PACIFIC WAY
       パラオの政治経済状況と今後の見通し
 
   主任研究員 小川和美(おがわかずよし)

はじめに
 私は2000年5月から2003年4月末まで、在パラオ日本大使館で専門調査員として勤務し、主にパラオの政治・経済の調査に携わっていました。今回はそうした中で見聞したパラオの最新事情について総括的に報告致します。なお、本年5月以降の動きについては、主に現地新聞の情報に依っていますので、「最新事情」と言っても直近の微妙な動き、特に政局の内情についてはフォローし切れていない可能性がありますので、その点はあらかじめご了承下さい。
 
パラオの印象
 率直に言って、パラオに赴任した当初、私のパラオの印象はあまり芳しいものではありませんでした。以前訪問したときにも感じていたのですが、パラオでは自然な形で住民たちと接触する機会があまり多くありません。というのも、人々はみな自家用車を使ってdoor to door で移動しており、町に歩行者がほとんどいないのです。またローカルマーケットがなく、外来者がふらりと立ち寄れる住民たちのたまり場がないことも、何か物足りない感じがする大きな理由でした。
 それと、他の島嶼地域、特にポンペイ以東のミクロネシアや、フィジー以東のポリネシアに比べて、氏素性のわからない外来の新参者に対して、住民たちはけっして人なつこく接するという感じではなかったという印象もありました。赴任後まもなくパラオ在住のフィジー人と話をした時に話題になったのですが、たとえばフィジーでは少し仲良くなると、場合によっては出会ったその場で、「よし、じゃあ俺の家に来て飯でも食っていけよ」という流れになることが頻繁に起きるのですが、パラオでは、少なくともコロールでは、親しくなっても「家に遊びに来なさい」と言われることはほぼ皆無でした。また、今回私たちは日本から犬を連れて行き、毎日夕方になると近所を犬の散歩で歩いていたのですが、最初の頃は道ばたの家でくつろいでいるパラオ人と目があって挨拶しても、彼らは挨拶を返すでもなく、「アンタ何者?」という風情でジロリとこちらを見るばかりでしたし、買い物に行ってもパラオ人の店員はニコリともしないことが多かったと記憶しています。
 ところが、住み始めて数ヶ月経ち、こちらが辛抱して挨拶し続けていると、次第に笑顔が返ってくるようになり、やがてこちらが挨拶する前に向こうから「やあ」と手が上がるようになってきました。そして毎日顔を合わせているうちに、いつも怖い顔をしてこちらを無視していたおじさんが「おまえさんいつもここを歩いているけど、どこに住んでるんだ?」というように話しかけてくることも増えてきました。相変わらず、「うちに来なさい」と向こうから誘われることはありませんでしたが、こちらに何の義理もない単なる顔見知りが、「漁に行ったから」とか「田舎から親戚が来たから」と魚や椰子の実を持って車で私の家に立ち寄り、あがるでもなく帰っていくということも起きるようになりました。
 人によって、また立場によっても印象は異なるとは思いますが、結局私にとってパラオの人々は、「好奇心丸出しの人なつこい人々」ではありませんでしたが、「顔見知りになるととても親切で暖かい人々」という感じでした。そしていったん認知された後でも適度に距離を保ちつつつきあってくれたので、物足りなさはある反面、平穏で実に居心地のいい暮らしができました。
 
今も多い投資にまつわるトラブル
 こうして私は、住めば住むほどパラオにもパラオ人にもどんどん愛着が沸いてきたものでしたが、一方パラオに住む日本人たちからは、パラオ人(総体)についていい話を聞くことはあまり多くありませんでした。
 パラオにはだいたい250人ぐらい日本人が住んでいるのですが、大使館勤務という境遇で過ごした私と違い、彼らはいろいろと金銭やビジネスにまつわる問題でパラオ人たちとシビアなやりとりをすることが多く、そうした中で仕事上のトラブルにあったり、或いはお金を騙しとられたといった話が多々発生していました。一般にパラオ人の間には「パラオはパラオ人のもの」という意識が強く、外国人に対して「パラオに居させてやっているのだ。文句があるなら自分の国に帰れ」という態度に出ることも少なくないようです。
 またパラオでは昔から怪しい投資話が多く、これまで痛い目に遭った日本人や日本企業もずいぶんあったわけですが、実際今でも怪しげな人物が、日本人、パラオ人問わず蠢いています。そうした輩にひっかかった日本人の話はよく在留邦人の間で話題になっており、ときおり日本大使館にも相談が持ち込まれていました。ただ、そうした話をいろいろ聞くと、「騙された」とする側にも問題がある場合も少なくありませんでした。英文の契約書をよく読まずにサインしたり、現地の慣習や法制度をチェックせずにブローカーの話を鵜呑みにして金を出してしまった、といったケースです。パラオを昔から知っている人ならば、「投資話」といえばまずは慎重にというのが常識なのですが、今でも昔ながらの詐欺的手法により痛い目に遭う人がいるというのは、残念ながら事実でした。
 怪しいブローカーが暗躍する原因の一つになっているのが、外国投資制度の欠陥にあります。パラオの外国投資法は、外国人による経済支配からパラオ人を守ることを主目的としており、レストランや小売業など一定の業種には外国人が参入することを禁じています。これはこれでひとつの見識だと私は思うのですが、ところが現実にはパラオ人による「名義貸し」が野放し状態で、これにより本当はできない事業を営む外国人が数多く存在しています。またまっとうに投資申請をするとなると、外国投資委員会の審査を受けることになりますが、その手続き・審査がかなり恣意的に行われる余地があります。こうしたことが「私が名義を貸してくれるパラオ人を紹介してあげますよ」とか、「外国投資委員会のメンバーは親友ですから私に任せればすぐ許可を取ってあげますよ」というようなブローカー業が成立し、名義を借りて事業を始めたら名義上のオーナーであるパラオ人から書類上は従業員になった投資者が「解雇される」すなわち事業を乗っ取られる原因になったりしています。
 独立以来政府は、少なくとも公式には外国からの投資を歓迎するとしていますが、残念ながらかけ声ばかりで実質が伴っていないのが現状です。すなわち、外国人投資家・企業への優遇策はなきに等しく、手続きも曖昧なままで改善されていないのです。1990年代から何度となく、もっと外資に魅力的な外国投資法に改正すべきだとの議論がされてきていますが、総論賛成各論反対で未だ立法化できていません。その結果、独立ブームが一段落した昨今では、「パラオに魅せられた篤志家」以外からの新規投資案件はほとんどない状態になっています。

コンパクトマネーの中身と現状
 さて、では現在パラオの経済はいったいどうなっているのでしょうか。ご存じの通り、独立以降パラオ経済は、アメリカ政府からのコンパクトマネーを中心とする援助によって公的部門から民間部門に資金が環流し、それとともに独立前後から観光業が急伸して基幹産業に発展し、この二つが両輪となって回転してきました。そこでまずこの2つの現状を報告致しましょう。
 まずアメリカの対パラオ援助の全体像を次ページにまとめてみました。自由連合協定によるアメリカの経済援助は、1994年から2009年までの15年間で総額4億5000万ドルともいわれています。しかし実際には(3)の資金もかなりの額に及んでおり、また一部資金には署名から引き渡し時までのインフレ率を加算する調整が施されていて、実際に引き渡されないと金額が確定しないこと、さらにはこれまで受け取った資金を運用して得た投資益が莫大な額に上っていて、これを「アメリカの援助金」という範疇に含めるか否かで変わってくるため、必ずしも「総額いくら」という言い方はしにくいところです。ちなみにパラオ政府文書では総額6億ドルとされているものもあります。
 さて、このうちパラオの国家財政を直接支えているのは(1)のいわゆる「コンパクトマネー」です。コンパクトマネーは目的別に細分化されているのですが、私なりに3つに分類した上で、その現状について説明します。
 まず独立直後、すなわちコンパクトが成立して、約束されていたコンパクトマネーがアメリカからパラオに引き渡されるようになってすぐに一括でパラオ側に引き渡された資金、これを「一括引き渡し金」とします。インフラ整備資金が主なのですが、これがインフレ調整分も含めて総額約9894万ドルありました。またこれに付随して、この資金の中の未使用金を主にアメリカの証券市場で運用して得た利益もあります。この運用益は、折からのアメリカの株高に乗って巨額なものになりました。ここではこの投資益も含めて
「一括引き渡し金」という形で括ります。これら資金は、その後1990年代を通じて、毎年「今年はこれこれにいくら使う」と予算法案に計上され、議会の承認を得て使用されてきたわけですが、これらがナカムラ政権時代の潤沢な国家財政を支え、様々な公共事業に使用されてきたわけです。そして、詳しくは後述しますが、これら一括引き渡し金はレメンゲサウ政権発足と前後してほぼ枯渇しました。
 次に第二のカテゴリーとして、財政補助等の目的で、15年間毎年アメリカ政府からパラオ政府に引き渡されている資金があります。ここではこれらを「年次引き渡し金」と称します。この中でもっとも大きなものが財政援助金で、インフレ調整前で最初の5年が毎年1200万ドル、次の5年が年700万ドル、最後の5年が年600万ドルとなっています。この財政援助金を中心として、2003年度にアメリカから引き渡される年次引き渡し金は1393万ドルと見積もられており、これらはパラオ政府の一般予算の重要な財源になっています(表1参照)。
 最後に第三のカテゴリーが信託基金のための拠出金で、総額7000万ドルがアメリカ政府からパラオ政府に引き渡されています。この資金は投資運用を行うことで、コンパクトマネーの授受が2009年に終了したあとのパラオ政府の一般財源に充てることを目的としています。パラオ政府は予定通りアメリカの複数の投資会社に資金を預託して資産拡大を図り、2000年頃までは「一括引き渡し金」同様、アメリカの株高の恩恵を受けて順調に利殖を進めていました。2000年8月末にはこの基金は元利あわせて1億6800万ドルになったと報告されています。しかしアメリカの株安の影響でその後は投資不調が続き、さらに歳入欠陥を埋める目的で2002年に500万ドルを取り崩し、2003年度予算では年度当初から500万ドルを予算に組み込みました。このため現在の残高は1億2000万ドル台となっています。本来2009年までアンタッチャブルだったはずのこの資金をなし崩し的に使用することを懸念する声も一部にはありますが、政府も議会ももはやこれを聖域視する雰囲気にはなく、恐らく来年の選挙を前に、新年度予算ではさらに取り崩し額が拡大するのではないかと思います。


 アメリカの対パラオ援助の中身

(1)コンパクトによりアメリカからパラオに直接引き渡すことが約束された資金。通常「コンパクトマネー」というときにはこれを指すことが多い。本稿ではその内訳を以下の3カテゴリーに分類した。
@一括引き渡し金
A年次引き渡し金
B信託基金用資金
  (以上およびその投資収益はパラオ政府の予算法で使途が定められる)

(2)コンパクトにより約束され、別途金額が確定されたバベルダオブ周回道路建設資金。総額1億4900万ドル。
  (この資金はパラオ政府には引き渡されず、アメリカ側が直接受注業者らとやりとりする)

 *「コンパクトによるアメリカの経済援助額」を記したものの多くは、(1)と(2)をたしたものであることが多い。

(3)アメリカ連邦政府各種プログラムを適用した補助金・援助金。パラオがこれらを受ける権利を有することがコンパクトで約束されている。
  (これらの資金は、パラオ政府各部局がアメリカ連邦政府各省庁とやりとりするため、政府予算には入っておらず、各年度の実績が会計監査報告書に記されるのみとなっている)

(4)信託統治時代にアメリカ政府がコミットしていたもの
  (たとえばマラカル下水処理施設建設のように、依然執行が完了していないものもある。これも政府予算には計上されていない)
 
 

一括引き渡し金の枯渇
 さてパラオでは、ナカムラ政権時代には潤沢な「一括引き渡し金」を使って、積極的にインフラ整備を進めてきました。議会の中にはこうしたナカムラ大統領の政策に対して「そんなにじゃぶじゃぶ使っては2009年まで持たないからもっと使途を厳選しろ」という意見も強く、ナカムラ大統領もそうした議会の同意を取り付けるために様々な駆け引きや政治的取引をしていたようです。ナカムラ大統領の考え方は、資金をちびちび小出しに使っていてもじり貧になるばかりであり、積極的に財政出動してインフラ整備を進め、経済活性化を図って外資にも魅力的なパラオを作り上げ、そうした環境の中で外国資本を引き入れ産業を育ててパラオの経済自立を成し遂げようというものでした。
 議会の抵抗もありましたし、1997年のKBブリッジの崩落事故、そしてアジア経済危機による観光産業の停滞という予期せぬ事態もあって、必ずしもナカムラ大統領の思い描いたとおりにすべての施策を実施できたわけではありませんでしたが、それでも独立直後のイケイケムードの中で、ナカムラ政権時代には全体としてパラオ経済は活況を呈し、国民の間でもおおむね「ナカムラ時代は良き時代だった」という評価がなされています。そしてそれは、ナカムラ氏の指導者としての力量と同時に、独立によって得た潤沢な財源を基礎とした上に実施された公共事業によって経済が回っていたという側面が大きかったからだと、私は分析しています。
 さて、2001年1月に就任したレメンゲサウ大統領は、「ナカムラ大統領の後継者」を公言していたにもかかわらず、財政面では大きな政策転換を行いました。「non-payday weekend」をスローガンに、緊縮財政の方針を明確に打ち出し、2001年2月に成立させた2001年度本予算(筆者注:この年は前年が選挙年だったため2001年2月末までの暫定予算が組まれていた)では、前年度比25%減、次いで2002年度には同11%減というドラスティックな予算カットを行ったのです。この背景には、新大統領就任と同時に成立した新議会の特に上院で、これまでナカムラ大統領に批判的だった、すなわち財政引き締めを常々主張していたグループが多数派を占めたため、諸施策を進めるうえでは彼らにも一定歩み寄る姿勢を見せる必要があったという政治的な側面もあるのですが、もはや一括引き渡し金が底をついており、「ない袖は振れない」状態に陥っていたという現実がありました。
 これを示すのが政府会計監査報告書です。私の手元には2001年度分までのものがあるのですが、2001年度の年度初め段階、すなわち2000年10月にナカムラ前大統領が暫定予算を組んだ段階では、一括引き渡し金の留保金残高は運用益を含めて総額3796万ドルありました。ところがこの年にアメリカの株価下落によってパラオのコンパクト留保金(筆者注:信託基金分を除く)は総額902万ドルの損失を計上し、2001年度末段階で残額は一気に1097万ドルに減ってしまいました。そしてそこから、予算措置されながら未使用だったために繰り越されている資金を引くと、2001年9月末段階で新たに予算に組み込める資金は834万ドルしか残っていなかったのです。2002年度の会計監査報告書が入手できていないのでその後の状態は推測するしかないのですが、2002年度にここから300万ドルが予算計上されながら、その後政府は予算修正を行って一括引き渡し金が原資だった費目の穴埋め分に信託基金から500万ドルを支出し、2003年度予算にはこの留保金を原資とする予算が組まれていないことから見て、ナカムラ政権時代の豊かな財政を支えた一括引き渡し金がほぼ底をついたことは間違いないと思います。

表1 パラオの国家予算*1
 
【歳 出】(単位はドル、万単位で四捨五入)

 
2003年度*2
 
2002年度
 
2001年度
 
2000年度*3
(当初予算)
一般会計
特別会計*4
開発予算*5
借入金返済*6
 5115万
 130万
   0
 147万
 5070万
  112万
   0
  70万
 5560万
  219万
  260万
  70万
 5109万
 234万
 835万
  143万
 合 計  5315万  5253万  5895万  6321万
(編成した大統領) (レメンゲサウ) (レメンゲサウ) (レメンゲサウ) (ナカムラ)
 
 
【歳 入】(単位はドル、万単位で四捨五入)
  2003年度 2002年度 2001年度 2000年度
国内一般歳入
国内特定財源
KB橋事故和解金*7
コンパクト関連
 年度毎引渡金*8
 一括引渡金*9
 同運用益*10
 信託基金*11
借入金会計*13
 3145万
  130万
   −

 1393万
   0
   0
  500万
  147万
 3392万
 112万
  −

 1379万
   0
  300万
(500万)*12
  70万
 3026万
 219万
  −

 1378万
 342万
 860万
   0
  70万
 2700万
 234万
  12万

 1371万
  218万
 1786万
   0
   −
 合 計  5315万  5253万  5896万  6321万
 

*1 国家予算について 政府が提出し議会で審議される各年度の予算法に基づいて作成した。コンパクト以外の海外援助(主に日米台)については含まれていない。
*2 パラオの会計年度 パラオの会計年度は10月〜9月。「2003年度」は2002年10月〜2003年9月となる。
*3 2000年度予算 2000年度には2度にわたって補正予算が組まれ、最終的な予算額は当初予算を大きく上回る7900万ドルとなっている(選挙年ということも影響があると思われる)。
*4 「特別会計」とは、政府事業による収入の使途をその事業目的に限定している会計。2001年度までは空港収入と病院収入が該当し、2002年度以降は空港収入が一般会計に組み込まれて病院収入のみこの扱いとなっている。なお「歳入」表ではこの収入は「国内特定財源」と記している。
*5 「開発予算」とは、コンパクト発効当初にアメリカから一括受領した5256万ドル(インフラ補正分含む)を原資として、パラオ政府が主体的に実施するインフラ整備事業予算のことで、パラオでは一般にCIP(Capital Implovement Project)と呼ばれている。
*6 「借入金返済」、政府借入金の返済費用をさす。2000年度の143万ドルでそれまでのすべての政府借入金の返済が完了したが、2000年3月に首都建設第二期工事資金として台湾(International Commercial Bank of China)から新たに2000万ドルを借り入れ、この引当金及び返済金が2001年度から計上されている。ちなみに現在のパラオ政府の借入金はこの2000万ドルのみである。
*7 「KB橋事故和解金」とは、1997年のKB橋崩落事故の賠償金として、事故直前に修復工事を行った業者から受け取ったもの。遺族・被害者分と弁護士費用を除く約1300万ドルが1998年10月に国庫に入った。
*8 「年度毎引渡金」とは、コンパクト各条項に基づき年度毎にアメリカから引き渡される資金。代表的なものは財政援助(§211(a))があるが、それ以外にも通信や教育等で分野を特定した別枠の援助が行われている。財政援助は2005年度から100万ドル減額されるが、他方「インフレ調整分」があるため年々漸増もしており、とりあえず2009年までは一定の収入が見込めるという意味で、一括扱いとした。
*9 「一括引渡金」とは、コンパクト発効直後に一括してパラオ側に引き渡された資金で、主にインフラ整備を目的としたものである。この資金はパラオ側が管理し運用しつつ、毎年議会の承認を得て各プロジェクトへの予算に充てられてきた。
*10「運用益」とは、「一括引渡金」の資金運用による利益をプールした勘定からの戻入資金である。これは90年代後半のアメリカの株高により大きな利益をあげ、1990年代の潤沢な財政資金に貢献してきた。
*11「信託基金」とは、主としてアメリカが財政援助を終了する2009年以降のパラオ財政を補完する目的で、アメリカから7000万ドルを原資として供与されアメリカ金融市場で運用中の資金である。90年代のアメリカ株価上昇に支えられて一時は1億6600万ドルにまで拡大したが、その後は低迷、2002年6月末現在で利子分を含め総額1億3450万ドルとなっている。
*12 2002年度信託基投資益使用額 カッコ内の500万ドルは、税収不足等により予想される歳入欠陥が生じた場合に充当できる限度額として、2002年6月に予算修正法により認められ、結局全額使用された。
*13「借入金会計」とは、注6で示した台湾借款資金を別会計にして資金運用したことで得た利益を、借入金返済資金として年度財政に組み込んだものである。


 こうして政府資金による公共事業が先細りになりつつあることは、そこから派生する建設業、そして商業、運輸業などパラオ経済全般にもじわじわとダメージを与えてくるものと予想されます。「予想されます」というのは、現実には予算措置されながら未執行だった事業が実施されたり、或いは依然として工事が続くコンパクト道路建設の下請けや孫請けとして地元業者が参加しているので、今のところ「建設不況」が深刻化していないことと、ときおり経済不振が表面化する際には「9.11テロの影響」、「SARSの影響」、或いは財政苦境が語られるときには「議会が酒・タバコ税の減税を行ったため」云々とよそに原因が転嫁されていることが多く、表面的にも、また統計的に明確な形でも公共事業の減少が問題視されていないためです。
 いずれにせよ、もはやパラオ政府はリカレントコストの捻出に四苦八苦して信託基金にも手をつけ始めているのが現状です。レメンゲサウ大統領は2002年7月に国家建設のための重点公共事業をまとめた新5カ年計画(PSIP/Public Sector Investment Program)を発表しましたが、そこで示された50の事業(総額1億7046万ドルとされている)は、そのほとんどが資金の目途が全くたっておらず、文字通り「絵に描いた餅」状態に陥っています。
 
観光産業の現状と問題点
 次にパラオ経済を支えるもう一つの基幹産業である観光産業についてですが、次ページの図1をご覧いただくとわかるように、パラオを訪れる訪問客は1997年をピークにいったん減少したあと、ここ数年は傾向として「微増」状態が続いています。
 ハワイ銀行が4月に発表したパラオの経済レポートでは、パラオ観光業の現状を「9.11テロと日本経済の不振で不調だが今後これらが好転すれば見通しは明るい」と分析しています。ハワイ銀行はこのところ海外支店を次々と閉鎖し、FSMからもマーシャル諸島からも撤退しましたが、パラオでは逆に新店舗の建設を進めており、この報告がそうした一連の流れを受けて「最初に結論ありき」で書かれたのか、或いは本当にそう分析しているからパラオでの業務展開に積極的なのか、そこのところはよくわかりません。しかし観光産業の頭打ち傾向は、確かに日本経済の不振や9.11テロ、或いは直近の出来事としてはSARS問題のようなパラオ自身にはどうしようもない外的要因にもよりますが、むしろ問題にすべきは観光インフラの整備が進まないためではないかと私は考えています。
 というのも、グラフを見ればわかるように、パラオ観光業の主要市場である日本人観光客は、経済不振や9.11テロ事件にもかかわらず、この間一貫して「微増」を続けているのです。確かに9.11テロ直後の数ヶ月は日本人客は減少しましたが、その年の年末にはすでに回復しました。今年もSARS騒ぎの影響とそしてゴールデンウィークが短かったことから、4月以降は不振のようですが、パラオでSARS患者が発生したわけではないので、しばらくすればまたそれなりの数の観光客は戻ってくると思います。ご承知の通りパラオを訪れる日本人はダイバーがその多くを占めています。パラオの海は日本ではまだまだ「憧れの海」であり、そうした「売り」がある以上、ある程度高い料金を支払ってもパラオに行きたいという日本人は少なくありません。またグアムやハワイに行く日本人よりも比較的外国経験が豊かで年齢層も高い客層になっているので、そうした点でもパラオそのもので何か突発的な事件が起きない限り、急増した
り急減したりする可能性はあまり高くないと思います。日本人観光客の伸びを抑制しているのは、「経済不振」や「テロ」もさることながら、むしろアクセスの問題、すなわち定期直行便がないことにあります。



 
出所:Statistical Year Book, 1999 & 2001.
注(1)数字は観光客のみ。
 (2)2002年の数字は未入手。ちなみに訪問者数(商用や労働含む)統計では、2001年の54,111人から2002年には8%増の58,560人となっており、うち日本人は23,748人(前年比6%増)、台湾人は15,819人(同27%増)となっている(観光局統計)。
 

 
 日本人観光客は直行便の飛んでいないところにはなかなか行かないのですが、現在パラオへは定期直行便がありません。しかも日本からパラオまでは、朝出発してグアムで乗り換えパラオに着くのが夜、帰路は夜中の1時か2時頃に出発して日本に着くのが朝というパターンになっています。ときおり運航されるJALの直行チャーター便も発着が夜中から明け方頃で旅客にとってはたいへん不便なものです。こうした状況を改善することが、パラオの観光産業を発展させる上で重要なカギを握っています。昨年12月から今年2月まで、JALが「定期チャーター便」として週2往復、しかも発着を日中にして定期的に成田から直行便を飛ばしたのですが、観光客にはたいへん好評でした。
 では定期直行便就航の障害になっているのは何かというと、パラオのホテルの客室数の少なさと、空港設備の問題が指摘されています。このうち宿泊施設の不足については逆に各ホテルはオフシーズンには宿泊客が少なく苦戦している状態なので、増便とホテル建設はどちらが先かという話になってしましますが、空港設備、具体的に言うと離着陸のための自動誘導装置の設置については、もしパラオ政府が観光客の増加を目指すのであれば、早急に手当すべきなのではないかと思っています。
 現在定期便就航の最有力候補と期待されている日本航空のほかにも、ときおり全日空がパラオ直行便への関心を示すことがあります。またパラオでは地元資本を中心にハワイのアロハ航空と業務提携して「パラオ航空」という航空会社を設立し、ゆくゆくは日本への直行便を運航しようとの構想もあります。日本との定期直行便の就航は、実のところ1990年代からさんざん計画されては頓挫してきました。「定期直行便」は依然として具体的日程に上っていませんが、仮にこれが実現すると、現在観光客の半数を占めている日本人観光客の数は一気に増えると思います。
 
台湾人観光客問題
 ところで日本人に次いでパラオを訪れているのが台湾人なのですが、じつはさきの図1を見ればわかるとおり、パラオへの観光客数が上下するのは主にこの台湾人観光客の増減が影響しています。パラオ〜台湾間は、現在台湾の遠東航空(FAT/Far Eastern Air Transport)と昨年10月にパラオ在住の中国人実業家が立ち上げた新航空会社パラオ・トランス・パシフィック航空(PAIR/Palau Trans Pacific Airline)の2社が就航しています。2002年に台湾人客が急伸したのは、PAIRの就航とそれに伴うFATとの値引き合戦によって11月以降台湾人客が激増したためです。報道によると一時3泊4日ホテル代込みで往復251ドルという料金も設定されたそうで、ほとんどダンピング合戦の様相を呈していました。レメンゲサウ大統領は常日頃観光客数を闇雲に増やすよりもパラオの観光地としての付加価値を高め、一人一人がより多くの金を落とすような観光地として成長することを主張していますが、残念ながらこのダンピング合戦の際には有効な手は打てませんでした。こうした動きに対して、観光業者の間ではパラオのイメージを落とし、環境への負荷も強まるとの懸念の声が聞かれるのですが、今後台湾からの観光客を量から質へと転換するための作戦は必要でしょう。ちなみに昨今のSARS問題により、5月中旬からすべての台湾便が運休となり、特に台湾人を相手にしていた観光業者は大打撃を受けましたが、事態が改善されたことから7月に運航再開が決まったと報じられています。
 
新しい産業の育成
 さて、観光業のみに経済を委ねることの危険性から、パラオではしばしば新産業の育成が叫ばれています。製造業分野では、唯一台湾資本が中国人労働者を使って縫製工場を営んでニット製品をアメリカに輸出し、それなりにパラオ経済に貢献していました。しかし権利問題のこじれから今年初めに工場長が姿を消し、残された女工たちの処遇が大きな社会問題となったあげく、現在工場は閉鎖されています。パラオでは外国人には最低賃金法が適用されないので、このように低賃金で外国人を雇うことで労働集約的な製造業が成立する可能性はありますが、米ドルを国内通貨としている以上、製造コストはどうしても高くついてしまうので、輸出競争力はなかなか確保できません。
 また、農業と水産業についてはその将来性について期待する声がよく聞かれますが、「産業」として成立させるためには、まず根本的な問題としてパラオの男性がこの分野での現場労働を好まないという点があります。ご存じの通りパラオでは伝統的に畑仕事は女性の仕事であり、男性が畑に出るのは「格好悪い」という常識があります。このため一般に畑仕事は中年以上のパラオ人女性か、その下で働くフィリピン人労働者が担っています。パラオにあったオイスカ農業研修所はパラオ人研修生が集まらずにフィリピン人ばかりになって閉鎖されてしまいましたし(筆者注:但し現在地元では活動再開に向けた準備も行われている)、海外青年協力隊員が野菜作りの講習会を開催すると集まるのはおばちゃんたちとフィリピン人労働者ばかりだったといいます。
 パラオでは「男の仕事は海で漁をすることだ」と良く言われ、実際パラオの男たちは暇さえあればフィッシングに行くと思えるほど「海好き」ですが、彼らにとって漁はその日のうちに帰ってくるものが常識であり、たとえばカツオ・マグロ船に漁船員として乗り込み、何日も何十日も外洋を航海するということはしません。賃金が低いということもありますが、パラオで操業する漁業会社の漁船員は中国人やフィリピン人ばかりであり、関係者によるとたまにパラオ人を雇っても「すぐ逃げ出す」んだそうです。
 こうしてみると、パラオ政府は農業や水産業の振興を重点目標の一つに掲げていますが、こうした「常識」を打ち破らないと、そうそう簡単になし遂げられる話ではないと思います。太平洋ではよくトンガに於けるカボチャ産業の成功例(いろいろ弊害はあるにしろとりあえず産業育成という側面で言えば「成功した」と言えると思いますが)が語られますが、畑仕事が好きなトンガ人とパラオの人々は国民性や嗜好が違うということは忘れてはなりません。
 ところで、水産業の一分野に養殖があります。JICAの技術協力も含め、今パラオでは、シャコ貝、ハタ、黒真珠などの養殖プロジェクトが進んでいます。これらの成否について技術的な側面については専門外の私には何とも言えませんが、こうした事業を含め、生産業の産業化を考える上で重要なことは、販売の仕組みやマーケティングをどうするのか、ということだと思います。仮に新しい商品作物を生産する技術が取得できたとしても、それを金に結びつける技術はパラオではあまり知られていません。パラオ人はミクロネシア地域では相対的にビジネスマインドを持っていると言われており、実際有能なビジネスマンもいますが、彼らにも国外市場を対象にしたビジネスの経験がありません。またコミュニティ規模で生産する国内市場向け輸入代替品であっても、村の生産者はマーケティングや商品管理の知識や技術を持ち合わせていません。こうしてみると、民間のビジネスマンたち(或いはコミュニティの指導者たち)が如何にしたらそのビジネスで儲かるかを、知識として知らしめるのみならず、実際に儲けさせる/儲ける仕組みを作るというところまで抱えて支援することが必要なのではないかと思います。
 
レメンゲサウ大統領の経済政策と成果
 さて、ではこうした経済状況の中で、現在のパラオ政府は経済自立に向けてどのような道筋を考えているのか、話題を政治・政策分野に移します。
 豊かな財政資金が底をつきかけたところで大統領に就任したレメンゲサウ大統領は、これまで通りの財政出動が不可能であるということは十分認識していました。このため、内にあっては行政の効率化・スリム化を通じて歳出削減を進めつつ税収拡大に務め、外に対しては新たな補助金や援助金の獲得を模索するとともに、パラオへの民間投資を呼び込もうと考えました。
 具体的に言うと、まず歳出削減のために、レメンゲサウ大統領は行政機構改革を実施し、予算編成時の成果主義を取り入れました。前者は2001年11月に政府の各部局を再編・統合し、トータルで1局21課を削減したものです。予算編成時の成果主義については立法措置を施し、各部局・政府機関に対して年度ごとに達成成果の提出を義務づけ、それによって公務員の自覚を促しました。このあたりは大統領が年次教書などで盛んに「成果」として宣伝しているものなのですが、ただ行政構造改革については「首切り」は行わずに、定年や退職等で欠員になったポストの補充を一定期間停止した後にその分だけ人員と部局を統合・削減しただけであり、またその一方で別途○○委員会というような省庁外組織をいくつも新設しているので、かなり不徹底な感が否めません。また「成果主義」についても、今のところパフォーマンスが悪かったりきちんとした報告書を提出しなかった部局に対する懲罰的な予算措置はなされていないので、単に形式的事務作業が増えただけとの指摘もあります。
 また税収拡大の方途としては、「最重要法案」として税制改革法案を議会に提出し、最近では遅まきながら売上税導入にも言及が始まっていますが、これらについてはまだ何も具体的な動きには至っていません。
 次に対外的な面では、まず日米台の主要3ドナーから更なる援助を引き出すとともに、新規ドナーの開拓を目指しています。このうち台湾からは文化センターや道路の建設などで一定の援助を引き出しています。しかし日米についてはあまり目立った成果が上がっていません。アメリカに対しては、大統領就任直後から国際通話料金への補助金を得て割高な通信料金の引き下げを図ろうと交渉を続けていますが、まだアメリカから最終的な同意を得られていません。日本へは新たな一般無償援助を次々と要請しては、「○○を要請した。これが承認されればパラオの○○はこんなに良くなる」というような記者発表を繰り返していますが、実際にはレメンゲサウ政権が日本政府から獲得した一般無償援助はまだ一件もありません(今年4月に完成式を行った空港ターミナルビルはナカムラ政権時代に合意されていたもの)。
 他方、最近の報道によると、建設中のバベルダオブ島周回道路の夜間照明用ソーラーシステムの設置資金として、このほどEUから130万ドルの援助を引き出したとのことです。パラオはこれまでEUからこうした形の開発援助を得たことはなかったので、これは特筆すべき成果だと言えましょう。このほかナカムラ政権時代には「パラオは統計上の一人あたりGDPが高すぎるから、加盟しても低利借款は得られないし具体的メリットはほとんどない」としていたアジア開発銀行への加盟を推進し、政府は予算措置を求めて議会に働きかけを行っていますが、報道を見る限りではお目当ては「技術協力」のようです。
 次に外資導入政策ですが、レメンゲサウ大統領はそのための方策として、先に紹介した税制改革法案と並ぶ最重要法案として外国投資法改正法案を議会に提出しています。が、これも税制改革法案同様、提出から2年以上経過したにもかかわらず片方の院すら通過しておらず、事実上店ざらし状態が続いています。また「外資導入」とは言いながらも環境派を自認するレメンゲサウ大統領は、闇雲に何でも受け入れようというわけではなく、地元住民や議会などが推進しようとした「アンガウル島でのカジノ事業の合法化」や「カヤンゲル島北沖の海底油田探査」について、社会的・環境的に懸念が大きいとして、これをストップする方針を示しており、一部からは「きれい事ばかり言うが本当に危機意識があるのか」と批判されています。
 こうして見ると、レメンゲサウ大統領の政策志向は至極現実的でまっとうではありますが、残念ながら政権発足以来約2年半が経過しても、目立った成果には乏しいのが実情です。結局のところ、計画を発表し援助要請を行ってはそれ自身を年次教書などで「成果」として発表するに終始しているのが現状です。

レメンゲサウ大統領に成果が上がらない理由
 ではなぜレメンゲサウ大統領に成果が上がらないのかというと、これまで述べてきたように、財政が逼迫したところで政権の座についたため、自らのプランを具現化するための資金がないこと、パラオでは珍しい暴風雨(2001年7月)に始まり、9.11テロやイラク戦争、SARS問題といった「不運」が続いたことがまずあげられます。考えようによっては、そうした中でダメージを最小限に食い止めている点で評価すべきと言えるかもしれません。
 もうひとつ施策が進まない国内要因として、議会への影響力不足があげられます。翻ってみると、ナカムラ前大統領には議会内に「ナカムラ派」と目される仲間や子飼いの議員がおり、彼らの協力を得ながら、批判派と丁々発止のやりとりをしつつ議会を動かしていたのですが、レメンゲサウ大統領にこうした盟友議員がおらず、指導者としてのイニシアチブを発揮できずにいます。そして悪いことに、当初協力を求めた議会が思うように動かず、成果不足に国民の不満が高まったことに苛立った大統領は、その理由を議会の不作為に求めて公に議会批判を繰り返すようになり、これに対して特にベテラン議員の多い上院が反発してさらに議会が動かなくなってしまいました。そうした中で2003年度予算(2002年10月〜)では、議会による修正を不服として大統領が議会に差し戻し、それを議会がそのまま再度可決して大統領に送付、大統領が拒否権を発動し、それを議会が今度は上下院とも全会一致でオーバーライド(拒否権の無効化)して成立という、前代未聞の事態に陥ったのです。
 比較的行政府に同情的なある有力議員と会食した際に、その議員は「大統領に協力しようにも『議会が悪い』と攻められると、議会としては結束して対抗せざるを得なくなる。ナカムラ時代には表面的には対立していても、その一方で非公式な交渉と駆け引きがあったが、今の大統領にはそうした政治力がない」と嘆いていましたが、このあたりの手腕が未熟な点は否めないと思います。
 またもうひとつ指摘されることに、優秀なスタッフが不足しているとの指摘もあります。「レメンゲサウ大統領は縁故採用で側近を固めており、適材適所ではなく選挙対策人事に終始している」と批判する政治家もいます。
 こうした現状から、「大統領は自分で掘った穴を自分で埋め、それを手柄として得々と語っているだけ」という手厳しい批判をはじめとして、今のところ国民のレメンゲサウ大統領への評価は、総じてあまり高くないと思われます。
 
国民の不満の矛先
 ところで国民の大統領批判は、2002年の夏から秋頃にもっとも顕著でした。このころ大統領は、訪日、PIF首脳会議、ヨハネスブルグサミット等で外遊が相次ぎ、8月から9月の新年度予算審議の重要な時期に(平日のうち)計22日しか国内におらず、国内では「外遊している場合か」との声が大いに高まりました。
 ところがこの頃、特別検察官によって、国会議員がお手盛りで旅費を不正に受給しているという告発がなされました。当初議会側は「政治的意図が隠されている」と反発しつつ特別検察官に圧力をかける姿勢を見せたのですが、これが国内で逆に反発を招いて大きな問題になり、しかも実際かなり杜撰な経理を行っていたことから、結局多くの議員たちは特別検察官に屈服し、弁済の約束を余儀なくされました。
 またこれより先に、上院では先の選挙で当選したチン前司法大臣について、立候補資格に疑いがあるとして議員資格を付与せず、これを不服とするチン氏側と非難合戦から裁判、リコール選挙等と泥仕合を展開して、「意地の張り合いに忙殺されて本来の仕事を全然していない」と国民からあきれられていたのですが、旅費問題を契機として、昨年秋以降の国民の批判の矛先は大統領よりむしろ議会に向かっています。
 こうした中で依然として大統領と議会は非難の応酬を繰り返し、なかなか前に進まない状況が続いていますが、総じて大統領が議会の不作為を攻め、議会側がそれに抵抗するという構図が続いています。
 
2004年総選挙を睨む今後の政局
 さて、そうこうしているうちに、2004年秋の次期総選挙(正副大統領選挙と上下院選挙)まで、早くもあと1年となりました。まだ正式な出馬表明はありませんが、レメンゲサウ大統領が再選を目指して立候補するだろうというのは国内では常識で、私も大統領に極めて近い筋から「大統領は再選を目指している」と直接聞きましたので、この点はまず間違いないと思います。そこで、では大統領再選のメはあるのか、それに伴い今後パラオの政局はどうなっていくのかという点を考えてみたいと思います。
 まずレメンゲサウ再選の可能性についてですが、国内には「皆失望している。再選などあり得ない」という人もいます。しかし私は再選の可能性はそれなりにある思っています。レメンゲサウ大統領は1984年に28歳で上院議員に当選して以来、上院議員2期8年、副大統領2期8年、そして大統領を務めてきていますが、これらすべての選挙でことごとく危なげのない勝ち方をしてきました。これは地盤の固さとともに、選挙対策がたいへん上手なことに起因しています。詳細は省きますが、有権者へのアピールの仕方、票のまとめ方、そして対抗馬の潰し方はなかなかのものです。そして行政府の長として、このところかなり露骨に再選のための布石人事を行っています。
 ではレメンゲサウ大統領の対抗馬は誰なのかというと、これもまだ誰も正式な出馬表明はしていませんが、巷では、ピエラントッチ副大統領とウィップス上院議員、そしてナカムラ前大統領が挙げられています。このうちピエラントッチ副大統領はそれなりに人気はありますが、いろいろ話してみると、男性の間では「副大統領ならいいが女性大統領はイヤだ」と抵抗感を持つ人が意外に多い印象を受けました。またウィップス上院議員は国民的人気が極めて高いのですが、「大統領の器ではない」という声も少なくなく、また息子と大統領の妹が夫婦で親戚関係にあるため「レメンゲサウ大統領が出馬する以上ウィップス議員は大統領には立たない」との分析も聞かれました。いずれにせよこの二人は資金力もあり、立候補すればそれなりに票は集められると思います。
 またこれとは別に、一時議会主流派グループを中心に議員が結束して大統領候補を推し立てる動きが水面下であったのですが、国民の批判が大統領よりも議会に向いたことで、議会の中にも自分の再選を考えると大統領に近づいた方が得策と考える議員も出てきているため、この目はかなり薄くなっています。
 こうした中で、今のところレメンゲサウ大統領の再選を阻む可能性の最も高い人物として注目されているのが、ナカムラ前大統領です。ナカムラ氏は大統領を退いた後はほぼ一切の公職から身を引き(唯一の例外がIWCのパラオ代表職)、公的な場にもほとんど姿を見せませんが、かつての側近たちはすでに出馬を促す内輪の集会を開いており、また巷からもナカムラ再登板を期待する声がかなり聞かれます。実際「再選に自信満々のレメンゲサウ大統領の唯一の懸念はナカムラ出馬だ」(大統領側近の話)そうで、大統領側はナカムラ不出馬工作や人事を通じた周辺の切り崩し、更にはナカムラ氏の仇敵への接近を試みたりしています。かつては正副大統領のコンビを組み、前回選挙ではレメンゲサウ大統領を後継者としてナカムラ前大統領が推薦した仲だったのですが、政権交代後レメンゲサウ大統領はナカムラ氏に距離をおいており、今や良好な関係とは言い難くなっています。
 ではナカムラ氏は果たして出馬するのかというと、4月末段階では本人は「決断していない」と語り、複数の側近・親戚筋も同様のことを言っていましたので、恐らくその言葉通りだろうと思います。夫人の健康問題もありますし、また安易に出馬して落選すればそれこそ名声が一気に失墜しますので、このあたりは慎重に、恐らくは今しばらく様子を見つつ、勝てると確信すれば出馬に踏み切るのではなかろうかと思います。
 ナカムラ氏が出ればどうなるか、出なければどうなるかはまったくわかりません。誰がどちらにつくか、第三の有力候補は出るのか、一定の支持層を持つ議会主流派議員たちがどう動くか、選挙時の経済状態はどうなっているか等、様々な要素が絡んできます。ただ現段階では、ナカムラ氏が出馬するか否かが、選挙までの議会と大統領との関係も含め、今後の政局を占う一つの大きな焦点であることは間違いないと思います。
 次期大統領は、財政困難の克服、コンパクト援助延長交渉の開始(パラオへのコンパクトによる財政援助は2009年までとなっていますが、FSMとマーシャル諸島が「援助継続」となった以上、パラオ政府は当然継続されると認識しており、パラオ政府首脳によると、アメリカ側も話し合いのテーブルに着くことには原則同意しているとのことです)等、今以上に強力な指導力が求められることになります。ある政府関係者は、「目下レメンゲサウ大統領には再選問題が最大関心事項で、そのための布石に終始しているが、二期目になればその次の選挙を考える必要はなくなるし、非協力的な議員たちの多くが入れ替わる可能性があるので、かなり状況も変わって思い切ったことができるかもしれない」との期待感を語ってくれたことがありましたが、いずれにせよパラオの今後を考える上で、2004年選挙は上下院議員選挙も含め、大いに注目すべきだと思います。
 
パラオの将来〜経済自立は可能か?〜
 さて、本稿を終えるに当たり、最後にパラオの将来への見通し、その中でも国家目標である経済自立の可能性について私見を申し述べたいと思います。
 1960年代以降、次々と政治的独立を果たした太平洋島嶼国では、今すべからく経済自立への取り組みに奮闘しています。この四半世紀にわたって様々な試みが行われ、一定の成果を上げたものも失敗に終わったものもあります。ちょっと思いつくだけでも、ナウルのリン鉱石収益金の不動産投資、ツバルの切手販売事業、PNGの銅や石油の資源開発、ソロモン諸島の漁業開発、ニウエやヴァヌアツのオフショアバンキング制度など、その国が置かれた条件に即して立ち上げられた産業は枚挙にいとまありません。しかし、未だ国が国として、外国からの援助を受けなくても成り立つような安定的な経済構造を構築できた国は残念ながらありません。それはよく指摘される島嶼諸国の遠隔性、分散性、狭隘性という宿命的な前提条件の中で、そもそもこうした小島嶼国が国家として成り立ちうるのかという本源的な問いに通じるところでもあります。
 そうした中でパラオを見てみると、一人あたりのGDPは6000ドルを超えて太平洋島嶼の独立国の中では飛び抜けて高い存在になりました。そしてこの20年でほとんどの地方で電気や電話が通じ、港もできました。観光産業という資源収奪型でない基幹産業も育っています。アジアに近いという地理的優位性もあります。他方、国内に深刻な民族紛争もありません。太平洋島嶼国では唯一行政の長が国民自身によって選ばれ(筆者注:キリバスも大統領は直接選挙だが候補者は議会が選ぶ)、常に「不信任」の危機にさらされ短期間で政権交代を繰り返す他の島嶼諸国と異なり、選ばれた大統領はほぼ確実に4年間は国家の指導者として権力を振るえる、つまり行政手腕を発揮しやすい政治システムもあります。バベルダオブ島周回道路建設と、「壮大な無駄」とも批判されている首都移転事業は、コロール島への人口集中を緩和し、バベルダオブ本島の開発を導く可能性もあります。こうしてみると、パラオは「ひょっとすると」という期待ができるのではないかと思います。無論、これまで述べてきた様々な困難と、それ以外にも教育レベルの低下と人材の欠如、外国人頼みになってしまった労働部門など、様々な「負」も背負っています。こうした問題点や困難さを克服しつつ経済自立に向けて如何に舵を切るかは、今後の指導者たちに問われているところです。
 パラオは他の多くの非ヨーロッパ諸国同様、西洋との接触以来、植民地化にはじまる様々な労苦を強いられてきました。しかし歴史を俯瞰してみると、外洋航海の必要ない豊かな海に囲まれ、天災のほとんどないこの島に住み着いて以来、パラオ人たちはなぜか結果的にはうまい方向に舵を切り、いい方向に流されてきたように感じられます。そしてこれからも様々な困難や問題を抱え、短期的には様々な判断ミスを起こし、国際情勢に翻弄されながらも、とどのつまりパラオの人々はそれなりに幸福な暮らしを営める社会を維持し続けていくのではないか、というのが私が希望的予測です。ははなはだ非科学的ではありますが、私はパラオの人々が「天に祝福された民」という気がしてならないのです。
 
                                   

本稿は、去る5月26日に行われた当研究所年次総会における筆者講演メモをもとに、加筆・修正を加えて筆者が新たに執筆したものです。