研究員の論文
国民国家形成と憲法−フィジー諸島共和国の場合−

苫小牧駒澤大学助教授 東裕(Higashi Yutaka)
出所:憲法政治学叢書1『近代憲法への問いかけ−憲法学の周縁世界』(成蹊堂)1999年7月17日、pp.237-256

目次
はじめに…フィジー憲法の太平洋的普遍性と特殊性

一.フィジー憲法史にみる国民国家形成への歩み…憲法による国民形成と統合の過程
1.1970年憲法:対立と共存
2.1990年憲法:差別と統合
3.1997年憲法:和解と融和

二.1997年憲法による国民国家形成への試み
1.1997年憲法の目的
2.統治機構による国民統合
 1.人種別議席(下院・上院)
 2.首相の人種要件の削除3.複数政党内閣
3.権利章典による国民統合
 1.コンパクトの作成
 2.社会正義と積極的格差是正措置
 3.人権委員会の設置4.集団の権利
 4.その他の改革

三.結びにかえて…1997年憲法への反応と展望(注)

はじめに…フィジー憲法の太平洋的普遍性と特殊性
太平洋島嶼諸国では、独立にあたって宗主国関与のもとに憲法が制定された。独立に備えた憲法の作成は、国際社会に参加するための一種の「通過儀礼」であると同時に、人々が部族単位あるいは村落単位の思考を越えて、「国民」として「国家」を考える契機となった。憲法は新たに誕生した「国民国家」の象徴となり、憲法による「国民統合」及び「国家統合」が試みられた(*1)。

フィジーの国家建設もその例にもれない。だが、この国が太平洋地域で唯一の複合人種(民族)国家であるという点でやや特殊な事情を持ってはいた。土着フィジー人(以下、フィジアンと呼ぶ)とインド系フィジー人(以下、インディアンと呼ぶ)の二大人種(民族)が、全人口をほぼ二分するという社会構造が、特異な歴史を生み、それが太平洋島嶼諸国の一般的傾向とは異色の問題をも生じさせることになったのである。

それはフィジー憲法の最大の特徴である「人種別選挙制」の採用となって現れた。この制度は、独立前の立法議会において採用されていた制度をそのまま引き継いだものであったが、その後の三つの憲法(70年憲法・90年憲法・97年憲法)にも修正を経ながら継承されていった。独立後のフィジー憲法政治史の最大の焦点となり、つねに国の内外からさまざまな論議の的になってきたのは、まさにこの制度であった。そしてこの人種別選挙制の変遷は、フィジーの国家観の変遷を物語るものでもあった。

本稿では、この人種別選挙制に焦点を合わせ、フィジーにおける国民国家形成の歩みを概観し、国民国家形成において憲法が果たした役割を考え、さらに昨年(1997年)に成立した現行憲法のいくつかの条項について、「国民統合への試み」という視点から考察するものである。

一.フィジー憲法史に見る国家形成の歩み…憲法による国民形成と統合の過程(*2)

1.1970年憲法:対立と共存
この憲法の中に「国民」(nation)という言葉を、見いだすことはできない(もっとも、これはその後の2つの憲法でも同様であるが)。「フィジアン」(Fijian)という言葉は、「フィジー国民」ではなく、「土着フィジー人・フィジー原住民」を指す用語として使用され(90年憲法も同様)、フィジー国民を指すときは「フィジーの人々」(people of the Fiji)という表現が使われる。

70年憲法においては(90年憲法も同様)、「国民」国家形成への一応の条件整備が意図されてはいると見られるものの、国内の諸人種(民族)、特にフィジアンとインディアンを単一の国民概念で包摂し、フィジー国民という共通のアイデンティティのもとに統合することは考えられていなかった。国民国家の外観を整えたものの、その内実は、二大人種(民族)コミュニティー間の均衡をはかり、国内の分裂を回避し、独立国家としての体裁を維持することに重点がおかれた。そのための制度として採用されたのが、下院の人種別選挙制(および上院の人種別任命制)であった。

70年憲法における国会は、女王・下院・上院で構成される(第30条)。下院は、52名の「各選挙区を代表する」議員からなり、この52名の選挙において人種別選挙制が採用された(第32条)。選挙方法は、選挙人名簿を三つの「人種別名簿」((a)フィジアン選挙人 名簿、(b)インディアン選挙人名簿、(c)フィジアン・インディアン以外の選挙人名簿)と、さらにもう一つ人種別ではない、(d)「全国選挙人名簿」(ここには、(a)〜(c)に登録 されたすべての選挙人が登録される(第32条2項))に分け、各名簿ごとに憲法に規定さ れた人数の議員を選出するものであった。

そして、52名の下院議員のうち、フィジアン選挙人名簿((a))に登録された者の中か ら22名が選出され、そのうち12名はフィジアン名簿に登録された有権者が選出し、残りの10名は全国選挙人名簿に登録された有権者によって選出される。また、残り30議席のうち22議席が、インディアン選挙人名簿に登録された者の中から選出されるが、この22議席も同様に12名がインディアン名簿の有権者によって、そして10名が全国選挙人名簿の有権者によって選出される(第32条4項)。さらに、残り8議席がフィジアン・インディアン以 外の選挙人名簿に登録された選挙人の中から選出され、うち3名がその選挙人名簿の登録された有権者から、5名が全国選挙人名簿の有権者によって選出される。したがって、選挙人・被選挙人とも人種別に選出される議席は、フィジアン、インディアンともにそれぞれ12議席、それ以外の人種の3議席、の計27議席で、残り25議席は被選挙人は人種別ではあるが、選挙人は全国選挙人名簿に登録された有権者であった。

そのため、例えば、フィジアンの有権者がインディアンの候補者に投票するといった「交差投票」(cross voting)が可能であった。つまり、人種別議席ではあっても、その人種別議席の議席配分数と交差投票の可能性が、政権の獲得をあくまで選挙結果にゆだねられていたのである。また、配分議席数の上では、フィジアンとインディアンは同数であったが、当時の人口比からすれば、若干フィジアンに有利な配分とはいえた。なお、90年憲法にあるロトゥマン(=少数民族)の議席は保障されていなかった。

こうして、70年憲法においては、一般に他の近代民主主義諸国において国民代表機関と見なされる下院の議席に人種別議席配分を採用し、人種間のバランスを図ることによって、人種間の対立の深刻化の回避を意図する特異な制度が作られた。また、憲法上、下院議席は「各選挙区を代表する」(第33条1項)と明確に規定され、下院議員は国民代表では ない旨が宣言された。「国民」概念の不成立、または国民概念の採用回避の意図がここに窺える。

このように、70年憲法の下院の選挙制度を中心に見るかぎり、「国民」概念の形成は考慮の外にあった。それは、総督の任命による議員で構成される上院についても同様であった。総督が任命する22名の議員によって構成される上院議員の内訳は、(a)大酋長会議の 助言による者(8名)、(b)内閣総理大臣の助言による者(7名)、(c)野党党首の助言による者(6名)、(d)ロトゥマ評議会の助言による者(1名)、と規定され(第45条1項)人種間のバランスへの配慮が優先されていた。

2.1990年憲法:差別と統合
1987年4月の下院議員選挙の結果、独立以来17年間政権を担当してきたフィジアンの「 同盟党」にかわり、インディアンの支持する「国民連合党」(NFP)と多民族からなる「フィジー労働党」(FLP)の連立政権が誕生した。この事態にフィジーとフィジアンの危機を感じた国防軍のランブカ中佐(現首相)が、同年5月と9月の2度のクーデタを実行、政権を奪取し、70年憲法を停止、フィジアンの利益を確保するための新しい憲法の制定を予定した。その結果、1990年7月25日には新憲法(90年憲法)が公布され、フィジ ーは共和国を宣言、英連邦から離脱し、独立から20年目にして新たな国家形成…フィジアンのためのフィジー…に向けての歩みを始めることになった。

90年憲法の公布にあたって発せられた「フィジー共和国憲法公布令」と90年憲法の前文で、70年憲法がフィジアンの利益・価値・伝統・生活様式・経済的福祉を確保するのに不十分であったことが87年のクーデタの原因であると強調された。この「欠陥」を是正するためクーデタ後に成立した暫定政権は、経済の回復と並んで、フィジー原住民の利益を擁護すると同時に、他のコミュニティーの権利と利益を守る新しい憲法を制定する役割を担うことになった、と説明された(*3)。

90年憲法は、こうした思想を具体化すべく大酋長会議を憲法上の制度として承認し(第3条)、首相の資格要件をフィジアンに限り(第83条)、立法においてはフィジアンの伝 統・価値等に配慮することを義務づけ(第100条)、70年憲法の人種別選挙制を踏襲しな がらも議席配分を変更して、下院におけるフィジアンの絶対多数を保障した(第41条)。

こうして、選挙制度によってフィジアンの政治支配の恒久化が図られ、フィジーはフィジアンの国家であると宣言された。二大人種間のバランスにより両者の対立を緩和し、深刻な国家的分裂を回避するという70年憲法の思想は完全に放棄された。フィジアンこそが国民であるとの思想のもと、フィジアンによる「国民国家」形成が試みられた。
90年憲法の人種別選挙制は、下院の全議席70議席をすべて人種別議席(communal seats)とし、そのうち37議席をフィジアン議席、27議席をインディアン議席、1議席をロトゥマン(ロトゥマ島出身の少数民族)議席、残り5議席をその他人種の一般議席とするものであった。この議席配分に明らかなように全70議席中37議席がフィジアン議席とされ、フィジアンの過半数確保が、憲法で保障された。下院の多数の支持を得て任命される首相についても、フィジアンであることが憲法上の要件とされ(第83条)、フィジアンによるフィジーの政治的支配は盤石のものとなった。

しかし、そのためフィジーは「人種差別憲法」(racist constitution)をもつ国との非難を内外から浴びることになり、それは、海外からの直接投資の減少とインディアンの海外移住(特に、専門的な技術を持った医師・技術者・教師・経営者など)の恒常化を招いた。その影響は、まず経済の低迷となって現れ、フィジーは経済的・社会的・政治的に大きな打撃をうけることになった。

クーデタの翌年の1988年には、インディアンの海外移住によって全人口に占めるフィジアン人口がインディアン人口を上回った。このことは、将来にわたってインディアンによるフィジー支配の懸念を払拭することにもなった。経済の低迷と人種別人口比の逆転という90年憲法のもたらした効果が、はからずも真の意味での「国民国家」を指向する97年憲法への前提条件を整備することになった(*4)。

経済発展のために憲法の「差別条項」を廃止し、国際社会での信頼を回復すること、国内のインディアンの力による経済活動を活発化すること、そしてもはや差別条項を廃止しても二度とインディアンによる政治支配が現実化しない人口構成が実現したこと。この積極・消極両面における理由が、97年憲法の成立を促進する要因となった(もっとも、憲法の見直し自体は、公布から7年が経過する前に見直すことが憲法に規定されていた(第161条))。皮肉にも、「人種差別」憲法と批判された90年憲法の効果により、97年憲法に至る前提条件が整備されることになった。

また、クーデタと90年憲法の制定は、フィジーにとって「国民」とは何かという問いをも投げかけた。たとえクーデタや差別的憲法の存在という十分な理由があっても、続々と国外に移住するインディアンは、フィジアンの目には、「国を捨てる」姿と映り、インディアンの国家意識の希薄さが印象づけられた。古くは第二次大戦への参戦に始まり、90年憲法の制定にいたる歴史のなかで、フィジー人としての国民意識・国家意識が問われる局面が幾度となく訪れたが、そのつどインディアンはフィジアンにとって、ともに同じ国民としてフィジー国家を形成するパートナーたり得ない、と判断されるような行動をとってきた(*5)。

90年憲法をこのような歴史的文脈の中に位置づけるとき、この憲法は「フィジー国民」の選別機能を果たしたともいえる。その結果、真の「国民国家」とは、人種・民族を異にしても、ともに国民意識・国家意識を共有する人々によって築かれるべきものであるとの姿勢を、完全ではないにしても基本的に示した97年憲法の実定化につながるのである。

3.1997年憲法:和解と融合
1997年7月25日、カミセセ・マラ大統領が新憲法に署名し、ここにフィジーは独立以来 3つ目の憲法のもとに、新たな国家形成にむけての第一歩をしるすことになった。紆余曲折を経て、97年憲法(1997年7月25日成立、98年7月27日施行)に至って初めて人種を越えた国民概念のもとにすべての人種の存在が「フィジー諸島国民」として把握される可能性がようやく開かれてきたのである。

作成段階から注目の的であった下院の選挙制度については、人種別選挙制は維持されたが、総議席数は従来の70議席から1議席増えて71議席となり、議席配分は90年憲法とは大きく変わった。全71議席中46議席が人種別議席(communal seat)として留保されたが、 残りの25議席は人種制限のない「オープン・シート」(open seat)となった。

また、人種別議席46議席の内訳は、フィジアン23議席、インディアン19議席、その他3議席、そしてロトゥマン1議席の配分となり、この中ではフィジアンの議席が半数を占めるものの、オープンシート25議席が設定されたため、全議席の過半数の36議席を獲得するためには、オープン・シートの過半数に当たる13 議席を獲得することが必要となった。

これによって、人種別選挙制は、90年憲法とは違い、フィジアンの政権を保障するものではなくなった。この憲法改革が、87年のクーデタを起こしたランブカ首相自らのイニシャティブの下に実行され、フィジーは人種間の平等化と「フィジー諸島の人々」(people of the Fiji Islands)による「国民国家」形成へと乗り出すことになったのである。97年憲法は、人種(民族)コミュニティーの存在を認めながらも、それを国民概念で統合する可能性を示したことで、その方向を打ち出した。これは、フィジーにとってはじめての内発的な「国民国家」形成にむけての宣言である(*6)。

フィジアンとインディアンという二つの主要な人種(民族)の並存・存続を固定したまま国民国家化を「強制された」70年憲法体制への「反発」が、87年のクーデタであった。その結果、土着原住民であるフィジアンこそが国民であるとの考え方を基礎とした「国民国家」の形成を企図した90年憲法が出現した。ここでは、インディアンはフィジアンと対等の存在とはみなされなかった。90年憲法は、「大酋長会議」を憲法に規定した点に明らかなように、一面では、伝統社会の近代化に対する反発でもあった。

とはいえ、今日の国際社会において、独立国になるのは、近代化を選択することでもあり、それは同時に西欧近代的価値観(例えば、民主主義・人権・発展など)の共有を「強いられる」ことでもある。近代化に反発はしても、それを放棄することなど考えられるものではなかった。人種(民族)差別を残しながらの国民国家形成は、その内包する矛盾ゆえに、必然的に行き詰まらざるを得なかった。その国に生きる人々を一つの国民の名のもとに統合すること、すなわち「国民国家」の形成は必然の道のりであった。

そして、そのための手段として利用されたのが憲法であった。憲法による国民国家形成の試み、であった。
二.1997年憲法による国民国家形成への試み
1.1997年憲法の目的と試み
国名が、「フィジー共和国」(The Republic of Fiji)から、「フィジー諸島共和国」(The Republic of the Fiji Islands)に変更された(第1条)。これにともない、フィ ジー国民は、「フィジー諸島国民」(The people of the Fiji Islands)の名称で統一的に把握されることになった。これは、『リーブス報告』で答申された方針に添うもので、同報告では、諸民族の文化の多様性を認めつつ、諸民族の融和による国民統合のためのアイデンティティー形成の一手段として、国名を「フィジー諸島共和国」とし、フィジー国民を人種に関係なくすべて「フィジー諸島国民」(Fiji Islanders)と称することが勧告されていた(*7)。

このように、97年憲法の最大の目的は国民統合(国民国家形成)にあることは明らかであるが、そのほかにも97年憲法制定の直接的目的として、@「国際社会」(コモンウエルス)への復帰(*97年10月に実現)、A外資導入による経済成長のための環境整備、が挙げられる。そのために、人種(=インディアン)差別の解消、「人権」のグーロバル・スタンダードへの配慮、統一国民名称の創出(=「フィジー諸島国民」)といった措置が97年憲法の中でとられることになったのである。その具体的試みとして、90年憲法との比較において、次の条項を97年憲法の特徴的条項として指摘できる(*8)。

1.国名の変更(第1条)
2.大酋長会議条項の後退(第116条)
3.コンパクトの導入(第6条・第7条)
4.権利章典による権力制限の明記(第21条)
5.人権委員会の設置(第42条)
6.社会正義と積極的格差是正措置の実施(第44条)
7.人種別議席数の変更(第51条)
8.選挙制度の改革(第50条・第54条)
9.強制投票制の導入(第56条)
10.首相の人種要件の削除(第98条)
11.複数政党内閣の要請(第99条)
12.司法権の独立の宣言(第118条)
13.憲法上の公職に関する委員会の設置(第142条・第143条・第146条)
14.行為規範の制定(第156条)
15.集団の権利の保障(第185条)
16.憲法見直し条項の削除(第190条)

この中には、一見、上記目的との関連が明らかでない条項もある。ところが、こうした諸条項が実は有機的連関をもって、上記の三目的の実現のために機能することが期待されているのである。本稿では紙幅の関係でこの点についての詳述は避けざるをず、明らかに上記目的実現に直接的関係があると考えられる条項だけをとりあげ、この憲法の特徴を「国民国家形成への試み」、という視点から明らかにしていきたい。

2.統治機構による国民統合

この点については、人種別議席の改革・(これまでフィジアンに限られていた)首相の人種要件の削除・複数政党内閣制、の三つが重要な試みとして挙げられる。

1.人種別議席(下院・上院)

すでに述べたように、下院の議席数(第51条)は、90年憲法の70議席から71 議席と1議席増となり、71議席中46議席が人種別議席 (communal seat)として残されたが、残り25 議席は人種区分のないオープン・シートとなった。人種別議席の内訳は、フィジアン23議席、インディアン19議席、ロトゥマン1議席、その他の一般投票者 (General Voter)が3議席で、フィジアンとインディアンの議席数は4議席だけフィジアンに有利な配分となっているが、これは、現在のフィジー人口に占める人種別人口比にほぼ対応している。

フィジアンの23議席は、人種別議席46議席中のちょうど50%にあたるが、総議席中に占める割合では、23/71 で約32%に低下し、90年憲法が総議席中の過半数、約53%をフィジアンの「指定席」としていたのと比べ、鮮やかな対比をなす。これによって、90年憲法のような下院におけるフィジアンの絶対的優位の恒久化が放棄されたことは明白であり、人種別議席の残存を批判するよりも、不完全にしろこのあきらかな民主的発展の側面こそが注目されるべきであろう。

フィジーの人々にとって、人種別議席から完全なオープン・シートに移行することは余りにも大きな飛躍 (too big a leap) であった。制度面でも、下院議員自身にとっても、このような巨大な飛躍への準備ができているとは思えなかった。それにきわめて現実的な理由として、現職議員がオープン・シートの拡大によって新憲法下の選挙で議席を失うことを恐れた。こうした事情が、人種別議席を残した(*9)。

上院の議席については、90年憲法では全議席(34議席)が人種別(フィジアン24、ロトゥマン1、その他9)で、それぞれ大酋長会議の助言・ロトゥマ島評議会の助言・その他コミュニティーの慎重な判断の助言にもとづき大統領が任命していたが(第55条)、97年憲法では人種別議席配分が廃止されると同時に議席数と任命方式が変更され、全32議席が大酋長会議(14議席)、首相(9議席)、野党党首(8議席)、及びロトゥマ評議会(1議席)の助言にもとづいて大統領が任命することになった(64条1項)。こうして、ここでも国民統合にむけて漸進的な改革が行われた。

2.首相の人種要件の削除
90年憲法ではフィジアンに限られていた首相の資格要件(第83条2項)から人種要件がなくなったことで(第98条)、フィジアン以外の民族が首相になる可能性がひらかれた。ただし、もう一つの変更点である「複合民族内閣」の組織が憲法上要請されることになったため、たとえインディアンの首相が誕生してもフィジアンが閣内にその議席数に比例する閣僚ポストを占めることが可能になった。そのため、インディアンがフィジアンを内閣から完全に排除したかたちでフィジーを支配する恐れはなくなった。これはフィジアンの首相のもとでも同様で、この二つの重要な変更が相伴って二大民族間の協調が促進され、国民統合推進への状況が整備された。さらに憲法の制定に至る過程でみられた両民族の協調姿勢は国民統合の実現への期待を示し、人口構成におけるフィジアン対インディアンの人口比の再逆転の可能性の喪失という事実は、フィジアンの将来不安を払拭した。

3.複数政党内閣
『CRC報告』で「複合民族(人種)内閣(政府)」(multi-ethnic(multiracial) cabinet(government)) として答申されていた連立政権の要請が(*10)、憲法では「複数政党内閣」(multi-party Cabinet)という表現に変わって採用された。これは、組閣にあたって下 院において一定の議席数を占める全政党の議員のなかから大臣を任命することを首相に義務づけるものである(第99条)。憲法の規定では、大統領が首相の助言にもとづいて、下院議員または上院議員の中からその他の国務大臣を任命するが、その際首相は閣僚が下院の政党構成をできるかぎり公平に反映するように内閣を構成することが求められている。特に下院の全議席の10%以上を占める政党については、原則としてその各政党からその下院議席数に応じた閣僚を任命しなければならない(第99条)。フィジーにおいては、政党が一般にそれぞれ特定の民族(人種)の支持を中心に形成されているため、議席を有する全政党の議員を閣僚に任命することは、必然的に複合民族内閣の形成につながる。

その一方で、政府内における「責任」(accountability)の減少をもたらすことが危惧されている。つまり、複合内閣の成立で「総与党化」現象が生じると政府に対する批判勢力がなくなり、政府の政治責任の追及が曖昧になってしまう恐れがあるからである。こうした懸念にもかかわらず、複合民族内閣制の導入が決められたのは、フィジーにとって「国民統合政府」(government of national unity)の基礎的要因として、なによりも全政党指導者の真の協力が不可欠と考えられたからであり、フィジーの繁栄に向けてすべての民族集団の一致結束こそが求められているのである(*11)。

3.権利章典による国民統合
第4章に23条(第21条〜第43条)からなる「権利章典」(Bill of Rights)の章が置か れた。この中で、人身の自由に関する諸権利、表現の自由、信教の自由、投票の秘密、プライバシーの権利、法の下の平等、裁判を受ける権利、教育を受ける権利など、各種の自由権・参政権・社会権・国務請求権に関する諸権利が保障されている。

こうした規定はおよそ現代国家の憲法に一般的に見られるものであるが、フィジーの場合の特徴は、こうした人権を保障した権利章典が公権力を制限するという、近代立憲主義憲法の基本的な考え方を明記している点にある。すなわち、「この章は、(a)中央及び地 方のすべての政府における立法、行政、及び司法部門、並びに(b)あらゆる公職にあって その権限を行使するすべての人々を拘束する。」(第21条)と規定する。

こうして、権利章典の機能を憲法で明らかにし、権利章典による国民統合への試みが、次のように、憲法に具体化されることになった。

1.コンパクトの作成
JPSC勧告は、「フィジアンとロトゥマンの利益」を規定した90年憲法第3章の削除 と、この章にかわる「理解のためのコンパクト」(Compact of Understanding)の作成を求めた。これは、フィジアンの権利を一部制限し、フィジーのすべての個人・コミュニティー・集団の個々の権利を保障することで、平等主義のいっそうの推進による民族間の融和の促進を意図したものである。

その結果、97年憲法では第2章に「コンパクト(Compact)」(協定)として、2か条の 条文(第6条・第7条)が設けられた。その内容は政府の行為準則に関わるもので、個人・共同体及び集団の権利の尊重、フィジアンの慣習に基づく土地所有権の維持、信教の自由、言語・文化・伝統を保持する権利、政党結成・政治参加の権利、すべてのコミュニティーの利益への配慮、すべてのコミュニティー間での政治権力及び経済的・商業的権力の公正な共有、フィジアンの利益の至高性などの諸原則が政府の遵守すべき原則として規定されている(第6条)。

ただし、以上の諸原則は、他の憲法規定またはこの憲法のもとで作られた法律の対象となっている範囲を除いては、裁判においては適用されないが、解釈上関連性が認められる場合には、この諸原則が考慮されなければならない(第7条)。

このようにコンパクトは、各コミュニティーの権利保護を政府の行為準則としながらも、一方でフィジアンの利益を他のコミュニティーの利益に優位する至高のものとするという矛盾をも含んでいる。しかし、これは法的拘束力をもたないという見方もあり(ラツー・イノケ・クブアボラ (Ratu Inoke Kubuabola) 情報大臣)、そのためフィジアンの利益を確実に保障する方法はまだ確立されているとは言い難く、いずれフィジアンの間に不安と不安定をうみ出すだろうとの懸念の声もある(*12)。

2.社会正義と積極的格差是正措置
憲法第5章は、「社会正義」の表題の下に10項からなる「社会正義と積極的格差是正措 置」(social justice and affirmative action)の1条(第44条)を置く。同条によると、国会は、不利な地位に置かれているすべての集団に属する人々が、教育と訓練、土地と住宅、商業活動、及び国家サービスに実効的にアクセスできるようにするためのプログラムを定めた法律の作成を義務付けられている。これによって、非インディアンの生活向上のための国家による積極的措置の実施が約束され、国民統合への前提条件の整備が図られることになった。

3.人権委員会の設置
議長たるオンブズマン、裁判官資格を有する者、及びその他1名の計3名で構成される人権委員会(Human Rights Commission)が設置された。この委員会の主な機能は、国民 に対し権利章典の本質と内容について教育し、人権に関する事柄について政府に勧告するなど、人権問題について国民並びに政府を啓蒙し、人権意識の向上と人権保障の強化を目的としている(第42条)。これにより、国民統合の必要性を国民意識の面から推進することが意図された。

4.集団の権利
第13章に、2か条からなる「集団の権利」(Group Rights)の章が設けられた。これは、インディアン以外の民族集団の権利保護に関するもので、フィジアン、並びに少数民族であるロトゥマンとバナバンの権利・土地所有などに関する8つの法律については、通常の法律改正よりも厳重な改正要件が必要とされ、これら3つの民族集団の権利が憲法で強く保障されることになった(第185条)。また、慣習法・慣習上の権利に関わる立法を国 会が行う際には、国会はフィジアンとロトゥマンの慣習・伝統・慣行・価値・及び希望を考慮することが義務づけられている(第186条)。こうして、国民統合によっても非イン ディアンの権利等が侵害されるおそれのないことを明らかにし、統合にむけての障害のひとつが除かれることになった。

4.その他の改革
以上のほかにも、選挙制度改革(第50条・第54条)、強制投票の導入(第56条)、司法権の独立の宣言(第118条)、「憲法上の公職に関する委員会」の設置(第142条・第143 条・第146条)、大統領・副大統領・国務大臣・国会議員を初めとする公職にある者の行 為規範の制定(第156条)、定期的な憲法見直し条項の削除(第190条)などの各種の憲法改革が行われ、国家統合・国民統合にむけての条件整備が広範囲にわたって企図されている。
三.結びにかえて…1997年憲法への反応と展望
フィジーで発行されている月刊誌「リビュー」(1997年7月号)は、憲法の草案となった『JPSCレポート』について、「完全なコミュナリズム(communalism)からの訣別を期 待する人々はいささか落胆するかもしれないが、このレポートは正しい方向への大きな一歩を踏み出したものであり、フィジーを民主主義と経済成長の道へ戻すことを狙った改革である」、と評価する(*13)。

「アイランド・ビジネス」誌も、「真の民主主義という観点からは、新憲法は十分に民主的とはいえないが、人口の90%が国王と貴族に従属しているトンガや、ほとんどの平民が議会からしめ出されているサモアよりは間違いなく民主的である」(97年7月号)とそ の政治発展に一定の積極的評価を下し、「新憲法でフィジーは良くなり、経済発展の期待が期待される」(同8月号)と見出しに掲げ、新しい憲法のもたらす経済発展への効果に期待する(*14)。

一方、「パシフィック・アイランズ」誌は、「憲法を越えて」という表題で、「憲法は、目的達成のための手段でしかなく、フィジーが本当に人種差別社会から自由・民主主義社会に移行するためには、人々の心からの約束が必要であり、それなくしては憲法は一片の紙切れに過ぎない。これまでのところ人種的関心を乗り越える国民統合(national unity)のしるしはほとんど見えず、フィジーはまだ安心とは言えない。」(97年9月号)という趣旨の社説を掲載し、新憲法には消極的評価を与えるにとどまっている(*15)。

このように、新憲法に対する見方はけっして一様ではないが、筆者が実際に何人かのフィジー人から聞いた反応は、おおむね積極的な評価であり、新憲法のもとでの民主的発展と経済発展を期待する声が支配的であるように思われる。

しかし、「パシフィック・アイランズ」誌が厳しく指摘するように、この憲法がその立法目的を達することができるか否か、すなわちいずれ近い将来の「国民統合」の成否は、一に「フィジー諸島国民」としてのアイデンティティーの形成にかかっている。その意味で、これからのフィジーの国民統合問題は、憲法改革から国民の意識改革の問題へと移行したといえよう。そして、その手段としてもまた、憲法は重要な役目を期待されることになると思われる。

(注)

(*1). Yash Ghai,“ The Making of Constitutions in the South Pacific: An Overview,"Pacific Perspective Rethinking Pacific Constitutions ,(Vol.13, No.1. 1984),p.2.

(*2). これについては、より詳細な報告が、次の論文中の拙稿(=「太平洋島嶼諸国の独立と憲法」及び「フィジー憲法にみる国民国家形成・・・・・・・・憲法による国民形成と統合の過程」)の中で行われている。 小林泉/東 裕「強いられた国民国家」、佐藤幸男編『太平洋世界叢書 1  世界史の中の太平洋』(国際書院、1998年)所収、pp.77-96。

(*3). 東 裕「フィジー共和国憲法にみる『伝統』と『近代化』の相剋」(『法政論叢』 第33巻、日本法政学会)239頁、1997年。

(*4).  同上、243頁。「近い将来、憲法の人種差別条項が廃止される可能性が考えられる。とするならば、差別条項の存在が、差別条項の必要のない状態を作ったということになる。」として、90年憲法の政治・社会的効果とその歴史的意義を評価する。

(*5). クロコーム教授は、「フィジアンは、国防軍の大多数を占め、第二次大戦やPKO に参加するなど、国防に貢献してきた。そのため、フィジアンは、政治に関しては神から与えられた至高の地位を占める権利があると固く信じてきた」(Ron Crocombe,The South Pacific (University of the South Pacific,5th.ed.,1989), p.153)、と指摘する。  一方、インディアンは「英国のためにもフィジーのためにも血を流すつもりはなく、大戦の最中にストライキを起こし、その上白人兵士と平等の賃金を要求し、受け入れられないと軍隊を離れて村に帰った。インド系住民と同じく、白人と平等の扱いを受けていなかったフィジー系住民からは完全に相容れることのない民族と判断された」。(橋本和也「『政府』への模索・・・・『外来王』の変遷・・・・」、塩田光喜編『海洋性島嶼国家の原像と変貌』(アジア経済研究所,1997年)所収、132頁)。

(*6). ランブカ首相は、独立以来の3つの憲法について次のように語った。「1997年憲法は、独立国家としての我々の歴史ではじめてフィジーの人々(people of Fiji)が自らに与えた憲法である。1990年憲法は、フィジーの半分のコミュニティーだけによって決められ、インディアンはそこに含まれていなかった。1970年憲法は、フィジーの代表者たちが参加したとはいえ、実際はイギリスによって決められたものであった。」(Pacific Islands Monthly, (September, 1997)p.19)。

(*7).『CRC報告』、pp.64-67参照。これは1996年9月に出された「憲法再検討委員会」 (Fiji Constitution Review Commission)の報告書である。『リーブス報告』、『FC RC報告』とも呼ばれる。目次19ページ、本文791 ページ、写真15ページで、825ページに及ぶ大冊である。報告の正式名称は、『フィジー諸島:統合された未来にむけて:フィジー憲法再検討委員会報告1996年』(‘The Fiji Islands:Towards A United Future'・・・・Report of the Fiji Constitution Review Comission, 1996.)で、ポール・リーブス(Sir Paul Reeves)[マオリ系ニュージーランド人]、トマシ・バカトラ(Tomasi Rayalu Vakatora)[フィジアン]、ブリジ・ラル(Brij Vilash Lal)[インディアン]の3人 の委員の執筆になる。内容は、697項目の改正提案ですべてに提案理由を付す。これが「 両院合同特別委員会」(Joint Parliamentary Select Committee)に提出され、最終的に697項目のうち577項目が採択され、新憲法に規定されることになった。残りの項目については、修正40項目、拒否または削除が77項目であった。本報告の要点については、東 裕「フィジーの憲法改正動向について・・・・・・『憲法再検討委員会報告』を中心に」、『ミクロネシア』通巻第102号、(社)日本ミクロネシア協会、1997年、34−35頁、参照。

(*8).97年憲法の構造といくつかの特徴的な規定については、東 裕「フィジー新憲法の 成立と構造」(『ミクロネシア』通巻第105号、(社)日本ミクロネシア協会、1997年)20−33頁、参照。

(*9).The Review, July 1997, p.13. 「憲法再検討委員会(リーブス委員会)」(Constitution Review Commission:CRC)の助言者を務めたジョン・アプティッド(Jon Apted)氏の指摘。

(*10). CRCの見解では、すべての民族コミュニティー間での行政権の共有をすすめるこ とがフィジーの憲法問題を解決するための唯一の解決策であり、そのためには複合民族政府を組織し、人種の調和・国民統合・全民族集団の経済的社会的進展を図ることが必要だと考えられていた(『CRC報告』、p.18)。

(*11).The Review, July 1997, p.13.

(*12).Ibid.,p.16.

(*13).Ibid., p.12. 東 裕「フィジー新憲法(1997年)の若干の特徴について」(『ミ クロネシア』通巻第104号、(社)日本ミクロネシア協会、1997 年)43-44頁、参照。

(*14).Islands Business, July 1997, p.6., ibid., August 1997, p.43.

(*15).Pacific Islands, September 1997, p.6.(以上)