−ああ、楽園のはずが
ポナペ・ホテル憤戦記
−第4回−第2章 ここはポナペ(その1)
茂田達郎 (しげた たつろう)
第2章 ここはポナペ(その1) 泥だらけの熟年
めったやたらと汗が出る。顔といわず、首筋といわず、脇の下といわず、全身から噴き出してくる。
タオルで鉢巻きしているのだが、まるで役に立たない。汗が滲みてとき折り目が開けられなくなる。メガネのレンズは、拭いても拭いてもすぐに汗と塩にまみれてしまう。
「人間ってこんなに汗かくもんなんだ」
「ま、身体の60%は水分だっていいますから」
「それにしてもよく出るね 」
「天然のサウナに入っているようですね」
「厳しい自然に身をさらし、肉体のきしみに耐える……か、よいしょっ!」
「言葉だときれいだけど、実際はそんなかっこいいもんじゃない……、それっ!」
軽口を叩いて気合いをつけている間はよかったが、だんだんそれも出なくなる。そのうち、息があがってきた。
「だめだ。一服しよう」
どちらというのでもなく顔を見合わせて頷き合う。スコップをコーラル・サンドの山に突き立てて、私と岩男さんは並んで傍らのコンクリートブロックに腰を降ろした。
「コンモリ、コンモリ(休んで、休んで)」
アンソンと彼の従兄弟のレンジが、私たちの様子を見て笑っている。悔しいかな、彼らは汗ひとつかいていない。我々のより一回り大きなスコップで、水をたっぷり含んで重くなった屑コーラルをなみなみとすくい、軽々と振り撒いている。
「我々、俄か肉体労働者だからな。岩男さんはフライパンをスコップに…」
「そして、ボスはペンをスコップに代えて」
「そういうことです。ご苦労、労働者諸君!」
短パンのポケットからタバコを取り出しながら、負け惜しみをぶつける私に、 「仕方ないすよ、ボス。彼ら我々とはツクリが違うんだから、パワーじゃかなわない。別の面で勝負しなきゃ」と岩男さん。
「そりゃそうだ。ここはポナペだもん。彼らの天下だ。我々は我々の持ち味を生かさなきゃあね」
妙な慰め合い方をして、私たちはへし曲がったタバコに火をつけた。
1993年3月、岩男さんは私より一足先にポナペ入りした。少しでも早く現地に慣れることと、そして何よりも自分がこれからの人生を過ごすことになる施設のできるのを自らの目で確認したいという希望からだった。
岩男さんはもともと、千葉県松戸市でラーメン屋を営んでいた。彼のつくる「飛鳥ラーメン」は合い挽きを使った独特の風味を持ったラーメンで、私はそれが食べたいがためにしばしば車を駆って彼の店を訪れていた。そうこうするうちに親しく話すようになり、ポナペから戻って日も浅い1990年の春、土産にポナペ・コショウを届けたことから問われるままに私の計画を話す成り行きになった。「今、計画書の作成、資金調達、協力者捜しをしている最中だ」と明かした。
そのころ私は、弟の仕事の関係で折からオープンした幕張メッセの記念行事としてアメリカ・コロラド州アスペンから「国際リゾート会議」を招致、開催する業務に携わっていて、娘とポナペを訪れる直前にそのプロジェクトを終了したばかりだった。私は世界各地のリゾートに触れ、学ぶチャンスに恵まれたなかで、なぜポナペを選んだのか、ポナペでほんとは何をしたいのか、ストレートに打ち明けた。
「ホテルをやるならレストランが必要でしょう。どうするんですか」
「まだ決めてないけど、どうしようかね」
「そんなのん気なこと言ってちゃ駄目じゃないですか。どうでしょう、レストランは私にやらせてもらえませんか。こう見えても中華だけじゃなくスパゲッティや和食もできるんですよ」
岩男さんから突然話があったのは、それから数ヶ月後のことだった。
「いや、女房や子どもたちとも話し合ったんです。そしたらみんなぜひ行きたいって。で、今度ボスが行くときに一緒に連れてってもらえませんか。条件とか細かい話は後にして。そうそう、今日からボスと呼ばせてもらうことにしたんでよろしく」
こうして、岩男さん夫妻とふたりの息子、アメリカ人建築家の友人デゥイー・ウェブスター、別居中だった私の妻と、おかしな取り合わせの「ポナペ視察団」が現地に向かった。1991年3月のことである。
帰国後、ほどなくして岩男さんが奥さんを伴って訪ねてきた。「行くことに決めたんでよろしく」と言う。「こちらとしては願ったり叶ったりだが、そんなに急いで決めなくてもいいんじゃないの。よく考えてからにしたら」と、あまりの早い決断にびっくりして忠告したが、「もう決めたことだから」と引かない。結局、土地が決まったらその一画を提供する、岩男さんはそこに自宅兼レストランを建てて独立採算で経営にあたるということになった。計画は一気に加速した。
3ヶ月後の6月、ポンペイ州のFIB(外資導入委員会)にパートナーシップによる会社設立の申請書を弁護士を通じて提出。10月末には早々と「許可が下りた」との知らせが届いた。その時点では、日本側から私と家内、健、岩男さん夫婦の5人、そして現地側パートナーはこの春、健と結婚したばかりのチューク娘レスリー名義の登記だった。
ところが、「いい土地が見つかった」とオルペットから知らせが入ったその年の11月までに思わぬ状況変化が生じた。まずレスリーが一方的に健との結婚解消を通告してきた。次いで家内も「私はポナペには住めない」と新天地で
のやり直しを拒否したのだ。その結果、オルペットを現地側パートナーに据え替えて計画を進めざるを得なくなり、12月中旬、彼の名で土地取得に関わる契約を交わし、株主メンバーの変更届けも早々と提出することとなった。
契約をまとめて帰国した私は、当時、日本に帰っていた健に、「土地が決まっていよいよ動き出したので、現地に駐在して設計・着工の準備にあたってくれないか」と要請した。健がポナペに舞い戻ったのは、年が明けた1992年早春だった。以来、健は現地で、私は日本にあって、頻繁に連絡を取り合いながら準備作業を進める日々に追われた。
健から「やっと建築許可が下りた」と報せが入ったのは6月に入ってからだった。これを受けて我々は直ちにスノーランドの建設工事に着工することにした。この半年ほどの間に、電線、配電機器、照明器具、地下埋設用のパイプなどは、あらかじめ日本から20フィートコンテナ2台を仕立てて送り込んであった。大型の発電機も兵庫の業者に発注したのが到着していた。建設現場には、それら資材を格納・保管した倉庫が健とオルペット・ファミリーの手によって出来上がっていた。そのため、セキュリティー上、だれか信頼のおける者が現場に起居する必要があった。
そこで、ニッパヤシ葺きの現地風家屋を倉庫に隣接して建て、オルペットの家族が寝泊りすることになった。健はコロニア・タウンにアパートを借りていたが、さして広くもない部屋に買い付けたベッドが20以上も収納されていて、とても岩男さんが同居する余地はなかった。
結局、岩男さんはオルペットたちが起居する家のふた部屋あるうちの一室を使うことになった。トイレとシャワールームは屋外に建てた掘っ立て小屋。雨が降れば濡れねずみで駆け込む、夜は懐中電灯の灯りで用を足すという「耐乏生活」である。シャワーはもちろん水。それでも健が現地で真っ先に井戸掘りを手がけてくれたおかげで、水がふんだんに使えるだけ幸せだった。
流しがオルペットの部屋にしか付いてなかったこともあって、食事は昼と夕の2食、1ヶ月100ドルで賄ってもらうことになった。もちろん、贅沢は言えない。勝手は言えない。単調なローカルの献立に飽きても、自分だけ別のものを食べるのははばかられる。どうしても食べたいものがあるときにはオルペットの家族の分までごそっと買ってこなければならない。そんなこんなで岩男さんは気を使いながら、首を長くして私の来ポを待ち望んでいたらしい。
私がポナペ入りしたのは、岩男さん一家と私の引っ越し荷物をコンテナに積み込んで送り出す手配を万端終えた、岩男さんに遅れること1ヶ月余の4月末のことだった。当然のことながら、岩男さんの部屋に転がり込むしかない。
日本風にいえば4畳半ほどの狭い部屋に、最低限度必要な物だけ荷を解いて運び込んだ。
「いやー、ボスが来るのを今か今かと待っていましたよ。共感できる仲間がいないってのは心細いもんですね」
万事が楽天的な岩男さんの言葉とは思えない、これが第一声だった。
南の島に雪が降る
私と岩男さんはいくらかでも手助けになればと現場内を巡っては、仕事を捜して手伝った。なかでもふたりの体力に見合った仕事は「砂洗い」だった。ポナペには山砂がない。道路舗装も建築もすべて海砂を使っている。海砂は当然、塩分を含んでいる。そのまま使うとコンクリートの劣化を早めるだけでなく、鉄筋がすぐ錆びてしまう。そこで、真水で洗って「塩抜き」をしてから使う。ドラム缶の上に目の細かい網を張って、その上に水を流しながら砂をすくっ
ては載せていく。貝殻やサンゴのかけらの大きいのは網に引っかかるので、これは捨てる。単純な仕事の繰り返しだ。技術もいらない。だが、同じ作業の繰り返しなので、面白くはない。半日も続けると嫌気がさしてくる。
「これが砂金だったら、もっと真剣になれるだろうにね」
「全く! ボクも今それを考えてたところですよ」
「もうやめようか?」
「次、何やります?」
「……………」
「もうちょっとやりましょう、やっぱり。なんならボスは休んでください」
岩男さんにそう言われると、やめるわけにはいかなかった
この年、ポナペは例年になく雨が多かった。そのせいで工事が予定よりかなり遅れていた。早く温かいシャワーが浴びたい、ゆっくり落ち着いて排便したい、乾いた寝具の上で寝たい……、そうした渇望はお互い同じだったし、意地も多少はあった。
そんなある日のことである。健に忠告された。
「親父も岩男さんも、そんなに張り切って彼らの仕事を手伝うことはないよ。工期が遅れたら1日いくらってペナルティーをこっちはもらえる契約になってるんだよ」
「おお、そうだったか!」
現金なもので我々はそれを機に「砂洗い」から足を洗った。いい加減、飽きがきていたときなので、ちょうどよい口実をもらったようなものだった。
次に取り組んだのが、この章の冒頭に書いたコーラル・サンド撒きである。サンドといっても純粋な砂ではない。海岸のマングローブ林を切り開いて死滅したサンゴを採掘している会社があり、そこからダンプ一杯いくらで買うのである。ときどき石化した大きなシャコ貝やサンゴ岩が混じった、砂というよりは瓦礫に近いものだが、もともとが石灰なので地べたのコンパクトには最適だった。ポナペの道路工事もまずこれを下地に撒いて、ローラーで固めてから舗装していた。
スノーランドの工事契約には敷地内道路と駐車場予定地のコンパクトも含まれていたので、我々がコーラル・サンド撒きをやったのは契約に含まれていない特にぬかった部分、それも車が出入りする所だけだった。ところが、これが意外に厄介で、撒いても撒いても土の中に吸収されてしまう。まるで底無し沼みたいに膿んだ地表が固まらないのである。スノーランドの敷地は東南が低くなった傾斜地で、幅100mの最大高低差は6m近くある。元来の地形に極力、人工的な手を加えずに施設を建設することが我々のコンセプトだったから、あちこちにスロープが現出するのはやむを得なかった。また、それがかえって雨が多い所だけに水はけをよくすることにつながると、我々は考えていた。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
ポナペはもともと火山島である。そのため、関東ローム層と同様の赤土が地表を覆っている。一見、硬そうに見える赤土はポナペの多雨を吸収しきれないばかりか、轍をスリップさせ、ひとたびぬかるとなかなか乾かなかった。
あるとき、えらい往生したことがあった。コーラルが撒いてあるので安心して進入したトラックがぬかるみにはまってしまったのだ。エンジンを吹かせば吹かすほど轍が沈んでいく。ぬかった赤土が染み出してくる。進むことも退く
こともできない。コーラルの塊を轍の下にぶち込むのだが、タイヤの圧力がかかると呆気なくぬかるみの中で滑って外れてしまう。周りにいた者がそれぞれ一抱えほどもあるコーラル塊を「よいしょ、こらしょ」と10個以上も運び込み、さらに小さなコーラル屑を手押し車で数杯ばら撒いてからマンパワーで押し出すことにした。
沈んだ側の後輪を持ち上げるようにしながら押さなければならないので、岩男さんも私もそちらに回り、空いている所に陣取った。車がエンジンを吹かす。「それっー!」と掛け声を発した瞬間、泥のしぶきが跳ね飛んだ。トラックはぬかるみから脱したが、我々は頭といわず、顔といわず、泥まみれ。その姿を見てみんなの笑うこと、笑うこと。
アンソンなどは腹を抱えて笑い転げている。後で考えてみたら、連中はリスクを予知してそのポジションを避けていたらしい。知らぬは岩男さんと私ばかりなり、だったのだ。
こんなこともあって、我々は「心を入れ替える」ことにしたのだった。間尺に合わないことをやって、連中に笑いの種を提供しているばかりじゃ業腹だ。ここらで「おじさんたちの実力」を見せつけておこう、というわけである。
岩男さんと相談の結果、事前の宣伝も兼ねてスノーランドの看板を掲げようということになった。厚手のベニヤ板に白ペンキを塗り、そこに日本から持ってきたヤシの木のロゴマークと社名のシートを張る。これをマングローブの柱にはめ込んで、ゲート予定地脇に立てるのである。
看板のサイズ、デザインなどは想定済みだったので、ボード自体は2日ほどで仕上がった。次にマングローブの柱にベニヤ板の厚さに合わせて電動鋸で切りこみを入れ、茶色のペンキを塗る。ペンキが乾くのを待ってボードを嵌め込み、釘で固定する。作業そのものは簡単で、日を経ずして立派な看板ができあがった。穴を掘ってセメントを流し込み、看板ごと柱を立てる段になって、健をはじめアンソン、レンジたちの力を借りた。
「Hotel & Resort Snow Land / Restaurant ASUKA」
濃紺の文字と若緑のロゴマークが、遠目にも鮮やかに浮かび上がった。
「おーっ!」
期せずして声にならない歓声があがる。建物は建設中途でまだ何ひとつ完成していなかったが、看板が立ったことでスノーランドが産声をあげたことを実感し、さらにはみんなの気持ちを高揚させることにつながった、そんな感じだった。
(やったね!)
岩男さんと私は、顔を見合わせてほくそえんだ。
それからは、それまでになく多くの人が訪ねてくるようになった。旅行者、ビジネスマン、戦前ポナペに在住していた人、日本の旅行代理店グループ一行も来た。看板の威力は絶大なものがあり、それはそれでありがたいことだったが、閉口したのは「南の島なのになぜスノーランドなのか」と、ことごとく質問されたことだ。そのたびに説明しなければならない。
「スノーランド」銘々の由来は、映画、小説にもなった加東大介の『南の島に雪が降る』だった。舞台はポナペではない。確かパプアニューギニアだったと記憶しているが、太平洋戦争中、戦地に赴いた将兵たちを慰問するために加東大介をはじめとする役者経験のある兵らが、あり合わせの資材で舞台をつくり、芝居を演じる。劇中、雪を降らせる場面があるが、その雪に見立てる紙すら戦地にはない。しかし、雪はこの芝居のなかで命ともいえる大事な小道具である。さんざん苦労した挙げ句、やっと手に入れた紙を役者たちは丁寧に丁寧にちぎって芝居は演じられる。舞台の梁に跨った兵が紙吹雪を降らし始めると、観ていた将兵たちは驚喜しつつ故郷を忍び感涙にむせぶ。そんな実話物語である。
加東大介自身が演じるこの映画を、私が観たのは高校生のときだった。そのとき受けた強烈な印象は今も忘れない。スノーランドの土地を初めて見にきたときに、海に面した西斜面に戦争中、日本軍守備隊が構築した塹壕がそのまま残っていることを私は知った。そこで私は、私がここに来たのも何かの縁か導きだと思った。瞬間的にかつて観た『南の島に雪が降る』を想起した。
日本人は南の島に夢を抱く。南の島の人は、まだ見ぬ雪国を夢見る。常夏の島ポナペに「スノーランド」が誕生することはあり得ないし、夢物語だが、我々は我々の夢を具現化するためにポナペに渡る。その意味からすれば「スノーランド」は「夢を紡ぐ地」とも解釈できる。これほど相応しい名称はないと自画自賛していた。
しかし、年配の日本人には『南の島に雪が降る』と言っただけで「ああ!」とわかってもらえても、若い人や外国人には理解できない。ストーリーを全部話すのは結構骨が折れることだった。
「説明しなければわからないようなネーミングはするもんじゃないな」
後年、幾度となく反省することになるが、思えばその最初がこのときだったかもしれない。
(次号に続く)