日本大学国際関係学部講師
玉井 昇
1.はじめに―問題の所在 ニューカレドニアでは、1998年のヌメア協定によって2018年までに独立の是非を問う住民投票が予定されている。鉱物資源と観光資源の潜在性によって、独立後の国家には明るい展望が開けているかに思われる。しかし、ここには多元的なエスニシティの対立構造が存在し、様々に複雑な問題が横たわっている。たとえば先住民カナクとフランス系移民及びその子孫たちとの関係である。歴史的にみてフランス系移民は、土地や資源を収奪し、現在でも政治的・経済的優位を保っている。これがカナクの不平を生み、土地や資源をめぐるエスニック・グループ間の対立に繋がっている。さらに、最近ではポリネシア系移民グループとカナクとの対立も発生しており、グループ間の問題は複雑化している。こうしたエスニシティをめぐる問題に解決策を見出さない限り、独立を達成しても国家の安定は望めないであろう
(1)。
これらエスニシティ問題の根本的原因は土地や資源をめぐる「先住民の劣勢的地位」にある。このことを鑑みれば、同じく先住民との間で土地・資源問題を抱え込んできたニュージーランドの先例が役立つかもしれない。 今日のニュージーランドもまた、先住民マオリと19世紀以来移民してきたイギリス系を中心としたヨーロッパ人(マオリたちは「パケハ」と呼ぶ)、さらにはその他の太平洋人らの流入によって、多元的なエスニシティー社会になっている。ここもニューカレドニアの状況に類似し、パケハがマオリの土地や資源を収奪していった結果、政治的・経済的優勢な地位を獲得し、先住民の間に不平が残るといった事態が続いた。しかし、今日のニュージーランドでは、一定の確執は残存するものの、エスニックグループ間で和解から多文化社会の実現にむけた協調的態度が確固たるものになりつつある。
マオリ・パケハの間に、こうした協調関係が成立するまでには、様々な試みがあっただろう。しかし、それを決定づけたのは1975年に創設されたワイタンギ審判所だった。この審判所の役割は、裁判所のように厳密な勝敗を決するのではなく、当事者間 の供述を基礎に和解のための方策を模索することにあった。そして、この解決方式は、今日では、先住民が暴力に訴えてトラブルを解決する必要性がなくなったのである。
このように、ヨーロッパ移民と先住民との確執を解消させる存在としてワイタンギ審判所が果す役割がきわめて重要であったと筆者は評価している。
そこで本稿では、ニュージーランドのワイタンギ審判所の事例に着目し、この方式が同じくニューカレドニアの多元的社会に適応できるものかどうかを検討してみたい。ニュージーランドでの成功例をニューカレドニアにも導入できる可能性があるのであれば、ここにも協調的多文化社会の出現が望めるからである。なお、現時点では、ニューカレドニア内部からは、ワイタンギ審判所に類似した組織の導入といった議論は起っていない。 2.ニューカレドニアにおける多元的エスニシティの背景
ニューカレドニアの先住民(カナク)は紀元前4000年頃から同島に移住し始め、氏族(clan)を構成単位とし、それぞれ川に沿った土地や山岳部の峡谷や丘陵部の土地と強い紐帯を保ちながらヤムイモなどの農耕を行なっていた(2)。この島が1774年のジェームズ・クックによってヨーロッパ人に知らされると、その後捕鯨船や交易商人の来島が続いた。1840年代に至るとイギリスからプロテスタントの宣教師団が到着、その後まもなくフランスからカトリック系の宣教師団が来島し、同島に定住した。彼らは攻撃的な現地人をキリスト教徒化し、同島におけるフランスのプレゼンスを確立することを使命としていた(3)。そして1853年、抵抗するカナクを制圧し、正式にフランスの領土化宣言を行なった。
フランス領となったニューカレドニアには、本国から総督府の官吏、海軍の軍人、犯罪者、あるいは商人や開拓移民が来島し、定住していった。1860年代、ニッケル鉱山が発見され移民の数が急増し、1887年にはフランス移民が全人口の30パーセントを占めるようになった(表1参照)。さらにニッケル産業の労働者として、反抗的なカナクよりもアジア人やポリネシア人が好まれたため、その他の人種も増加した。カナクの土地は徐々に収奪され、彼らの抵抗は1878年に最高潮に達したが戦いに敗れて伝統的な部族システムや土地制度は崩壊し、グランド・テール島の90パーセントがヨーロッパ人の所有地となっていった(4)。 第二次世界大戦後、ニューカレドニアは正式にフランスの海外領土となり、カナクもフランス国民となった。しかし、政治経済は依然としてフランス系移民及びその子孫(カルドーシュ)たちが支配的地位にあり、とりわけニッケル産業は本国フランスおよびカルドーシュのみに莫大な利益をもたらしていた。1960年代に空前のニッケルブームが起り深刻な労働不足が生じると、フランス本国からの白人に加え、同じくフランスの統治下にあったウォリス・フトゥナからのポリネシア人やアジア人が労働者として積極的に受け入れられた。こうして現在のニューカレドニアは、先住民系カナク、欧州系カルドーシュ、ポリネシア系およびアジア系という多元的なエスニシティ構造を持つに至ったのである(5)(表2参照)。 表1 ニューカレドニアの人種別人口の推移
出所)Ingrid A., Kircher, The Kanaks of New Caledonia, London; the Minority Rights Group Report no.71, 1986, p.19 に掲載の表をもとに作成。 表2 ニューカレドニアのエスニィティ構造 出所)CIA Factbook, 2002: (http://www.odci.gov/cia/publications/
factbook/geos/ps./html)のデータをもとに作成。
3.エスニック・グループ間の対立構造の概要
ニューカレドニアの繁栄から除外され、社会構造の中で底辺部分に置かれていったカナクは、徐々に不満を募らせ、そうした感情が自治拡大要求から独立運動へと発展していった。1960年代後半からカナクの民族覚醒運動が高揚し、1970年代にはフランス憲兵隊との間で数多くの銃撃戦、殺傷事件が相次いだ(6)。1980年代に至るとカナクの抵抗運動はさらに激化し、1988年にはロイヤルティ諸島を中心に巻き起こった抵抗が最高潮に達し、ニューカレドニアはほとんど内戦に近い状態に陥った(7)。この結果、フランスとカルドーシュおよびカナクの代表者間で合意された1988年マティニョン協定では、北部州を中心にカナクが多く居住する地域に経済援助を増大することやカナクの文化を尊重し促進することが規定された。1998年のヌメア協定でも、植民地時代のカナク抑圧の「暗闇(ombre)」を認め、カナクの固有の文化とアイデンティティを承認することが確認された(8)。
これらの二つの協定によってカナクの先住性がようやく認識されはじめ、1990年代後半から土地と資源に関するカナクの不平問題の解決に着手し始めた。すなわち、土地問題に関しては地方開発土地整理局(Agence de Developpement Rural et d'Aenagement Foncier)が係争地を購入し、カナクの慣習的保有集団および個人へ再分配している(9)。また、ニッケルに関してもSLN(Societe le Nickel)の30パーセントの資本が南・北部およびロイヤルティ諸島の3州によって経営される持株会社へ移転され、カナク住民の大半が居住する北部州とロイヤルティ諸島州に75パーセントを配分することが合意されている(10)。しかし、ニッケル産業の収益の大部分が依然としてフランスおよびカルドーシュが多く居住する南部州やカナダなどの外資系に独占されている。また、土地問題に関しても近年のカナク人口の増加に伴ない、土地をもたないカナク低所得者層が拡大している(11)。 このため、1980年代のような大規模な抵抗運動には至らないものの、21世紀を迎えた今日でも土地や資源をめぐるエスニック・グループ間での確執は継続しており、その対立がときに銃撃戦や流血事件といった暴力の行使へと発展している。たとえば、カナダのインコ社(Inco)を中心に日本の住友金属も参加して進行中のゴロ・ニッケル・プロジェクトは、カナクの低所得者層を中心に構成される労働組合の猛烈なデモ活動によって、2002年9月に中断され、関係者600人が一時避難する事態に陥った(12)。また、土地の帰属をめぐる問題でも、ヌメア郊外のセント・ルイスでカナクとウォリス人コミニティの間で対立が生じ、2001年12月からの一連の銃撃戦で3名の犠牲者と多数の負傷者が生じている(13)。
この先15年の内に独立の是非を本格的に検討するニューカレドニアにとって、こうしたエスニック・グループ間の対立問題は避けることのできない最大の課題である。したがって、仮に独立を達成しても、こうした対立構造を解消するための何らかのシステムが構築されない限り、国家としての安定性は望めないであろう。そこで、注目に値するのが先住民と移民の協調的関係を築いているニュージーランドの事例である。 4.ニュージーランドにおける史的類似性と現在の多文化社会
現在のニュージーランドには、ポリネシア系の先住民マオリとイギリス系移民の子孫たちパケハ(Pakeha)、およびその他太平洋諸島民やアジア系移民を含めた複数のエスニック・グループが存在している。その中でも主たるエスニック・グループが先住民とヨーロッパ系移民である点でニューカレドニアの事例と共通しており、歴史的にみても両者の関係には類似点が多い(表3参照)。
ポリネシア人としてマオリは、概してカナク他の太平洋諸島民と同様に、土地との紐帯に基づく伝統的な部族社会を構成していた(14)。しかし、ニュージーランドもまた、ヨーロッパ人航海士によって発見され、その後捕鯨船員や商人、あるいはキリスト教宣教師らが来島するようになり、1840年のワイタンギ条約によってイギリスによる統治が開始された。植民地開拓の中でイギリスからの移民が増大すると土地の需要が高まり、マオリの伝統的部族領域である土地の売却を強要されたり、強制的に収用されていった。そのため、1860年代にはマオリの不平不満が最高潮に達し、各地で大規模なマオリの抵抗闘争が起ったが、いずれも徹底的に鎮圧された。マオリ人口は戦死やヨーロッパ人のもたらした疫病の結果として激減し、伝統的な部族システムは崩壊した。その一方で、マオリから土地や資源を収奪することに成功したパケハの政治的・経済的優位な地位が、確固たるものとなっていったのである(15)。 表3 カナク・マオリ関連略年表
しかし、その後のマオリはパケハによって完全に同化され消滅することはなく、逆に民族復権運動が高揚していった。1850年代にはマオリ国王の統治するアオテアロア王国樹立をめざしたキンギタンガ運動が始まった。また、1890年代に起こったコタヒタンガ運動もマオリが結束して自治権獲得を要求するものであった。第一次世界大戦後に至ると、一種の宗教的救済運動として巻き起こったラタナ運動が政治運動に発展し、マオリの生活保護、教育、雇用、その他社会保障の改善、地位向上へつながった(16)。そして、第二次世界大戦後も土地や資源の返還を求める全国的なランド・マーチ、その他数多くのデモ活動がマオリによって展開された。ここでのデモ活動は、1960年代以降のカナク抵抗運動のような激しいものではないが、戦後の国際的な人権保障の認識と世界的な先住民復権運動の潮流の中で根強く続いたのである。 こうしたマオリ復権運動の中で1975年ワイタンギ条約法が成立し、マオリの伝統、土地、資源の保有を規定した1840年のワイタンギ条約の法的効力が承認された。また、同法は、ワイタンギ審判所を設置し、政府のマオリに関わる一連の政策がワイタンギ条約の精神に反する場合は政府に勧告をなす権限を付与している。そして、1985年の法改正を受けてさらに権限が強化された審判所の諸審議を通して、現在のニュージーランドにおけるマオリの先住性への認識は確固たるものになっていった。 以上の史的考察のように、概して、ニューカレドニアにおけるカナク・カルドーシュの関係とニュージーランドのマオリ・パケハの関係は類似している。すなわち、それらの過程を段階的に分ければ、@先住民の定住と部族社会の構築、Aヨーロッパ人との接触、B移民による土地・資源の収奪、C先住民の抵抗と移民による制圧、D先住民人口の回復とエスニック運動の高揚、E先住性の認知と回復となろう(17)。 しかし、今日における双方間の両者の関係には以下のような違いがある。ニューカレドニアの場合、先述のマティニョン協定およびヌメア協定によってカナクの先住性が確認されてはいるものの、カルドーシュとの間には依然として強い確執が存在し、両者の関係はあくまで対立的である。今日なお、土地や資源をめぐる対立がときに銃撃戦などの暴力の行使に発展している。一方、ニュージーランドの場合も、土地や資源をめぐってマオリの間に未解決の不平が残っているのは事実であるが、カナクの不平の表明とは明らかに方法を異にする。今日でも、ワイタンギ条約締結日である2月6日のワイタンギ・デーを中心にデモ活動が毎年行なわれているが、あくまでもその手段は(日本でも行なわれているような)平和的なものであり、少なくとも銃撃戦のような類のものではない。むしろ、ニュージランドの場合は、問題に双方視点を織り交ぜて、マオリ・パケハの協働で多文化社会の実現をめざす協調的な態度さえ見受けられる。 このマオリの不平が暴力に発展するのを抑止し、問題の解決に向けて両者の間に協調的な雰囲気を創出している最大の要因は、ワイタンギ審判所の存在とその紛争処理方式にあると考えられるのである。
5.ワイタンギ審判所の制度と役割
先述の通り、ワイタンギ審判所はマオリ問題に対する新たな解決方式として1975年に設置された機関である。審判所の役割はマオリに関連する政府の政策をワイタンギ条約にそって解釈することであるが、一般的な裁判所とは性格を異にする。すなわち、その役割はマオリの不平、政府の政策および問題の実態等を調査し、双方にとって最も現実的で実践的な解決策を模索し、政府に勧告することである。その勧告は原則として法的拘束力はない。原告マオリの勝訴あるいは敗訴を決定するというよりも、マオリと政府の間で協議、和解のための斡旋、調停策を政府に報告するのである。使用言語は英語だけでなく、マオリ語の使用も認められている。また、裁判所と異なり固定された法廷が存在せず、審判団が直接係争地に赴き、そこで当事者から事情聴取を行う。したがって、ワイタンギ審判所は裁判所ではなく、マオリ問題のみを特別に扱うために創設された「常設調査委員会(permanent
commission of inquiry)」として捉えられている(18)。
こうしてワイタンギ審判所は裁判所とは性質を異にする柔軟性を有した機関であるが、その設立当初はマオリの視点に立つというよりもむしろパケハの法的視点に立脚した形式がとられていた。すなわち、3名で構成されるその審判団は、マオリ土地裁判所長官(Chief Judge of Maori Land Court)を議長とし、他の2名の審判員はそれぞれ法務長官(Attorney General)とマオリ問題省大臣(Minister of Maori Affairs)によって指名された。つまり、審判団3名のうち2名がパケハであり、マオリ大臣によって指名されたG.ラティメール(Graham Latimer)のみがマオリであった(19)。結果として、審判所はパケハの視点に偏重した形で運用された。 その最たる例が1977年に同審判所に初めて提出されたJ.ハウケ(Joseph Hawke)ほか、ナティ・ファトゥア(Ngati Whatua)の人々による請求である。これは、彼らが自分たちの伝統的な部族領域で貝を採集した際、1950年の漁業規則(Fisheries Regulations)違反の罪に問われたことを問題にしていた。しかし、原告が不起訴処分とされたために、審判所は実質的に不利益を被っていないとして、いかなる勧告もなさなかったのである(20)。そして、オークランドにあるインターコンチネンタルホテルの一室で行なわれた1978年のワイアウ・パ(Waiau Pa)事件(21)に象徴されるように、聴聞(hearing)が開催された場所も原告マオリたちにとってきわめて馴染みのない場所が選択されたのであった。こうして審判所の柔軟な性質にもかかわらず、パケハの視点からいわば裁判所の形式に準ずるような形で運用されたのである。マオリたちの審判所に対する期待と信頼は減退し、審判所そのものの存在が凋落していったのは当然のことであった。 しかし、ナティ・カウファタ(Ngati Kauwhata)の系譜であるE.ドゥリエ(Edward Durie)が1981年にマオリ土地裁判所の長官およびワイタンギ審判所の議長に就任すると、マオリの視点から審判所の運用が見直されることになった。すなわち、ドゥリエ議長のリーダーシップの下で、審判を行なう会場をマオリの伝統的な集会場であるマラエで開催することが検討された。そして、マオリばかりでなく、審判団、政府関係者、その他のパケハ関係者すべての当事者が、共にマラエに出席し、マラエにおけるマオリの慣習にそって聴聞が行なわれることになった。こうしたマオリの視点が織り込まれた審判所の運用方式は、1982年のモトゥヌイ・ワイタラ事件(22)から実施された。同請求者であるアティアワの人々のマヌコリヒ・マラエで、マオリのしきたりにそって行なわれたのである。そして、続くカイトゥナ川事件(23)においても、請求者ナティ・ピキアオのテ・タキンガ・マラエで審判が実施された。この結果、審判所に対するマオリの信頼が高まり、いくつかの請求が提出された(24)。 そして、1985年の法改正によって、審判所の管轄事項がワイタンギ条約締結時の1840年にまで遡及して拡大されるに至った。ここに、土地や資源をめぐる歴史的なマオリの不平が正式に振り返られる場が登場したのである。さらに請求数の増加が見込まれたために、審判団は3名から7名に増員され、そのうちの4名以上がマオリであるように規定された(25)。こうして完全に機能し始めた審判所に提出された請求数は、その後、急増した。1987年までに80件を超える請求が審議待ちの状態になり、さらなる審判員の増加が不可欠になった。この結果、1988年の法改正によって審判団は16名に増加された。もともとパケハ主流の視点で開始された審判所の作業方式は、その後マオリの視点が注入されたことによって効果的な多文化方式となっていた。その結果、16名の審判団に対する人種構成の議論はもはやなされず、条文でも規定されなかったのである(26)。 その後も審判所は効果的に機能し、2000年末までに850件を超える請求がなされている(27)。もちろん、マオリは、彼らの不平を裁判所に提訴し、法的拘束力を有する司法的解決を求めることも可能である。それでもなお、審判所が存在する意義は、マオリの視点も含まれた運用方法の下で協議、調停、和解を効果的に行なうことにある。マラエで審判が行なわれれば、マオリの慣習にそって、審判団ばかりでなく、政府その他パケハの関係者も訪問者として歓待される。そして、聴聞の間にはマラエのしきたりによって、食事やお茶の休憩時間が取られ、マオリ、パケハ関係なく一つのテーブルを囲んで歓談する。裁判のように原告と被告があからさまな対決姿勢をとるのでなく、こうした雰囲気の中でこそ多文化主義的な両者の協調的態度が芽生えていくものであろう。 したがって、ニューカレドニアにおけるカナクと他のエスニック・グループ間の対立問題と比較した場合、マオリにとってはヨーロッパ的な視点だけではなく、自らの慣習にそった方式の中で和解にむけた協議の場が確保されている。そして、何よりも重要なことは、そうした協議の場が確保されていることによってマオリは、問題の解決に際し暴力の行使という手段をとる必要がないのである。 6.おわりに―「ヌメア審判所」による多文化社会の構築 以上考察してきたように、ニューカレドニアとニュージーランドにおける多元的なエスニシティ構造の形成には、歴史的類似性がみてとれる。そして、ニューカレドニアにおけるエスニック・グループ間の対立問題の本質が先住民と移民の間の土地や資源をめぐる確執にあることから、同様の対立を乗り越え協調的解決方式を確立しているニュージーランドの事例が一つのモデルとなろう。すなわち、それはワイタンギ審判所の存在であり、こうした解決方式がニューカレドニアにおけるエスニシティの対立から協調、そして多文化社会構築にむけた指標となりうるのではないだろうか。
そこで、最後にニューカレドニアの現状の中でとりうる現実的で、かつ実現可能と思われるワイタンギ審判所方式をモデルとした機関、ここではその機関を便宜的に「ヌメア審判所」として、その在り方に関しての若干の私見をまとめてみたい。この点に関して、第一に、ニュージーランドの場合、審判所が拠所とする先住民と移民の関係を定めた建国当初のワイタンギ条約が存在する。他方、ニューカレドニアの場合、一方的にフランス領土化されたためにそのような歴史的文書は存在しない。しかしながら、ニューカレドニアにもカナク、カルドーシュ、フランスの3者間で合意された基本文書が存在する。すなわち、1988年のマティニョン協定と1998年のヌメア協定である。とりわけヌメア協定は植民地時代のカナク抑圧の事実を認め、彼らの固有の文化の復興、社会的地位の向上、さらには多文化社会の実現を掲げている。したがって、ニューカレドにアの場合、このヌメア協定を根拠とし、協定の精神を具現化する機関として文字通り「ヌメア審判所」が創設されることになろう。 第二に、ニュージーランドの先例からして、その審判団の構成に対する検討も重要である。ワイタンギ審判所の場合、設立当初はパケハ主流で運営されたために、期待しうる成果をあげられなかった。そこで、ニューカレドニアの場合も現在フランス法の枠内で司法的解決を求める道がすでに開かれている以上、カナクの視点が強く反映された別個の機関となる必要がある。ワイタンギ審判所の場合、法的素養を有したマオリであるドゥリエが議長に就任したことで多文化的で効果的な作業方式が構築された。この点からして、ニューカレドニアでは、組織的にはカナクの代表者16名で構成される慣習院の議長、人物的にはカナクで控訴裁判所(Appeals Court)判事のフォテ・トゥロルエ(Fote Trolue)のような人物が「ヌメア審判所」の議長に就任することが望まれる。その他の審判員もフランスの高等弁務官や領域政府による指名が想定されるが、設立当初はカナクが過半数を占めることが必要とされよう。しかしながら、ワイタンギ審判所の先例のように、協調的な多文化的作業方式が軌道に乗れば、審判団の人種構成は問題とされなっていくであろう。 そして、第三に、マオリの経験上、審判所の作業はカナクの伝統的な空間であるカーズ等において、カナクの慣習にそって行なわれることが望ましい。それによって、カナクの信頼性が高まり、事態打開のための暴力の行使が抑止されていくであろう。他方、カルドーシュ他のエスニック・グループもカナクの文化と価値観を共有し、これがまさにヌメア協定の謳うカナク固有の文化の尊重の具現化であり、多文化社会の実現にむけた協調的態度を育成していくことになるであろう。 現在のニューカレドニアにおける取り組むべき最大の課題は、エスニシティの対立の解消であり、具体的には土地や資源をめぐる問題の解決にある。しかしながら、ここで土地や資源をめぐる具体的な配分方法を定めるなどの解決策を予め提示する必要はない。本稿でいうところの「ヌメア審判所」のような機関が創設され、各エスニック・グループの当事者たちがそこで協議した結果、合意に達することが最適の解決策なのである。ニューカレドニアやニュージーランドに限らず、土地や資源の配分をめぐる問題は多元的な人種構成からなる国家にとって永遠のテーマである。それでもなお、多文化的国家を形成維持していくためには、グループ間の対立ではなく協調的態度を育成していくことが肝要である。そこで、ニューカレドニアにおけるワイタンギ審判所方式は、多文化社会構築への一つの指標となりえるのではないだろうか。 (1) ニューカレドニアを扱った邦語論文は少なくない。その中でも、主に本稿との関連で歴史、人種対立、独立問題等を題材としたものとして、西野照太郎「フランスの海外県・海外領−同化政策と自治主義的抵抗−」レファレンス(1972年4月号)1〜42頁、西野照太郎「南太平洋のフランス領−転換期にきた同化政策−」レファレンス(1979年1月号)7〜43頁、小林泉「独立運動のうねり増す南太平洋−ニューカレドニアに見る」朝日ジャーナル23巻46号(1981年)105〜108頁、真下俊樹「フランスのノドに刺さった小骨−カナク人独立運動はどこへ行く」エコノミスト(1988年1月19日号)64〜69頁、西野照太郎「南太平洋におけるフランス(上)(中)(下)」海外事情36巻2・3・4号(1988年)、杉山肇「ニューカレドニア独立への展望」三輪公忠・西野照太郎編『オセアニア島嶼国と大国』彩流社(1990年)236〜272頁、勝俣誠「ニューカレドニアの非植民地化と自立への試み」畑博行編『南太平洋諸国の法と社会』有信堂(1992年)37〜51頁、江戸淳子「ニューカレドニアの脱植民地化の政治過程とその将来」熊谷圭知・塩田光喜編『マタンギ・パシフィカ』アジア経済研究所(1994年)、クリストフ・シャブロ(山元一訳)「フランス領ポリネシアとニューカレドニア−自治か独立か?−」法政理論31巻4号(1999年)222〜237頁、蛯原健介「ニューカレドニアにおける自治拡大と憲法院」明治学院論叢法学研究74号(2002年)77〜111頁、東裕「ニューカレドニアの統治機構」苫小牧駒澤大学紀要7号(2002年)79〜101頁、拙稿「島嶼国の対外政策に関する比較研究−パラオとニューカレドニアの事例を中心に−」パシフィックウエィ通巻120号(2002年)35〜49頁がある。
(2) Ingrid A. Kircher, (1986) The
Kanaks of New Caledonia, London: the Minority Rights Group Report
No71, pp.4-5.
(3) Ibid., p.5. なお、私見ではオセアニアをめぐる当時の国際情勢が、フランスのニューカレドニア支配への強い意思に結びついたと思われる。すなわち、これに先立ちフランスはニュージーランドの支配をめぐってイギリスとの間で競っていた。1830年代末までに、イギリスではニュージーランド社、フランスではボルドー社(La Companie de Bordeaux)やナント社(La Companie de Nantes)などの植民地開拓会社が設立され、土地の開拓計画や移民の募集が繰り返されていた。そして、フランスは1840年に南島バンクス半島のアカロアに移民を送り込むものの、同年イギリスは現地マオリ達との間でワイタンギ条約の締結に成功し、ニュージーランドの統治権を獲得した。こうしてニュージーランドをめぐる獲得競争に敗れたフランスは、同国のオセアニア地域におけるプレゼンスを確保するために、ニューカレドニアをめぐるイギリスとの獲得競争には是が非でも勝利しなければならなくなったものと考えるのが妥当であろう。 (4) 拙稿博士論文第3章、「太平洋島嶼諸民に対する脅威の事例研究U−民族的側面−」、『平和的生存権の実証的研究−オセアニアの事例を通しての演繹的視座―』、日本大学大学院国際関係研究科、2001年、173頁〜187頁。
(5) エスニシティという観点からして、これだけ複雑な多元的構造を持つケースは太平洋諸島地域においてニーカレドニアにしか見られない。すなわち、同じく歴史的に欧米列強の支配を受けた他の島嶼諸国において、インド系移民グループが存在するフィジーを例外とすれば、概して先住民系が全人口の8割以上を占めている。こうしてニューカレドニアにおける多元的なエスニシティ構造が、政治的地位をめぐる住民の意思を多様化させ、独立問題をより複雑なものとしている一つの大きな要因といえよう。
(6) Susanna Ounei-Small, (1992)
"Kanaky: The 'Peace' Signed with Our Blood", David Robie
(ed.) Tu Galala: Social Change in Pacific, Wellington: Bridgette William,
pp.164-169.
(7) 詳細は、Ibid., pp.172-174, and Jean
Guiart, (1997) "A Drama of Ambiguity: Ouvea 1988-89", The
Journal of Pacific History, vol.31 no.1, pp.85-102.
(8) Nic Maclellan, (1999) "Political
Chronicles: The Noumea Accord and Decolonisation in New Caledonia",
The Journal of Pacific History, vol.34 no.3, p.245.
(9) Ibid., p.251; originally from
Agence de Developpement Rural et d'Amenagement Foncier Annual Report,
Noumea, 1996.
(10) Pacific Islands Report, 21
July 2000; originally from Les Nouvelles Caledoniennes, 18 July 2000.
(11) たとえば、領域島都ヌメアは豪華なマンションや住宅が立ち並ぶ一方で、ヌメア郊外には現在も8,000人を超える浮浪者がたむろしており、その4分の3がカナクで占められているという(Pacific
News Bulletin, vol.15 no.2, February 2000, p.15.)。
(12) Pacific Islands Report, 29
October 2002.
(13) 拙稿、太平洋諸島情報−ニューカレドニア、太平洋諸島地域研究所10月HP掲載記事(http://www.jaipas.or.jp/homepage_03.10-/hp_Joho_03.7-10.htm)。
(14) 太平洋諸島民の部族社会と伝統的土地制度に関して、拙稿論文、「太平洋島嶼国における『土地保有』の法概念−伝統と文明の対立から調和にむけて−」、大学院論集(日本大学国際関係研究科)、第9号(1999年)、5〜19頁。
(15) ただし、カナクとフランスおよびマオリとイギリスの間には決定的な違いが存在する。すなわち、それは先住民である彼らの意思の有無である。つまり、ニューカレドニアの場合はカナクの同意なしにフランスによって一方的に統治宣言がなされた。他方、ニュージーランドの場合は、すべてではないにせよ500を超える圧倒的多数のマオリ部族(iwi)・準部族(hapu)が、イギリスの統治を定めたワイタンギ条約(マオリ語版と英語版の文言に明らかな相違があるが)に合意し署名したのである。そして、マオリの場合、ワイタンギ条約によって、彼らの土地や資源その他の部族による伝統的な支配制度をイギリスによって保障された。しかしながら、その後の植民地化の過程の中でワイタンギ条約は忘れ去られ、結果的にはヨーロッパ移民に土地や資源を収奪され、伝統的な部族システムが崩壊していった点でカナクの歴史的経験と酷似しているのである。
(16) 平松紘・申惠手・ジェラルドPマクリン、『ニュージーランド先住民マオリの人権と文化』、明石書店、2000年、37〜41頁。
(17) このような観点に関連して、カンタベリー大学のG.カント博士は、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国に共通する先住民の権利回復の史的段階として次のような枠組みを提示している。すなわち、@互恵性(mutuality)、A集団殺戮(genocide)、B人道的認知(humanitarian
awareness)、C土地の収奪と人道的認知の忘却(land grabs and loss of memory)、D先住民人口の回復(demographic
recovery)、E平等主義と同化政策(egalitarianism and assimilation)、F先住性の復活(indigenous
resurgence)である(Garth Cant, "The Context of Indigenous Land Rights
in Canada, Australia and New Zealand", paper presented at the
First New Zealand Geographical Society and the Institute of Australian
Geographers Conference, Auckland, January 1992, p.6)。本稿におけるニューカレドニアとニュージーランドの枠組みは、こうしたカント博士の分類にヒントを得ている。
(18) Te Ropu Whakamana i te Tiriti
o Waitangi, paper published and distributed by the Waitangi Tribunal,
Wellington: Government of New Zealand. (注解:Te Ropu Whakamana i te
Tiriti o Waitangiはワイタンギ審判所のマオリ語表記)。
(19) Garth Cant, (1995) "Reclaiming
Land, Reclaiming Guardianship: The role of the Treaty of Waitangi
Tribunal in Aotearoa, New Zealand", The Aboriginal History, vol.19,
pp.89.
(20) 詳細はReport of the Waitangi Tribunal
on a Claim by JP Hawke and others of Ngati Whatua concerning the Fisheries
Regulations (Wai 1), Wellington: the Waitangi Tribunal, 1978.
(21) ワイタンギ審判所が2番目に取り扱うことになったこの訴訟は、マヌカウ湾南岸の地ワイアウ・パに建設が予定された火力発電所が近隣マオリたちの漁場である干潟を冷却用の池(cooling
ponds)として利用する計画をなしたことが争点とされた。同訴訟の詳細は、Report of the Waitangi Tribunal
on the Waiau Pa Power Station Claim (Wai 2), Wellington: the Waitangi
Tribunal, 1978.
(22) モトゥヌイ・ワイタラ訴訟をマオリの自然観と環境倫理の観点から論じた文献として、拙稿、「現代環境問題とマオリの自然観−カイティアキタンガ:ニュージーランド環境政策に対するマオリの役割−」、太平洋学会誌第92号(2003年10月)、33〜44頁、また、同訴訟を環境権と先住民の権利論から捉えたものとして、拙稿、「ニュージーランド法における環境権と先住民の権利−モトゥヌイ・ワイタラ訴訟報告(Wai
6)を中心に−」、憲法政治学研究会編、『憲法政治学叢書4』、成蹊堂、2004年4月出版予定を参照されたい。
(23) 同訴訟の概要に関しては、2003年11月29日に青山学院大学で開催された第38回日本ニュージーランド学会にて研究報告を行った「カイトゥナ川訴訟(Wai
4)の論点と今日的課題」の内容を日本ニュージーランド学会誌第11巻(2004年6月発行予定)に論文として発表予定。
(24) しかしながら、この時点では審判所の管轄事項は不遡及的なものであったため、土地や資源をめぐるマオリの歴史的不平は審判所の管轄外に置かれていた。その結果、ワイタンギ審判所が機能するにつれて、管轄事項の不遡及性の改正を求める声が徐々に高まり、本文後述の1985年の法改正につながったことを付記しておく。
(25) Garth Cant, op. cit., p.91.
(26) Ibid.
(27) "The Waitangi Tribunal,
Te Ropu Whakamana i te Tiriti o Waitangi: 25 Years of Service 1975-2000",
Mana, no.38(October-November 2000), pp.38-43.
(*) 本稿は、2003年11月8日の太平洋諸島地域研究所第1回研究大会(於:アジア会館会議室)にて著者が行った研究報告「ニューカレドニアにおけるワイタンギ審判所方式の可能性」の内容をもとに論文化したものである。
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