研究員の論文
フィジーの国民統合と「複数政党内閣」制

苫小牧駒澤大学助教授 東裕(ひがし ゆたか)
出所:「憲法研究」(憲法学会)第32号、pp.129-144、平成12年5月30日

目次
はじめに
一.フィジー憲法と国民統合への歩み
二.「国民統合政府」の発想
三.「複合民族政府」の提唱
四.「複数政党内閣」制の採用
五.1999年総選挙と「複数政党内閣」の実現

はじめに
フィジー諸島共和国憲法(1997年)は、国民統合を目的としたいくつかの制度を定めている。なかでも「複数政党内閣」制は、国民統合に向けたユニークかつ強力な制度である。しかし、その成否は各政党がいかに憲法の制定趣旨に留意してこの制度を運用するかにかかっている。ここには憲法と政治という憲法学上の普遍的なテーマが伏在することはいうまでもない。本稿では、独立以来のフィジーの国民統合に向けた歩みを概観し、この憲法で採用された「複数政党内閣」制の発想の由来とその制度を紹介する。複合民族社会を抱えたこの小国において、憲法制度を利用していかにして国民統合を達成しようとしているのか。国家形成における憲法の役割を考え、ひいては憲法と国家、国際化と国民国家の問題を考える一助ともなることを期待し、南太平洋の一小国フィジーの事例を考察するものである。

一.フィジー憲法と国民統合への歩み
フィジー(正式国名:フィジー諸島共和国)は、全人口(現在約80万人)の約半数が19世紀末からサトウキビ栽培の契約労働者としてやってきた移民労働者の子孫であるインド系国民(インディアン)で占められ、フィジー原住民(フィジアン)との間で人種(民族)問題を生じてきた。1970年にイギリスから独立する際に制定された憲法において、人種別選挙制・人種別議席制等の両民族の共存を前提とした政治制度が作られ、両民族の権利をほぼ平等に保障するとともに、一方ではフィジー原住民の土地所有権の保障等、原住民の利益が強く保護されてきた。しかし、この憲法下でインド系住民の政治上の影響力が増大し、1987年にはインド系の政権が誕生するに及び、国防軍のランブカ中佐(フィジアン)がクーデタを実行し憲法を停止、そして1990年には新憲法の制定という大きな政治変動が生じた。

90年憲法は、それまでの人種別選挙制・人種別議席制等を維持しつつも、それまでの人種別の議席配分数を大きく変更し、フィジアンの政治支配の恒久化を図るとともに、その権利保障を一層強化した。しかし、このことは同時にインド系国民に対する差別的制度の導入を意味した。クーデタによる政権交代という非民主的政治変動の結果このような憲法が制定されたことに対し、国際的な非難が浴びせられた。また国内においては、インド系住民の国外流出が加速し、フィジー社会の「空洞化」と経済成長率の低迷という現象をもたらした。クーデタの翌年の1988年には、それまで国民人口の多数を占めていたインド系人口が、約40年ぶりにフィジー系の人口を下回り、その後もこの傾向に拍車がかかり人口比再逆転の可能性がなくなった。これは、一面では90年憲法の成功を意味したが、それ以上に国内経済の低迷・雇用不安の増大といった現象が深刻な政策課題となっていった(*1)。

1995年には「憲法再検討委員会」(FCRC)が設置され、新憲法の制定に向けた検討が始まった。2年間に及ぶ作業を経て、憲法再検討委員会は「フィジー:統合された未来に向けて」という825頁にも及ぶ大冊の報告書を作成し697項目にわたる改正提案を行った。この報告書が国会に提出され、これを受けた国会は「両院合同憲法再検討委員会」(JPSC)においてこの報告を審議し、40項目の修正、77項目の拒否または削除を行ったほかは原案通り採択、両院の可決、大統領による署名を経て、1997年の7月に新憲法が成立し、翌98年7月から施行された。

この憲法の特徴は、90年憲法の眼目であった、フィジアンの政治支配の恒久化を放棄し、フィジーの全民族の協和による国民統合を目指した点に求められる。それを実現するための制度として、憲法は統治機構と権利章典の両面において次のような試みを行った。統治機構においては、それまで70の下院議席のうち過半数の37議席をフィジー系原住民の指定席としていた人種別議席数を変更し、フィジアンの下院議席を半数以下に押さえるとともに、フィジアンに限られていた首相の資格要件を削除した。権利章典においては基本的人権の保障に加えて、とくにアファーマティブ・アクションの規定をはじめとする原住民の権利保障の規定を整備した(*2)。

こうした試みのなかで、最も重要な改革として注目されたのが人種別議席規定の改正であったが、今後フィジーの国民統合が成功裡に達成されるか否かは、実際には「複合政党内閣」の運用にかかっていると考えられる。なぜなら、人種別議席の変更は、憲法に定める配分議席数の変更をもって改革が完了したが、「複数政党内閣」はそれが憲法の規定に従って形成された後に、連立内閣がどのように機能するかによってその成果がはかられるからである。そして、複数政党内閣がうまく機能して初めて国民統合政府が現実のものとなり、国民統合への道のりが大きく前進することになるからである。その意味で、97年憲法の定める「複数政党内閣」の規定は、国民統合にとって重要な意味を持っているのである。
二.「国民統合政府」の発想
1980年に、当時の首相であったラツー・サー・カミセセ・マラ(Ratu Sir Kamisese Mara)が「国民統合政府」(government of national unity)を提唱した。その頃、マラ首相の率いる「連盟党」(Alliance)は、1977年9月の下院議員選挙において全52議席中過半数の36議席を獲得し、安定した政権を築いていた。しかし、それ故にこそ、野党支持派の国民の間で政府に対する不満が高まっていた時期でもあった。次期選挙が1982年半ばに予定され、安定多数を制していた連盟党も、国民の不満の高まりを放置していると、次の選挙での敗北も予想されないではなかった。それだけではない。次期選挙での敗北といった党派的な不安に加え、一層深刻な事態を招来することすら危惧されたのである。潜在するフィジアンとインディアンの人種対立が、「内戦」につながるのではないかという不安がマラ首相にはあった(*3)。

そこで、マラ首相はインド系野党の「国民連合党」(National Federation Party)のライ・ジャム・レディ(R.J.Reddy)党首に、国民統合政府の形成を呼びかけたのである。レディ党首も「独立10年にしてナショナリズムはなく、あるのはコミュナリズムだけ」(4)という認識を持ち、「人種政治」(communal politics)は望ましくないという認識ではマラ首相と一致していた。しかし、レディ党首はその理念には共鳴しながらも、与党連盟党主導の構想実現に賛成しなかったため、国民統合政府の形成には至らなかった。

このときマラ首相が提唱した国民統合政府は、「国家の中で最高の才能を持った人材を大臣に登用し、同時にフィジーの様々な民族集団の代表を内閣に配置する」(5)政府のことであった。二つの民族集団を結びつけるために内閣の利用が考えられた。内閣を通じてフィジアンとインディアンを融合させることが、フィジーにある「民族の傷」(6)をいやすものだと考えられた。国民統合政府は「連立政権」(coalition)とは別物であるとマラ首相はいう。連立政権は、選挙の結果過半数を制する政党が生まれなかったために、やむを得ず政党同士の一時的な合意をもとに形成されるもので、そこに誕生する政府は政党間の「取引」(bargaining)と「妥協」(compromises)の産物である。これは国民統合政府の基礎にあるものとは違う。国民統合政府は、「合意」(consensus)の上に築かれるものなのである(7)。
このマラ首相の提唱した国民統合政府が、1997年憲法によって実現されることになる。そのとき、マラは大統領としてその形成に関わることになったが、一方、かつてマラの理念に共鳴したレディ党首は、1997年憲法下で初の総選挙でその率いる党が大敗北を喫し、国民統合政府の形成に関わることができなかった。
三.「複合民族政府」の提唱
1990年憲法を再検討し、97年憲法の事実上の草案となった報告書を作成した「フィジー憲法再検討委員会」(FCRC)は、その報告書のなかで「複合民族(人種)内閣(政府)」(multi-ethnic(multiracial) cabinet(government))という名称で国民統合政府の構想を提唱した。FCRC報告によれば、1997年憲法の目的は、人種間の調和(harmony)、国民統合(national unity)、すべての民族コミュニティーの経済的・社会的発展の促進とされ、中でも国民統合が究極の目標と位置づけられた(*8)。言うまでもなく、フィジーにおける最大の国家的課題であり憲法問題であるのが国民統合の実現であり、その唯一の解決法がすべての民族が行政権を共有する「複合民族政府」の形成であった。したがって、その実現が第一目標とされたのは、いわば理の当然であった。FCRC報告は、「憲法的基礎の強化」と題して、憲法の基本理念・基本原則等を掲げ、その冒頭、憲法の第一目的は「複合民族政府」の出現を促進することであると宣言する(*9)。その方策として、人種を基礎とした代表制からの漸進的かつ決定的訣別とそのための選挙制度改革を提唱(*10)し、これが上院・下院の選挙制度改革として一部修正の上で具体化することになる。

このFCRC報告に言う「複合民族政府」は、いかなる民族であれ、単一の民族による政府を排除するところにその特徴が求められる。このような政府を形成するための第一段階として、「複合民族政府」は各民族の利益と同時に、全国民的利益をも最もよく実現する政府であるという考え方に、フィジーのすべての民族が同意することが要求される。次に、こうした全民族的合意を得るための方策として、憲法ですべての民族の利益が認められ保護されるという原則を確認し、「フィジアンの利益の至高性は、政治上の至高性を必要とする」という90年憲法の前提を再検証することが必要不可欠となる。そして、最終段階としてフィジアンの利益の至高性を認めることとすべての民族の権利・利益を尊重することが、決して矛盾するものではなく両立しうるものであるという全国民的合意の形成が求められる。これが、FCRC報告にいう「複合民族政府」の考え方である(*11)。

1990年憲法の起草にあたって、1980年頃に発想された国民統合政府構想が再び重視されたのは、ほかでもない87年のクーデタ以来のフィジー政治・経済・社会・国際情勢の推移の結果ゆえであった。1987年4月の総選挙の結果、インド系の政権が誕生することになった。その事態にフィジー人によるフィジーの政治支配の危機をみたランブカ中佐は、5月と9月の2度にわたりクーデタを実行し暫定軍事政権を樹立、憲法を停止するとともにフィジアンの利益を保護する新憲法の制定を求めた。ここに、80年にマラ首相が国民統合政府を提供したときの危惧、すなわち「内戦」のおそれがクーデタという形を取って現れたのである。

その後事態は平穏に推移し文民政権に移行、90年には選挙の結果ランブカ政権が誕生した。そしてフィジアンの利益を至高のものとする新たな憲法が作られることになった。この憲法は、それまでの独立時にイギリスで作られた1970年憲法がフィジアンの利益を十分に認めていなかったと断定し、そこにクーデタの原因の一つを見いだしていた。その反動がフィジアンの利益の至高性の承認を前提とした「人種差別」的な憲法の諸規定となって具体化する(12)。しかし、その結果はインド系国民にとって好ましくないことは当然であったが、フィジアンにとっても決して望ましい現実を生み出しはしなかった。すでに述べたようにフィジアンの政治的優位は恒常的に保障されるようになったものの、人種差別憲法を持つ国として、いささか過剰ともいえる国際的非難を浴び、国際社会での地位の低下や外資導入の低迷による経済の不振が続いた。またフィジー社会の各分野で指導的地位にあるインド系国民の海外移住によるフィジー社会の空洞化が進行していくことにもなった。

こうした経験を通して、フィジーの発展にとって国民統合政府の必要性については、すでに広範な国民的合意ができあがっていた。97年憲法の草案作成に先立ち、政府は各政党に憲法改正に対する見解を調査する機会を設けた。それが各政党の改憲答申となって現れることになり、国民統合政府の形成については多くの党が同意した。但し、国民統合政府の形成の仕方については意見が分かれ、「フィジアン党」(SVT)だけが国民統合政府の形成を憲法規定によらず、政党同士の自発的な連立による方式を答申した。しかし、他の諸政党は一致して何らかの憲法規定をおくことで国民統合政府を法的強制力をもって形成する方式を提案した(*13)。

「国民連合党」(NFP)と「フィジー労働党」(FLP)のインド系の2つの政党は、下院の全議席数の20%以上の議席を有する政党に、議席数に比例した数の閣僚ポストを配分する規定を憲法におくことを共同提案した。フィジアンの政党「フィジアン協会」(FAP)は、首相が自党所属以外の議員に入閣を要請すべきことを憲法に規定する方式を提案し、この方式をとることによって民族・所属政党に関わらず有能な人材を内閣に取り込むことが必要であるとその理由を挙げた。また、多民族からなる「一般有権者党」(GVT)は、首相がすべての民族の議員を大臣に任命することを憲法に定めるよう提案した(*14)。「複合民族政府」を形成することは、フィジーの安定を示す強力なシグナルとなり、外資の導入を促進することになる。そしてすべての民族が入閣することが政府への参加意識を高め、民族間の連帯感を醸成し、国民統合に資するすることになると期待されたのである。

このように方法論の違いがあっても、すべての民族による行政権の共有が民族問題・国民統合問題というフィジーの憲法問題の唯一の解決法であることについて、諸政党の見解は一致していた。ここには87年のクーデタとそれ以降のフィジーの歴史経験が反映されていた。「複合民族政府」の実現を促す憲法の作成が第一目標とされ、それによって民族の協和、国民統合、そしてすべての民族の社会的・経済的発展を促進することなしに、フィジーの将来がないことは誰の目にも明らかであった。特に国際社会のフィジーを見る目を意識せずにはいられなかった。「人種差別憲法」を持つ国という「汚名」を払拭せずして外資導入による経済発展は実現不可能となり、インド系国民の海外移住による国内社会や経済の空洞化を押しとどめることもできないことについては、議論の余地がなかったのである。

では、「複合民族政府」をどのようにして実現するのがよいか。FCRCは、フィジーの政治文化に深く根付いた議院内閣制の枠組みの中で、行政権力共有の実現に向けた二つの方法が検討された。一つは、政党間の自発的な協力により複合民族政府を形成する方法、そしてもう一つが、複合民族政党への支持を拡大する方法であった(*15)。だが、政党の複合民族化をすすめる後者の案は、フィジーの現実からみて、実現が困難であることは明らかであった。議会における人種別議席と人種別選挙制の維持を前提にするならば、政党が人種別に形成されざるをえず、各政党がそれぞれの民族的利益に無関心でいることはできないという現実があったからである。多数党によって形成される政府は、必然的に特定の民族を中心とした民族政府となる。とすれば、政党間の自発的協力に期待する前者の方式にならざるをえないというのがFCRCの考えであった。

しかし、ただ政党間の協力を期待するだけで憲法が沈黙するなら、複合民族政府の形成の実現が危ぶまれることは、これまでの経験からして当然であった。そこで、政党間の協力を促すインセンティブを用意する必要が考えられた。政党にとって最大の関心事の一つが選挙であることは言うまでもない。政党間の選挙協力を促進するような選挙制度、というインセンティブが考えられた(*16)。特定の民族の支持を基盤に形成される政党から選出される議員が、民族的利益を考慮せずに行動することはあり得ない話である。このことが過去数年間にわたって「複合民族政府」が折に触れて提唱され、その構想が国民の間で人種の別を越えて広く共有されているにもかかわらず、結局は実現しなかった理由であった。民族の違いを越えて有権者の支持を求めるような強いインセンティブをもった選挙制度の導入が必要と考えられたのである。

いうまでもなく、複合民族政府を実現するためにより多くの譲歩を強いられるのは、90年憲法でその利益を強く保障されたフィジアンの側であった。その意味で、政党間の協力による複合民族政府の形成という方法が成功するか否かはフィジアンの手に握られていた。そのため、民族の違いを越えて有権者の支持を求めるような強いインセンティブをもった選挙制度を採用するにあたって留意さるべきことは、インド系国民を代表する政党であっても、それらの政党がフィジアンの利益を犠牲にして自分たち民族の利益を追求することはできないという安心をフィジアンに与えるような選挙制度が考えられる必要があった。このような考慮のもとにFCRCが提唱した制度は、オープン・シート(非民族別議席)を15選挙区各3人選出の大選挙区選択投票制(Multiple Alternative Vote System: MAV)であったが、これが「憲法再検討両院合同特別委員会」(JPSC)で修正され、実際に採用されたのは小選挙区選択投票制(Alternative System: AV)であった(*17)。
四.「複数政党内閣」の採用
FCRC報告で「複合民族(人種)内閣(政府)」として答申された国民統合政府樹立のための連立政権構想が、1997年憲法で「複数政党内閣」(multi-party Cabinet)規定として実現された。これは、首相が組閣にあたって、下院で一定数の議席を占める全政党の議員の中から大臣を指名することを義務づける制度である。政党が一般に特定の民族(人種)の支持を中心に形成されているフィジーにおいては、一定数の議席を占める全政党の議員から閣僚を選任することは、必然的に「複合民族政府」の形成につながることになる。そして言うまでもなくこれは連立政権の常態化をも意味する。なぜなら、この方式では一党が過半数の議席を確保した場合にも「複数政党内閣」を形成しなければならないからである。

一般に連立政権は政治の不安定を内包するものではあるが、フィジーにおいてはむしろ政治の安定を示すものとしてこの連立政権方式が把握されているところに特徴がある。連立政権が維持されている限り、原則としてフィジアンとインディアンがともに協力して国政の運営に参加し、ともに責任を共有しているしるしとみられるからである。連立が崩壊したとき、場合によっては少数与党政権というきわめて不安定な政府が誕生する危険性を秘めていることを考えれば、フィジーのような複合民族国家で連立政権が維持されていることが、いかに政治の安定を示すものであるかが理解されよう。

では、1997年憲法はどのような規定をおくことで国民統合政府の実現を図ろうとしているのか。憲法は、その第99条において「その他の国務大臣の任命」として「複数政党内閣」を次のように定めている。

大統領は、首相の助言により、下院議員または上院議員からその他の国務大臣を任命するが(同条1項2項)、首相は国務大臣の指名にあたって、複数政党内閣を組織しなければならない(同条3項)。そして、内閣の構成はできる限り下院に議席を有する諸政党を公平に代表すべきである(同条4項)として、内閣の組織にあたって、首相は下院の総議席の10%以上の議席(8議席)を有するすべての政党が、その下院に占める議席数の割合に応じて内閣に代表されるように大臣を指名しなければならない(同条5項)と定められている。これが97年憲法にいう「複数政党内閣」である。

なお、ある政党が首相の入閣要請を拒絶した場合、首相はその大臣ポストを入閣資格を有する他の政党(首相の所属政党を含む)にその議席数の割合に応じて、本条(5)項の定めるところにより、できる限りその有資格政党に割り当てなければならず(同条7項)、さらに、すべての政党(首相の属する政党および連立を組んでいる政党を除く)が首相の入閣要請を拒絶した場合、首相は自らが所属する政党または連立を組んでいる政党の議員を代わりに入閣させることができる(同条8項)。ただし、首相は、自ら所属する政党以外の議員を大臣に指名するとき、その議員の所属政党の党首に相談しなければならない(同条9項)として、入閣を利用して他の政党の分裂を誘発するようなことがないように配慮されている。

このように、憲法規定では、大統領が首相の助言にもとづいて、下院議員または上院議員の中からその他の国務大臣を任命し、その際首相は下院の議席数に現れた政党構成をできる限り公平に反映するように内閣を組織することが求められる。特に下院の全議席の10%以上(8議席)を占める政党については、原則としてその各政党からそれぞれの下院議席数に応じた閣僚を任命しなければならない。すでに述べたように、フィジーにおいては政党が一般に特定の民族(人種)の支持を中心に形成されているため、議席を有する全政党の議員を閣僚に任命することは、必然的に複合民族内閣の形成につながる。

この方式は、FCRC報告で答申された構想をさらに推し進めたもので、この答申を受けた「憲法再検討両院合同特別委員会」(JPSC)の提案になるものである(18)。その目的は複合民族主義の推進にあり、その実現のためには閣僚数が下院の議席数に比例して配分されるべきだとの考え方を基礎にしている。そして、この制度がその意図する効果を発揮するためには、下院の議席数に有権者の支持が正確に反映されることが前提となる。それには、各政党が選挙前に何らの選挙協力も行わないことが条件となる。こうして、下院の議席数に反映された民意を、内閣の構成においても反映させようとするところに特徴がある。その意味では、行政権までの民主化を意図した制度ととらえることもできる。

だだし、この制度については複合民族主義を促進する一方で、政府内における「責任」(accountability)の減少をもたらすことが危惧され、提案したJPSCも、権力の共有(power-sharing)を押し進める一方、ウエストミンスター型の与党=野党の関係に執着するという矛盾した態度を示した。なぜなら、複合政党内閣の成立で「総与党化」減少が生じると、政府に対する批判勢力がなくなり、政治責任の追及が曖昧になってしまう恐れがあるからである。そのため「権力共有政府」(power-sharing)には監視制度が必要となり、これを欠くときには各党間で政治家同士の安易な妥協を生み、政府の責任感が低下すると指摘される(*19)。しかし、このような懸念はフィジーにおいては的を射たものとはいえない。なぜなら、これまでフィジーにおいては「妥協」が容易に行われないことこそが問題であり、「安易な妥協」が行われるような状態を想定することは非現実的であったからである。むしろ皮肉な見方をすれば、そうした状態が実現するなら、それは国民統合政府の形成に向かう望ましい兆候とみることもできるのである。さらにいうならば、本来の野党でいるべき政党が内閣に加わることで、実効性のある行政監督が政府内部で行われる可能性も考えられるのである。

いずれにせよ、いくつかの懸念にもかかわらず「複合民族内閣」制の導入が決定されたのは、フィジーにとって「国民統合政府」の基礎的要因として、なによりも全政党指導者の真の協力が不可欠であると考えられたからである。フィジーの繁栄に向けてのすべての民族集団の一致協力こそが、なににもまして求められたのである。
五.1999年総選挙と「複数政党内閣」の実現
1999年5月、新選挙制度のもとで新憲法下で初の下院議員選挙が行われ、初めての「複数政党内閣」が誕生した。しかも、インド系のフィジー労働党が71議席中37議席という過半数を制し、初めてのインド系首相のもとでの複数内閣の組織という予想外の劇的な結果を生んだ。これは、もちろん民意によるものであるが、それだけではこのような劇的な変化につながるものとはならなかった。そこに人種別議席制の変更と首相の人種要件の削除という憲法規定の変化、および選択投票制(alternative vote system)の採用という選挙制度の変更が作用した結果であった(*20)。人種別議席数の議席配分によりフィジアンの過半数が保障されなくなったこと、首相の人種要件の削除によってインド系にも首相への道が開かれたこと、そして特に選挙制度の変更は32.3%という政党別得票率で、議席の過半数を獲得するという大勝利をもたらし、新憲法によるフィジーの変化を内外に印象づけることとなった。

選挙の前の世論調査では、選挙の争点は雇用問題・経済問題であり、国民意識の中にはもはや憲法問題や人種問題は大きな関心事ではなくなっていた。その意味で、1997年憲法が国民によって歓迎され、もはや憲法問題は過去の問題として有権者の念頭にはなかったことは明らかであった。また、第3のクーデタを心配する声も選挙直後に一部でささやかれはしたが、そのような動きは起こらず、第1党となった労働党のチョードリー党首が首相に選ばれ、速やかに複合民族内閣が組織された。組閣にあたっては、憲法の定めるところに従いチョードリー首相は、前与党のSVTにも入閣を要請したが、SVTは過大な要求を突きつけることによって事実上その要請に応じず、結果的には労働党とフィジー人協会党(FAP)・キリスト教民主同盟(VLV[CD])・国民統一党(NVTLP)による連立政権が形成された。インド系の首相ではあるが、18名の閣僚のうち12名をフィジアンから起用することでインド系が譲歩し、フィジアンに十二分に配慮した人事配置を行い、国民統合政府の形成を目指した。

こうした民族的配慮のためもあってか、現在の複数政党内閣に対する人種(民族)的批判もなく、目下のところフィジー政治の安定が確保されている。しかし、今後この制度が所期の目的通り機能し、近い将来民族の違いを乗り越えてフィジー諸島国民としてのアイデンティティーが形成され、国民統合が達成されるかどうかは依然として未知数であることに変わりはない。諸民族が命運をともにするという国民共同体意識の誕生には、まだいくつかの危機を乗り越えなければならないのではないだろうか。今後の事態の推移を注視したい。

(注)

(1)東裕「フィジー共和国憲法にみる『伝統』と『近代化』の相剋」、日本法政学 会法政論叢第33巻、240-43頁、平成9年。

(2) 東 裕「国民国家形成と憲法−フィジー諸島共和国の場合」、憲法政治学研究会編『憲法政治学叢書1近代憲法への問いかけ−憲法学の周縁世界』、成蹊堂、245-53頁、1999年。

(3)Ralph Premdas, Towards a Government of National Unity in Fiji: Political Interests versus Survival of the State, Pcific Perspective, Vol. 10 No.2, pp.8-9, 1980. および、東 裕 「フィジーの憲法改正動向について−『憲法再検討委員会報告』を中心に」、「ミクロネシア」通巻102号、20-37頁、1997年、参照。

(*4)ibid., p.9.

(*5)ibid., p.11.

(*6)ibid., p.11.

(*7)ibid., pp.11-12.

(*8)Sir Paul Reeves, Tomasi Rayalu Vakatora, Blij Vilash Lal, The Fiji Islands: Towards A United Future, Report of the Fiji Constitution Review Commission 1996, Parliament of Fiji, p.4, 1997.

(*9)ibid., p.18.

(*10)ibid., p.18.

(*11)ibid., p.21.

(*12)東裕「フィジー共和国憲法にみる『伝統』と『近代化』の相剋」、日本法政学会「法政論叢」第33巻、236-37頁、平成9年。

(*13)Sir Paul Reeves, Tomasi Rayalu Vakatora, Blij Vilash Lal, The Fiji Islands: Towards A United Future, Report of the Fiji Constitution Review Commission 1996, Parliament of Fiji, pp.17-18, 1997.

(*14)ibid.,p.18.

(*15)ibid.,p.19.

(*16)ibid.,p.20.

(*17)東裕「フィジー諸島共和国の新選挙制度とその思想」、「パシフィック・ウェイ」通巻112号、30-32頁、1999年。

(*18)同、28-30頁。

(*19)東裕「フィジー新憲法(1997年)の若干の特徴について」、「ミクロネシア」通巻104号、39頁、1997年。

(*20)今回の選挙から採用された選択投票制は、有権者は投票の際に投票用紙に印刷された候補者に1位から順に順位をつけて投票し、第1順位のものが過半数の得票を得たときは当選となるが、第1順位の者が過半数を得られなかった場合、最下位の候補者に投ぜられた票から順に第2順位以下に選ばれた候補者に票を移譲し、過半数の得票者がでるまで同様の操作を繰り返し行っていくものである。その結果、すでに述べたように得票率では32.3%の労働党が71議席中37議席を獲得する一方、得票率では20.0%を得た与党のフィジー人党(SVT)は、議席面ではわずか8議席にとどまった。また、フィジー人党と協調関係を維持し1997年憲法の改正の実現に大きく寄与した、インド系の国民連合党(NFP)は14.5%の得票を得ながらも獲得議席数は0となった。その一方、得票率10.2%のフィジー人協会党(FAP)が10議席、9.4%のキリスト教民主同盟3議席、等の衝撃的な結果となった。(東裕「フィジー諸島共和国の新選挙制度とその思想」、「パシフィック・ウェイ」通巻112号、26-36頁、1999年。および、小川和美「フィジー新政権成立の分析」、「同誌」同号、37-52頁。)

(追記)
本論文脱稿後の五月十九日に、クーデターが発生した。フィジー原住民の利益を代表すると称するフィジー系の元実業家ジョージ・スペイト(George Speight)を指導者とする七名の武装グループが国会に乱入し、チョードリー首相を含む閣僚・国会議員ほか数十名を監禁、憲法の停止と暫定政権の樹立を宣言した。これに対し、マラ大統領は全土に非常事態を宣言、前首相で現在大酋長会議委議長を務めるランブカを中心に実行グループと交渉中であるが、五月二十五日現在首相hか数名の監禁がまだ続いている。軍も警察もマラ大統領及びチョードリー首相支持を表明、この文民クーデターは失敗に終わる見通しであるが、大酋長会議はクーデター実行グループの要求に理解をしめしており、今後原住民の政治的利益の保障をめぐり憲法改正問題が再燃する可能性がおおきくなってきた。尚、五月十九日は、発のインド系チョードリー政権誕生一周年に当たり、同政権に反対する五000人を上回るフィジアンのデモが首都スバで行われていた。(2000年5月26日、記)