研究員の論文
フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察

苫小牧駒沢大学 国際学部教授
東  裕(ひがし ゆたか)
出所:苫小牧駒澤大学紀要第5号、2001年3月30日発行


目 次
はじめに      
1.国会人質監禁事件=文民クーデタ
2.暫定軍事政権の成立=軍事クーデタ
3.暫定文民政権と新憲法構想
 (1)「ブループリント」にみる新憲法の基本方針
 (2)1997年憲法の「欠陥」
 (3)新憲法の制定と憲法委員会の設置
4.高等裁判所の違憲判決
5.結びにかえて

はじめに
 
 2000年5月19日に発生したフィジーのいわゆるクーデタ事件は発生から2ヶ月弱の7月13日に国会議事堂内に監禁された人質全員の解放をもって一応の決着を見たが、その間に選挙によって成立した政権が文民クーデタ実行集団の要求を受け入れる形で追放され、一時的に国防軍が全権を掌握して1997年憲法を破棄した後に暫定文民政権へ移行する形で非常事態下での政権の交代が行われた。こうして成立したガラセ政権はフィジー原住民の利益を十分に保障する新たな憲法の制定とその憲法の下での選挙の実施による立憲民主制への復帰を掲げて政権運営にあたることになった。憲法に定める手続きによらない政権交代に対しオーストラリアをはじめとする国際社会からの非難をうける中で、国内においても11月16日にラウトカの高等裁判所において、1997年憲法の破棄は違憲であり同憲法は依然として効力を有し、大統領・上院議員・下院議員の職も5月19日以前のままであるとの判断が示され、暫定政権の正当性に疑問が投げかけられた。このように、フィジーの政治情勢は依然として波乱含みではあるが、現在の暫定政権が今年(2001年)中に新憲法を制定し、来年(2002年)に総選挙を実施し立憲民主制への復帰、というタイムスケジュールに大きな変化は見られないのではないかと思われる。そこで本稿では、5月19日以来のフィジー政治の推移を跡づけ整理するとともに、このクーデタ事件をきっかけにふたたび大きく浮上した憲法における原住民の利益保護をめぐる憲法と政治の問題を考察するものである。


1.国会人質監禁事件=文民クーデタ
 
 フィジー初のインド系首相率いるチョードリー政権の誕生から1年を迎えた5月19日、首都スバでは、チョードリー政権に反対する5,000人を越える原住民系フィジー人(フィジアン)のデモ行進が行われていた。折から開会中の国会に、ジョージ・スペイト(George Speight)ら、7名の武装集団が侵入、チョードリー首相をはじめ、閣僚・国会議員・国会職員などを人質にとって国会議事堂を占拠、政権の奪取を宣言した。彼らは自らフィジアンの利益を代表していると主張し、人質解放の条件として、@フィジアンの権利を強く保障した憲法の作成、Aチョードリー首相の解任、そしてBマラ大統領の辞任を要求した。これが、今回の一連の騒動の発端となった「文民クーデタ」(civilian coup)である(1)

 クーデタの背景にあるのは、1999年5月の総選挙の結果誕生したインド系首相の政権に対するフィジー原住民の不満であった。この選挙は、1997年憲法下で初の下院議員総選挙で、新たな選挙制度の下で実施された選挙でもあった。前憲法下での選挙制度とは異なり、小選挙区での選択投票制(Alternative Vote System)という制度は、インド系政党であるフィジー労働党に、第一順位の選択での得票率37%で全71議席中の37議席を与えるという過剰代表をもたらした(2)。そして、97年憲法では首相をフィジアンに限定していた90年憲法にあった人種要件がなくなったことで、インド系首相の誕生をもたらしたのであった。これは、事前の選挙予測ではまったく思いもよらなかった結果であった。選挙の前月に発行されたフィジーの月刊誌「リビュー」ではランブカ政権の継続が既定事実であるとして組閣名簿の予想すらなされるほどであった(3)。確かに、事前の世論調査では経済・雇用問題が選挙の焦点で、この点で労働党に期待する声があったのは事実であるが、それが政権交代にまで結びつくことを予想するものはなかった。

 国民統合を目指した1997年憲法の成立によって、原住民系フィジー人とインド系フィジー人の融和とフィジー人としての国民統合への歩みが大きく一歩踏み出されたなかでのこの選挙結果は現実政治の面における人種・民族を越えた国民の政党選択の第一歩と見えなくもなかった。人口比においてフィジー系がインド系を大きく上回る中での結果であるだけにそのような見方もあながち的はずれではないように思える。ところが、実態は違ったのだ。総選挙において影を潜めていた民族意識がインド系労働党の勝利という現実を目の当たりにしてふたたび噴出し、選挙直後にフィジー原住民系の政党であるSVTとVLVがフィジアンの大連立の可能性について話し合いがもたれたこともあった(4)。結局この話は実を結ばなかったが、その後のチョードリー政権の農地問題への対処がインド系優遇であるとの不満が原住民系のなかに鬱積していった。チョードリー政権は、連立政権(=複数政党内閣)(5)においてフィジー原住民系の閣僚を過半数登用するなど原住民系に配慮する組閣を行ったが、農地問題への対処を目の当たりにして、結局首相がインド系である限りフィジー原住民の利益は保護されない、との思いが原住民系に高まっていったのである。

 このようなフィジー原住民系の不満を背景に、1987年に続きふたたび(正確には三度)原住民系によるクーデタの噂がチョードリー政権の成立から1年目にささやかれていた。こうした状況を背景に、スペイトらの武装集団が国会に侵入してチョードリー首相らを監禁し、フィジー原住民の利益を強く保護する新憲法の制定、チョードリー政権の解任、そしてマラ大統領の辞任という要求を突きつけたのである。原住民系でしかも大酋長の家系にあるマラ大統領への不満が公然といわれたのは、直接にはチョードリー首相誕生にあたってマラ大統領が積極的な役割を演じたことへの不満が背景にあってのことであった。しかし、このような不満があからさまに表明され、マラ大統領の自宅に原住民系住民によって投石が行われるという事態は、今回のクーデタ事件が単にこれまでのようにフィジー原住民対インド系住民という単純な民族問題の構図ではとらえきれない側面をもっていることを示した。貧しいフィジー原住民対エスタブリシュメントという対立の構図も重なっているようにみえるのである。

 クーデタの当日、首都スヴァでは主にインド系が経営する商店が襲撃され、略奪や放火が各所で発生した。このような事態に対し、マラ大統領は翌20日に「非常事態」(state of emergency)を宣言し、自ら行政権を行使して武装集団との暴力による対決を避け公正で平和的な解決をもたらすために努力する決意を表明し、武装集団との交渉に当たっては大酋長会議議長を務めるランブカ前首相に政府と武装集団との調停役を依頼することを明らかにした。また、フィジー憲法と国家の諸制度に変更がないこと、そして銃と暴力が目的達成の手段であると考える人々の邪悪さには顔を背けるよう国民に訴えかけた。(6)

 
さらに22日にマラ大統領は記者会見を招集し、次のように現状を説明した。(7)

 @1997年憲法に変更はなく非常事態宣言下でマラ大統領が全行政権を把握していること。
 A大統領は行政の長として警察、国防軍、裁判所、及び他の公務員の全面的な支持と忠誠を得ているほか、大酋長会議のメンバー、上院、実業界、労働組合、非政府組織、市民からの支持の声があること。
 Bフィジーを実効的に支配しているのはマラ大統領の政府であり、国会議事堂内の武装集団ではないこと。
 Cフィジー原住民の意思を十分に尊重し、原住民社会の地位を保護し強化する解決策を十分に検討すること。  
 D武装集団は武器を捨てて人質を解放し、政府と対話に入ること。
 E大酋長会議がランブカ議長によって招集され、その場で憲法的解決があることをマラ大統領自身が強調しながら協議を行うこと。
 Fフィジー原住民社会の関心事に目を向けなければならないが、行動は憲法の枠内で行わなければならず、その際憲法の「コンパクト(協定)」(Compact)の章(第2章)が明確な行動の指針を提供していること。すなわち、「異なったコミュニティーの利益が対立するとき、すべての関係当事者は合意に達するために善意をもって交渉に努力し、こうした交渉の中ではフィジアンの利益が守られるべきという原則が適応される。この原則は、フィジアンのコミュニティーの利益は他のコミュニティーの利益には従属しないということを確認するものである」との憲法規定(第6条)を指針とすべきというのである。

 こうして、フィジーがおかれている現状を説明しつつ事態解決に向けた大統領の姿勢を鮮明にし、国民に対しては事態解決に向けての理解を求めた。

 一方、原住民の利益を代表すると考えられる大酋長会議が5月23日から3日間にわたって開催され、25日に次のような決議がなされた(8)

 @大酋長会議は、フィジー諸島共和国大統領が目下の非常事態からフィジーを正常化させようとしている努力に対し全面的な支持を表明する。
 A大酋長会議は、1997年憲法が改正されること、そしてその改正は原住民によって表明されたすべての関心事を含むべきものであることに賛成する。
 B大酋長会議は、フィジー諸島共和国大統領としてのラツー・サー・カミセセ・マラ大統領と副大統領としてのラツー・ジョセファ・イロイロを全面的に支持する。
 C大酋長会議は、暫定政府指導者としてのマラ大統領を補佐するため助言者会議(Council of Advisors)のメンバーを任命することに賛成する。
 D大酋長会議は、大統領だけが助言者会議を任命する権限をもっていること、そしてその助言者のうちの何人かはジョージ・スペイトのグループから選ばれることに同意する。
 E大酋長会議は、大統領に対し、国会を占拠し人民連合政府(Peoples Coalition Government)を人質に取ったすべて人々に恩赦を与えることを要求する。
 F大酋長会議は、大統領に対し、最近の抗議行進の中でさまざまな原住民グループによって掲げられた不満に十分かつ緊急の注意を払うことを要求し、大統領と首相の地位及びその他のいくつかの政府の上級の地位が、つねに原住民であるフィジアンかロトゥマンによって占められることを保障するよう特別の注意を払うこと。
 G大酋長会議は、国会議事堂内のすべての人質の解放とすべての武器の警察への引き渡しを即座に要求する。
 H大酋長会議は、暫定政府が一定の任期を与えられ、第1の任務は1997年憲法の改正とそれに関連する下位法の改正及び関係立法であることに同意する。
 I大酋長会議は、ジョージ・スペイトとその部下との一層の対話が継続することに同意する。

 以上のように、大統領と大酋長会議は、ともにスペイトら武装集団の要求を大きくのむ形での打開策を提示したが、武装集団側はマラ大統領の辞任を含む全面的な要求の受け入れを強硬に主張し、事態の打開に失敗した。


2.暫定軍事政権の成立=軍事クーデタ
 
 5月27日、武装集団による発砲事件が発生し、政府軍兵士2名、通信社カメラマン1名が負傷する。事態が緊迫したなかでマラ大統領は記者会見に臨み、チョードリー首相及び全閣僚の解任、6ヶ月間の国会停会、そして暫定政権樹立の方針を発表する。その声明の中で、マラ大統領は26日に秘書官を国会議事堂に派遣し監禁中のチョードリー首相との面会を求めたがかなわず、目下の危機の中で他のとりうる憲法上の措置として憲法106条による首相の解任及び99条1項によるその他の閣僚の解任を決めたことを告げた。同条1項は、何らかの理由により首相を含む大臣がその職務を遂行できない場合、別の(首相を含む)大臣をその職に任命できると規定している。また、99条1項では、大統領は首相の助言に基づきその他の大臣を任免するとしているが、首相がその職務を果たすことができない状況においては、大統領が単独でその他の大臣を任免できるとして、議事堂内に監禁されている大臣を解職することによって、人質として監禁される根拠を奪うものであることを明らかにした。これによって、大統領が次の大臣を任命するまでの間、大統領のみがフィジーの政府であり、フィジーを統治する唯一の人間であるとの立場を示した(9)

 それにもかかわらず、事態はさらに悪化の兆候を見せる。翌28日、150人以上のスペイト支持者の若者たちがTV局を襲撃し放送が中断され、このとき警備にあたっていた警察官1名が銃撃で負傷し、翌26日に収容先の病院で死亡した。1987年のクーデタの際にはなかった死者を出したことで、事態は急転する。29日の朝、バイニマラマ(Commodore Frank Bainimarama)国軍司令官がマラ大統領と会見、大統領から権力を委譲されたとして国民に対し次のような声明を発表する(10)
 
  フィジー国民へ
  私は、フィジー及びフィジー国民の安全、防衛及び福祉に責任を有するフィジー国防軍司令官として、ここ数日の間にフィジーが陥った状態を悲しむものである。
  今夜、2000年5月29日月曜18時、私は、やむを得ずフィジーの行政権を担当し、それによって戒厳令(Martial Law)(11)を宣言する。
  その間、フィジーは軍事政府によって運営される。この政府の第一の目的は、フィジーを平和と安定に向け、そしてフィジー及びフィジー国民の福祉をできるだけ早期に実現することである。
  次の措置が即座に実施される。
  ・2000年5月29日月曜午後6時からスヴァに外出禁止令を敷く。この外出禁止令は24時間有効であり、日々見直される。フィジー国防軍は外出禁止令を施行する権限を留保する。
  ・国会議事堂への立ち入りは必要不可欠なサービスの際だけに限定される。
  ・フィジー国防軍のすべての予備役は、フィジー国防軍の任務を支援するための配備に備え、クイーンエリザベス兵舎に集合する。
  私は求める。我々は国民として、「法の支配」を尊重し支持することを。私は、我々国民が現下の危機を解決し、我々の愛する国民の未来の確保に向けて働く能力と決意があることを信じる。
  Thank you and God bless Fiji.
 
 こうして軍が全権を掌握し、戒厳令を布告、スヴァに外出禁止令がしかれる。これまでマラ大統領支持を表明しながら事態を「静観」していた軍が事態の収拾に乗り出したのである。27日の声明においてフィジーの全権掌握を明らかにしたマラ大統領からバイニマラマ国防軍司令官にその全権が移譲されたということは、ここに第2のクーデタ、すなわち「軍事クーデタ」(military coup)が発生したことを意味する。この軍の動きに対しスペイトら武装集団側は歓迎の意を表明する。そのほとんどがフィジー原住民で構成される軍こそがフィジアンの利益を代表するものであるとの思いがスペイトらにあったのだろう。

 軍事政権の誕生とその措置によって、スバ市街は一気に平穏を回復し、翌30日、全権を掌握したバイニマラマ国軍司令官は、次のように1997年憲法の破棄を発表し、以後暫定軍事政権首長兼司令官として、「命令」(Decree)によって統治することを明らかにする(12)。
 
  フィジー暫定軍事政府の首長及び司令官として私に授権された権限 を行使して次の命令を制定する。
  1.この命令は「2000年の1997年フィジー憲法廃止令」と称する。
  2.2000年5月29日以前の現行のいかなる法律(laws)の規定にもかかわらず、かつ時宜に応じて公布されてきたいかなる命令 (Decrees)の規定にもかかわらず、1997年憲法は2000年5月29日以降、全面的に廃止される。
  3.フィジーの司令官として私に授権された権限を行使して、私の手によって公布されるすべての命令(Decrees)と印(seal)は法律(law) と見なされ、遵守され施行されるべきであることもここに布告する。
  コモドア・J・V・バイニマラマ
  フィジー暫定軍事政府首長兼司令官

 ここにバイニマラマ軍司令官による委任独裁体制が成立する。しかし、この体制はその成立から約1ヶ月後に文民首相とその閣僚を任命し、文民政権へ権力を移譲する。7月3日、バイニマラマ国軍司令官は、銀行家のライセニア・カラセ(Laisenia Qarase)を首相に任命し、18人の閣僚名簿を発表、翌4日から新政権が発足するのである。この暫定文民政権はフィジアンだけで構成され、18ヶ月の任期で新憲法の制定とその下での総選挙の実施を担当することになった。鮮やかな軍事政権の手法であった。
 この暫定政権に反対するスペイト支持派のフィジアンによる抗議行動が各地で頻発し、一時は事態は一層の混乱の様相を呈し始めたが、7月9日にバイニマラマ国防軍司令官・ガラセ暫定政権首相とスペイトらの国会を占拠していた武装手段の間で人質解放に関する協定(The Muanikau Accord for the Release of Hostages held at the Parliament Complex Veiuto)(13)が調印され、7月13日にチョードリー前首相を含む人質全員が無事解放され、5月19日以来の一連の事件に一応の終止符が打たれた。
 

3.暫定文民政権と新憲法構想
 
(1)「ブループリント」にみる新憲法の基本方針
 
 政権発足からわずか9日後の7月13日、ガラセ首相は大酋長会議(Great Council of Chiefs)に対し、「フィジアン及びロトゥマンの権利及び利益の保護と両民族の発展の推進に向けての青写真(ブループリント)」を提出し、今後の暫定政権の方針を明らかにした。そこに示された提案の多くは今後2年間での実施を予定したもので、このような原住民の権利及び利益保護のための方策が提案された背景について、次のように記されている。

  「原住民のフィジアンとロトゥマンはフィジー諸島の人口の51%以上で、その数は1996年の国勢調査によれば、全国民人口の増加率年率0.8%に対し、その2.25倍に当たる年率1.8%の高率で上昇を続 けている。両民族はまたフィジーにおける主要な土地所有者であり、伝統的所有権に基づく所有地は国土の83%に及び、そのほかに伝統的漁業権も有している。したがって、彼らに影響を及ぼすことがらは何であれ、全国民に影響を及ぼすことは間違いないのである。両民族の利益の至高性と彼らのフィジーにおける生活のすべての局面での公平な参加を確保することは、フィジーの長期にわたる平和と安定と持 続的な発展の前提条件になる。必要なことは、こうした目的の達成を容易にすることができる環境である。この『青写真』が提供しようとするのはこれである。すなわち、原住民フィジアンとロトゥマンが、フィジー諸島共和国という単一国家の中で自らの自決権を十分に行使できるようにすることである。我々の多民族・多文化社会において彼 らの利益の至高性を保護し、そしてフィジアンとロトゥマンにたいし、その発展と参加の機会及び快適さとサービスを改善し、促進することである。」(14)

 こう述べて、人口の過半数を占める原住民の土地所有権・漁業権の保護と生活の諸側面における参加の機会の確保が、フィジーの発展にとって不可欠の前提条件であるという立場が鮮明に表現されている。その際、特に人口が50%を越えて今もなお増え続けていることと土地の80%以上を原住民が保有していることが強調され、ここに原住民の権利が優先させるべき根拠を見いだしている。

 また、いくつかの具体的な提言がなされ、そのなかで第一に挙げられているのが新しい憲法の制定である。新しい憲法は1997年憲法の改正憲法ではなく新たに制定される新憲法であることが強調され、@大統領と首相については人種要件が付されること、A大酋長会議の意見に添ってフィジアンとロトゥマンの重要問題について憲法上の配慮がなされることを基本方針としている。そして、その他の憲法関連事項としては、B大酋長会議の権力強化、C新憲法条項に基づいたフィジアンとロトゥマンのためのアファーマティブ・アクションに関する法律の制定が盛り込まれている(15)。このような新憲法の基本方針は、文民クーデタを実行したスペイトらの主張とも合致したものであり、それは多くのフィジアンの願望をも表現したものでもある。しかし、これは「人種差別憲法」として国際的な非難を受けてきた1990年憲法への回帰か、あるいはそれ以上の「反動」的な憲法を意味するものであることは間違いない。

 そのため、今後の新憲法作成の過程で、特に大統領と首相の人種要件については国際的な批判に配慮して具体化が見送られ、次に取り上げる選挙制度の「欠陥」是正によって事実上首相職に人種要件を付したのと同じ結果をもたらすことを意図することになるのではないかと思われる。

          
(2)1997年憲法の「欠陥」
 9月4日に「なぜ1997年憲法が改正されなければならないか、そしてなぜ新憲法が必要か」という政府見解が発表され、1997年憲法の欠陥のいくつかが1999年5月の選挙の中であらわになり、最大の欠陥が選挙制度であると指摘された(16)

 その中で次の4点が小選挙区選択投票制の欠陥として問題視されている。第1は、政党主体の選挙は問題であるということ。この選挙制度は個人よりもむしろ政党を選択し議席を割り当てることを許すもので、そのことは選挙人の候補者選択の権利を侵害したという見解が示される。小選挙区制絶対多数制のこの制度をとる以上、結果的に政党本位の選択を行ったのと同じことになるのは当然の帰結ではあるが、このことが制度の「欠陥」と評価されている。

 第2は、得票率と獲得議席数の不一致である。小選挙区制をとる以上、得票率と獲得議席数の比例的関係が破壊されること、すなわち多数代表制であることはこの制度の特徴にほかならないが、現実の選挙結果を前にしてこの特徴が制度の「欠陥」と認識されたのである。すなわち、「選挙制度はゆがめられた結果を生みだし、そのことによっても選挙人の権利を侵害した。SVTは、全フィジアン票の38%、投票総数の19.98%の得票をして、8議席を獲得。FAPは、全フィジアン票の18%、投票総数の13.20%の得票であったが、11議席を獲得。NFPは、全インド人票の27%、全有権者の14.91%の得票で、獲得議席数は0。FLPは、全インド人票の53.3%、全有権者票の31.74%で、37議席獲得」(17)

 このように、投票の第1選択では全有権者の約32%の得票にもかかわらず、票が移譲された結果労働党(FLP)が単独過半数の37議席を獲得したことの「不合理」がこの選挙制度の欠陥として何よりも強く意識されたことは、指摘するまでもないだろう。

 第3に選挙区画の問題がある。当選者が小選挙区で選出されるため、3つの異なる民族別議席(46議席)の選挙区画と全国民議席(25議席)は、同じ地理的区分をカバーするものではなく、選挙区によっては選出された下院議員同士が協働して国民に奉仕するという姿勢が見られず、インド人の議員は選挙区のインド人に、フィジアンは選挙区のフィジアンのために集中して奉仕する傾向が見られた。そのため、議会において議員が選出選挙区のすべての人々のために複合人種集団として協働するようにはならなかった、といわれる。

 そして、第4にフィジアンとインド系との投票行動の違いがこの選挙制度の下で増幅され、インド系労働党への過剰代表を生み出したことが言われる。すなわち、フィジアンの分裂による多党化とインド系の人種的まとまりによる労働党への集中的な支持が、小選挙区制を基本とする制度の下で、労働党の圧勝を生んだということである。「フィジー労働党(FLP)は、2%に満たないフィジアン票を得たに過ぎないが、議席数は37議席を獲得し第一党。この37議席のうち6議席が全国民議席で当選したフィジアン。インド人の選挙人はインド人としてまとまって投票、一方、フィジアンの選挙人は、5つの政党と無所属に分裂。この現象は、同盟党が敗北した1977年と1987年の選挙と同様」(18)ということになったのである。

(3)新憲法の制定と憲法委員会の設置
 議会と政府で多数を占めているフィジアンではあるが、多数の政党に分裂したため、政府の政策形成にほとんど影響を与えなかったという事実を1997年憲法は示した。結局、首相職を確保しない限りいくら議会や内閣の中で多数を占めても政策形成に決定的な影響力を行使できないことが明らかになったのである。国民統合のための複数政党内閣が構成されたが、それも結局首相の属する民族に有利な政策を実行する政府でしかないとの認識が、借地期限切れ農地の補償問題への政府の対応を通じて原住民系フィジー人の中に形成されたのである。そのままの状態が続くと、土地所有の根幹にかかわる法律改正すら現実化するかもしれないという不安感が土地を所有するフィジー原住民系の中に兆したのも無理ならぬことであった。したがって、フィジアンがフィジーにおける自らの安全のために憲法的及び政治的枠組みを強化しようとするなら、憲法で首相と大統領をフィジアンに限るほかない。そのとき、初めて経済的及び社会的生活のなかでの平等かつ公平な参加のための諸政策を通じて、フィジアンの総体的な安全を強化することができると考えられたのである。それには新たな憲法の制定が必要であるという結論が導かれることになった(19)

 10月6日に「憲法委員会」(Constitution Commission)の第1回会合が開かれた。この委員会は、アセセラ・ラヴヴ教授(Professor Asesela Ravuvu)を委員長とする大統領任命の12名の委員からなる独立委員会で、新憲法について検討を行い2001年3月末までに政府に報告書を提出することを任務としている。この報告を受けて遅くとも同年6月までに政府が憲法草案を準備し、7月から11月にかけて大酋長会議をはじめとするフィジアンコミュニティーに順次諮問した後、12月のはじめに新憲法が公布されることになっている。

 第1回会合に出席したガラセ首相は、大統領、大酋長会議、および暫定政府を代表して演説を行い、そのなかで次のように憲法委員会に対する希望を表明した。
 @各委員はそれぞれのコミュニティーを背景にしているが、全国民的な利益を指針として新しい憲法を考え、多人種・多文化社会を抱えたフィジーに適合したものであると同時に、原住民フィジアンとロトゥマンの利益と希望を考慮すること。
 Aフィジーの全国民の意見を広く聴取すること。そのために一般国民の中に入って行き実際にその意見を聞き、人々の「共通意思」(common will)を探り、それを憲法に反映させること。
 B現状の政治危機を解決する鍵は、原住民フィジアンとロトゥマンのコミュニティーの関心事を注意深く見つめることである。1997年憲法による原住民の利益保護は不十分で、原住民は政府において政  策をコントロールしその方向を決定する地位を要求している。同時に、原住民の継承されてきた文化の神聖さ(sanctity)の承認とその保護がフィジアンの関心事である。あえていうなら、フィジーは42万人以上という全人口の過半数を占めるフィジアンとロトゥマンのただ一つの祖国なのだから、彼らの文化こそがこの国の「国民文化」(National Culture)とされなければならない。
 Cどんな憲法であっても、国民のなかに経済的社会的発展の機会に巨大なギャップがあるところでは長期間にわたる平和、調和及び安定を保障することはできない。人口の多数を占め、フィジーの土地の大部分を所有しているフィジアンが教育、商業、専門職、収入、そして雇用機会において劣位に置かれている現状では、長期間にわたる社会的安定を確保することができない。こうした現状が幅広く考慮された新憲法を期待する。それには、1997年憲法にある「コンパクト」と「社会正義」の章(第2章及び第5章)がこのアプローチの基礎を提供している。その一方で、その他のコミュニティーも我々の多人種・多文化社会における平等かつ重要なメンバーであり、人種・文化・性別・経済的社会的地位にかかわらず、すべての市民の基本的権利と自由が維持され保障されなければならない。(20)

 このように、ガラセ首相は、憲法委員会の今後の作業への希望を表明するとともに、委員各自が個人的な考慮を犠牲にして、国家とすべての国民のためにより広い利益を考慮することを求めた。ここにフィジーの立憲民主制の回復に向けての基本方針は定まったといえよう。では、その基本方針とは何か。政府文書に繰り返しふれられているところから判断して、その要点は次のように考えられる。
 第1に、新憲法は1997年憲法の改正憲法ではなく、新たに制定される憲法であること。
 第2に、新憲法は原住民フィジアン・ロトゥマンの利益・希望に十分配慮することを基本原則とすること。このことから特に次の諸点への考慮が要請される。
 @大統領及び首相の地位は原住民に限られること。
 A原住民の土地所有権が将来にわたって完全に保障されること。
 B経済的・社会的に劣位にある原住民に対し、さまざまな優遇措置が実施されること。
 C原住民以外にも、基本的権利・自由が保障されること。
 D選挙制度の見直し。

 ところが、このように新憲法の制定に向かって作業が開始されてまもなく高等裁判所で、暫定軍事政権による1997年憲法の廃止は違憲であり、同憲法はなお効力を有するとした判決が出され、暫定政権の正当性と憲法制定作業に疑問が投げかけられることになった。


4.高等裁判所の違憲判決
 
 11月15日にラウトカ高等裁判所(Lautoka High Court)で1997年憲法は現在も有効であり、暫定文民政権の任命は違法であるとの判決が出された。この判決は、5月19日の武装集団による国会占拠事件後、人質危機、軍事政権、そして暫定政権の樹立、といった一連の情勢を経た今日のフィジー憲法の地位についての判断を示したもので、原告は現在ラウトカの避難所にいる一農民で、5月19日以来の一連の事件の結果発生した事態によって不利益を被ったと主張して現在のフィジー憲法の地位についての判断を求めて提訴したものである。

 原告の主張の要点は以下の7点である(21)
 @5月19日に試みられたクーデタは失敗だった。
 A「必要性の原理」のもとで、マラ大統領によって出された非常事態宣言は違憲であった
 B暫定軍事政権の命令による1997年憲法の破棄は違憲であった。
 C1997年憲法は現在もなお効力を有している。
 D選挙によって選ばれた政府は依然として合法的に構成された政府である。(暫定軍事政権とスペイトグループがフィジーを統治することについて合意に達していないという点から見て)
 E選挙によって選ばれた政府(人民連合政府)はなお正統な政府である。
 F裁判所が公正で公平と考えるあらゆる救済を行うべきである。 

 これに対しゲイツ(Anthony Gates)判事は「宣言的判決」(declaratory orders)として次のような判断を下した(22)
 @5月19日のクーデタは失敗だった。
 Aその当時国が直面していた状況の中で行われたマラ大統領による非常事態宣言は、憲法の定める条件の中で厳格に宣言され、その結果 「必要性の法理」(doctrine of necessity)の下で当初から有効性が認められる。
 B1997年憲法の破棄は「必要性の法理」の枠内でなされたものではなく、そのような破棄は違憲であり効力を有しない。1997年憲法は今日のフィジーにおける最高かつ有効な法規である。
 C大統領・上院・及び下院で構成されるフィジー国会は、現在もなお存在し、5月19日現在及びそれ以前の在職者は依然としてその職にある。辞任したラツー・カミセセ・マラ大統領は大酋長会議によって指名された時のまま大統領職にあり、上院議員は依然として上院議員であり、選挙によって選ばれた議会のメンバーは依然として下院議員である。原状は回復される。国会は大統領の裁量によりできるだけ早期に招集されるべきである。
 Dその間政府の地位が不安定なため、大統領にはできるだけ早く首相を任命する任務が残され、下院議員は大統領の意見を入れて、憲法47条及び98条によって下院で信任を得られる政府を形成することができ、その政府がフィジーの政府となる。

 すなわち、5月19日の文民クーデタは失敗であった、軍事政権による1997年憲法の破棄は違憲で同憲法は依然として有効である、という点については原告の主張を全面的に支持したが、マラ大統領による非常事態宣言は有効であるとして原告の主張は退けた。また、政府の有効性については原告の主張とは異なった観点からの判断を示した。すなわち、原告の主張は、1999年の総選挙後に形成されたチョードリー政権(人民連合政府)が現在も正統な政府であるということであったが、ゲイツ判決は国会は依然として有効に存在することを認めたが、政府についてはその有効性の判断を示していない。なぜなら、判決はマラ大統領による非常事態宣言を有効としていることから、非常事態下でマラ大統領が憲法106条及び99条に基づいて行った首相及びその他の国務大臣の解任については、憲法手続上問題ないと判断したものと考えられる。したがって、政府は首相をはじめその他の大臣が不在の状況にあるため、大統領は早期に国会を召集するとともに下院の多数の支持が得られる首相を任命し、新たな内閣を形成することを求めたのである。つまり、チョードリー政権の有効性を否定するとともに、現在のガラセ暫定政権の有効性をも同時に否定したのが本判決である。

 暫定政府は、この判決を「宣言的判決(確認判決)」であり法律同様の強制力を持たないとしながらも、判決の執行停止命令(stay order)を求めてフィジー控訴裁判所(Fiji Court of Appeal)に控訴するとともに、ガラセ首相は国民に対し暫定政府はフィジーにおける国家政府であり立法府としての活動を継続することを声明した。そして暫定政府の優先政策として、次の3点を挙げた(23)
 @市民の安全を確保し、フィジー全土における法と秩序を維持すること。
 A国家経済の建て直し。
 B立憲民主制に復帰し新憲法の下で選挙によって国会と政府を組織すること。

 また、暫定政府のアリパテ・ゲタキ(Alipate Qetaki)法務総裁(Attorney-General)はゲイツ判決は、政府側の証拠提出が不十分なまま原告側の提示した証拠に基づいて判断されたものであるとして「国民が必要としているのは真の知恵と成熟(true wisdom and maturity)に基づいた判決であるが、この判決にはそれが欠けている」と非難した(24)

 こうしてガラセ暫定政府は控訴裁判所の判決が下されるまで、その任務を継続することを明らかにしたが、この判決が法的にはマラ大統領がなおその職にあると判断したことで、マラ前大統領は、5月29日に遡って辞職することを12月20日に公式表明したと伝えられる(25)。このことでゲイツ判決によって指摘された問題点の一つが解消され、暫定政府の正当性の強化が試みられた。もっとも、控訴裁判所の判決待ちの現在(2000年1月15日現在)、暫定政権の合法性と正当性について今後どのような司法判断が下されるか依然として不透明感がつきまとうが、暫定政権発足以来半年以上を経過したという事実の積み重ねに対しては、「真の知恵と成熟」に基づいた判断が下されるのではないかと考えられる。5月19日の文民クーデタが「失敗」であったことはすでに明らかではあるが、5月29日の軍事クーデタについては「成功」したと判断される事実の集積があるからである。「成功したクーデタの法理」(successful coup doctrine)が援用される可能性も十分に考えられるのである(26)


5.結びにかえて
 国会議事堂での要人監禁事件という「文民クーデタ」に端を発したフィジーの政治危機は、以上のような経過をたどって新憲法の制定による新たなフィジー諸島共和国の国家形成へと帰着する様相を見せている。ここに至るまでには民主的な選挙によって形成された政府の力による放逐への批判が、とりわけ周辺の先進国であるオーストラリアやニュージーランドから政治的・経済的制裁をともなって声高に展開され、性急とも思える立憲民主制への復帰要求が突きつけられた。確かに、そうした批判や要求は民主主義の「正義」にかなったものである。暴力によって政権を倒すことは、今日の民主主義のグローバルスタンダードに照らして、許されざる所業ではある。しかし、文民クーデタの実行者集団によって武力行使が行われたであろうか。武器による威嚇・脅迫はあったが、あくまで話し合いを求め、それが実行されたのではなかったか。ここに見られたのはまさしく「パシフィック・ウェイ」であり、これがフィジー人の流儀であることは多少なりともフィジーを知る者にとっては常識ではなかったか。政治学的には「クーデタ」に分類される政治変動ではあるが、フィジーのそれは1987年の場合をも含めて、クーデタという言葉が呼び起こすおどろおどろしさからはいささか距離があるように思われる。クーデタに訴えざるをえないフィジー人のデモクラシー理解の未成熟を言い募るよりも、原住民系フィジー人の情念に即したフィジー流の「民主主義」のあり方にも共感を見いだすことは不当であろうか。

 5月19日以来の事態の推移から看取されるのは、クーデタ事件を契機として原住民系フィジー人の将来に対する不安を汲み上げる形で、原住民の権利・利益の保護をはかりつつ、法的側面に配慮しながら立憲民主制への漸進的な移行をはかろうとする政府指導者の姿勢であり、(本稿ではふれなかったが)それを支持する多数の原住民国民の存在である。スペイトらが国会議事堂を占拠中、多くの支持者が支援に集まり議事堂敷地内へ自由に通行する様子が新聞や雑誌で報じられ、あたかもお祭り騒ぎを見るかの印象を与えた。人質となった人々の心情を忖度すれば、このような支持者のありさまを好意的にとらえることは問題であろうが、人質も全員無事解放され、スペイトが人質の解放に関する協定違反で逮捕され、さらに反逆罪で裁判にかけられている現状をみると、ここにはやはりフィジー流の政治の論理、法の論理があるのではないかとの感を深くせざるを得ない。

 西欧流民主政治の論理、あるいは近代立憲主義の論理に即してフィジーの一連の政治危機にともなう憲法と政治の関係を「裁断」することはさほど困難なことではないとおもわれる。だが、そうすることによってフィジー政治を評価することができても、フィジー政治を理解することにはならないだろう。実際に生起した憲法政治現象をたどり、その中に内在する論理を考えることがフィジー政治理解のために求められよう。そこから導き出されるものがいわゆるパシフィック・ウェイと表現されるものなのであろう。この言葉を決まり言葉、すなわち思考停止の言葉として使うのではなく、この言葉を手がかりにその内実を探っていくことがフィジー政治理解の課題として常につきまとっているように思われる。本稿はその試みの一歩をしるしたにすぎないことを率直に告白し、継続的な課題として今後の研究につなげることを約束して、結びに代えたい。
 

(注)
 
(1)東 裕「フィジー・クーデターの推移」、「South Pacific」(南太平洋シリーズNo.231)、(社)日本・南太平洋経済交流協会、pp.13-16、平成12年7月。
(2)1997年憲法下の選挙制度及び1999年5月の総選挙結果については、東 裕「フィジー諸島共和国の新選挙制度とその思想」(「パシフィック・ウェイ」通巻112号、pp.26-36、(社)太平洋諸島地域研究所、1999年)及び小川和美「フィジー新政権成立の分析」(「同誌」、pp.37-52)に詳しい。
(3)The Review, April 1999.
(4)山桝加奈子「フィジー連立政権のその後」、「パシフィック・ウェイ」通巻114号、pp.14-23、(社)太平洋諸島地域研究所、2000年。
(5)「複数政党内閣」は、首相が内閣の組織にあたっては下院の総議席の10%以上を占めるすべての政党から、その議席数の割合に応じて閣僚を指名しなければならないとするもので、行政権の共有憲法上義務づけることによって国民統合を意図した制度である。この点で、いわゆる連立内閣とはその組織原理を異にする1997年憲法で初めて採用された独特の制度である。東 裕「フィジーの国民統合と『複数政党内閣』制」、憲法研究(憲法学会)、第32号、pp.129-144、2000年、参照。
(6)ADDRESS TO THE NATION BY HIS EXCELLENCY THE PRESIDENT RATU SIR KAMISESE MARA 20TH MAY 2000.  (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_20.html)
(7)PRESS CONFERENCE-MONDAY 22 MAY, 2000. THE PRESIDENT OF THE REPUBLIC OF THE FIJI ISLANDS, HIS EXCELLENCY THE RT HON RATU SIR K.K.T. MARA, GCMG, KBE, OF, KSt, MSD (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_22.html)
(8)BOSE LEVU VAKATURAGA RESOLUTION 
(http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_25_2.html)
(9) STATEMENT BY HIS EXCELLENCY THE PRESIDENT, RATU SIR KAMISESE MARA ON THE HOSTAGE CRISIS. (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_27_2.html)
(10) ANNOUNCEMENT TO THE NATION BY THE COMMANDER OF THE REPUBLIC OF FIJI MILITARY FORCES, COMMODORE FRANK BAINIMARAMA, 7pm, Monday 29 May, 2000.    (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_29_2.html)
(11)戒厳令について次のような政府説明がなされ、国民の理解が求められた。
 「戒厳令(martial law)とは、文民当局が公共の安全を維持できないときに軍当局によって市民に対して行われる一時的な支配と定義できよう。戒厳令を宣言し行使する権力は憲法に由来するが、戒厳令が宣言されたときにも憲法は依然として効力を有する。フィジーの場合、戒厳令を宣言し行使することを定めた憲法規定がなく、それゆえ軍当局は他の諸理由により公共の安全及び法と秩序を回復するためには憲法を無視することが適切であると考えたのである。戒厳令が宣言されるとともに軍当局は軍事評議会を設置し、現在、命令(decree)によって統治している。戒厳令は、できるだけ早期に国を正常な状態に復帰させるという目標の追求にあたって、軍当局に対し個人の権利を制 限する権限とその他の統治のための武器を与える。軍当局は、この危機の間、特に市民を裁判にかける軍事法廷を設置しないことに決めた。警察は通常の法律の実施義務と捜査を継続し、裁判所はその権限を軽減されず、官僚機構は軍当局から時宜に応じて指示を受けながら通常の機能を継続する。現在フィジーで採用されている戒厳令の型は、我々が最も愛するフィジーに固有のユニークな社会・政治・文化システムに適合し受容されるように変形されている。戒厳令は軍法(military law)と混同されてはならない。軍法は軍隊における軍事規律の管理に関する一連の法である。」 「戒厳令についての政府説明」(A   STATEMENT TO EXPLAIN THE MARTIAL LAW CURRENTLY IMPOSED ON THE PEOPLE OF FIJI, 13 June 2000, PRESS RELEASES. (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_06_13.html))
 ここでは、本来の戒厳令は憲法規定の基づき実施されるものであり、したがって戒厳令が布告されても憲法が全面的に停止されたり破棄されたりするものではないという当然の認識が示されてはいるが、「公共の安全及び法と秩序の回復」のためには憲法を無視し戒厳令によって正常な状態への回復をはかることが優先されるという判断が示され、「必要性の原理」に依拠していることが窺える。
(12)FIJI CONSTITUTION REVOCATION DECREE 2000, INTERIM MILITARY GOVERNMENT, DECREE NO.1. (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_30_2.html)

(13) THE MUANIKAU ACCORD FOR THE RELEASE OF HOSTAGES HELD AT THE PARLIAMENT COMPLEX VEIUTO, (http://209.15.72.151/crisis/accord.htm)
(14)BLUEPRINT FOR THE PROTECTION OF FIJIAN & ROTUMAN RIGHTS AND INTERESTS, AND THE ADVANCEMENT OF THEIR DEVELOPMENT.(The Review, July 2000, p.30)
(15)Ibid. 
(16)WHY THE 1997 CONSTITUTION MUST BE CHANGED AND WHY A NEW CONSTITUTION IS NEEDED, PRESS RELEASES, 04 September 2000
.(http://fiji.gov.fj/core/press/2000_09_04_2.html) これについては、東 裕「フィジー・クーデタ、その後−2001年新憲法の制定へ−」、「パシフィック・ウェイ」通巻116号、pp.6-9、(社)太平洋諸島地域研究所、2000年、参照。
(17)東「フィジー・クーデタ、その後−2001年新憲法の制定へ−」、p.7.
(18)「同論文」、同頁。           
(19)「同論文」、p.9.
(20) MR LAISENIA QARASE PRIME MINISTER AND MINISTER FOR NATIONAL RECONCILIATION AND UNITY, ADDRESS AT THE FIRST MEETING OF THE CONSTITUTION COMMISSION, Office of the Constitution Commission, Parliament Friday, 6th October, PRESS RELEASES.(http://fiji.gov.fj/core/press/2000_10_06_2.html) これについては、東「フィジー・クーデタ、その後−2001年新憲法の制定へ−」、pp.18-21、参照。
(21)Full text of Justice Gates ruling, Thursday, November 16, 2000.  (http://www.fojilive.com)p.6.
(22)Ibid., p.24.
(23)STATEMENT BY THE INTERIM MINISTER MR LAISENIA QARASE, STATE WILL APPEAL JUSTICE GATES DECISION, 15th   November 2000.
 (http://www.fiji.gov.fj/press/2000_11/2000_11_15-01.shtml)
(24)STATEMENT FROM THE ATTORNEY GENERAL AND MINISTER FOR JUSTICE, ALIPATE QETAKI, IN RELATION TO JUDGMENT DELIVERED YESTERDAY IN THE CHANDRIKA PRASAD CASE, November 16th, 2000. (http://www.fiji.gov.fj/press/2000_11/2000_11_16-01.shtml)
(25)FIJI'S PRESIDENT RATU SIR KAMISESE MARA OFFICIALLY RESIGNS, Pacific Islands Report, 00/12/26.
 (http://pidp.ewc.hawaii.edu/PIReport/2000/December/12_21_01.htm)
(26)「成功したクーデタの法理」によれば、@クーデタによって新政府が確固として樹立されその政府に対抗する別の政府が存在せず、A新政府の法が有効なものとして人々がその法に従い、Bその法の 遵守が恐怖や強制ではなく人々の体制支持によるものであり、C新体制が抑圧的でも非民主的でもない、という4つの要件が充足されたとき、裁判所が「成功したクーデタ」と認定し、新体制の有効性が宣言されることがある。また、ゲイツ判決の中で援用された「必要性の法理」の適用についても再検討される可能性も考えられる。この二つの法理については、東 裕「クーデタの法理について−フィジーのクーデタ(1987年)を中心に−」苫小牧駒澤大学紀要第4号、pp.101-106参照。

 なお、ゲイツ判決についての我が国の新聞報道のなかで、高等裁判所がフィジーの最終審であるとの記事(産経新聞、平成12年11月16日朝刊) があったが、これは誤りである。フィジーの司法権は、高等裁判所(High Court)、控訴裁判所(Court of Appeal)、及び最高裁判所(Supreme Court)、並びに法律によって設置されるその他の裁判所に与えられており、最終審は最高裁判所である。(FIJI GOVERNMENT ONLINE / http://www.fiji.gov.fj/judiciary.shtml)