PACIFIC WAY

                 回顧録(三)
(社)太平洋諸島地域研究所 理事長
 小深田貞雄(こふかだ さだお)


 昭和41年(1966年)11月1日、18年間勤務した昭和ゴム株式会社を退職し、叔父岩田喜雄が会長を務めるアジア会館へ入館した。

 初出勤すると叔父は私に渉外部長を命じ、全館員を集めて紹介した。私はそれ迄の南方への関わり、国際問題への熱意を述べた。

 この年アジア開館は創立10周年にあたっていた。叔父はこの機会に「アジア会館創立10周年誌」を編纂したいとの考えを持っていて、私にその作成を命じた。私にとっては創立の経緯、経過を知るのによい機会であった。種々の資料を集めて「アジア会館10年の回顧と展望」を作りあげた。

 アジア会館は、戦後のアジア諸国に対する経済、技術協力の重要性に応え、各国より来日する研修者の受け入れ態勢の整備と相互の理解を深める友好親善の場として、当局アジア協会ならびに財界の協力によって昭和32年(1957年)設立されたものである。

 開設以来、各国からの研修者、旅行者数は増加の一途を辿り、設備も昭和36年(1961年)、39年(1964年)、48年(1973年)と増築を重ねた。

 建設にあたっての公団融資、財界64社からの借入金返済も昭和55年(1980年)に完了した。

 わが国の研修者の受入はコロンボプラン、国連、ユネスコ、日本生産性本部等の国際機関の要請によるものであったが、わが国の受け入れ態勢もアジア会館以外に海外技術協力事業団(後の国際協力事業団)の設立等次第に整備された。会館宿泊の研修者と一般旅行者の比率も次第に変化した。

 昭和42年(1967年)5月、私は理事に選任された。

 先ず取り組んだのが、アジア各国との国際親善等を目的とする各地域の協会の合同懇談会の開催であった。昭和42年(1967年)第1回会合を開き、以後会を重ねた。昭和46年(1971年)各協会の連帯、強化を目的とする社団法人アジア協力会の設立を外務省に申請し認可された。その後参加団体も増加し、昭和54年(1979年)加盟団体も16となり、名称も社団法人国際協力会と改まった。

 次に実を結んだのが、アジア婦人友好会の創立であった。アジア各国との友好親善には婦人の連帯、結集が必要との考えから、当時この問題に取り組んでおられた外務省関係の大使夫人等と協議を重ね、昭和43年(1968年)アジア婦人友好会が結成され、多彩な国際協力、友好親善の事業が行われている。

 平成11年(1999年)11月18日、創立30周年記念式典が皇后さまご臨席のもとに、第一ホテル東京で盛大に挙行された。私はただ一人の男性出席者であったが、深い感銘を覚えた。

 叔父はアジアの農業問題に深い関心を持っていた。ベトナム戦争後の東南アジアの農業開発、特にインドネシアの農業問題の重要性に応え、昭和44年(1969年)財団法人海外農業開発財団が設立されたが、昭和49年(1974年)国際協力事業団の設立により、財団の同事業団事業と重複する分野を事業団へ移管した。その残余業務を継承するため、昭和50年(1975年)社団法人海外農業開発協会が設立され、叔父は理事長を務めた。協会はわが国の開発協力事業に幅広い活動を行っている。

 昭和40年(1965年)マレーシアより分離独立し、わが国とは経済的にも密接な関係にあるシンガポールは、南方を志した会長が最初に足跡を印したところであるが、同国との友好親善を目的として昭和45年(1970年)社団法人日本シンガポール協会を設立した。叔父は理事長に就任した。私も昭和58年(1983年)より1期理事長を務めた。

 昭和43年(1968年)、ナウル共和国がイギリス、オーストラリア、ニュージーランドの共同管理による国連の信託統治を離れて独立を果たした。同国は全島燐鉱石の島である。戦時中、トラック島でナウル移住者と南洋拓殖会社の社員との間に友好関係が結ばれたが、昭和44年(1969年)ハンマーデロバート大統領の来日を期に、同国の自立発展を支援するため、南拓関係者を中心として社団法人日本ナウル協会が設立された。現在、私が会長を引き継いでいる。

 南拓会は南拓の閉鎖解体後、関係者によって結成された。先ず昭和27年(1952年)、南拓物故社員の慰霊祭を築地の本願寺で盛大に行った。

 昭和35年(1960年)4月、戦前パラオ小学校を卒業した人達がパラオで同窓会を行うことを企画し、その旅行社の招待でサイパン、パラオを訪れたが、これが戦後初めての妻との旅行となった。妻はサイパンのばんざい岬に佇み、往時を偲びながら涙を浮かべていた。私のパラオ在任中、妻は生後間もない長男を抱いて社宅とパラオ病院を往復した以外はパラオのことを何も知らなかったが、この旅行で初めてパラオの観光地巡りをした。

 昭和37年(1962年)10月1日、コンチネンタル航空のサイパン初飛行が行われ、この祝賀会に妻とともに招待され、再びサイパン、パラオを訪れた。パラオでは元南拓社員、当時パラオの副支庁長であったヤノ・タケオ君の案内で、かつて私どもの住んでいたアラバケツの社宅跡を訪れた。椰子の木の並ぶ道は往時のままであったが、社宅はなかった。

 南拓会は恒例の行事として、創立記念日の11月27日に総会を開催している。

 昭和57年(1982年)、会員の悲喜こもごもの思い出であり、また血と涙の記録でもある南拓誌が発刊された。

 昭和61年(1986年)の総会で、私は南拓会の会長に選任された。会員相互の関係をより密接にするために「南拓会会報」を発行することとなり、本年を持って第14号となった。

 岩田会長は、太平洋協会または太平洋調査会設立の構想を抱いていた。この考えは、外務省の意向により社団法人日本ミクロネシア協会として設立されることとなった。

 昭和49年(1974年)6月18日、創立総会が開催された。叔父が会長に、私は専務理事に就任した。

 その年の12月、約1ヶ月に亘り協会設立報告のため、石川常務理事とともに信託統治領政府並びにミクロネシア各地、ナウル共和国等を訪問した。

 翌昭和50年(1975年)、事務局が業務を開始し、現専務理事の小林君が事務局長に就任した。

 同年10月、昭和天皇の即位50周年祝賀会が日本武道館で挙行され、外務省の推薦によって私は叔父とともに参列した。

 昭和58年(1983年)5月25日付朝日新聞の新人国記に、「中津中学卒業生で日本ミクロネシア協会の専務理事小深田貞雄、南方雄飛のユメにつかれ国策会社に勤めた。戦後はゴム会社に移る。いま、ミクロネシアの自立へ、各方面に協力を呼びかけている」と紹介の文章が掲載された。

 昭和51年(1976年)から日本とミクロネシア各地との友好親善を計るため、子どもたち100名が相互に訪問する「太平洋こどもウィーク」が計13回、毎年行われた。

 昭和53年(1978年)、ポナペフリースクール開催に当たって準備のため、私は小林、山口君とともにポナペを訪れた。

 創立以降、情報誌「ミクロネシア情報」が定期的に刊行された。名称は「ミクロネシア」更に「パシフィック ウェイ」と変わり、太平洋地域の情報を各方面に提供している。昭和59年(1984年)4月4日、叔父が亡くなった。

 同年5月、私は協会理事長に就任した。

 昭和60年(1985年)、オセアニア研究会が発足した。

 ミクロネシア各国の要人の来訪も次第に増加した。

 戦後アメリカを統治権者とする国際連盟の信託統治下にあったミクロネシアも、北マリアナはアメリカの自治領に、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国はアメリカとの自由連合協定による独立国家に変わった。

 太平洋地域の状況に対応し、協会の活動対象範囲がミクロネシア以外の島嶼地域へと拡大し、調査研究部門の活発な展開となった。

 平成10年(1998年)、協会の名称も「社団法人太平洋諸島地域研究所」と改称した。