研究員の論文
フィジーの選挙制度の変遷と近年の政治動向について

苫小牧駒澤大学助教授 東裕(ひがし ゆたか)
出所:『パシフィック・ウェイ』(慶應義塾大学出版)2000年、pp.379-387

複合人種(民族)国家フィジーにとって、国民統合は独立以前からの最大の国家的課題であり、独立以前の憲法以来、人種別選挙制と人種別議席制を採用することによって、この問題の解決を指向してきた。この制度は、1970年の独立憲法、1987年のクーデターを契機に作られた1990年憲法、そして民族協和を目指した現在の1997年憲法に至るまで、形を変えて脈々と受け継がれてきており、フィジーの国民統合の歴史は、この憲法制度の歴史として跡付けられるといっても過言ではない。このユニークかつやや複雑な制度の変遷を紹介するとともに、この自伝ではまだ語られてはいない最近のフィジーの状況、とりわけ国民統合を憲法上の最大の課題として掲げた1997年憲法制定以降の状況に至るまでを解説し、読者の本文理解に資することを目的とするものである。

1.1966年憲法下の制度
1965年の7月に、ロンドンで憲法会議(Constitutional Conference)が開かれた。この会議では独立とフィジー人(フィジアン)の土地問題は議題としないという約束の下にフィジー人の出席をえて開催された。会議の席上、インド人(インディアン)の議員たちは1名の任命議員を除き、植民地支配の終了と立法評議会(Legislative Council)議員の選挙制度における平等な権力の共有を強化することを求めた。そしてこの後者の実現のために、人種区分をしないで全国民を一つの選挙名簿に登載することで「1人1票」(one man one vote)を実現する「共通名簿」(common-roll)の導入を要求した(本文中では「共通選挙」と呼んでいるもの)。 

これに対しフィジー人は、「フィジー人の利益の至高性」という信念を堅持し、共通名簿は彼らの利益を保障するものではないと主張し、ヨーロッパ人もまた自分たちの特権は共通名簿抜きで保障されるとして、フィジー人の側についた。その結果、1966年の憲法では共通名簿の採用は見送られ、「交差投票」(cross-voting)制が導入され、内政自治を実現するというイギリスの意図が実現されることになった。

1966年憲法は、立法評議会の議席配分にフィジー社会の民族区分を反映したものであった。立法評議会の36議席中14議席がフィジー人(人口228,000人)、12議席がインド人(人口の約50%の256,000人)、10議席がまとめて「一般有権者」(General Electors)と総称されるヨーロッパ人・ヨーロッパ系混血・中国人・その他(人口の約7%の28,000人)、へと配分された。ヨーロッパ人の過剰代表は、その持てる資本と技術によって植民地の福祉に貢献したという理由で正当化された。

こうしてこの憲法の下では、有権者はそれぞれの人種議席に1票の他に3つの各民族議席の交差投票議席に1票ずつを投じることになり、結局1人の有権者が4票ずつ行使することになった。こうして交差投票議席においては、全有権者が人種の違いを越えて、人種別の候補者に投票する道が開かれ、この議席で当選するには候補者の属する人種以外の人種の有権者の支持を得ることが必要になったのである。(表1)

1966年の総選挙までに政党が結成され、このときの選挙で勝利を収めたのは、同盟党(Alliance Party)であった。このフィジー人を中心とする政党は、原住民部門(フィジー人同盟)、インド系部門(インド人同盟)、及び一般有権者部門(一般有権者同盟)の3つの部門から構成されていた。野党は、のちに国民連合党(National Federation Party : NFP)となる連合党(Federation Party)で、有力なインド人政党であった。

このときの総選挙で同盟党は23議席を獲得し、酋長会議(Council of Chiefs)と2名の無所属議員が同盟党についたため、同盟党系は27議席を占めることになった。連合党はインド人議席でインド人の投票の65.26%を獲得し、ここで9議席を得た。他の3議席のインド人の交差投票議席は連盟党が占めた。この例が示すように、この憲法の下の制度では政権を獲得しようとする政党は、単一の人種の支持だけでなく他の人種の支持も得なければならないことが実証された。

表1:1966年憲法下の選挙制度
有権者 人種別議席 交差投票議席 合計議席
フィジー人 9 3 12
インド人 9 3 12
一般有権者 7 3 10
- 25 9 34
大酋長会議選出議席 - - 2
総督任命議席(最大) - - 4
総議席数 - - 40

2.1970年憲法下の制度
フィジーは1970年に独立し、1970年憲法の下でウエストミンスター型の2院制の国会を持つことになった。1966年憲法下の立法評議会は、1970年憲法の下院(House of Representatives)へと受け継がれた。下院は52議席からなり、その選挙においては次のような人種別選挙議席が定められた(表2)。ここでは、66年憲法下にあった大酋長会議選出議席と総督任命議席がなくなり、下院議員はすべて国民の選挙による選出となった。そのかわりに新たに設けられた上院(Senate)は任命制となり、大酋長会議任命議席、首相任命議席、野党指導者任命議席、及び少数民族であるロトゥマ人のロトゥマ評議会任命議席で構成されることになった(表3)。この議席配分に明らかなように、上院においてはフィジー人の利益の至高性が保障された。下院議員の選挙については、以前の制度同様に、有権者1人が4票を行使する方式であった。従来の交差投票議席は「全国民議席」(National Seat)という名称を与えられることになった。

表2:1970年憲法下の下院選挙制度
有権者 人種別議席 交差投票議席(全国民議席) 合計議席
フィジー人 12 10 22
インド人 12 10 22
一般有権者 3 5 8
総議席数 27 25 52

表3:1970年憲法下の上院議席      
大酋長会議任命 8
首相任命 7
野党指導者任命 6
ロトゥマ評議会任命 1
総議席数 22

3.1990年憲法下の制度
1987年の総選挙の結果、独立以来17年間政権を担当してきた同盟党にかわり、インド人の支持する国民連合党(NFP)とフィジー労働党(FLP)の連立政権が誕生することになった。この事態を前にし、インド人によるフィジー支配の危機を感じたフィジー国防軍のフィジー人ランブカ中佐が、この年に2度のクーデターを実行し、70年憲法の停止とフィジー人の利益を確保するための新たな憲法の制定を決めた。ランブカの認識によれば、70年憲法はフィジー人の権利保障にとって不十分な憲法であり、それがクーデターを招いたというものであった。

1990年7月に新しい憲法が公布されたが、この憲法はなによりもフィジー人の伝統・価値等、フィジー人の利益保護を最大の目的としていた。そのため、大酋長会議を憲法上の制度として承認し、首相の資格要件としてフィジー人に限るという人種資格要件を付し、立法におけるフィジー人の伝統・価値等への配慮を義務づけた。さらに、フィジー人の政治支配の恒久化を目指すべく、人種別議席配分を変更し、下院70議席中過半数の37議席をフィジアン議席と定め、70年憲法にあった交差投票議席を廃止し、すべての議席を人種別議席とした(表3)。また、上院議席については34の全議席を人種別議席とし、フィジー人24議席・ロトゥマ人1議席・その他9議席とし、それぞれ大酋長会議の助言・ロトゥマ島評議会の助言・その他コミュニティーの慎重な判断による助言に基づき、大統領が任命することになった。

ここに2大人種間のバランスを図り両者の対立を緩和することで深刻な国家的分裂を回避するという70年憲法の思想は完全に放棄され、フィジー人によるフィジーが宣言されることになった。この結果、フィジーは人種差別憲法を持つ国との国際的非難を浴び、インド人の海外移住が加速され、直接投資の減少、経済の低迷という深刻な事態を招いた。こうした状態に対し、憲法の差別条項を廃止し、国際社会での信頼の回復を図り、経済の建て直しを図ることが全国民の合意となっていった。

結局、90年憲法はインド人のみならず、フィジー人にとっても利益をもたらさないことが明らかになった。さらに、クーデターの翌年にはフィジー人人口がインド人人口を上回り、インド人によるフィジー支配の可能性を薄れさせたことも、フィジー人に安心感を与えた。こうして、1995年には「憲法再検討委員会」(Constitution Review Commission)が組織され、新憲法に向けての調査が開始された。

表41990年憲法下の下院選挙制度
有権者 人種別議席
フィジー人 37
インド人 27
ロトゥマ人 1
その他人種 5
総議席数 70

4.1997年憲法下の制度
1996年に『フィジー諸島:統合された未来に向けて』と題する憲法再検討委員会の答申が出された。これが国会の両院合同特別委員会の審議を経て両院で可決され、1997年7月25日にマラ大統領の署名を得て新憲法が成立、翌98年7月27日に施行された。この憲法は国民統合を最大の課題として、国際社会(コモンウエルス)への復帰(1997年10月に実現)、外資導入による経済成長への環境整備を図るため、人種差別の解消、人権のグローバル・スタンダードへの配慮、などを具体化する試みとしていくつかの特徴的な規定がおかれた。

1.フィジー共和国からフィジー諸島共和国への国名変更、

2.大酋長会議条項の後退、

3.人権協約(コンパクト)の導入、

4.人権委員会の設置、

5.社会正義と積極的格差是正措置(アファーマティブ・アクション)の推進、

6.人種別議席数の変更と選挙制度改革、

7.首相の人種要件の削除、

8.複数政党内閣の要請、

などがその主なものであった。なかでも注目されたのが人種別議席数の変更と選挙制度改革、及び首相の人種要件の削除で、この改革がのちに1999年の総選挙でのフィジー労働党の勝利と初めてのインド系首相の誕生という結果をもたらすことになる。
 
この憲法では下院議席数が70から71に増え、うち46議席を人種別議席として残したものの、残り25議席については人種区分のないオープン・シートとした。人種別議席についても、その内訳を各人種の人口比にほぼ比例する議席数を配分した。その結果、フィジー人議席23議席、インド人議席19議席、ロトゥマ人議席1議席、その他一般投票者(General Voter)3議席となった(表5)。上院の議席については、人種別議席が廃止されるとともに、議席数と任命方式が変更された。全32議席が、大酋長会議、首相、野党代表、及びロツマ評議会の助言に基づき、それぞれ14議席・9議席・8議席・1議席を大統領が任命することになった。

これは、70年憲法下の方式にきわめて近いものであるが、この選挙制度の下では下院議員の選出については各有権者はそれぞれの人種別議席に1票を投じるほか、オープン・シートでも1票を投じることになり、70年憲法下の有権者1人が4票を行使するのと違い、1人が2票を行使する方式に変わった。

表5:1997年憲法下の下院選挙制度
有権者 人種別議席 オープン・シート 総議席数
フィジー人 23   23
インド人 19   19
ロトゥマ人 1   1
一般有権者 3   3
総議席数 46 25 71

表6:1997年憲法下の上院議席
大酋長会議の助言によるもの 14
首相の助言によるもの 9
野党代表の助言によるもの 8
ロトゥマ評議会の助言によるもの 1
総議席数 71

5.1999年総選挙とインド系連立政権の誕生
1999年5月、新憲法下で初の下院議員総選挙が実施され、誰も事前に予想することのなかったインド系のフィジー労働党の圧勝とインド人である同党党首マヘンドラ・チョードリーの首相就任という結果となった。そして憲法の規定する複数政党内閣の形成という要請を受けて、過半数の37議席を獲得したフィジー労働党を中心とする連立政権が形成された。ちなみに、この複数政党内閣(multi-party Cabinet)は、1982年にマラが提唱した「国民統合政府(Government of National Unity)」(本文では「挙国一致内閣」)の発想の具体化といえるものである。

さて、フィジー労働党の圧勝の背景には、ランブカ首相のフィジー人党(SVT)政権が雇用の拡大をもたらす有効な経済政策を実施できなかったことへの不満があったことは事実であるが、それだけではこのような劇的な変化を生むには至らなかった。民意の動向に加えて、新憲法下での制度変更によるところが大きく作用した結果でもあった。
新たに採用された小選挙区選択投票制は、労働党に第1順位の得票率32.3%で全議席の52.1%にあたる37議席(改選前7議席)という過剰代表をもたらす一方で、前与党SVTには第1順位の得票率20.0%でありながら獲得議席数8議席(改選前32議席)という過小代表をもたらした。同様の獲得票数と獲得議席数の不均衡は、第1順位で14.5%の得票の国民連合党(NFP)が議席0(改選前20議席)に終わる一方、同10.2%のフィジー人協会党(FAP)が10議席(改選前4議席)を獲得するといった例に顕著にみられることとなった。こうして新憲法の制定に向けて互いに手を携えるかのように進んできたSVT党首ランブカとインド人のNFP党首レディは、ともに自ら作った新憲法の下で大敗北を喫するという皮肉な結果となった。

首相の人種要件が削除されたことで、インド人のチョードリー労働党党首が首相に就任し、憲法の規定に従って下院で10%以上の議席(8議席以上)を得た各党に対し入閣を要請したが、前与党SVTはランブカの副首相就任をはじめとする過大な要求を突きつけたことで事実上入閣を拒否、同党を除くフィジー労働党・フィジー人協会党(FAP)・キリスト教民主同盟(CD)・国民統一党(NVTLP)の4党による連立政権(複数政党内閣)が組織され、国民統合を目指した初めての複合民族内閣の試みが実現されることになった。

しかし、政権誕生からまもなく1年になろうとする時点では、この内閣のなかに軋みが目立つようになり、真の国民統合に向けての途は決して平坦ではないことがここでも明らかになりつつある。インド系政権の誕生によっても期待された投資の伸びも伺えず、インド系国民の海外移住の流れも止まってはいない。サトウキビ栽培農地の契約更改に絡むALTA(農地借地法)問題も解決の糸口がつかめず、難航したまま借地契約の期限切れを迎える農地が続出することが確実な情勢になっている。

こうした問題の背後には、民族問題の存在が依然として根強く、そのことが問題の解決を難しくしているようである。インド系政権の誕生が、国民統合という大義のために抑制されていたフィジー人の民族意識を刺激したという指摘もある。チョードリー首相就任を歓迎したフィジー人は、本書の著者であるマラ大統領だけであったともいわれる。すでに、99年5月の総選挙直後に、フィジー系諸政党の連立構想が政党指導者間で話し合われてもいる。

今後、1997年憲法が掲げた国民統合が達成されるまでには幾多の困難が待ち受けていることは間違いない。それを克服し、民族の違いを越えて全フィジー国民が「フィジー諸島国民」というアイデンティティーを共有するにはまだまだ時間がかかりそうである。しかし、ゆっくりとした歩みのなかで、国民統合に向けて「穏やかな方法」で困難を克服していくこと、それこそがマラの言うパシフィック・ウェイにほかならないのである。