PACIFIC WAY

―ああ、楽園のはずが―

     ポナペ・ホテル憤戦記

     −第3回−第1章 楽園伝説(その2)

茂田達郎 (しげた たつろう)


第1章 楽園伝説(その2)「浦島太郎」の島

 「こんにちは。私はオルペット、ベルナード・オルペットです。これは私の奥さんです」

 ジョイ・アイランドの突堤に立った私に、満面にこぼれんばかりの笑みを浮かべて手を差し伸べてきた男性の第一声は、意外にも流暢な日本語だった。面長の鬢に白髪が混じり、眉毛にも白いものが見える。年のころ50代半ばといったところだろうか。青みを帯びた窪んだ眼窩の奥から人なつっこい視線が放たれてくる。

 「ようこそポナペにいらっしゃいました」

 奥さんと紹介された女性もまた滑らかな日本語を操った。黄色地に赤とブルーの短冊模様をあしらった派手なワンピース。袖と裾からコントラストも鮮やかに赤銅色の短い腕と足が覗いている。見事なぐらいの太さだ。短かく見えるのはそのせいかもしれなかった。丸顔の真ん中に団子鼻、こちらに来る直前に文献で見た典型的なカナカ族の面立ちだ。

 「クリノのパパとママだよ」

 健が寄ってきて紹介した。

 ジョイ・アイランドは直径100m余のほぼ円形に近い島だ。中央の母屋とおぼしき建物を囲むように10棟ほどのバンガローがほどよい間隔をおいて点在している。バンガローにつながる小道にはサンゴ砂が敷かれ、道の両端には薄紫色の可憐な花弁を付けたヒメユリに似た花や、鈴なりに実をつけたパパイヤが植え込まれている。道を外れたそこかしこにヤシの木が林立し、海に面した一部にはマングローブやゴバンノアシ、テリハボクといった南洋独特の樹木も見られる。

 東に面した海岸に出ると、折からの干潮でサンゴ岩混じりの遠浅の海がはるか彼方まで露出し、その先端に白い波頭が立っているのが見える。「ゴーッ」という音がかすかに響いてくる。環礁にぶつかって砕け散る波の音だろう。環礁上に突き出た小さな島影に、ヤシの木が1本、陽炎に揺らめいている。「パノラマ」と名づけられた文字通り外海に向けて開けた場所に建っている見晴らしのよいバンガローに荷を解いた私たちは、スノーケルとフィンを手にすると早速、海へと向った。先ほど来るときにボートの上から見たあの透き通った美しい海が脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。

 ナマコを踏んづけないように注意しながらしばらく進むと深場になっていて、そこにマングローブの支柱で組んだ筏が浮かべてあった。周囲には形も大きさもさまざまなサンゴがひしめいている。そのサンゴの中を多彩な魚たちが行き交っていた。チョウチョ魚、ツノダシ、ベラなど色鮮やかな魚に混じって、靴べらのような長い口ばしを突き出したヘラヤガラが泳いでいる。ヒラアジ、ボラの群れも見える。枝サンゴに付いている異形なものを見つけて近寄るとタツノオトシゴだった。手を差し出そうとすると、どこからかクマノミが現れて果敢にも突っついてきた。直径2メートルはあろうかというテーブルサンゴを見つけて潜ってみると、その下に大きなハタが潜んでいた。突然の闖入者に「昼寝の邪魔するな」と言わんばかりにギョロっと剥いた目を向ける。逃げようとする気配もない。

 インディゴ・ブルー一色の海に身を沈めていくと、わが身までもが染まっていく感覚を覚える。海中から見上げると、太陽の光がいく条にもなって海中に差し込んでいる。その光の束は水面の揺らめきに伴って角度を変え、そのたびに海底の砂に投影した六角形の波紋の形状と位置を変え、燦々ときらめく。まるで巨大なブルーサファイアの中に入り込んだような、静けさと神秘に包まれた空間だ。

 陶酔のひとときを過ごし筏に上がって寝転ぶと、南国の強烈な太陽が上空にあり、真っ青な空を背景に白い雲がゆったりと流れている。トロピカル・バードがゆったりと羽を広げ、視界を横切っていく。

 陸に上がった私たちを待ちかねていたように、オルペットがヤシの実ジュースを振る舞ってくれた。冷えてはないが、ほどよい甘さが乾いた喉を快く潤してくれる。

 「おいしい!」

 一口飲んで、みんな異口同音に言葉を発した。世辞ではなかった。私はかつて東南アジアで飲んで以来だったが、それとは比べ物にならないぐらいここのヤシはうまかった。

 ジョイのおばあちゃんが用意してくれた弁当で遅い昼食を済ませ、一休みするうちに急激に眠気を催し、午睡から覚めたときは太陽はもう大分西に傾いていた。

 母屋に隣接したニッパヤシ葺きの小屋では、健が夕食の仕込みを始めていた。アイスチェーサーに詰め込んで持ってきたチキンを、スライスしたタマネギとともにバーベキューソースに漬け込んでいる。私と亜紀が手伝おうとしたが、言下に断られた。

 「それよりそろそろサンセットの時間だよ。カメラを持って船着場の方へ行ってみたら」と言う。

 突堤ではアンソンが金網で作った長方形の大きなカゴをボートに乗せているところだった。これからマングローブガニの簗を仕掛けに行くのだと言う。明朝にはここにでっかいカニが入っているはずだと自信たっぷりだ。簗の中にカツオの頭をぶち込んで、マングローブの根元に沈めておく。夜行性のカニが夜中に餌を求めてマングローブ林の巣穴から這い出してきて簗の中に入るという仕掛けである。

 突堤の縁に亜紀と並んで腰を降ろす。やがてエメラルド・グリーンだった海面が金色に輝き始めた。それとともに対岸のマングローブ樹林や山の木々が明るい緑から深緑へと変化し、見る見るシルエットだけになっていく。雲が茜色に染まり、青かった空は藤色にと変わっていく。右手対岸は7世紀から13世紀にかけて栄えたと言われる古代文明「ナン・マトール遺跡」がある所だ。明日、見学に行くことになっている。その方向から爽やかな風が吹いてきて、火照った肌を快くなでていく。

 亜紀も私も互いに無言だった。呆けたような時間が流れていく。

 目の前で30センチ以上はあろうかと思われる魚が跳ねて静寂を破った。それを潮に腰を上げる。あたりはもう暮色に包まれていた。

 ニッパヤシの小屋に戻ると、健が大汗をかきながらバーベキューと格闘している最中だった。石を積み上げて作った囲炉裏に網を載せ、薪の火で焼いている。ランプと懐中電灯の灯明で焼け具合を確かめながらの難行だ。反対側の一角ではオルペットとクリノが大きな石板の上に木の根っこを載せて、手にした丸い石で叩き潰している。「カーン、カーン」という金属音が鳴り響く。ポナペの酒「シャカオ」を作っているのだとオルペットの夫人が説明する。

 「今日は健さんのパパと亜紀さんが来ましたからね。ポナペの習慣でお祝いします」

 ひとしきり叩き潰したところでクリノが直径10センチほどの丸太をどこからか持ってきた。ハイビスカスだと言う。樹皮を剥ぎ、水で丁寧にもみしだく。樹皮にはかなり粘液が含まれているのだろう。もみしだく手が粘ついているのが見た目にわかる。この樹皮を石の上で押し広げ、叩き潰した木の根を包み込む。両端を持って器用にねじると、土色のドロドロした粘液が滴り落ちる。これをヤシの実を半分に割った椀ですくい受ける。

 「どうぞ」

 オルペットが右手で持った椀を左手で支えるようにして差し出す。勧められるままに口にしてみると、トロロを食むような口当たりだが、味はない。生木をかじったときのような生臭さが先にたって、次に唇と舌先がしびれる感じがあった。とても酒とは思えない、異質なものだ。

 「酒と言ってもアルコール分はないんだよ。主成分はアルカロイドで神経を麻痺させる作用がある。だからこれを飲むとみんな自分の世界に入って静かになっちゃうんだ」

 怪訝な表情を見てとったのか、健が解説する。

 私たちの食事が終わった後も彼らの「シャカオの宴」は延々と続いた。食事を共にしようと勧めても「シャカオがまずくなるから」と断るのでほっとくことにした。

 私たちはビールを手にシャカオを取り囲むように、思い思いに陣取った。ランプの灯かりのなかで南国の夜が静かに更けていく。聞こえるのは風にそよぐヤシの葉づれと、かすかな波の音だけだ。

 いつ帰ってきたのか、簗を仕掛けに行っていたアンソンがウクレレを弾きながら歌いだした。

 ♪〜どんぶらおい どんぶらおい どんぶらおいおいおい  初めて見る川 初めて見る山 初めて泳ぐ海 今日から友だち 明日も友だち ずーっと友だちさ〜♪

 どこかで聞いた旋律だなと思ったら『キャンプだホイ』の歌だった。何度か繰り返した後、『桃太郎さん』次いで『ぎんぎんぎらぎら日が沈む』と、ジャパン・メドレーが続く。歌詞の日本語は怪しげだが、こういう所で聞くせいか、なんとも言えない雰囲気がある。

 健に誘われてみんなで海べに出てみる。月はないのに足元が見えるぐらい明るい。あちこちからヤシガニや磯ガニが落ち葉をこする音が聞こえてくる。ヤシの倒木に寝転んで空を仰ぐと満天に星が瞬いている。流れ星が長い尾を引いて消えていった。

 「このすぐ近くには『浦の島』って呼ばれている島があるんだ。もしかしたら龍宮城はここだったのかもしれないね」

 健の言葉には妙に説得力があった。

「南の島の学園」構想

 厳寒の日本に帰ると、留守番電話にうんざりするほどたくさんの連絡が入っていた。ポナペに出かける前に仕事についてはひと通りの区切りはつけていったのだが、「外国に行く」とは誰にも告げていなかった。で、新規の原稿依頼、編集依頼など、至急打ち合わせをしたいので連絡してくれというものやら、友だち、兄弟、銀行など、さまざまな所から再三にわたるメッセージが残されていた。

 そのひとつひとつに向いながら「せわしない社会」への気持ちの切り替えに努める。が、もうひとつ気分が乗らない。気がつくと、窓から遠くの方を眺めていたり、ポナペでの情景を思い浮かべていたりといった具合で、都内に出かけるのも億劫で仕方がない。意を決して出かけても東京の人込みと建物の多さに圧迫感を覚えて息苦しくなり、帰宅するとどっと疲れが出る。そんな夜は決まって悪夢にうなされた。

 1970年代の後半から1980年代の初頭にかけて、私は頻繁に東南アジアに出かけた。タイのバンコクを拠点にアランヤプラテート、カオイダン、ノンカイといった国境に接する町の難民収容所を取材するのが表向きの目的だった。当時、これらの町にはカンボジアの内戦から逃れてきた多くの難民が収容されていた。そのなかにはロン・ノル政権下にあってキュー・サムファン率いる「赤いクメール」(クメール・ルージュ)と戦って敗れた国軍の兵士も含まれていた。

 1975年4月、カンボジアの首都プノンペンが陥落したが、その後しばらくして、タイ国境に近い防衛拠点バッタンバンの守備隊2000人の将兵が命からがらタイ領に逃げのびたらしいという知らせが、その年も押し詰まったころに届いた。司令官はメアス・チャンリープ。私の古くからの友人だった。国費留学生として日本の花火工場で研修を受けているときに取材を通して知り合った。以後、彼が日本女性と結婚し、二女をもうけた後も家族ぐるみの交流が続いていたが、この2年ほど前に祖国再建のために働きたいと彼だけ帰国し、その後は会う機会がなかった。

 この報をもたらしてくれたのは新聞社の外報部に勤める知り合いだった。以来、私は取材にかこつけてはあちこちの難民収容所を巡り、彼の消息を訪ねてまわった。妻にも本当の目的は話さなかった。その後、首相になったポル・ポト政権による虐殺が地方にもおよび、タイ国境地帯は騒然を極めていることを日本のマスコミも連日報じていたからだ。

 難民収容所はどこも悲惨だった。骨と皮ばかりになった幼子が腹だけを異様に膨らませて母親に抱かれている。口蓋が失せ歯が剥き出しになってしまった女の子がいる。地雷で手足を失った子どもには何人も出会った。

 ある日、キャンプ内に設置されたテント張りの病院を訪ねた。その朝、仲間3人と国境を越えたところで警備中のタイの兵士に保護されたという6、7歳の少年は、腹部に傷を負っていた。「ポル・ポトの兵士が敷設した逃亡防止用の鉄条網を潜り抜けるときに負傷した。もう1ヶ月も前のことだ」と言う。化膿してウジがわいている。医師がピンセットでウジを一匹ずつつまんでは剥がし取る。そのたびに少年はすさまじい悲鳴をあげた。医師が吐き捨てるように言った。

 「彼はね、長い間、痛くても声を出すことができなかったんだ。ポル・ポトの奴らに見つかったら殺されちゃうからね。だから今は思い切り声を出させてくれって言うんだ」

 テントの外へ飛び出した私はたまらず嘔吐した。涙がとめどなく溢れて止まらなかった。

 私の悪夢はいつもこの少年の悲鳴で終わる。ときには自分自身が悲鳴をあげて目を覚ますこともある。

 ここ数年、絶えてなかった夢を見るようになって、私は「ポナペに帰りたい症候群」にかかった自分を自覚した。人の心を解放し、月日のたつのを忘れさせてしまう魔力がポナペにはあるのかもしれない。一度その快さを味わった私の心は正直にもちょっとしたストレスで昔の悪夢を引き出したものとみえる。健の言っていたポナペ龍宮城説は意外とあたっているかも知れないと改めて思えてきた。

 ひと月ほどたってようやく「社会復帰」できた私は、当時、江戸川区教育研究所の副所長をしていた野田昭夫さんを自宅に訪ねた。野田さんはかつてミクロネシアを夫人と共に旅した際、ポナペに立ち寄って健と会い、近況を映した写真とビデオテープを送ってくれた人だった。電話でお礼を申し上げたとき、偶然にも共通の知人がいることがわかり、それを縁に、以来、しばしばお会いしていた。

 「ボク、ポナペに行こうと思っています。ポナペなら例の構想を具現化できる条件がそろっているんじゃないかと思うんです。今回行ってみてボクたち日本人が失ってしまったもの、次代の日本をになう子どもたちに大事なもの、それが何なのかわかったような気がするんです」

 座るなり私はポナペから戻ってきてからずーっと考えてきたことを口にした。野田さんは驚かない。それどころか「なるほど」とにこやかな笑みを浮かべて聞き手一方に回っている。用意してきた「ポナペにおけるロングステイ・ヴィレッジ構想」と題したコピーを差し出して私は説明を始めた。その趣意は次のようなものだった。

 世界一の長寿大国となったニッポンは今、21世紀に向って急速なテンポで高齢化社会に移行しつつある。それに伴い、経済、社会、労働など、さまざまな分野で新たな問題が発生している。

 最近、発表された厚生省の統計によると、ひと組の夫婦が出産する子どもの数は平均1.53人と、前年の1.59人をさらに下回り、過去最低を記録した。このことは、若年層の社会負担が一層増したことを意味する。21世紀に生きる若者たちは、より少ない労働力でこれからのニッポンを支えていかなければならない。しかも、その若年層が大きな問題を抱えている。社会から落ちこぼれる子どもの増加は顕著で、日本全国で毎年4万人以上の登校拒否児が出ている。その多くは精神的自立心に欠け、なかには情緒障害を亢進させる者もいて、一様に社会的適応能力が不足している。

 子どもの数が少なくなって過保護に育てられていることや、豊かな物質文明の中にあって何不自由なく育ち、耐性が欠如していること、知育偏重の現行の教育制度ではついていけない子どもは置き去りにされてしまうことなど、理由はいろいろ考えられるが、いずれにしても生活力、つまりは生き抜く力が身についていない。

 こうした子どもたちの輩出は、高齢化時代にあって大きな社会的損失と言える。と同時に、豊かな知識や経験、技能を持った実年パワーを定年後むざむざ埋もれさせてしまうのももったいない。

 そこで、実年の人たちの持てる力を次代をになう子どもたちの指導・育成に振り向ける。それも便利さとは無縁の日本を遠く離れた豊かな自然の中で、人間が生きていくうえで必要な生活の知恵や技術、自立(自律)心を養うことに主眼をおく。そうすることができれば、中高年者にとっての海外長期滞在も目的を持った意義あるものとなるだけでなく、それはとりもなおさず実年の人々が抱えている「定年後をどのように生きていくか」という問題に対するひとつの提案にもなるのではないだろうか。

 「趣意は申し分ないと思います。私も同感です。しかし資金はどうします?」

 私の説明が終わるのを待って野田さんが聞いた。

 「これから集めます」

 「どうやって?」

 「賛同してくれそうな人の所を回ってみます」

 「土地は?」

 「それもこれから探します」

 「大変ですね。私も一緒にやりたいけれど、残念ながらもうそれだけの馬力はありません。せめて私のできる範囲で応援させていただきます」

 野田さんは「長期滞在研究会」という実年者で組織する任意団体の幹事だった。その会員にこの企画を話してくれると言う。

 「もう後には引けないな」

 野田さんに話したことで私はひとつの踏ん切りがついた気がしていた。