PACIFIC WAY


「パシフィック・ウェイ」の本義と機能



苫小牧駒沢大学助教授
東  裕(ひがし ゆたか)


はじめに
 
 「パシフィック・ウェイ」の由来について、本誌の読者はご存じのことと思う。1970年にフィジー国連加盟の際、当時のカミセセ・マラ首相(現大統領)が国連総会演説のなかではじめて使った言葉。以来、この言葉は、多様な文化を包摂した太平洋地域の「統合」や「連帯」を象徴する言葉として、広く人口に膾炙するようになった・・・・・・。本誌の読者にとっては、なにを今更、といったところであろうが、実は、ここに「誤解」があるのだ。というのも、この言葉がそもそも地域の「統合」や「連帯」を指す言葉として使われたとは言い切れないからである。初めて使われときの意味が留意されず、パシフィック・ウェイがひとり歩きをはじめたのだろう。そこで、本稿ではこの言葉が初めて使われたときの本来の意味を明らかにし、その後この言葉が果たしてきた機能をあらためて整理するものである(1)

1.わが国での「パシフィック・ウェイ」理解
 
 1970年の国連総会演説以来「パシフィック・ウェイ」(Pacific Way)は太平洋島嶼国の人々、とりわけ指導者の間で広く使われるようになり、太平洋地域の連帯・統合を表現したり、太平洋地域の人々の文化の独自性を表現するという幅広い意味をもった言葉として使われているといわれる。わが国の太平洋地域研究者の間でも、このような意味をもつ言葉として「パシフィック・ウェイ」が使われているようである。
 しかしながら、そもそもマラが国連演説の中でどのような意味でこの言葉を使ったかは、ほとんど伝えられてはいない。わが国の研究者の論考の中に時々現れるこの言葉についての記述は、あたかも自明の前提のごとくこの言葉を使って、太平洋の地域統合概念として、「パシフィック・ウェイ」をとらえ、1970年にマラの国連演説で初めて使われた云々、といった注釈が加えられている。たとえば、次のように、である。

 「フィジーのマラ首相が提唱した太平洋諸国の歩むべき指針。フィジーが独立した
1970年秋の国連総会の演説で初めてその概念を用いたといわれる。彼は、〈南太平洋の島々は、外国の支配のもとでばらばらになっていた。しかし同じ伝統と文化をもっていたではないか。独立した今、昔のように手を取り合って、国際社会に乗り出そうではないか。欧米文明をうのみにするのではなく、南太平洋民族の伝統と文化を保ちながら、ゆっくりと近代化に手をつけよう〉と呼びかけた。パシフィック・ウエーには太平洋共通の独自性と太平洋各地の独自性の双方が含意されている。イデオロギーとしての太平洋は一つといった排他的な主張ではなく、そこには、新しい国造りに民族、文化の土着主義的な共存、連帯が不可欠であるという願望がこめられている。太平洋諸島の近代化が今後パシフィック・ウエーといかに調和しつつ実現されるか興味がもたれる
(2)。」

すなわち、@太平洋諸国に共通する太平洋地域の独自性と、A太平洋地域に散在する各地の独自性、という二つの意味を含んだ概念であるということ。そして、そこには近代国家の建設を進めるにあたって、地域の共通性の上に立脚して域内国家の連帯をすすめる一方、土着の各民族文化を維持した上での共存が欠くべからざること、という意味がこめられているということ。これが「パシフィック・ウェイ」の意味とされる。
 国際社会の中で、小さな小さな太平洋諸国が認知されるためには、一つのまとまった存在としてその存在を誇示する必要がある。そのためには、地域の独自性を主張する根拠となる域内各地の土着文化の共通性を強調することで、それを広く国際社会に印象づけ、さらに、域内の人々には自らの文化の独自性への認識を促し、それへの誇りをもたせることが必要になる。そのために、「パシフィック・ウェイ」が使われるのであろう。その点に異論はない。
 筆者も、永らくそのようなものか・・・・・・と、深く考えないままこの言葉を理解してきた。ところが、縁あってマラの国連演説の原文を翻訳することになり、これまでの理解が誤りとまでは言わないにしても、この言葉の元々の意味はそうでなかったことを発見し、たいへん驚くことになった。と同時に、原典に当たるという研究の初歩をないがしろにすると、とんでもないことになると、今更ながらおおいに反省させられることにもなったのである。そのことを、次に証拠を挙げて明らかにしよう。

2.マラ演説とパシフィック・ウェイ
 
 マラ首相は、1970年の国連総会における演説の中で、太平洋諸国の植民地から独立国への移行にふれ、次のような文脈で、「パシフィック・ウェイ」という言葉を使っている(3)。しかも、この言葉が使われたのは、演説の中で、この1か所のみである。正確を期すため、その前後の部分とともに該当個所を以下に示し、日本語訳を付す。
 
(原文)
 We are all deeply conscious of the happy and peaceful way we have moved into independence with a united multiracisl society. We are told this is a pearl of great price which we can perhaps be shared with the world at large. We therefore look to the United Nations to help us to protect and cherish this, perhaps our greatest contribution to this distingushied body. The warmth of your welcome and the manifest goodwill shown to Fiji is evidence that we shall not look in vain.
 Many speakers have commented on our peaceful transition to independence, and we ourselves are deeply grateful for our good fortune in this way. But this is nothing new in the Pacific. Similar calm and orderly moves to independence have taken place in Western Samoa, in the Cook Islands, in Nauru, and in Tonga. We like to think that this is the Pacific Way, both geografically and ideologically. As far as we are authorised by our friends and neighbours, and we do not arrogate to ourselves any role of leadership, we would hope to act as representative and interpreter of that voice.

(訳文)
 私たちは皆、統合された複合人種社会をもちながら幸福かつ平和裡に独立国家へと移行したことを意識しています。このことは世界中でもおそらく共有されるべき「高価な真珠」ではないかともいわれます。それゆえ、私たちがこれを守り大切にする努力を国連が支援してくれることを期待し、さらにこの国連というすばらしい組織に対し、私たちが最大限の貢献ができるよう、ご援助いただけますよう希望する次第です。フィジーに対して示された皆様のあたたかい歓迎と明らかな善意は、私たちが自らを卑小な存在と見るべきではないという証です。
 多くの演説者の方々が、わが国の平和裡の独立への移行について言及されました。そして、私たち自身が、このような私たちの幸運について深く感謝しています。しかし、これは太平洋にとって目新しいことではありません。同様の平穏で整然とした独立への移行は、西サモア、クック諸島(4)、ナウル、そしてトンガでもみられました。私たちは、地理的及びイデオロギー的の両面で、これこそがパシフィック・ウェイ(Pacific Way)であると思います。私たちが、(太平洋地域の)友人や隣人から授権された限りにおいて、また指導的役割を不当にわがものとしない限りにおいて、私たちは友人や隣人の声を代表するものとして、そしてその声を分かりやすく伝える者として行動するつもりであります。                 
以上が、パシフィック・ウェイがでてくる有名な国連演説の一節である。ここでは、フィジーをはじめ太平洋諸国の植民地が、熾烈な独立闘争もなく、平和裡に穏やかに独立国家へと移行したことを指して、これが「太平洋流のやり方」(Pacific Way)である、とマラは言及したのである。これは地理的概念であると同時にイデオロギー的な概念でもあるといわれるように、それは「太平洋流の方法」であり、また「平穏なやり方」、という意味も込められていると理解できる。これがパシフィック・ウェイの本義であることはマラ自伝の中にみられる次の記述からも明らかである。

 「会議はことのほか成功した。議事が順調に進行し、参加の代表団も楽しんだだけでなく、全体を通して極めて平穏のうちに当初の目的が達せられたのは私自身びっくりするほどであった。銃口を突きつける、といった過激な態度をとったわけではない。『これこそがパシフィック・ウェイだ』、とコナテ事務総長はファミリーの一員として好意的にいってくれた。私自身もまた、そう思った。」(Mara, ibid., p.179.

 ここでも、会議が平穏のうちに進行し、過激な態度をとらなかったこと、すなわち「平穏な方法」であったことを「パシフィック・ウェイ」と呼んでいる。以上の点から、パシフィック・ウェイの本義は、「平穏な方法」・「穏やかな物事の進め方」ということにあることが明らかになったと思う。しかし、その後のこの言葉の使われ方、すなわちその機能は、また別の考察の対象となる。
3.パシフィック・ウェイの機能
 
 繰り返すが、この言葉が使われたのは国連演説中、たった1か所だけであった。にもかかわらず、クロコーム教授が次に指摘するように、それから5年ほどの間に、「パシフィック・ウェイ」は太平洋地域一帯で人口に膾炙するようになったのである。それは、太平洋諸国の人々の心理的・政治的必要を満足させたからであった。「パシフィック・ウェイ」は、太平洋地域の一体性と統合のシンボルを求める要求の高まりに応えたのである。

 「それは、政治的独立という文脈(あるいは少なくともその要求)及び高まりつつある自信以外のなにものにも根ざしたようには見えない。さらに、すべての島嶼国の人々の共通の利益が島嶼国どうしの共働によって実現されることが自覚され、そして効果的な統合概念が島嶼諸国の周りを取り巻く富裕な先進国への新植民地的な依存の程度と強さを弱めることが自覚されるようになってきていた。」(Crocombe, ibid., p.4.

 クロコーム教授はこのように述べて、パシフィック・ウェイの概念が広く受け入れられるようになった理由を、@太平洋島嶼国の共通の利益を国際政治上で実現するための地域統合概念としての政治的意味と、A太平洋島嶼国の人々が自尊の精神をもつことによって誇りと自立の気概を高める心理的意味に求めている(5)

 「かつて、ほとんどの太平洋の人々は、さまざまなレベルの地元ないしは部族の一員としてのアイデンティティーをもつだけであった。このことは、今でもほとんどの人々について言えることではあるが、国家レベルの共通のアイデンティティーが形成されてきたり、英語を話すヨーロッパ人の文化(仏領地域ではフランス文化)を吸収したり、といった現象が起こるにつれて、その重要性は減少してきている。こうした国家レベルと世界のレベルとの間に、『パシフィック・ウェイ』とい新たな集団のアイデンティフィケーションが登場してきたのである。」(Crocombe, ibid., p.4.)
 「パシフィック・ウェイは、すべての重要な用語がそうであるように単一の精確な意味をもつものではないが、中核に基本的な意味を内包し、そして感情的な反応と一定の範囲で別の意味が、文脈に応じて付加される。そして、その言葉を使う人や使われる時によって、少し違った意味をもつ。
 1975年の時点でのパシフィック・ウェイの状態は、神学(theology)と技術 (technology)の二つの側面からとらえることができる。前者は、『パシフィック・ウェイ』という言葉に対する信念、価値、政治的・心理的反応であり、後者はその言葉によって同一視できるように見える実際の行動と活動である。
 そして、パシフィック・ウェイの大きな利点の一つは、この言葉に内包された柔軟性(flexibility)である。この言葉は全体的に特定の意味をもたないために、特定の時・場所・文脈の現実が何であれ、太平洋地域においては、その住人のどのような活動も、それがパシフィック・ウェイの現れであると分類できることだ。」(Crocombe, ibid., pp.4-5.)
 
 このように、パシフィック・ウェイの基本性質を総体的に理解した上で、この概念を「理念」と「現実」の側面、すなわち教授の言葉では、「神学(理論)」(theology)と「技術」(technology)という側面から分析していくのであるが、詳細は拙稿(脚注(1)参照)にゆずり、本稿では次に、クロコーム論文の最後、「パシフィック・ウェイは、ここからどちらへ向かうのか?」という問いかけを要約し紹介することで結びとしたい。
 
4.パシフィック・ウェイの統合機能
                                  
  「パシフィック・ウェイの発展は、共通の必要という現実共通の行為による達成に大きく左右される。太平洋の島々は広大な海域に散在し、文化や経済の相違があまりにも大きく、その結びつきはあまりにも多様であり、植民地時代の国や新植民地国の力があまりにも強く、そのため、パシフィック・ウェイが統一の形(a unitary pattern)になっている。しかし、一方で、似たような表現があちこちで見られるということもでき、パシフィック・ウェイの主要な特徴はさまざまな言語と多様な地元社会の文化の受容である。
 多くの人々にとって、村や地域や島が今でも最大の関心事であり、新たに独立した国の政府は国としてのふるまい方(a national way)、国民的アイデンティティー、そして国民統合をしばらくのあいだ強調するものである。太平洋諸国の指導者たちは、統合の必要を見、みずから強い交渉力を蓄えようとし、共通のアイデンティティーに発する信頼を広げようとする。そのために、彼らは賢明にも類似性や単一性の象徴を引っ張り出し、そのいずれもが太平洋地域の共通の関心事の網を引き出し、そして太平洋的なものを外国のものから区別した。パシフィック・ウェイは、こうして、共通の環境と文化経験の一部となった。それは一つには同じように植民地を経験したことへの共通の反発であり、また新植民地主義による搾取についての共通の憂慮からその強さをひきだしている。そして、太平洋の外からの圧力に共通して直面する時の統合の焦点となる。
 パシフィック・ウェイという言葉は、太平洋世界を変えはしないが、太平洋島嶼人の自信を増し、進むべき進路についてのいくらかの方向感覚を与え、そして大いに必要とされる統合の要素となることに役立つ。さらに太平洋諸国の指導者たちが設定した目標のいくつかを、少し早く、そして少し効率的に達成する役に立つだろう。」(Crocombe, ibid., pp.22-23.)
                                 
 このように、「パシフィック・ウェイ」は、基本的にさまざまな多様性をもった太平洋島嶼諸国・地域の統合の象徴であり、その統合の必要性は、それぞれの国の内側と外側の両面にある。内においては、村や島の住民という意識が勝った人々に国家というものを意識させ国民意識を醸成する国民統合達成のシンボルとして、そして外においては、小さな太平洋島嶼諸国の地域の連帯を推し進め、旧宗主国を中心とする先進諸国に対抗して国際政治の上で影響力を高めるための地域統合のシンボルとして、「パシフィック・ウェイ」は機能する。それは、国内においては伝統や伝統的制度を規定した憲法という形で、国外すなわち地域の連帯という点では、南太平洋フォーラム(SPF)をはじめとする地域国際機関として具体化するのである。
 こうして、国家統合、地域統合の象徴として「パシフィック・ウェイ」は機能するが、さらに太平洋諸国の指導者たちが設定した目標、すなわち「近代化」の達成の促進とその効率化に資することも指摘される。確かに、太平洋流のやり方は、決して西洋先進国流の近代化にとっては、明らかに阻害要因となろう。しかし、太平洋には太平洋のやり方があり、太平洋風の近代化もあり得よう。そのことは、今日の太平洋島嶼諸国の現実を見れば明らかなように、日常生活の中に近代化の産物である自動車やコンピューターや電話が入り込み、政治は立憲主義の下での議会制民主主義が一般化し、経済においては貨幣経済・市場経済が広く行われている。
 その歩みは、先進国ほど速くはないが、着実な進展が見られることは疑いない。こうした、穏やかな歩みこそ、マラがはじめて国連総会演説で使用した文脈における「パシフィック・ウェイ」にもっとも近いものではないだろうか。統合の象徴としての「パシフィック・ウェイ」が強調されるあまり、この言葉のもつもう一つの意味、すなわち「平穏な方法」という側面がないがしろにされてきた嫌いがある。しかし、ここにこそ「太平洋流のやり方(方法)」があり、これが太平洋流儀として域内国家・地域の間で共有され、「パシフィック・ウェイ」の旗印の下に統合された国家及び地域国際団体のなかで、それぞれの目標達成に至る方法を規定していくと考えられるのである。
その意味で、太平洋島嶼地域における産業開発の問題などを考えるにあたっては、いまいちどパシフィック・ウェイとはなにかを考えてみる意義があると思われる。

 
 *本稿で紹介した国連総会演説(1970年)を含むカミセセ・マラ現フィジー諸島共和国大統領の自伝、Ratu Sir Kamisese Mara, The Pacific Way --- A MEMOIR, 1997, University of Hawai‘i Press. は、近々慶応義塾大学出版会から翻訳出版される予定である(小林 泉・都丸潤子・東 裕共訳)。