PACIFIC WAY
WALKING TOGETHER
  〜共に歩んでいこう〜    

ミクロネシア交流事業部
茂田達郎(しげた たつろう)


「JATAトラベル・ショー」を終えて
 
 「なんとか無事に終わった!」
 手を振りながら空港の手荷物検査ゲートの人混みのなかに消えて行くPVB (ポンペイ・ビジタース・ビューロー)のクリスとマービンを見送りながら、無意識に私は大きな吐息をついていた。
 11月30日から始まった「JATAトラベルショー99」は昨日閉会したばかりである。たった4日間の会期だったにもかかわらず、この安堵感はいったい何なんだろう。
「日本はこれからぐんと冷え込みが厳しくなるな。自分も早く仕事を片づけてポナペに帰らなければ」
 久しく忘れていた孫娘の顔が目に浮かんだ。
 
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 今回のトラベルショーには、ミクロネシア各州からビジタース・ビューローのマネージャーをはじめ、総勢26名におよぶ面々が参加した。そのなかには、チューク島からの6名の娘エンターテイナーも含まれていた。FSM連邦政府からは、連邦政府観光局の担当官マターソン・ラモンが総括責任者として来日した。
 ブースはふた小間とはいえ、間口わずか2.5m足らずの狭いスペースである。そこに各州ひとりずつ立ったとしても4人。全員が中に入ることは到底不可能である。そこで、かねてからの打ち合わせどおり、ラモンが作成してきたシフト・スケジュールに従って、中に2人、外に2人、そこには必ず通訳として日本人ひとりがつくことにした。
 旅行エージェントならびにマスコミ向けのプレゼンテーションも、グアムのそれを一部提供してもらって行うという従来のやり方以外に、ミクロネシア単独の場を初めて設定した。
 残念ながらこれは、事前のインフォーメーションが行き届かなかったためか、あるいはミクロネシアに魅力を感じないエージェントが多いためか、わずか3社しか集まらなかったが、それにしてもミクロネシアがこれほどまとまって組織的に、しかも整然とトラベル・ショーに臨んだのは、いまだかつてなかったことである。観光客の数が激減し、真剣にならざるを得ないという背景はもちろんあるが、4州が和やかに協力し合ってミクロネシアの啓蒙・宣伝に努める姿は印象的だった。会場を抜け出して遊びに行ったり、単独でエージェント回りをする者もいなかった。
 その意味で、今回のトラベル・ショーで得た意義は少なくない。トラベル・ショーを含め、今後ミクロネシアの観光産業発展のためにどう取り組んでいったらいいのか、ミクロネシアにあって、そしてまた欠けているものは何か……。原点を見直し、ミクロネシアの島々にマッチした旅行のありようを提案していくことの必要性、またそのためにしければならないことなど、議論するチャンスが十分にあったことも幸いだった。
 
WALKING TOGETHER

 「海は我々を隔てるものではない」
 これはミクロネシア連邦憲法の前文である。しかしながら、現実はやはり海はミクロネシアの島々を隔てていると言わざるを得ない。生活様式も習慣も、そして言語も異なる島々が、たまたま一緒になっている(いや、一緒にされたというべきか)のだから。周知のように、ミクロネシアの連邦国家は戦後のアメリカ統治の都合による“産物”である。それゆえ、当時から無理のあることは指摘されていた。だからこそ、憲法前文に件(くだん)の文言をあえて謳ったとも言える。
 しかし、それをいまとやかく言っても始まらない。現実にミクロネシア連邦は一つの国家として存在する以上、各州がミクロネシア連邦の旗の下、力を合わせていかなければならない。レオ・ファルカム大統領が大統領就任式典で演説したそのコンセプトは「Working Together」であった。我々も、ミクロネシア連邦全体として一致協力し観光産業促進に取り組む必要があるのではないか。いままでのように各州の思惑に任せていたのでは、無駄も多いし、統制もとれない。第一、資金もないのだから効果的な観光促進活動ができないではないか。ミクロネシア交流事業部としても、連邦政府観光局の日本事務所としてなら、スポンサーを見つけるなりしてそれなりのサポート(事業展開)ができるかもしれない。
 こんな話を連邦政府観光局のエディカル・サントスとしたのは、昨年7月、大統領就任式直後のことだった。その1週間後、私はポナペ日本人会の中松会長とエディカル・サントス立ち会いのもと、経済開発省のセバスチャン・アナハル大臣と日本事務所開設に関する覚え書きを交わした。そのなかに、トラベル・ショーのサポートに責任を持ってあたることと、オフィシャル・スポンサーを獲得する努力をすることが盛り込まれていた。
 

 私がトラベル・ショーに初めて参加したのは1995年、関西空港開港を記念して大阪で開催されたときだった。当時はポンペイ在住のホテルオーナーとして、自社の宣伝・集客が目的だった。1997年はポンペイから州政府観光局長のフミオ・シルバヌスはじめ顔見知りの連中が来るというので、ボランティアとしてサポートした。しかし一昨年秋、前述の中松さんのお引き合わせで小林専務理事とお目にかかる機会を得た。かねてから著書を拝見し、お名前は存じ上げていたものの、お会いするのは初めてだった。そして、そのとき「協会の交流事業部として手伝ってもらえないか」とのお話をいただいた。ポンペイでの経験が少しでもお役に立つならと気軽にお引き受けしたが、専務理事の人柄に親しみを覚えた面が多分にある。
 以来、「南太平洋総合展」や「世界旅行博」のミクロネシアブースのサポート、FSM政府観光局発刊のガイドブック翻訳、アジア婦人友好会からポンペイ州立小学校への井戸建設寄付金の贈呈代行、神奈川宗教連盟からポンペイ州教育局へのタイプライターおよびワープロの贈呈代行、さらにはレオ・ファルカム大統領就任式に小林専務理事の代理として出席するなど、協会事業活動の一環として行なってきた。
 それに伴い、私のなかで少しずつ「何か」が変化していった。ポンペイでホテル経営に明け暮れていたころとは違う、といってボランティアとして気ままに手伝っているのとも違う「何か」が。ヤップとの交流を35年の長きに渡って続けてこられた釈清人さん、オーストラリアとの交流活動を実践してきた旧友の小田巌君。さらにはかつて私のホテルにお客様として来てくれていた岡田昭夫さん、ミクロネシア大好き人間の諸氏が仲間に加わってくださるようになって、だんだんいい加減では済まされなくなったせいかもしれない。
 今回のトラベル・ショーも、そうした仲間たちの協力あったればこそできたことであった。TV、VTR、プロモーションビデオ、ポスターパネル、飾り付け……、すべて日本サイドで調達し、現地から持ち込んだ物はパンフ類だけで済んだ。
 まさに日本側も「Working Together」であった。
 


 21世紀を目前に控え、ミクロネシア連邦は建国以来最大の試練に立たされている。アメリカとの間で締結した自由連合協定が2001年に終了し、これまで国を支えてきた援助金の先行きが不透明になっているからである。
 経済的自立どころか精神的自立も困難なミクロネシアにあって、わずかに財源として見込まれるのは漁業と観光である。が、その観光もここ2〜3年、日本からの観光客が減少の一途をたどっている。そんななかで引き受けた観光局日本事務所だが、期間は本年2月までのあくまで暫定である。それまでにオフィシャル・スポンサーをつかめなかったら、あとはまた相談しようということになっている。
   
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 ミクロネシア連邦政府同様、我が研究所の台所も青息吐息である。ホームページの開設、ガイドブックの編纂、プロモーション・ビデオの制作、そして太平洋こどもウィークの復活など、手がけたいことは山ほどあるが、先立つものがなくてはどうにもならない。もっとも仮に潤沢に資金があったとしても、与える一方の企画や活動をすることは私としてはしたくない。援助することが必ずしもミクロネシアの人々のためになるとは思わないからである。
 自分に都合のよい考え方をするその気性と、もともと勤勉とは世辞にも言えない生活姿勢。にもかかわらず、それを南国特有の素朴さと受け取ってビジネスで痛い目にあった日本人は数知れない。かくいう私もそのひとりである。
 普通ならそれで懲りるのだろうが、私はあきらめていない。それどころか、まだこうして関わっている。もしかしたら生来のうつけ者なのかもしれない。しかし、いまは常に「対等の立場で」を忘れないようにしている。その意味で私のコンセプトは「Walking Together」の方が適当なのかもしれない。「共に歩んでいこう」の姿勢でミクロネシアとつき合い、その行く末を見守っていきたいと思っている。
          
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 連載の初回ということで、協会に関わるようになった経緯、動機、活動状況などを紹介させていただきましたが、次回からは、『―楽園のはずが―ポナペ・ホテル憤戦ing』と題して(いまも憤怒の闘いは続いています)ポンペイ、の不条理(?)な社会に飲み込まれてしまった私自身の体験談をお届けしたいと思っています。