 

ポナペ・ミステリー
 大晦日の深更、時計の針が12時を指すころになると、どこからともなく子どもたちが路上に出てきて、集団ができる。その集団は、集落の家々を訪れては抑揚をつけて一斉に囃し立てる。
「パラカップ マインコ! コシキ クラッカー! メンタマ ショーチェ!」
 (新年おめでとう! 菓子投げてチョーダイ! 無くてもチョーダイ!)
 無いものはあげられないはずなのだが、なぜかこう囃す。訪問を受けた家では家族総出で出迎え、用意しておいた飴やらチューインガム、チョコレート菓子などをわしづかみにして子どもたちの頭上に振り撒く。それを子どもたちは歓声をあげて我れ先にと拾い集める。日本の建前(上棟式)のときに行われる「散餅銭の儀」を彷彿させるものがあるこの風習、いつ始まったのか定かではないが、現在70歳近くになる老人が物心ついたころには既にあったそうだから、かなり古くから行われていることは間違いない。
 我がスノーランドでも以前は投げて撒いていたのだが、取れる子とそうでない子と、差が出る。夢中になって取り合ううち、怪我をするようなことがあってもいけない。そこで、先年からサンドイッチ・バッグに定量を入れ、小さい子から縦列に並ばせ、個々に手渡すようにした。
 子どもたちは、下は4〜5歳ぐらいから上は14〜15歳ぐらいまで。およそ30人から40人ぐらいの集団を組んで、第1波、第2波、多いときは第3波、第4波と押し寄せてくる。ときに2匹目のドジョウを狙って再来することがある。何せ大勢だし、深夜である。さして明るくない門燈の下で子どもたち個々の顔形を識別する眼(まなこ)を持ち合わせていない当方は、昨年、息子夫婦と孫たちが嫁の実家に新年のあいさつに出向いた後の留守を預かり、まんまとしてやられた。子どもたちが立ち去ってしばらくして、向かいに住むカニキがやってきて言うのには、
「さっき来た連中は2度目だったの知ってた? あげなくてもよかったのに」
 カニキの言によると、彼らは最初に来たときには被っていたサンタの帽子をポケットにねじ込んだり、着ていたシャツを脱いで裸になったりして、それとなく“変装”していたらしい。さすが生命力旺盛なポナペの子どもたち、こちらこそ「脱帽」だった。
  
 1994年から1996年にかけては、ポナペのツーリズムが空前の活況を呈した時期だ。わけても1995年、ポナペを訪れた日本人ツーリストは過去最多の5千数百人に上った。その後、現在に至るまでこの記録は塗り替えられていない。当時、邦人の経営するダイビングショップが3社あり、ツーリストの大部分はダイバーだった。おおむね4泊5日から1週間前後の旅程である。ということは、年間を通して毎週平均100人を超える日本人ツーリストが入れ替わり立ち替わりやってきた計算だ。
 おかげでホテル・スノーランドも多忙を極めた。
 そのころ、日曜日のポナペ着便は夜10時半だった。午前中、日本を発ってグアムでトランジット。飛行機を乗り換え、チューク(トラック)経由でポナペ入りする長旅だが、その日のうちに移動を終えられる最もアクセスの良い便とあって、この便を利用する旅行者が多かった。
 入国審査と通関を終え、ゲストがホテルに到着するのは夜半11時半から12時近くになった。息子の健がフロントでチェックイン手続きとルーム・キーの引き渡し、施設の案内などをする。その間に、健とともに空港にゲストをピックアップしに行ったアンソンは、荷物を車から降ろし、部屋の前まで運ぶ。それがすむと、二人は明朝に備えて早々と引き揚げる。
 ここからが私の出番であった。
 ポナペの夜、ことに日曜日の夜は、買い物をしたくても店が開いていない。1日がかりで遠路はるばるたどり着いたツーリストは、空腹でも翌朝まで我慢しなければならなかった。スノーランドならではのオリジナリティを打ち出したいと模索していた我々は、そこで、軽食と飲み物(ビールかジュース)をセットした夜食を無料で提供することにした。だが、レストランは朝が早い。深夜まで従業員を残し、開けておくことはできなかった。結局、ロビーの一角にあるカウンターバーを利用して、素人の私が、近くに住む女性従業員をアシスタントに、対応する仕儀となった。このため、日曜日の夜、それまで健と私と交代で休みを取っていたシフト体制が崩れてしまったが、それはそれでやむ得ないことだった。
 午後9時を目途に、チェックインする人数分の仕込みにかかり、スタンバイしておく。ゲストが到着するや、タイミングを計ってソーセージを茹で、キャベツの細切りをバターで炒め、電子レンジで焼いたホットドッグパンに挟む。それをバナナの葉を敷いた平皿に盛って、温かいうちに食してもらう。味もさることながら手際の良さが要求された。学生時代の 自炊生活、五十路を目前にしてからの独身生活、その経験が多少は役に立った気もする。                   
 ゲストのなかにはビールを追加で求める人もいた。ポナペの言葉や食べ物、土産物の情報、スノーランド命名の由来を尋ねる人もいた。後を片付け、戸締りをし、ヘルプの従業員を送ってから事務所奥のベッドに転がり込むのは大抵2時を回っていた。
 その夜(確か1995年の4月ごろだったと記憶している)、接客を終え、従業員を送るため隣接の駐車場に足を向けた私は、ワゴン車に乗り込もうとして足元に小さく丸めた紙片が落ちているを目にとめた。
「また、ところかまわずゴミを捨てて!」
 ひとりごちながら拾い集め、エントランス脇のクズ箱に放り込もうとしてなんとなく気になり、その1枚を広げてみた。「Gas $5.00」と記された領収書だった。続けて広げた残りの2枚も日付けは異なるが、5ドルと10ドルのガソリンの領収書だった。ポナペ人がガソリンを入れるときは、5ドル程度の少額の場合が多い。マネージャーのピーターは島の東から毎朝30分かけてマイカーで通勤しているので、彼が捨てたか誤って落とした可能性を最初は思い浮かべた。が、ピーターは日曜日は休日で出勤していないし、昨日からあったにしては紙が湿っていない。
 従業員を送り届け、事務所に戻ってから、帳簿と領収書の束を取り出し、繰ってみた。すると、あった! 落ちていた領収書と日付けは同じ。ただし金額は20ドルとなっている。
 翌朝8時半、アンソンとピーターが、2台のワゴン車に分乗したゲストをコロニアタウンのダイビングショップに送って出た後、健に件(くだん)の領収書と帳簿を見せて「どう思う?」と、感想を求めた。健の見解も私と同じだった。領収書を偽造して、その差額を着服したに違いない、という結論だ。アンソンが戻ってくるのを待って事務所に呼び、問い質してみた。しかし、彼は「知らない」の一点張りだった。金額の異なる2枚の領収書を目の前に並べ、「こちらのはお前の筆跡じゃないか」と指摘しても認めようとしない。結局「もういい。わかった」と放免したが、帰りがけに「ガソリンはどこで入れているんだ?」と一応聞いておいた。今もそうだが、当時3店あったガソリンスタンドは店名スタンプが押してなかったからである。
 ほどなくしてスノーランドの現地パートナーであり、アンソンの父親でもあるオルペットから「アンソンが何か間違いをしたか?」と、電話がかかってきた。声に険がある。対応次第では事を荒立てかねない危惧を抱いたので、「いや、たいしたことじゃないです。確認したいことがあったので尋ねただけです」と、努めて無難な返答をした。それがかえって彼の癇に障ったのかもしれない。こちらに非があるのをごまかそうとしている卑怯な言動と捉えたのかもしれない。
「アンソンは朝から夜遅くまで毎日忙しく自動車を走らせているのだから、ガソリンだってたくさん使いますよ。アンソンが信じられないなら、これからはほかの従業員にガソリンを買わせなさい」
 嵩にかかってまくし立て、受話器を叩きつける音とともに通話が切れた。オルペットの言い分にも一理あった。アンソンの仕業だという証拠がないまま彼を詰問した点である。しかし、ガソリンスタンドで発行する領収書はカーボン紙を使った複写式になっている。アンソンが購入したというガスステーションに出向いて控えと照合すれば、通しナンバーからその領収書が本物か偽物か一目瞭然でわかる。あえてそうしなかったのは、ウラを取ってまで彼を追いつめたくなかったのと、正直に話してほしかったからだったのだが―。
 アンソンには、それまで、格別目をかけてきた。何しろスノーランドの建設時からオルペットとともに参加し、オープンしてからは隣接地に住んで、夜間であろうが早朝であろうが、必要なときにすぐ飛んできてくれる頼りになる存在だ。いわば身内同然であった。だから、1993年の晩秋、私が一時帰国した際は、研修名目で彼だけを連れて行き、あちこち連れてまわったりもした。それだけに、行為の背景なり、理由なりが知りたかった。それがわかれば、してあげられることがあるかもしれない。後日、アンソンにそのことを告げ、「なぜ、パパに言ったんだ」と尋ねると、
「あなたがパパに話すと思った。それで先に話しておかなければと思ったんだ」
 と答えたものの、最後まで自分がやったとは言わなかった。しかし、
「サラリーを貰ってもパパに取られてしまうから、自分の金が足りない」
 ポツリと呟いた言葉は、私を唖然とさせた。ポナペでは親が子どもの稼ぎの上前を撥ねるのは、ごく当たり前のこととして行われていると知ったのは、だいぶ後になってのことである。
 
 この一件があって何ヵ月かたった1995年11月のある晩、奇怪な事件が発生した。場所はナーシ(本来の意味は集会所)のカウンターバーだった。
 このナーシについては以前にも少し触れたが、「まったりと寛げる場所があったら」と、宿泊者からの声が高まるのに促される格好で、前年の3月から半年近くかけて建設したローカル色豊かな建物だった。海側に面して眺望が開け、かつ客室棟とは一線を画した南西の斜面にあった。建設にはオルペットを頭に、彼のファミリー、ロイ部落の若者ら10数人があたった。直径30cmはあろうかというマングローブの大木を伐り出して運び入れ、柱に据えたのを手始めに、根太、梁など木組みすべてにマングローブ材を使用した。ポナペの伝統的なナーシは333本のマングローブを使って建てるという故事に倣ったのだ。屋根はオーシと呼ばれるヤシの葉で葺いた。「モロンヨ・オーロ」(男の心)と呼ばれる、かつては武器や大事なものを隠したといわれる屋根裏の切り返し部分も再現した。ただ、フロアだけは米材の2×8(インチ)板を敷き詰めた。そして、一方の端に一段高くなったステージ、中央部分の海側にバーカウンターを設けた。玉突き台も設置した。サンセットを見ながら、あるいはビリヤードを楽しみながら飲んでもらおうという目論みだった。
 当然のことながらバーには各種の酒をストックしてあって、営業が終わるとカウンターの背後にある収納棚にしまい、扉を南京錠で施錠していた。ここが襲われたのである。
 第一発見者(この場合、被害者というべきか)は、間が悪いことにお客さんだった。
 バーテンのエーマンが、オーダーを受けて出したところ、ひと口飲んだお客さんが、
「なんだ、こりゃあ!? 味がないぞ」
 奇声を発したらしい。
「そんなバカな。からかってるんでしょう?」
「冗談じゃないよ。お前、飲んでみろよ」
 エーマンが口をつけてみると、確かになんの味もない。匂いもない。ただの水だった。念のため、ボトルから新しいグラスに注ぎ、飲んでみたが、やはり水だった。
 報告を受けた健が駆けつけ、とりあえず、お客さんには他の飲み物をサービスすることでご容赦願ってから、周辺を調 べてまわった。すると、収納棚の背板がわずかにめくれているのを発見した。エーマンの言によると、バーをオープンしたとき扉は施錠されていたというから、犯人は収納棚の裏から背板のベニヤを剥がし、犯行に及んだものと推測された。
右奥に事件が起きたバーカウンター、左にいるのがゴン
 それにしても、解せないのはその手口だった。普通ならボトルごと盗み出す。その方が簡単だ。飲んだ後(あるいは他の容器に移し替えた後)、わざわざ水を入れ、元に戻す必要はどこにあったのか。背板のベニヤにして 右バーカウンターで事件は起きた。左にいるのがゴン
も、エーマンが気がつかなかったぐらいだから、剥がした後、原状に復す作業が施されたに相違ない。犯人は、なぜ、こんな手の込んだことをしたのだろうか。
 もうひとつ、わからないことがあった。犯人がこれだけ手間暇かけた仕事をしたにもかかわらず、だれ一人気付かなかったことである。
 スノーランドにはそのころ、夜警スタッフとしてカニキが勤務していた。ゲートを入ってすぐ脇にセキュリティ小屋があり、彼が朝まで寝ずの番で詰めていたはずなのだが、異変には全く気がつかなかったそうだ。以前、ローカルに食べられてしまったイヌとして紹介した初代ゴンもこのとき警備の一
端を担っていたが、これも吠え騒ぐことはなかった。
 夜警にも気付かれず、イヌにも吠えられず、こんな洒落たことをやってのける者といえば―。可能性のある者を絞り込んでいった結果、ある人物が浮かび上がった。オルペットの長男、プェルトリーノである。連載の第6回「ポナペアン・メイド」に登場したロリータの夫でもある。
 プェルトリーノはもともとオルペットが副部落長を務めるポナペ南端の集落ロイに住んでいたが、ナーシ建設が始まったのに伴い、駆り出され、アンソンとともにスノーランドに隣接するオルペットの家に起居していた。ナーシが完成した後も居続け、妻子のいるロイにはたまに帰る程度だった。というのも、彼の提案で、ゲストが読書をしたり、昼寝をしたりできる閑静な空間―ガゼボを別に作ることになり、彼自身がその仕事を請け負ったからだった。
 オルペットの住む家からナーシまでは20〜30メートル足らず、しかも南西に落ち込んだ斜面になっているので、そこをたどれば人目に触れずナーシの裏側にまわり込むのはたやすいことだった。何よりも彼は大の酒好きであった。トボけた一面の持ち主で、身のこなしも軽かった。
 だが、確証があるわけではない。あくまで推測の域を出ない以上、本人に質すわけにはいかなかった。オルペットにも、アンソンの前例があるので、こうした出来事があったことすら話さなかった。
 プェルトリーノが建てたガゼボ
 余談になるが、ガゼボはいつになっても出来上がらなかった。「材料を購入しなければならないから」というので、前金で渡したにもかかわらずである。催促すると、のらりくらりと言い訳する。その揚句、「いや、実はパパが貸してくれって言うもので、あの金は貸してしまった。それが、まだ 戻ってこないんだ」言う。どこまで本当かどうかはわからないが、これにはお手上げだった。オルペットに直接、確認するわけにもいかない。またへそでも曲げられたら面倒だ。諦めかけたころ、ガゼボはようやく完成した。そのときは、なぜか得した気分になったものだった。
 ナーシでの事件は、そんな最中に起きたのだ。
 プェルトリーノは、現在、アメリカのキャンサスで家族とともに暮らしている。5年前、オルペットが他界した折、里帰りし、スノーランドに立ち寄った。アメリカに戻る前に一杯やろうと約束したのだが、とうとう来なかった。
 もう時効になった事件である。彼の仕業だったのか? だとしたら、なんであんな手の込んだことをしたのか? 単なるジョークか、それとも発見を遅らせるためだったのか? 聞きたいと思っていたのだが……。
                                 
ポナペ・マジック
 ポナペに「知っていることを全部話すと良くないことが起きる」という言い伝えがある。由来は、7世紀から17世紀にわたってポナペに君臨したと伝えられるサウテロール王朝にまつわる伝説である。王朝が築いた遺跡、ナン・マトールを暴く者には罰、つまり病気や怪我、災禍が下る。また、その罰は、本人のみならず家族に類が及ぶこともあると言われてきた。
 郷土史家マサオ・ハドレー(故人)は、ナン・マトールについて外国人に話をするとき、決まってこの前置きをし、「でも、私は長い間ずうっと、たくさんの人たちに話してきました。そして、まだ生きています」と、ジョークを飛ばしたものだった。サウテロールの魔法は、ときに人を死に至らしめるほど強力だったと、ポナペの人々は伝えている。21世紀の今日でさえ、ポナペ人の約7割が、ナン・マトールを訪れたことがない理由はそこにある。「怖い」「気味が悪い」と言う。マサオ・ハドレーのような見方をする人は、ポナペでは少数派なのである。大方のポナペ人は魔法の存在を信じていて、チュークの魔法が最強だとか囁いている。
 魔法のことをポナペ語で「ウナニ」という。ウナニには、惚れた相手が自分のことを惚れるように仕向けるもの、相思相愛の者を仲たがいさせるもの、我が身を防御するもの、人を陥れるものなど、様々ある。魔法のかけ方は秘中の秘、たとえ親子であっても簡単には明かさない。教える場合でも、言い伝えに従って一人の子にすべてを伝えることはしないという。
 1996年のある日のことだった。オルペットが突然、夫人を伴って事務所に現れた。健と嫁のエベリーンも加え、5人で話し合いたい、邪魔の入らない所がいい、と言う。改まった物言いに緊張を覚えつつ、我々はオルペット夫妻を追う形でガゼボに向かった。全員が顔を揃えても、オルペットはなかなか本題に入らなかった。あたりを見回しながら「あそこは草刈りが必要だ」とか、「あのあたりにバナナかヤシを植えたらいい」とか、他愛のない話題を一方的にしゃべりまくる。いい加減焦れて催促しようとしたころだった。「ところで今日のミーティングなんだが」と、オルペットは一段声を落として話し始めた。
「最近、私たちの仲がおかしくなっているのは、きっとだれかがマジックを使ったからだと思う。この近くの者かもしれないし、従業員かもしれない。とにかく、だれかが私たちを壊そうとしているに違いない。元に戻すには、マジックをかけた場所を見つけて、取り除かなければならない。それができる女性が一人いる。マトレニウム(ポナペの東南に位置する地域名)の女だ。頼んでみたらどうかと思うのだが」
 最後の部分は、私に向けられた同意を求める言葉だった。
 私は息を飲んでいたと思う。すぐには声が発せられなかった。目の前で話されていることがあまりにも非現実的で、信じ難かったからだ。だが、オルペットの真剣な眼差しから、冗談ではないことは亮然だった。オルペットが話している最中、オルペット夫人はもちろんのこと、エベリーンも頷きながらじっと耳を傾けていた。魔法が存在することを信じて疑わない人々が身近に現存する。その事実は少なからぬショックを私に与えていた。それまで私は、ポナペに魔法があるとは聞き知っていたが、一部のシャーマン(呪術師)に伝わる伝説の域を出ないだろうぐらいに受け止めていた。「ウナニ」という言葉も知らなかった。
 私の沈黙をオルペットは誤解したようだ。
「お金はそんなに要らないと思う。謝礼として100ドルぐらい、それにレストランで食事を用意すれば十分だろう。ただ、自動車で送り迎えはしなければならない。これはアンソンにやらせればいい」と、たたみかけてきた。
 その言葉で、私は現実的な感覚を取り戻した。簡単に言ってくれる。100ドルといえば従業員10日分の給料だ。その金はだれが払うんだ。得体の知れない魔除けごときに無駄な金と時間を費やせるか、と言ってやりたかった。健は、と見ると、私の視線に気付いて、「ねえ、オヤジ、アンソンパパの言うとおり頼んでみようよ。ここはポナペだから」と、仲を取り持った言い方で意見を呈した。息子は元来が「イワシの頭もなんとやら」のクチ、信じやすい性質だからオルペットの言を真に受けているのでは思ったが、「ここはポナペだから」が決定打になった。郷に入らば郷に従うしかない。
 宿泊予約がなく、最低限度のスタッフしか出勤してこない日曜日の昼を選んで魔除けを実施することになった。
 アンソンが連れてきた女性は、30代後半から40代前半と思しき太り肉の、どこといって特徴のない普通のポナペ女性に見えた。ただ、肌の色は一般のポナペ人に比べて幾分白い印象があった。ノースリーブで裾の長いワンピースを身にまとい、手には1m余の棒を携えていた。
 女性は寡黙だった。コツコツと棒の先で地べたを叩きながら敷地内を歩き回った。その後をオルペットと我々が、金魚の糞さながらについて歩くという格好だった。彼女は時折り立ち止まって「ここにある」と棒の先で指し示した。オルペットが掘ると、角が取れて丸みを帯びた3〜4cm大の小石が出てきた。次いで建物内に入った彼女は、同じように棒で家具類の引き出しや棚などを叩いて回った。「開けて」と指示されたところからは、やはり小石が出てきた。フロントの引き出し、事務所の棚、オルペットの家の衣装ケースなど、こうして出てきた小石は都合10個近くに上った。もちろん、いずれも我々の身に覚えのないものである。オルペットの説明によると、何者かが小石に念をかけて潜ませたのだということだった。
 不思議なのは、この間、彼女は一切、小石のあった所に手を触れていないことだ。棒の先で叩いただけである。開けるときも事務所は健が、オルペットの家は夫人が、それぞれ自らの手で行い、余人の手は借りなかった。書類や衣類を取り除いた底に小石はあった。
 小石は本当に仕掛けられたものなのか。それとも何かトリックがあったのか。未だにわからない。確かなことは、小石が処分されたにも拘わらず、我々とオルペットの関係はいっこうに好転せず、破局に向かって進んだことだけだ。
                                       (つづく)
                             
 
茂田 達郎(しげた たつろう)
ジャーナリスト出身で本研究所理事。1990年頃からポンペイに在住し、92年には、滞在型ホテル「スノーランド」を建設。その間、ホテルの乗っ取りに合い、裁判勝訴、ホテル再建など様々な経験を積んで今日に至る。乗っ取り事件の経緯については、本誌の連載で紹介された。
 

                                               

 

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