PACIFIC WAY

幻の陶貨製造会社設立計画
 

(社)太平洋諸島地域研究所理事長
小深田貞雄(こふかだ さだお)


 終戦56年を迎えた。私は昭和20年(1945年)8月10日、大阪の造幣局で職員とともに天皇陛下のポツダム宣言受諾の玉音放送を聞いた。進めていた陶貨製造会社設立計画は幻と消えた。
 
 私は昭和12年(1937年)4月、南方開発を夢見ながら国策会社南洋拓殖株式会社の第一期生として入社した。入社以来所属した課の名称は業務課、管理課、企画課と変わったが、仕事は一貫して子会社、関係会社の設立、管理に関する仕事であった。

 南拓の役員は、拓務省、海軍、財界の代表と3名の理事が就任されていた。私の所属する課の担当役員は、拓務省から来られた杉田芳郎さんであった。杉田さんは理事退任後大蔵省に帰られ造幣局長に就任され、終戦時、陶貨製造計画を進められたのである。

 杉田さんが拓務省へ移られた頃、私の叔父岩田喜雄が南方に於けるゴム栽培を目的とする明治製糖系のスマトラ興業株式会社の現地担当役員としてスマトラ島に常駐していた。杉田さんは南方視察のため出張された際スマトラ興業の宿舎に滞在され、叔父と面識があった。私の南拓入社にあたっても杉田さんの尽力があった。昭和15年(1940年)、南拓を退任され陸軍司政長官としてビルマに赴任されたが、その後名古屋地方専売局長を経て昭和19年(1944年)、大阪の造幣局長に就任された。

 私は昭和16年(1941年)3月、南拓パラオ本店勤務となったが、同年12月再び東京事務所勤務となり帰還した。横浜港へ到着の一週間後の12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾を攻撃し南洋群島は戦火のなかにさらされた。

 私は東京事務所で引き続き関係会社関係業務を命ぜられた。

 昭和19年(1944年)、日本の敗色は次第に濃厚となり、東京の空襲も間近に迫っていた。丸の内興銀ビルにあった東京事務所も明治神宮表参道に面した渋谷区隠田の結婚式場逢莱殿を買収、改造した事務所へ移転した。この事務所も翌20年5月25日の大空襲で焼失した。事務所は更に山梨県北巨摩郡穴山村に疎開した。 

 私は妻子とともに当時疎開していた千葉県流山から穴山村重久の農家の間借りの一室に移転した。

 この頃造幣局長を退任されたばかりの杉田さんが南拓の顧問に就任され、私どもと隣り合わせに疎開されていた。ある日杉田さんはブタの子を抱えてきて、これを料理しようと言ったがこれはできなかった。

 戦局が進むにつれ次第に軍需物資が欠乏し、兵器生産のために金属貨幣を陶貨に変える案が造幣局で進められた。これは国内の製薬会社から錠剤を作るためのタブレットマシンを収用し、国内の陶磁器生産地である瀬戸、多治見、有田等で陶貨を製造しようとする計画であった。

 杉田顧問から既に南方に於ける事業を喪失した南拓の手で陶貨製造会社の設立計画を進めたい旨の提案が示された。

 この会社は桐栄社と名付けられた。その設立業務のために私は8月10日、大阪の造幣局に出張することになった。穴山を出発し、途中陶貨試作を造幣局より委託されていた瀬戸陶器株式会社を訪ねた。陶貨は陶土にアルミニウム、亜鉛を加工しタブレットマシンで打ち抜き、電気炉で焼いて製造するもので、一銭、十銭の陶貨が試作されていた。富士山の図柄の入った一銭貨幣を床の上に落とすと金属的な音を立てた。立派な出来栄えであった。数個の試作品を持って大阪の造幣局に着いた。

 造幣局では、会社の設立計画について担当者と打ち合わせを開始したが、話しはなかなか進まなかった。そのころの造幣局は勲章などの増産で多忙を極めていた。その上毎日のように空襲警報が鳴った。警報が鳴ると地下の大金庫のなかに避難した。B29は「早く降服せよ、広島、長崎に続いて更に原子爆弾を落とす」とのビラをまいていった。敗戦の近いことを感じた。

 私はその頃まだ奈良の大仏を見ていなかった。何れ戦火により消失するであろうが一度見ておきたいと思った。8月13日に妻が万一の場合の食糧にと持たせてくれた煎った大豆の缶をポケットに、奈良見物に出かけた。奈良は戦火もこうむらず静かなたたずまいを見せていた。大仏も見ることができた。

 そして8月15日を迎えた。終戦の玉音を聞き、すべてが終わった。陶貨は出まわることはなかった。

 私は妻子の待つ穴山へ帰ることになったが、敗戦の混乱のなかで交通機関も麻痺した。公用の証明を持って開通した第一号列車で大阪駅を発った。名古屋駅のプラットホームで一夜を明かし、中央線に乗り継いで妻子の待つ穴山へ帰り着いた。妻も3人の子供とともに私の身を案じながら、帰路に当たる坂を終日見つめながら待っていた。

 数日後、造幣局の担当者が計画の最終処理のため来訪された。穴山での来客に対する唯一の接待場所である銭湯の二階で、生葡萄酒を酌み交わしながら陶貨製造計画の終結を確認しあった。

 陶貨は試作品として1銭貨、十銭貨、計1300枚が試作されたが、流通することはなく幻の貨幣となった。

 終戦とともに南拓は閉鎖解体され、私も新たな道を歩み始めた。2年間の閉鎖機関整理委員会、18年間の昭和ゴムの勤務を経て昭和42年(1969年)、アジア会館に勤めることとなった。

 昭和44年(1969年)、ナウル共和国が戦時下南拓の事業地トラック島で南拓社員と友情を結んだハンマー・デロバートを大統領として自立した。当時杉田さんは南拓会の会長であった。ナウル共和国の国造りを支援するため、杉田さんを会長として(社)日本ナウル協会が設立された。大統領来日の際、杉田さんの尽力で東池袋の造幣局東京支局を見学することとなった。施設を巡回したところ、見本棚に陶貨が陳列されていた。深い感慨を覚えた。