巻頭言
メラネシア諸国の政情不安
小林泉(こばやし いずみ)
去る4月に日本の主催による「太平洋・島サミット」が宮崎で開催され、首脳間で「日本と島嶼諸国の新たなパートナーシップの構築」を誓いあった。それから一カ月も経たない5月19日、フィジーでは武装集団による国会占拠事件が発生、彼らの要求により現インド系のチョードリー政権が退陣に追い込まれた。また、この事件の解決を見ない6月5日、ソロモン諸島でも首相監禁事件が起こり、その結果ウルファアル首相が辞任、政治混乱はいまだに続いている。
宮崎で築いた信頼関係を基に、「これから新たな地域関係を」と意気込んだ矢先に、主要二カ国の政権が脱落してしまい、日本側の関係者もショックを隠せない。まだ事件として表面化していないが、ヴァヌアツの政情も不安定な状態にあるし、パプア・ニューギニアのブーゲンビル分離問題も、依然として完全解決には至っていない。さらに、ニューギニア島の西半分、イリアンジャヤでも5月4日に西パプア住民代表会議がインドネシア領からの独立を表明した。これら相次ぐメラネシア地域の政治事件は、いったい何が原因なのか。島嶼諸国との関係を一層強化しようとするいま、あらためてこの地域の政治基盤の本質を述べておきたい。
各地で起こる事件は、直接的には何ら相互の関係性はない。しかし、いずれの国においても、旧宗主国がレールを敷いた植民地からの独立国家形成のあり方に根源的原因を見いだせるだろう。すなわち、メラネシア諸国は住民の共同体意識とは無関係に、植民地の枠組みで国家の独立を強いられたからだ。ニューギニア島の真ん中に、定規で引いたような国境線があるのはこの現実を如実に象徴していると言っていい。
例えば、イギリス統治が始まる以前のソロモン諸島では、現在の枠内での地域統合の歴史は全くない。いま対立が起こっているガダルカナル島とマライタ島の住民は、それぞれの島ごとあるいは島内の地域ごとのアイデンティティーの中で暮らしていた。それゆえ、夢々無関係な複数の島々と共に運命共同体として一つの国家を形成しようとは思わなかった。フィジーの場合も同様だ。イギリスは、1879年に砂糖キビのプランテーション労働者としてインド人を導入し、その数は1916年までの累計で6万人強となった。彼ら労働移民はこの地で代を重ね、1940年代には先住フィジー人と二分するほどの人口に達するが、植民地政府はこの2人種を全く分離して統治したため、同じ島に住んではいても両者の直接的関係はほとんどなかった。それが、イギリスの名誉ある撤退のために「これからは仲良く協力して、ひとつの国を作りなさい」と強要されたのである。フィジー人は大いに戸惑ったに違いない。一方、先代からこの地で生まれ育ったインド人にすれば、フィジーの独立に際して国民として加わるのは当然だった。見たこともない祖国インドには、もはや帰るべき場所などないからだ。なのに憲法では同じフィジー国民でありながら、インド人は土地所有権等の権利でフィジー人と差別された。イギリスは、こうした出発点における国家形成上の重要問題を自ら解決せずに撤退してしまった。これが、フィジー人とインド人のどちらにも不幸をもたらす結果を招いたのである。
いまメラネシアに起きている人種対立、民族摩擦から派生する諸事件が、こうした旧宗主国の無責任な植民地処理に起因している事実を見逃してはならない。そのイギリスの名代的役割を果たしていたオーストラリアやニュージーランドには、経済的制裁をもってメラネシアの政治紛争を押さえ込もうとする動きがある。だが、このような愚かな対応に、近隣の先進国仲間として日本が同調するようなことがあってはならない。宗主国自らが作り出した歴史的経緯を無視した方策は、島々に何らの現実的効力も発揮しないと思われるからだ。今となっては、「現在の国家的枠組みで国造りを進めようとする意志を内在的に育くむ」ような援助方策こそ、島嶼諸国には必要なのである。それには、先進国の論理による性急な結果を強いるべきではなく、経済自立や人材育成などに向けた地道な国内努力への支援を、これまで以上に強めていくしか方法はない。
一方、同じような経緯で独立したポリネシアやミクロネシアには、今のところ激しい国内政治紛争はない。伝統的な社会統治機構が存在した分だけ、メラネシアより社会の安定度が高いからだ。しかしその彼らが、武力行使を非としながらも、「基本的には外部圧力を加えずにメラネシア自身で問題を解決するように見守るべきだ」と主張している。これは、同様に旧宗主国の方式で独立を強いられた島嶼国として、先進国の一元的論理の押しつけに異を唱えるアピールだと理解しなければならないだろう。
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