太平洋島嶼地域におけるリン鉱石採掘事業の歴史と現在
日本女子大学非常勤講師小川和美(おがわ かずよし)
出所:日本女子大学史学研究会『史艸』39号(1998年11月)pp.74-94
はじめに
近代のヨーロッパ列強による植民地争奪の歴史は、世界に散らばる有用資源の独占的獲得競争の過程でもあった。太平洋島嶼においても、木材や海洋資源を求めて来航したヨーロッパ人たちは、19世紀を通じて島々を植民地に組み込んでいった。帝国主義に遅れて参入した日本も、両大戦間にミクロネシア地域を統治し、資源採掘や殖産興業を行っている。
こうした外来者の活動は、当然ながら島社会に大きなインパクトを与えることになった。本論文では、小島嶼を舞台に行われたリン鉱石(1)の採掘活動に焦点を当て、太平洋島嶼地域におけるリン鉱石採掘を巡る列強の動きを概観し、こうした採掘活動が地元社会にどのような変化と影響を与えたのかを考察する。
一太平洋におけるリン鉱石採掘の歴史
(一)リン鉱石採掘前史 〜グアノの採掘〜
太平洋の島々がヨーロッパ人の地図の中に姿を現したのは、16世紀はじめのマゼランの航海がその嚆矢であった。スペインは16世紀中頃までにフィリピン=メキシコ航路を開拓し、以来幾多のヨーロッパ人探検家たちが富と財宝を求めて太平洋の探検に向かった。しかしながら、広大な大海原の航海には多くの危険と困難が伴っており、ヨーロッパ人の太平洋の島々との接触は、しばらくの間は散発的かつ偶発的なものであった。
こうした状況を一変させる契機となったのが、18世紀末のイギリス人ジェームス・クック(James Cook)による太平洋探検であった。クックは三度にわたって太平洋の網羅的な探検を行い、島々の正確な位置の把握を行うとともに、それまで長期間の航海を制限していた壊血病の克服に成功した。以後、ヨーロッパ人たちは太平洋の島々に続々となだれ込んでくることになる。
クックが立ち寄ったポート・ダーウィン(現在のシドニー)をイギリスが流刑地として植民を開始した1788年頃から、ヨーロッパ人たちは富を求めて各島々に頻繁に出没するようになった。18世紀末から19世紀前半にかけての彼らの目当ては、白檀、ナマコ、鼈甲、真珠などであり、これらの資源が枯渇する頃には、太平洋における捕鯨活動が最盛期を迎えた。また商業活動の進展と平行してキリスト教の布教活動もポリネシア地域を中心に急速に広がり、太平洋の島々はヨーロッパ人の活動の舞台となっていった。そしてこの頃、太平洋の小さな島でグアノ(guano)が発見されるのである。
グアノは、南米のケチュア族が古くから肥料として使っていた鳥獣の糞「huano」を語源とする。1821年に独立したペルーでは、沖合いのチンチャ島に堆積している大量のグアノを採掘し(2)、これを肥料として主にアメリカに輸出した。グアノは19世紀中盤には主要な輸出産品としてペルーの繁栄を支えるとともに、欧米の農業振興に寄与していた。
このグアノを、中部太平洋の無人島ベーカー島(フェニックス諸島)でアメリカ人が発見したのは、19世紀の半ばであった。当時太平洋の島々は植民地分割が始まったばかりで、特に環礁からなる中部太平洋の小さな無人島群は、寄港地や交易地としてもほとんど注目される存在ではなかった。そんな中、たまたま乗組員の埋葬のためにこの島に立ち寄ったアメリカ人のベーカー(Michael Baker)船長が島の土に興味を持ち、アメリカに持ち帰って専門家に分析させたところ、これがグアノであることが確認されたのである。
アメリカ政府はグアノ採掘の権益を確保すべく、1856年にさっそくグアノ法(Guano Act)を制定する。これは、グアノを発見し平和裏にその島を占有しているアメリカ人事業者に対して、アメリカ政府がその島の占有権を与え保護するとしたもので、さらに大統領の裁量で領土編入もできると規定された(3)。
グアノ法の制定を受けて、1857年から上記ベーカー島とジャービス島でアメリカン・グアノ会社(American Guano Co.)がグアノの採掘を開始した。また時を経ずしてホウランド島、マッキーン島、フェニックス島、エンダーベリ島など、主にフェニックス諸島の無人島で、アメリカ人によるグアノ採掘が行われた。しかし1880年頃にはこれら島々のグアノは枯渇してしまい、事業者の撤退以後、島は再び無人島に戻った。
一方、時を前後してイギリス人たちも中部太平洋のライン諸島の無人島でグアノの採掘をスタートした。モールデン島では1860年からオーストラリアのグライス・サムナー会社(Grice Sumner & Co.)が採掘を開始、1870年にはホウルダー兄弟社(Houlder Brothers & Co.)の従業員だったアランデル(John T. Arundel)がスターバック島で採掘を始めた。アランデルはやがて自社JTアランデル商会を設立し、フリント島、キャロライン島(現在のミレニアム島)で採掘を行い、更にフェニックス諸島へも進出した。しかし、1927年まで採掘が続いたモールデン島を除いては、いずれも19世紀末までに資源は枯渇し、グアノ採掘事業は終結した。
中部太平洋の島々におけるグアノの採掘量は、すべてあわせても20万トン程度に過ぎなかった(4)。またこうしたグアノ採掘は、いずれも無人島における事業であり、先住の住民たちとの軋轢や土地破壊による問題は生じることはなかった。
(二)リン鉱石の発見とBPCの活動
有人島でのリン鉱石の発見は、世紀の変わり目の1899年のことであった。列強は、この頃までにはあらかたの太平洋の島々の分割を完了し、一部ではココヤシや砂糖、パイナップルのプランテーションが開発されるなど、植民地としての開拓も始まっていた。
こうした中、当初グアノ採掘事業を行っていたアランデルは、コプラと真珠の取引を手がけていた太平洋諸島会社(Pacific Islands Co. Ltd)に権益と資産を譲渡して、自身は同社の副社長に収まっていた。そして1899年、この太平洋諸島会社のシドニー事務所で、地質専門家のアルバート・エリス(Albert Ellis)が偶然リン鉱石を発見するのである。かつてベーカー島でグアノの採掘に従事したことのあったエリスは、たまたま同社の社員がナウル島から持ち帰ってドアのあおり止めに使っていた石塊に目をつけ、分析の結果これがリン鉱石であると同定したのである。そしてこのリン鉱石は、当時の主要産出地だったアメリカや北アフリカのリン鉱石よりも高品質であった。
エリスらは直ちにナウル島と、島の形状が酷似していることからリン鉱石の存在を有望視した隣りのバナバ島(5)に向かった。そしてバナバ島にも豊富なリン鉱石資源が存在することを確認すると、住民代表から999年間の採掘権を「合法的に」(6)入手した。当時バナバ島は1886年のドイツとの協定でイギリス圏とされながら、その後正式に施政権下に置く手続きがとられていなかった。イギリス政府は、太平洋諸島会社の働きかけで直ちに植民地編入の手続きをとる(7)とともに、1900年4月にはバナバ島に関するリン鉱の独占的鉱業権を同社に付与した。こうして太平洋諸島会社は、1900年10月には採掘労働者の第一陣として76人のギルバート諸島人をバナバ島に送り込み、同島での採掘をスタートした。そして事業の将来性を見込んだ太平洋諸島会社は、1902年にはその他の事業から撤退し、事業をリン鉱業一本に絞って太平洋リン鉱会社(PPC/Pacific Phosphate Compamy)に改称改組した。
一方バナバ島の3倍の面積を持ち、はるかに豊富な埋蔵量を有すると期待されたナウル島(8)は、当時はドイツの支配下にあり、ドイツのヤルート商会(Jaluit Gesellschaft)が1888年にドイツ領ミクロネシア地域全体の鉱業開発権を政府から取得していた。PPCはドイツ政府及びヤルート商会と交渉を重ね、同社にドイツ人重役を受け入れるなど実質的に英独合弁事業とする形で1906年に採掘権を獲得した。この際ドイツ側に支払われるロイヤリティはバナバ島産出分にまで適用された(9)が、こうした事実はナウル島のリン鉱石がPPCにとって如何に魅力的だったを示す証左であろう。
第一次世界大戦のドイツの敗北は、太平洋におけるドイツの諸権益を再分割する結果をもたらした。大戦勃発によりPPCのドイツ人所有株は公認受託人に預託され、1917年の入札によってPPCは純然たるイギリス企業に生まれ変わった。またナウルの施政権は、国際連盟の委任統治という形でイギリス、オーストラリア、ニュージーランドの三国に与えられ、オーストラリアが実際の行政を担当した。そして1919年7月のナウル島協定(Nauru Island Agreement)によって、PPCは350万ポンドの補償金と引き替えに、新たに設立された英国リン鉱委員会(BPC/British Phosphate Commission)に一切の設備と権利を譲渡することになった。
BPCはイギリス、オーストラリア、ニュージーランド三国の弁務官によって構成され、三国の利益のために安価にリン鉱石を供給することを目的とする国策会社であった。PPCに対する補償金の負担比率、すなわちBPCへの出資比率は、イギリス42%、オーストラリア42%、ニュージーランド16%で、この割合でリン鉱石は三国へ輸出されることとされた。リン鉱石の販売価格は生産原価とされ、BPCは国際市場よりはるかに安い値段で、ナウル島及びバナバ島のリン鉱石を三国に輸出した。そしてこのリン鉱石を精製した肥料は、ニュージーランドとオーストラリアの農業開発に極めて重要な役割を果たしていった。ニュージーランドのタルボイズ(Hon. B.E.Talboys)は、「ナウルとオーシャン島から輸入されるリン鉱石を原料とした肥料は、ニュージーランドで使われる肥料の九割を占めた。第二次世界大戦によってリン鉱石の供給がストップすると…(中略)…リン鉱石の不足はニュージーランド全体の深刻な問題となった」と記している(10)。これに対して住民たちへの収益の分配は微々たるもので、1960年代に入るまで、販売価格の5%にも満たなかった(図1参照)。
太平洋戦争が始まると、ナウル、バナバ両島は日本軍に占領された。日本も両島からのリン鉱石採掘を目指し、ナウル島に南洋拓殖株式会社、バナバ島に南洋興発株式会社の職員を送り込んだが、戦局の悪化によって結局一度も輸送船を送ることができず、両島からのリン鉱石の積み出しは、1943年から1946年まで4年間ストップした。
太平洋戦争が終わると、ナウル島は国際連合の信託を受けた旧宗主三国の統治下におかれ、BPCもほどなくナウル島とバナバ島での操業を再開した。BPCは両島の行政官と密接な連係を保ちながら、再び国際価格を遥かに下回る価格でリン鉱石を輸出し続けた(11)。
最後に、かつて太平洋におけるリン鉱石四大産地(12)のひとつといわれたマカテア島の採掘経緯についても触れておきたい。マカテア島は仏領ポリネシアのツアモツ諸島の一島で、タヒチ島の北東約200キロに位置する隆起珊瑚礁の島である。ナウル島やバナバ島でリン鉱石の採掘が開始された直後にリン鉱石が発見されたマカテア島では、太平洋リン鉱会社(PPC)の助言と援助で1904年にフランス太平洋諸島会社(Societe Francaise des Iles du Pacifique)が設立され、1910年に採掘事業が始まった。その後採掘はフランス・オセアニアリン鉱会社(Compagnie Francaise des Phosphates de I'Oceanie)に受け継がれ、周辺のポリネシア人やベトナム人、日本人を労働者として導入した。マカテア島では1966年の採掘終了までに約950万トンのリン鉱石を産出した。
(三)日本のリン鉱石採掘 〜南洋拓殖の事業〜
米西戦争の敗北によってアジア・太平洋地域の拠点であったフィリピンとグアムをアメリカに奪われ、太平洋諸島での植民地経営に関心を失ったスペインは、1899年にミクロネシア地域に残る植民地(カロリン諸島、マリアナ諸島及びパラオ諸島)をドイツに売却した。すでにマーシャル諸島で大規模なコプラプランテーションを経営するなど、太平洋での事業展開に熱心だったドイツは、さっそく各島に調査団を派遣し、その結果1903年にパラオ諸島の南にあるアンガウル島でリン鉱石を発見した。1907年に再度調査を行ったドイツは、その品位と埋蔵量から十分採算ベースに乗ると判断、1909年からドイツ南洋リン鉱会社による採掘を開始した。同社はまた、のちに日本がリン鉱石採掘を行うファイス島(カロリン諸島)とペリリュー島(パラオ諸島)の採掘権も得ていた(13)が、両島については事業に着手することはなかった。
1914年、第一次世界大戦の勃発に伴い対独参戦した日本は、その年のうちにナウルを除くミクロネシア地域のドイツ領を占領し、戦後これらの島々を国際連盟の委任統治領として支配することになった。日本政府はドイツ南洋リン鉱会社から鉱業権と設備一式を買収、アンガウル採掘場は南洋経営組合、海軍直営時代を経て、1922年(大正11年)に新設された南洋庁に引き渡された。南洋庁はミクロネシア地域の行政を行うために拓務省内に設置された行政庁で、その後10年余りにわたってアンガウル島のリン鉱石採掘を直営事業として行った。1934年(昭和11年)、南洋開発のための国策会社として南洋拓殖株式会社(通称「南拓」)が設立されると、アンガウル島の施設及び採掘権は政府直接出資として同社に移管され、以後南洋拓殖はアンガウル島での採掘を続けていった。同社はまた、1936年(昭和13年)にドイツ南洋リン鉱会社が手をつけなかったファイス島での採掘にも着手、翌年にはマーシャル諸島のエボン島、さらにその翌年にはパラオ沖のソンソル島でも採掘に乗り出した。南洋拓殖時代のリン鉱石採掘量は、アンガウル島だけでも年間13〜14万トン、収入700万円に及び、同社のドル箱的役割を果たした(14)。
またこれとは別に、サイパン島で砂糖事業を行っていた南洋興発株式会社も、国内需要の高まりに応じて、ロタ島(マリアナ諸島)、トビ島(パラオ諸島)、ペリリュー島でリン鉱石採掘を手がけた。
しかしながら、これらの事業はいずれも太平洋戦争の勃発と戦況の悪化により順次休止、閉鎖を余儀なくされ、敗戦によって日本はすべての権益を放棄することになった。
(四)リン鉱石採掘事業の終焉
リン鉱石を産する島はいずれも隆起珊瑚礁から成り、表1からもわかるように、周囲数キロから20キロ程度の極めて小さな島々である。豆粒のような島から、その表土を根こそぎ持ち去っていくのがリン鉱石採掘事業の実態であった。従って、当然ながら資源量には制約があり、その枯渇は早かった。
表1:リン鉱石を産出した島々 |
島名 |
現在の所属国名 |
面積(平方Km) |
産出量(t) |
採掘期間 |
ナウル |
ナウル共和国 |
21 |
3,463万* |
1906〜現在 |
オーシャン(バナバ) |
キリバス共和国 |
6.3 |
|
1900〜1979年 |
マカテア |
仏領ポリネシア |
21 |
950万 |
1910〜1966年 |
アンガウル |
パラオ共和国 |
8 |
410万 |
1909〜1955年 |
ファイス |
ミクロネシア連邦 |
2.8 |
73万** |
1938〜1944年 |
エボン |
マーシャル諸島共和国 |
5.7 |
7万** |
1939〜1944年 |
ソンソル |
パラオ共和国 |
1.9 |
6万** |
1941〜1944年 |
|
*1967年までの産出量
** 推定埋蔵量(戦争により枯渇前に生産中止)
(太平洋諸島百科事典、南拓誌などから筆者作成)
ナウルにおけるリン鉱石の利益分配図
太平洋戦争の戦禍を受けた旧日本統治下のミクロネシアの島々では、南洋群島最大の埋蔵量を誇るとされたアンガウル島を除いては、第二次大戦後に採掘が再開することはなかった。そのアンガウル島でも、連合国接収後、1947年に燐鉱開発株式会社(アメリカ資本で日本人が経営にあたった)が採掘を再開したが、9年後の1955年までに約150万トンを採掘して資源枯渇をみ、同年採掘は終了した。
次いで1966年、仏領ポリネシアのマカテア島も、資源枯渇により50年に及ぶ採掘の歴史を閉じた。廃虚となったマカテア島では、住民数も1963年の2273名から採掘終了の翌年の1967年にはわずか55名を残すのみとなった(15)。
英豪NZの共同国策会社として、三国の農業開発に貢献してきたBPCも、1970年代末にはその役割を終える。自らの手による資源管理を求めたナウル人たちは、1968年の独立に前後してリン鉱石生産施設及びすべての権利の移管交渉を行い、1967年にBPCはその全資産を2100万豪ドルでナウル政府に売却することに合意した。この結果、ナウル島におけるリン鉱石採掘事業は、1970年にナウル国営のナウルリン鉱石会社(NPC/Nauru Phosphate Corporation)に引き継がれた。
一方バナバ島では1979年に資源が枯渇して採掘が終了した。すでにBPC第三の操業地であったインド洋のクリスマス島でも採掘が終わっていたため、これによりBPCはその60年に及ぶ歴史に終止符を打つことになった。
こうして現在太平洋の島でリン鉱石の採掘が行われているのは、わずかにナウル一島だけとなった。そのナウル島でも資源の枯渇は時間の問題といわれ、90年代に入ってからは生産量を大幅に削減して枯渇時期を先延ばししている状況である。採掘開始から100年。20世紀を通じて島々から掘り出され、先進国の肥料として持ち去られていった島々のリン鉱石は、今そのすべてが掘り尽くされようとしているのであった。
二.リン鉱石採掘の島々の経験と現在
本章では、リン鉱石の採掘が行われた島々の個別の採掘史を再度振り返るとともに、各島の住民が採掘にどのようにかかわり、採掘が住民生活にどのような影響を与えたのかを考察する。紙数の都合上すべての島について論述することは不可能であるので、大規模採掘が行われたナウルとバナバ両島、及び日本によって採掘が行われたアンガウルとファイスの、以上4島をとりあげることにする。
(一)ナウル
ナウルにおけるリン鉱石の採掘は1906年に始まった。採掘開始に伴ってナウル人たちへはトン当たり0.5ペニーのロイヤリティが支払われたが、これは住民との契約や合意に基づくものではなく、採掘者側が恣意的に決定したものであり、積み出し価格のわずか700分の一にすぎなかった(16)。以来独立まで、ナウル人たちには採掘量や売却価格の決定に参加する権利は与えられなかった。
採掘開始によって、それまで自給自足を基本としていたナウル人たちの生活は大きく変化した。採掘労働のための中国や周辺諸島から労働者の導入や白人居住者の増加(17)は、島の生活体系を貨幣経済中心に大きくシフトさせた。可耕地の減少と外来産品の流入は、ナウル人たちの食生活を、それまでのココナツと魚から缶詰や小麦粉などの輸入食品へと変化させていった。
第一次世界大戦によって島の施政権がドイツの手を離れた後は、太平洋戦争時に数年間日本に占領された時期を除き、1968年のナウル独立までの間、オーストラリアが島の行政を司った。行政官たちは、ナウル人の土地に関する権利を制限したり、夜間外出を原則禁止とするなど、国策会社たるBPCの採掘活動の便宜を図ることを第一義に施策を行った。ナウル人たちが自らの意思を行政に反映させるのは、1951年のナウル地方政府評議会の設置まで待たなければならなかった(18)。
1968年のナウル共和国独立は、こうした外来者による資源収奪にピリオドをうち、ナウル人自らが資源管理を行ってその利益を享受することを可能にする大きな転換点であった。ナウル地方政府評議会を率いて独立交渉にあたった初代大統領デロバート(Hammer de Robert)は、独立を前にしてBPCのリン鉱に関するすべての権利を2100万豪ドルで買収することで合意にこぎつけ、1970年以降、ナウルのリン鉱石は新たに設立された国営ナウルリン鉱石会社(NPC)によって採掘されることになった。
NPCは、最盛時には年間239万トンものリン鉱石を生産し(1973/74年)、政府とナウル人地主たちに莫大な利益をもたらした。ナウル人たちは、採掘労働は従来通り周辺諸島からの出稼ぎ労働者に任せ、税金なし、電気代や医療費、教育費はすべて無料、結婚すると政府が新居を提供する、といった高福祉政策を享受した。自らは生産活動を行わず、水や食料品に至るまでほとんどすべての生活物資は外国から輸入し、時には飛行機をチャーターして外国に買い物旅行に出かけるといったナウル人たちの行動は、周囲からしばしば「成金」と陰口をたたかれたが、一方では潤沢な資金を背景に、経済自立の困難な周辺島嶼諸国に対して様々な資金援助も実施した。こうしてナウルは、70〜80年代には「世界で最も豊かな国」という形容もなされるようになった。
しかしながら、リン鉱石の枯渇が近づくにつれて、ナウルの将来は不安の色を濃くしていった。長年の採掘によって、島の大半はピナクルと呼ばれる石灰岩が屹立した利用不能の土地となっている。政府は、20世紀中には訪れると予測されたリン鉱石枯渇後に備え、基金を設立して不動産や証券投資を行って資産拡大に務めたが、「経営」や「管理」といった経験のないナウル人たちのこれらの事業は、放漫経営や詐欺などによって、収益をあげるどころか莫大な損失を出してしまった。
他方、独立以前の採掘地の復旧責任の追及は、ナウル政府樹立以来の課題の一つであった。1986年にナウル政府は採掘地の復旧に関する独立調査委員会を設置し、委員会の5000頁に及ぶ報告書を受けて、オーストラリアを相手取り旧施政国の責任を追及する訴訟を国際司法裁判所に提訴した。第一次世界大戦までにPPCが63万トン、独立までにBPCが3400万トンのリン鉱石を積み出しており、これによる英豪NZ三国の利益は10億豪ドル以上、復旧経費は7200万豪ドルであると同委員会では推計している。
復旧責任を求めるナウル政府に対して、被告のオーストラリアは当初争う姿勢を見せていたが、環境回復のために1億700万豪ドルを支払うことで1993年に和解が成立した。その後オーストラリアはイギリスとニュージーランドと交渉を行い、両国もその一部を負担することになった。
しかしながら、仮に荒廃地の埋め戻しができても、そこに何らかの産業投資をするだけの資金余力はもはやナウルにはない(19)。クーラー、冷蔵庫、冷凍食品、自動車といった消費生活に慣れ親しんだナウル人たち(20)が、これまで享受してきた生活水準を維持することは今後ますます困難になろうが、かといって自給自足的生活に戻ることも不可能に近い。
100年間にわたってリン鉱石に翻弄されてきたナウル人たちは、明確な将来設計を見いだせないまま、いよいよリン鉱石の枯渇を目前にしている。
(二)バナバ(21)
ナウル島が第一次世界大戦以後は国際連盟の委任統治を経て国際連合の信託統治となって、曲がりなりにも国際機関の監視下におかれたのに対して、バナバ島は一貫してギルバート&エリス諸島植民地の一部としてイギリスの支配下に置かれた。その結果、ナウルと同じ採掘主体によって採掘が行われたにもかかわらず、バナバ人たちはナウルに比べてはるかに困難な現実に直面し続けてきた。
リン鉱石の発見と、それに続く採掘による耕作地の破壊と商品経済の発展は、ナウル同様バナバ人たちの生活を激変させた。バナバ人たちは、1915年頃までにはパンダナスなどの伝統的な食糧を放棄し、輸入缶詰、小麦粉、砂糖、米などに依存するようになった(22)。店員、事務員、病院助手など相対的に給料のいい仕事に就くことの多かったバナバ人たちは、概して周辺の島々の住民に比べて物質的に恵まれた境遇を得た(23)。イギリスは、1908年にギルバート&エリス諸島行政府をタラワ島からバナバ島に移転し、その植民地行政予算のほとんどをバナバ島の経営に費やし、無聊をかこつ白人居住者の娯楽として映画も上映された。また、植民地政府によって取水設備が整備され、輸送船が定期的に入港するようになったことにより、それまでバナバ社会の最大の不安だった水不足や旱魃による飢餓の心配も取り除かれた(24)。そしてバナバ人たちも自ら資金を出し、1920年代には病院や学校も建設された(25)。
しかしながらその一方で、周囲10キロの島における大規模な採掘活動がバナバ人たちの生活空間を脅かすとともに、際限のない土地破壊は必然的にバナバ人たちに強い危機感を与えた。要求と抗議を繰り返すバナバ人に対して、植民地政府と会社側は、時には採掘料の引き上げなどで一定の譲歩をすることもあったが、土地の強制収容規定を定めたり、ヤシの木にしがみついて抵抗する女性たちを実力排除するなど、ナウル同様、採掘の便宜を第一として行動した。また摩擦と軋轢を解決するため、1920年代後半から植民地政府はバナバ人を別の島に移住させる計画を進めていった。
太平洋戦争で日本軍の占領を受けたバナバ島では、食糧確保の困難さから日本軍により全住民が強制疎開させられた(26)。バナバ人たちはナウル、コスラエ、タラワの三島に分散移住させられていたが、戦後連合軍は全員をタラワ島に集め、バナバ島は戦禍により居住不可能であるとして、かねてより移住地として購入していたフィジーのランビ島にそのまま送致した。形式的には合意に基づく送致だったが、当時を記憶しているバナバ人長老の一人テカオブウェレ氏は、筆者に対して「住めないという話を信じるしかなかった。バナバには帰れないと言うし、実質的には他に選択肢がなかった」と述懐している。一方BPCは、バナバ人たちがランビ島に移住した直後から再びバナバ島での採掘活動を再開し、島は2年後には2000名もの採掘労働者で賑わうまでに復興を遂げた。
戦争中に家財を失い、ほとんど手ぶらでフィジーのランビ島到着したバナバ人たちに、以後故郷を訪れる機会は与えられなかった。バナバ島に関する情報を遮断されたまま、毎年幾ばくかのロイヤリティを受け取りつつ、バナバ人たちはフィジーの離島で自給自足をベースとした生活を余儀なくされた。
やがてナウルが独立とリン鉱採掘に関する全ての権利を獲得したことを知ったバナバ人たちは、70年代に入ってナウル同様の地位獲得を目指す運動を開始した。まずBPCとイギリス王室を相手に賠償金や補償金の支払いを求めて提訴、また当時独立を控えたギルバート諸島(現キリバス)が独立後の重要な財源として考えていたリン鉱石の収益金を元手とした基金の引き渡しとバナバ島の分離独立を要求した。
70年代を通じたこうした闘いは、英豪NZ三国から1000万ドルの和解金とBPCからの賠償金、そしてバナバ人の故郷への自由通行権とキリバス議会へのバナバ人議席を獲得したが、彼らの求めたナウル型の独立は果たすことができなかった。
1979年のリン鉱石枯渇以降は、島の保全を目的にランビ島からの再植民を行い、現在では200名余りのバナバ人たちが島に居住している(27)。しかしながら和解金や補償金から設立したバナバ信託基金は運用者の持ち逃げにあい、再植民者たちとの連絡も途絶えがちになっている。リン鉱石の採掘は、フィジーとキリバスという二つの国の狭間で、バナバ人たちに疎外されたマイノリティという不条理な役割を強いる結果となった。
(三)アンガウル
ドイツ植民地時代、日本統治時代の採掘を経て、1955年にリン鉱石の採掘の終わったアンガウル島は、パラオ本島の南端にある8平方キロ余りの小島である。すでに採掘終了から40年以上が経ち、島の中央部の採掘跡は木の茂る窪地と池になっており、一見しただけではそこで大規模な採掘が行われたとは気がつかない。かつてリン鉱石採掘時には周辺諸島から大勢の労働者を集めたこの島の住民は、1995年現在46家族193人で、島には電気や水道、そして小さいながらも港湾設備があり、落ちついた太平洋の田舎のたたずまいを見せている。住民たちは自転車やバイクを島内の交通手段として所有しており、後述するファイス島に比べると物質的にははるかに裕福な暮らしぶりに見える。しかしながら1995年統計では島の住民一人当たりの年収は1370米ドルで、これはパラオ全体の平均の4割程度にすぎない。しかも採掘によって表土のあらかたを削り取られてしまった採掘跡地は農耕に不適な土地となっており、これといった収入源に乏しい島に暮らす住民たちには大きな打撃になっている。
地元のレオン・グリベルト氏の話によると、採掘権契約はドイツ人に海上に連れ出された住民代表が、「海に沈むかサインするか」と迫られて結ばれたものであるという。以後、日本時代までロイヤリティは支払われていなかった。アメリカ統治時代にはトン当たり25セントが地主に支払われたが、この金額を決定する際も地主との協議は行われておらず、地主たちは不当に安い設定であると主張している(28)。
1993年にナウルがオーストラリアなどから環境破壊の復興資金として1億700万豪ドルを受け取ることになったことは、アンガウル住民たちのこうしたこれまでの経緯と現状に対する不満に火をつけ、賠償を求める行動を起こす契機となった。1995年、住民たちはアンガウル州リン鉱石採掘賠償請求委員会を結成し、採掘にかかわったドイツ、日本、アメリカ三政府に代表団を送って賠償を要求する請願書を提出した。三国政府は、日本政府が「解決済み」と回答するなど要求を受け付けない姿勢を見せているが、住民たちは今後も訴訟を含め賠償要求を行っていくとしている。しかしながら、アンガウルの場合は採掘地の地主18家族の運動であり、国(パラオ政府)が動き出す可能性は低い。1997年9月に筆者が現地訪問した際には、委員会メンバーの一人は12月までには何らかのアクションを起こすと語っていたが、98年8月現在何の動きも報じられていない。
(四)ファイス
ファイス島でのリン鉱石の産出量は、上記三島に比べると圧倒的に少なく、また採掘が行われていたのも1938〜44年のわずか7年間のことである。推定埋蔵量は73万トンで、採掘時には日本人50名、周辺諸島から集められた者も含め現地人200名が採掘に従事していた。年間生産量は4〜5万トンを目指していたが、配船がままならず、3万トン程度に留まった。事業を行った南洋拓殖は、事務所、職員宿舎、鉱夫宿舎、売店、倉庫、移送用レールなどを建設したが、船の接岸が困難であったことから、積み出しは島の北西にある高さ10メートルほどの崖からクレーンでハシケに移す方式がとられ、港の整備は行われなかった。住民たちは操業中、鉱夫や沖仲士として働くことで現金収入を得たが、戦争の激化によって操業が休止されて以降は、また元通りの自給自足をベースにした暮らしに戻った。現在島の住民たちが有効利用している採掘関連施設としては、雨水貯蔵用のコンクリート製水タンクがある(29)程度である。他方アンガウル島同様、採掘跡地は荒れ地で耕作不能となっており、その広さは島の中央部を中心に島の三分の一程度に及んでいる。
1994年現在のファイス島住民は301名で、1997年に筆者が現地調査した時点では、島に商店は一軒、車両は一台だけで、電気や上下水道などのインフラ施設はまったく整備されていなかった。1994年センサスによると45家族中現金収入があるのは10家族で、これらは島の小学校教員(11名)、不定期に飛んでくる航空会社のエージェント、幼稚園職員である。住民たちの収入機会は、このほかにはコプラや民芸品の生産による不定期収入、出稼ぎ・移住者からの送金があるのみで、生活の基礎は漁労と農耕による自給自足をベースにした典型的なミクロネシア離島民のスタイルになっている。しかしながら島のまわりに珊瑚礁があまり発達していないため、海が荒れると出漁できず、必然的に生活の基盤は漁労よりもむしろイモ類の耕作に依存している。
ところが上述したように、リン鉱石採掘の結果島の中央部に広がる土地が、有効利用が不可能な荒れ地となってしまっているため、住民たちは村から島の反対側にある小さな可耕地まで農作業に向かわなければならない。決して肥沃とは言えない土壌の中で農耕に依存している住民たちにとって、リン鉱石の採掘は大きな苦難を与える結果となっている。
アンガウル島同様、ファイス島の住民たちもこうした現状の打開を求めており、住民会議では採掘を行った日本に対して補償を求める決議を行っている。アンガウル島と異なるのは、それが全住民の意志であること、そして金銭的補償ではなく土を返してくれという要求であることである。日本のバブル期に建設残土の海外輸出の話が持ち上がったことも、住民たちのこうした復旧措置への期待を高める結果となった。
しかしながら、住民の要求は州政府やミクロネシア連邦政府を動かすまでに到っておらず、バブル崩壊によって建設残土輸出の計画も立ち消えになっている。
三.結びにかえて 〜島嶼における資源採掘の意味〜
リン鉱石の採掘は島そのものの破壊であった。島という逃げ場のない小世界で土地を破壊する採掘事業は、脆弱な自然環境の中で生きる住民たちにとっては、生活手段すべてを奪う行為といっても過言ではない。採掘を行った側が次第にその事実すら忘れ去ろうとする中で、各島の住民たちは、日々、破壊の現実とその影響に直面しているのである。
現在においても、独立成った島々では、国家経済の基盤を確立するため、先進国資本の主導の下に天然資源の開発が行われている。特にメラネシア諸国では金や銅、石油などの地下資源の開発が行われ、木材の伐採が進行している。そうした中で、企業や政府と地元住民との軋轢は依然として絶えず、世界有数の銅鉱山のあったブーゲンビル島では、公害と利益分配の問題から1988年に武装蜂起が起こり、9年間にわたって多くの死者を出す紛争にまで発展した。また、ソロモン諸島経済再建の切り札とされるガダルカナル島のゴールドリッジ金山では、下流住民からの補償要求に決着を見ないまま、今年操業が開始された。
リン鉱石採掘の歴史と島々の現在は、100年後に遺恨を残さない開発のあり方を考える上で、極めて示唆的である。我々はこの経験を歴史の中に埋没させることなく、新たな歴史を築く中に活かしていかなければならない。
歴史に学ぶ姿勢が我々に問われているのである。
【註】
(1)リン鉱石とはリンを主成分とする鉱物の総称で、19世紀に入って肥料としての価値が欧米で認知され、精製技術の革新により需要が飛躍的に拡大した。太平洋の島々で生産されたリン鉱石は、海鳥のフンや卵殻などが雨水で分解され、サンゴ礁の石灰岩と化合して形成された島嶼リン鉱とよばれるものである。また乾燥地帯で排泄物等がそのまま堆積したものをグアノという。
(2)このグアノ採掘の労働者確保のために、太平洋諸島ではブラックバーディングといわれる奴隷狩りが行われ、イースター島、エリス諸島(現ツバル)、クック諸島などから大量の男たちが連れ去られた。太平洋諸島における奴隷狩りについては Maude, H.E., 1981, Slavers in Paradise. Australian National University Press. 参照。
(3)同法を根拠に、以後アメリカは中部太平洋の無人島の領有権を主張し、1980年代までイギリスなどとの係争事項となった。
(4)西野照太郎『新南方見聞録』56頁 朝日イブニングニュース社 1979年
(5)バナバ島は当時、西洋人発見者の名前をとってオーシャン島と呼ばれており、文献上はオーシャン島と記述されていることが多い。本論文では地元固有の島名で現在の正式名である「バナバ島」に統一して表記する。
(6)太平洋諸島会社はバナバ島の王(king)との間で契約を交わした。現存する契約書を見ると、島の王がバツ印をつけて署名している。しかし、当時ヨーロッパ人がいなかったこの島で、住民が英文で書かれた契約書の内容を理解していたのか疑問が残るところである。またバナバ人の子孫たちは筆者に対し、彼らの社会では全島を代表する王は存在しなかったと語っている。
(7)このオーシャン島編入についても、有人島であったにも拘わらず住民との合意なしに植民地化したのは、当時の国際法においても問題があるとの指摘がある(Weeramantry, C., 1992, Nauru. Oxford University Press, p.205.)。
(8)ナウル島のリン鉱石の埋蔵量は、F.Danvers Power による1901年の調査で4100万トンと推定されている。また『南拓誌』(南拓会1982年)によると、太平洋戦争勃発に伴い日本軍がナウルを占領した際には、埋蔵量1億トンと称された。
(9)前掲『新南方見聞録』62〜63頁
(10)Weeramantry, 1992, p.107.
(11)ナウル島のリン鉱石と、国際市場で自由に売買されたマカテア島のリン鉱石の輸出価格(FOB価格)を比べると、1920代から1960年代まで、平均してナウル島のリン鉱石はマカテア島のそれの4〜6割程度の価格となっている(Weeramantry, 1992, Table 16.2.)。
(12)ナウル島、オーシャン島、マカテア島、アンガウル島を指す。
(13)前掲『南拓誌』132頁
(14)前掲『南拓誌』135頁
(15)1984, Pacific Islands Year Book 15th Edition. Pacific Publications, p.161.
(16)Weeramantry, 1992, p.23.
(17)たとえば1941年のナウル島住民は合計3517人だったが、そのうちナウル人は1827人にすぎなかった。
(18)1927年に委任統治政府は酋長会議(Counsil of Chiefs)を設置していたが、「諮問機関」とされ、実際の権限はほとんど与えられていなかった。
(19)ナウルはその財務資料を公開していないが、1996年に筆者が現地調査を行った際に地元政府筋が語ったところによると、1988年に約16億豪ドルあったナウル信託基金(将来のための積み立て金)は、運用の失敗と配当の支払いによって1996年には4億豪ドルまで減少し、そのほとんどは不動産資産であるとのこと。ナウルの経済状況については、小川和美「南太平洋島嶼国の財政事情」(日本ミクロネシア協会『ミクロネシア』99号)参照。
(20)教育・人材面でも、地元史家のB・R・ナガヤ氏は筆者に対し、「植民地時代は独立の希望に燃えて若者たちはこぞって勉強したものだが、独立後は働かなくても食べていけるようになったため、ナウル人の学習意欲が低下して人材が育っていない」との問題点を指摘している。
(21)バナバの歴史と現状については、小川和美「バナバの人々」(日本ミクロネシア協会『ミクロネシア』87号)参照。
(22)Talu, A.(et al.), 1979, Kiribati Aspects of History. University of the South Pacific, pp.77-79.
(23)太平洋戦争時に日本軍によって強制移住させられた際の移住先の一つだったコスラエ島にバナバ人が上陸した時の様子について、コスラエ島のルル・トゥレアクン氏は筆者に対し、「バナバ人たちは自転車やミシンを持っていて、なんて物持ちなんだろうとみんなで目を丸くした」と語っている。
(24)Maude, H.C.&H.E., 1994, the Book of Banaba. University of the South Pacific, P.82.
(25)Talu(et al.), 1979, pp.76-77.
(26)バナバ島における戦時中の日本軍の動きについては、西野照太郎「オーシャン島の日本海軍」(太平洋学会『太平洋学会誌』第31号)及び奈良賀男「われらポツダム戦争を戦えり」(同第36号)参照。なお、終戦時まで労働力として島に残されていた周辺諸島出身の出稼ぎ労働者たち約100から200名は、戦後日本軍によって全員殺害(一名奇跡的に命を留めた)された。
(27)従って、キリバス議会においてバナバ人は、バナバ島議席とランビ代表議席の2議席を有している。
(28)The people and Clans of Angaur State, 1995, Petition to the Ministry of Foreign Affairs Government of Japan.
(29)印東道子・山口洋兒「日本統治時代のファイス島」『北海道東海大学紀要人文社会科学系第9号』43頁 1996年((社)日本ミクロネシア協会オセアニア研究所主任研究員、日本女子大学非常勤講師)
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