PACIFIC WAY

             回顧録(一)

(社)太平洋諸島地域研究所 理事長
小深田貞雄(こふかだ さだお)



 私は明治四十四年(1911年)、福島県二本松で生まれた。父は製糸の技師で、母は後年私の人生行路に深い関わりのあった叔父岩田喜雄の姉である。

 私が育ったのは九州で、幼稚園は豊後高田であるが、この幼稚園は私のいたずらがすぎて先生に叱られ、そのまま登園しなくなり、結局卒園しなかった。小学校は高田小学校で、この小学校は父が転勤で中津へ移転する三年生まで在学した。 

 この三年生の頃、叔父喜雄が南洋から帰国して来訪され、何かと南洋の話を聞かせてくれた。後年知ったことであるが、これは大正七年(1918年)叔父が大倉財閥の南洋拓殖工業のカロリン群島資源調査開発のため、第一次世界大戦のドイツからの捕獲船華丙号で団長としてクサイ島(現コスラエ)に渡り、二年後に帰国し来訪されたときのことである。私は叔父の話に胸をときめかせ、叔父の描かれた数枚の絵とともに私の脳裡に南洋が深く刻みこまれた。

 この年、中津へ移転し学校も豊田小学校にかわり、六年生を終えて中津中学校へ進学した。中学では絵を描くことに熱心で、展覧会に入選し、幾枚も賞状をもらったことを覚えている。

 昭和四年(1929年)、中学を卒業して佐賀高等学校文科甲類へ入学した。高校生活は今も語り継がれる旧制高校生活そのものであった。私は二年生のとき、全校生徒の選挙による校友会の文科の総務に選ばれた。しかし、私は総務としての仕事にはあまり熱心ではなかった。後年の評論家の青地晨である青木滋、労働大臣や文部大臣になった小川平二さんとは文芸部の仲間で、一緒にストライキもやった。小川さんとは同じ下宿でもあったが、後年長くかかわりあいがあった。しかし両氏とも先年亡くなった。今でも当時の文科甲類のクラス会を春秋二回、アジア会館で開いている。6〜7名はかならず出席する。会計検査院長を務めた白木康進君には私のアジア会館会長在任中、アジア会館の監事をお願いした。

 昭和七年(1932年)、三年間の高校生活を終えて京都帝国大学法学部に進学した。 
 しかし、河上肇、末川博、滝川幸辰教授等によって代表される当時の京都帝国大学は新たに入学する所謂進歩的な学生を待ち受けていた。私もこの渦の中に巻き込まれた。

 滝川教授の最後の試験「滝川幸辰の学説について述べよ」では、私は数少ない優をもらったが、滝川事件の起きた昭和八年(1934年)、私は一年間の停学中であった。私は最後の一年間で卒業に必要な16科目をなんとか合格し,兎も角3年で大学を卒業することができた。

 私が学業を終えた昭和十年(1935年)は満州国の建国、国際連盟の脱退等が続き、南洋群島委任統治の解消説も起きたが、日本は日本の主権並びに委任統治の継続を国際連盟に承認させ、アジア大陸および南方諸地域への経済的進出、所謂北進論、南進論といわれるものが国策の根幹となっていた。

 昭和十一年(1936年)、南方の資源開発を目的とする国策会社、南洋拓殖株式会社が設立された。

 私は十二年四月、南拓の第一期生として南方開拓を夢見ながら入社し、私の生涯に亘る南方への関わりが始まった。

 私の南拓入社から閉鎖まで所属した部・課の名称は、業務課、管理課、企画課と変わったが、一貫して関係会社の設立、管理等の仕事であった。南拓の事業はアンガウル、ファイス等の燐鉱石の採掘が中心であったが、関係会社は農林、水産、鉱業、化学工業、電気事業、海運業、土木建築業等多岐に亘っていた。

 入社後最初に関わったのが大洋真珠株式会社で、これはパラオを根拠地として豪州、アラフラ海一円を漁場とする貝釦原料の白蝶貝採取を目的とする会社であった。真鶴で採取船平洋丸の進水式を行ったり、アラフラ海で領海侵犯の疑いで豪州の監視船ララキヤ号に拿捕された第三高千穂丸の釈放依頼手続のため、外務省へ通ったことなどが記憶に残っている。しかし、この事業は同種事業会社の併立で生産過剰となり、一元統制が必要となって日本真珠株式会社に吸収統合された。

 明治製糖との共同出資でパラオでのカカオ生産を目的とした熱帯農産株式会社は叔父岩田喜雄が代表で、後に昭和ゴム、アジア会館と長く関わりのあった乾周市君がパラオのガスパン農場の支配人であった。

 鳳梨の缶詰の製造販売を目的とする南拓鳳梨、キャッサバの栽培並びに加工販売を目的とした豊南産業等にも様々な思い出がある。

 昭和十五年(1940年)五月、妻美保子と結婚した。入社後3年間の東京事務所勤務を経て昭和十六年(1941年)三月、パラオ本店勤務となった。パラオへは妻と生まれて間もない長男を連れて、まだ寒い冬の東京から常夏の暑いパラオへ渡った。船は郵船の山城丸のペンキを塗り替えたばかりのピカピカの一等A室であったが、アラバケツの社宅は新築されたばかりで、未だ電灯もなくランプを灯して暮らした。着いた時、硝子窓に貼り付いた青トカゲに妻は悲鳴をあげた。

 私のパラオでの仕事も関係会社担当であった。南拓鳳梨のアイライ、ガルミスカン、ガルドック工場、南洋アルミニウム鉱業のアルマテン、ガラスマオ鉱区等も視察した。

 しかしパラオ本店勤務は約8ヶ月で、この年の十一月、再び東京事務所勤務となった。

 横浜港到着の一週間後の十二月八日、日本海軍はハワイ真珠湾を攻撃し、これから4年間、南洋群島は戦渦のなかにさらされることになった。 

 再び東京事務所の管理課に復帰したが、戦局は次第に激化し、私たち家族も食糧の入手も困難となった東京から、私の母の実家のある流山へ疎開し、会社の事務所も丸の内の興銀ビルから渋谷区穏田の結婚式場蓬莱殿を買収、移転した。

 関係会社関係業務は,企画課所管となり、私は企画課管理係長となった。

 昭和二十年(1945年)五月二十五日、私は旧知の元南洋庁の役人と久喜市の料亭で木材の鋸屑で容器を製造する会社の設立計画を聴きながら酒を飲んでいた。この夜、東京の空は真っ赤であった。この日の大空襲で事務所は焼失した。

 事務所はさらに山梨県穴山に疎開した。私も妻と三人の子と共に流山から穴山へ移転した。

 当時、戦局の激化にともない、次第に軍需物資が欠乏し、兵器生産のために、金属貨幣を陶貨にする案が造幣局で進められていた。

 これは国内の製薬会社から錠剤を作るためのタブレットマシンを収用し、陶磁器の生産地である瀬戸その他で陶貨を製造する計画であった。かつて南拓の理事であった杉田芳郎さんが造幣局長を勤められた関係から、この計画に参画したのである。この計画推進のために、私は八月十日頃、大阪の造幣局に出張した。しかし戦局は激化し、空襲警報は絶えず鳴り、B29は「早く降伏せよ」とのビラをまいていった。そして八月十五日を迎えた。ラジオで終戦の玉音をきいた。この後、終戦の混乱のなかで交通機関も麻痺したが、鉄道の開通した第一号列車で妻子のいる穴山へ帰ることが出来た。

 九月三十日付で占領軍総司令部から南拓の閉鎖指令が出た。

 私達家族も、再び流山へ引き揚げた。

 私は閉鎖後二年間、閉鎖機関整理委員会の下で南拓関係会社の整理に当たったが、昭和二十三年(1948年)昭和ゴム株式会社に入社した。
                             −続く−