フィジー控訴裁判決(01.3.1)要旨
苫小牧駒沢大学 国際文化学部
教授 東 裕(ひがし ゆたか)
はじめに
2000年5月29日の軍事政権による憲法破棄を違憲とした昨年11月15日のラウトカ高等裁判所判決(ゲイツ判決)の控訴審判決が、本年(2001年)3月1日に出た。この判決は、軍事政権による憲法破棄は違憲で1997年憲法は依然として有効であるとするなど、基本的に高裁判決を支持するもので、フィジー政治に重大な影響を与えた。ガラセ暫定政権は、この判決を受けて5月29日以降の政権の法的連続性を確保するための手続きをとり、同政権は選挙管理内閣に装いを改め、これまで取り組んできた新憲法制定と新憲法下での総選挙実施という予定を変更、1997年憲法の下で本年8月に再び総選挙を実施することになった。この間の諸問題については、いずれ別の機会に論じることとし、本稿では控訴審判決の要旨のみを紹介するものである。
1.事件の概要
(控訴裁判所の立場)
この控訴はチャンドリカ・プラサッド氏によってラウトカ高等裁判所に提起されたフィジー1997年憲法の継続的有効性を支持した2000年11月15日のJ.ゲイツ判決に対するもので、判決は2000年5月19日にジョージ・スペイトによって実行されたクーデタ以降に国家を支配した人々によってとられた憲法の破棄を含む行為の合法性を問題にしている。司法裁判所として、その職務は法的問題の決定に限定される。我々は法的問題ではない問題、とりわけ政治的性格をもった問題について判決を下す権限も権威も備えてはいない。我々は事件の政治的メリットや知恵を考慮することなく、事件を実際に起こった事実と証拠に基づいて判断した。
我々の職務は1997年憲法がフィジーの最高法規としてなお存在しているかどうかを決することであり、憲法がフィジーにとって最善の憲法であるかどうかを決めることではなかった。憲法がなお有効であるかどうかを決めることは、法律問題としての裁判所のもつ純粋な法的機能であり、2000年5月29日にコモドア・バイニマラマ軍司令官による憲法破棄の憲法的有効性を純粋に法的に判断するものである。
(事件の背景)
ジョージスペイトとその支持者たちが2000年5月19日に武装して国会に侵入し、首相、閣僚、及びその他の人民連立政党のその他のメンバーを人質に取った。同日、大統領は非常事態(State
of Emergency)を宣言し公共安全法(Public Safety Act)による緊急命令(Emergency Regulations)を制定した。この出来事に引き続いて、特にスヴァで法と秩序が次第に崩壊していくという事実が見られたが、この事実自体は争われてはいない。
(首相代行の任命と辞任)
5月27日に大統領ラツー・サー・カミセセ・マラは、ラツー・テビタ・モモエドヌ労働産業関係移民大臣を、その職務を遂行することができないチョードリー首相に代わり同日から首相の職務代行に任命した。同日、首相代行の助言と憲法59条2項に従って、大統領は国会を6か月間停会すると決定し、その後首相代行はその職を辞し、前職に復帰した。
(軍司令官への行政権の委譲とマラ大統領の地位)
事態の混乱は続いた。5月29日に警察コミッショナーは大統領に助言の文書を送付し「フィジー警察はもはや国民の安全を保障できない」と訴え、大統領に公共緊急命令の発動を求めるとともに、軍に対してそのすべての任務を行うことと警察の機能を行うことを求めた。その夜、海軍艦船の中で大統領と軍司令官及び何人かの将校との間で会合が行われ、軍司令官はマラに対し、1997年憲法は危機を解決するための枠組みを提供していないので破棄されるべきだとの意見を具申した。これに対しマラは、憲法が破棄されることになったら、大統領職には復帰しないと応じた。司令官はその後、「司令官及びフィジー暫定軍事政府首長」(Commander
and Head of the Interim Military Government of Fiji)として行政権を引き受けた。マラは大統領を辞任せず、新憲法の下で大統領職に就くことを拒否し、97年憲法が破棄されたら憲法とともに大統領職を辞することに同意した。同日の遅くに憲法が破棄されたが、もしこの措置が有効なら、97憲法の下で大統領職に就いた大統領はその職を失ったことになった。しかし、J.ゲイツが主張したように、もし憲法が有効なままなら、マラは依然としてフィジー大統領であった。
(マラ大統領の辞職表明)
この点に関連する後の出来事が、この結論を確認する。ガラセ暫定政府首相によると、2000年12月15日付の同氏への書簡のなかで、マラはガラセ暫定首相に対し、大統領辞職の確認とそれに伴う現行法下での年金資格の確認を求めたことを明らかにした。それに対しガラセ氏は、12月20日付けで、大統領年金法第5条2項により内閣は同日午前の特別閣議において、マラの選択した年金資格を承認し、12月15日に遡り効力を発生することを通知するとともに、「暫定首相ライセニア・ガラセは、本日、ラツー・サー・カミセセ・マラから大統領を辞任するとの決定を確認する伝達を受けたと発表した。彼の辞職は2000年5月29日から有効である。首相は、退任した大統領からの伝達を承認した」とのプレスリリースを発表した。この文書は、暫定首相に通知した12月15日までマラは大統領を辞任していなかったことを明らかにした。
(戒厳令と憲法の破棄)
そこで、5月29日の出来事に遡ることが必要である。その日以後、軍司令官は憲法を廃止するという命令を布告した(暫定軍事政権命令第1号(Interim
Military Government Decree No.1))。また命令第3号(Decree No.3)は、暫定軍事政府の樹立を布告し、第5条2項でフィジー共和国の行政権は軍事政府の長たる軍司令官に与えられると規定した。命令第1号による軍事政府の樹立はフィジーに戒厳令(Martial
Law)を布告することを含むと軍司令官は理解したが、この効果について別の宣言はなかった。
しかしながら、6月11日の日曜に軍事評議会による「現在フィジーの人々に課されている戒厳令について説明するために」という公告がフィジーの報道に現れた。その公告は次のように述べた。
「戒厳令は文民政府が公共の安全を維持できないときに軍事政府によって市民に課される一時的な支配であると定義されるだろう。戒厳令を宣言しそれを実施する権限は憲法から派生するだろうが、この場合戒厳令が宣言されるときに憲法はその地位を維持する。我々フィジーの場合、憲法に戒厳令の宣言とその実施規定がなく、それゆえ軍事政府は他の理由とともに、公共の安全と法と秩序を回復するためには憲法を排除することが適当であると判断した。」
(戒厳令下の政府機構)
戒厳令が宣言されたあと、軍事当局は軍事評議会を設置し、命令によって支配している。戒厳令は軍当局に対し、最少の期間内に国を正常化する目的を追求する際に、個人の権利を制限し、政府の武器使用を命じる権限を与える。当局は、この危機の間に文民を裁判にかける軍事法廷を特別に設置しないことに決めた。警察は通常の職務である法律の執行と捜査権を保持しつづけることを許され、裁判所はその権限を弱められることはなく、官僚機構は時に軍事当局から指令を受けつつ通常の機能を維持することを許された。
(暫定文民政府の設置)
7月4日に、命令第10号・暫定文民政府(設置)令2000年(Decree No.10, the Interim Civilian
Government (Establishment)Decree 2000)が軍司令官によって布告された。これは司令官を政府の長とする暫定文民政府を設置した。第10条によれば、国の行政権は政府の長に与えられた。その政府の大臣は同日軍司令官によって任命された。7月9日に暫定政府は命令第18号・免責令2000年(Decree
No.18, the Immunity Decree 2000)を公布し、ジョージスペイトとその支持者たちの刑事及び民事の免責を認めることを主張した。
同日、暫定文民政府は、命令第19号・暫定文民政府(行政権委譲)令(Decree No.19, the Interim Civilian Government(Transfer
of Executive Authority) Decree)を公布した。これは暫定大統領と暫定副大統領の任命を規定し、第4条で政府は内閣の助言に基づき大統領が公布する命令によって、平和と秩序とフィジーの良き統治のために法律を制定する権限をもつと定めた。第5条では、内閣の助言に従ってのみ行動する大統領に対し、国の行政権を付与し、第6条では、内閣は大統領によって任命される首相及びその他の大臣によって構成されると規定した。
この命令は軍司令官によって署名され、7月13日に発効した。7月14日に、大酋長会議は1997年憲法下で副大統領であったラツー・ジョセファ・イロイロを暫定政府大統領に任命し、ラツー・ジョペ・セニロニを副大統領に指名(任命)した。その日、残りの人質が解放された。
暫定大統領と副大統領は、7月18日に軍司令官のもとで就任の宣誓を行った。7月28日に暫定文民政府の閣僚が暫定大統領の下で就任の宣誓を行い、暫定文民政府(行政権委譲)令の下で職務に就いた。暫定文民政府はそれ以来事実上のフィジー政府としてある。
(裁判所の再設置)
8月17日に裁判令2000年(命令第22号)(Judicature Decree 2000(Decree No.22))が布告され、7月13日に遡って施行された。これは、7月12日現在、最高裁判事、控訴裁判事、及び高裁判事の職にある者はその職を維持し、そして同命令はフィジー高等裁判所及び控訴裁判所を「再び設置」した。第8条2項は最高裁判事及び現在の高裁判事は忠誠宣言及び「以前フィジーにおいてそのような宣誓を行った者」については司法宣誓を要求されないと規定した。第13条2項は、控訴裁判事について同様の規定をおいている。スケジュールにおける忠誠宣誓及び司法宣誓は1997年憲法と同様ではなく、それらの中には裁判官は「あらゆる場合に憲法を支持する」という声明を含んではいなかった。第15条1項は、この裁判所を「フィジー共和国」の最終控訴裁判所とし、16条1項は1998年の最高裁判所法の廃止を定めている。
(マラ大統領の辞任時期)
ゲイツ判事は、提出された証拠に基づいて、5月29日にラツー・マラは「退いた」(stepped aside)が辞任してはおらず、マラが依然としてフィジーの大統領であったことを発見した。この裁判所に提出されたより完全な証拠は、ゲイツが判決を下したように11月15日にこの事実を確認したが、しかしすでに述べたように、ラツー・マラは12月15日に大統領を辞任した。
(スペイトらの処遇)
人質の解放と法及び秩序の回復は、軍司令官とジョージスペイトとの間でのムアニカウ協定(Muanikau Accord)の結果達成された。スペイトグループは、最後の人質を解放することになり、国会議事堂を明け渡し、武器を放棄し、そしてその代わりに刑事上及び民事上の免責を受けた。軍は後にジョージスペイトとその支持者のうちの何人かが彼らの所有するすべての武器を放棄しなかったとして彼らを逮捕した。現在彼らは1997年憲法の下で形成された政府、暫定軍事政府、及び暫定文民政府に対する反逆罪による裁判待ちである。
(「必要性」と憲法秩序変更の成否)
我々は今、必要性に基づいた軍司令官による憲法破棄という法秩序の変更の試みが成功したかどうかを考慮しなければならない。以前の法秩序にかわって新たな法秩序が有効と証明されるにちがいない事例の中にさまざまな定式が与えられているが、どの権威者もこの裁判所を拘束するものではない。なかにはオーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンの著作に過剰な影響を受けているように思える者もあり、この理論によるとあまりにも容易に権力の簒奪者にくみすることになる。多くの権威者は国際条約の草案の中にある基本的人権の強調という現在の傾向と、さらには現在の目的のためにより重要である1997年憲法を前にして決定している。
(以上のように、事件の概要が把握され、法的論点が提示される。つぎに、法は事実を考慮しなければならないという立場から、どのようにしてそしてどの段階で新体制が合法となるかの検討に入る。南ローデシア、ウガンダ、パキスタンにおける類似事件の判例が参照され、「有効性のテスト」という判例理論に照らしてこのフィジーの事例が検討される。)
2.有効性のテスト(efficacy test)
ここでは1979年にグレナダで発生したクーデタの事例が検討され、この判例(Mitchell v Director of Public Prosecutions
(supra), a decision of the Court of Appeal of Grenada)の中で述べられたクーデタによって樹立された新体制が国内的に法的正当性を獲得するための条件が提示される。
(革命政府が法的正当性を獲得するための条件)
(a)革命が成功し、政府が行政上確固として確立され、対抗する政府 が存在しないこと。
(b)新政府の法が有効であり、人々が全般的にその法に従って行動し ていること。
(c)そのような遵法行動は人々の自発的な受け入れと支持によるもの で、単に強制や暴力の恐怖によるものではないこと。
(d)体制は抑圧的で非民主的なものではないこと。
これらの条件のすべてが存在しない限り、民主国家における裁判所は革命政府を正当なものと宣言すべきではない。この4つの条件のいずれもが、事実の問題を提起する(グレナダ高等裁判所のヘイネス(P.Haynes)判事の見解)。これが「有効性のテスト」であるが、フィジーのコモンローの文脈の中では、次のような条件が必要だと考える。
(フィジーにおける新体制確立の条件)
(a)事実上の政府が全体としての国民の同意に基づいて確固として国 の支配を確立しようとしていることの証明。
(b)この証明が、その要求の重要性と深刻さのために高度の市民的水 準に合致しなければならない。
(c)憲法の破棄が、事実上の政府が行政上確立され、その対抗政府が ないという意味で成功を収めなければならない。
(d)対抗政府が存在するか否かを考慮するにあたって、審理するのは 対抗勢力が事実上の政府を武力による力で排除しようと考えているか どうかには限定されない。この場合選挙によって選ばれた政府が権力 を回復しようとしているか、憲法が承認されるべきだとしているかが 関係する。
(e)人々が事実上の政府の指令に従って行動していることが証明され なければならない。この文脈では、事実上の政府が以前の立憲政府下 の多くの法律(例えば、刑法、商法、家族法など)を頻繁に再承認し、 国民が日常生活の多くの局面で二つの体制の違いにほとんど気づいて いないことがこの証明に関係する。普通、選挙権や個人の自由が標的 とされる。証人の一人が述べたように、税金や土地権限担当の公務員 はクーデタの間もそしてその後も通常どおりの勤務を行っていた。そ れらの職務は確立され、大臣の指示は必要とされなかった。われわれ は、その種の事実から人々が新体制を承認しているという証拠をほと んど引き出すことはできない。
(f)人々の新体制への服従は、事実上の政府が強制や力の恐怖への無 言の服従とは違った人々の受容と支持によるものであるということに よって証明される。
(g)事実上の政府が支配を行ってきた時間の長さが関係する。明らか に、時間が長ければ長いほど、新体制が受容されている可能性が高い。
(h)選挙は有効性の有力な証拠である。人々が政府の中に選挙によっ て選ばれた代表をもたず、選挙権が認められない体制は、人々による 受容があまり確立されているようにはみえないということになる。
(i)有効性は、決定を行う裁判所による聴聞の際に表明される。
(支配と受容の証拠)
(a)暫定文民政府は確固として確立され対抗政府が存在しない、(b)人々がその政府の受容を推測できるような状況の中で暫定文民政府の指令に従って行動している、という2つの要件が満たされたかどうか、我々は提出された証拠に基づいて判断しなければならない。第一の支配に関する要件については、5月19日の事件後、暴力と無法状態が国を無政府状態の危険にさらしたが、暫定軍事政府は秩序回復の任務を成功裡に行った。11月2日の軍の混乱も効果的に鎮圧した。組織的な抵抗や暫定文民政府に取って代わろうとする武力による試みもない。しかし、そのことは、「対抗政府」がないことを意味しない。
チョードリー前首相と前内閣のメンバーが提出した宣誓供述書によると、人民連合は1997年憲法の下で進んで前職に復帰する用意があり、人民連合は下院の71議席中44議席という多数の支持を依然としてもつため、政府を形成することができるという。それに加え、高等裁判所に対し、人民連合のメンバーによる1997年憲法の破棄を問題とする2件の訴訟が提起されている。これは、裁判所を通じてその統治権の確認を求めている対抗政府が存在することを示す証拠である。
第2の要件については、暫定文民政府はクーデタ中もそれ以後も政府の行政が機能しつづけていることを人々の受容は推測できる証拠としているが、我々はこの事実はほとんど受容の証拠とはならないと考える。
必要とされるのは暫定文民政府へ国民の広範な支持及び1997年憲法の破棄に対する人々の受容を裁判所が推測できるような事実という証拠である。暫定文民政府はそのような証拠を提出していない。証拠はほとんどが公職にある者からのものである。パラサッド側からはフィジーの人々が概して暫定文民政府を支持していないことを示す5巻に及ぶ宣誓供述書が提出された。
この証拠はフィジーの多くの人々が1997年憲法がフィジーにおける異なる民族集団の理想や希望を表現し保障するものであると信じていることを示唆している。提出された資料は、1997年憲法の破棄についてはそれを正当化する適切な理由がないことが広く信じられていることを示している。
2000年8月27日から9月5日にかけてコモンウエルス人権イニシアチブ(Commonwealth Human Rights Initiative)が後援する人権代表団がフィジーを訪問し、各地の市民団体と協議し報告書を作成したが、その7頁に次のような記述が見られる。「市民社会団体、とりわけ原住民フィジー人社会を代表する団体との協議の結果、軍が背後にある暫定政府への国民の支持がほとんどないことが明らかになった。」
裁判所は、1997年憲法の存在の継続を承認してきた。ゲイツ判事がこの事件の聴聞を行った2000年8月23日から判決を下した11月15日の間に、1997年憲法の有効を基礎とする4件の判決が高等裁判所で出された。
(結論)
以上の事実から判断すると、本法廷は約7ヶ月間しか経過せず厳しく人々の抗議を制限した政府を真に人々が受け入れているという説得的な指標を、たいていの人々が前体制の下での日常生活との違いをほとんど気づかないといった消極的な服従の様子からは見いだすことはできない。真の受容を示す説得的な証拠の不在のため、我々は暫定文民政府は人々の受容を証明できてはおらず、従ってフィジーの合法的な政府の確立に失敗したといわなければならない。
3.判決の要点
(判決の要点は次の3点である。)
(1)1997年憲法は現在もフィジー諸島の最高法規であり、破棄されていない。
(2)国会は解散されていない。国会は2000年5月27日に6ヶ月間停会された。
(3)1997年憲法の下での大統領職は2000年12月15日にマラ大統領の辞任が有効となったときに空席となった。憲法90条によって大統領が任命されるまで、憲法88条の規定に従って、副大統領が2001年3月15日まで大統領の職務を代行する。
(注)以上、控訴審判決の要旨を紹介したが、この判決には批判されるべき点も決して少なくないと思われる。いずれ稿を改めて検討したい。なお、本判決中で言及されている「有効性のテスト」などのクーデタと新体制の成立に関する法理については、次の文献を参照されたい。
・東 裕「クーデタの法理について−フィジーのクーデタ(1987年)を中心に」(苫小牧駒澤大学紀要第4号)、2000年9月30日。
・ 同 「フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察」(同・第5号)、2001年3月30日。