太平洋の巨人
さる4月18日、フィジーの初代首相かつ大統領でもあったカミセセ・マラ(83)が逝去。同月末から5月初旬にかけて、首都スヴァでの盛大な国葬、故郷ラケンバ地方での伝統的追悼儀式等々、マラの死を悼む様々な官民行事が、数日間にわたって執り行われた。
マラは、ニュージーランドのオタゴ大学や英国オックスフォード大学で近代教養を身につけたインテリだが、もともとラウ諸島の大酋長家系に誕生し、生まれながらに指導者となるべくフィジー的伝統の中で育てられたエリートだった。独立以来、17年間(クーデタ後の暫定政権時代も含めると通算20年)にわたって首相を務めたが、190センチを超す長身とポリネシア系の端正な顔立ち、さらに大酋長としての堂々たる物腰からくる圧倒的なカリスマ性は、まさにフィジーを率いる国家の「顔」であった。
マラの存在感は、フィジーだけにとどまらず、島嶼諸国が独立国家群として外にアピールする際の支柱的、象徴的存在でもあった。太平洋諸国のアイデンティティー表現ともなった「パシフィック・ウェイ」という言葉は、1970年の国連総会で「西洋流ではなく、パシフィック・ウェイで国造りを進める」と言ったマラの演説が発端であったし、71年、地域の独立国を束ねて「南太平洋フィーラム」(SPF:現在のPIF)を結成したのも、マラの指導力の結果だった。その他にもEUとの特恵貿易交渉や海洋法会議、環境保護問題など、次々に域内諸国を率いて国際活動を展開していった。まさしくマラは、太平洋島嶼の独立期に、いわば「太平洋の顔」として存在していた人物だったのである。
そのマラが、独立以来続いた首相の座を降りたのは1987年。都市政党である労働党が結成され、インド人政党との連立がマラの率いる同盟党議席を上回ったときだ。マラの長期政権は、強権体制で維持してきたわけではなかったから、選挙で負ければ退くのが当然だった。だが、それを認めない軍がクーデタを起し、マラはクーデタの首謀者に無理矢理首相の座に引き戻されてしまった。ここから、マラの政治的苦悩が始まる。それから今日までの十数年、フィジーは共和制への移行、2度にわたる新憲法制定、再度のクーデタなど政治的に混乱し、マラ自身も暫定政権の首相から大統領、そしてクーデタにより大統領辞任を余儀なくされるという激動を経験したのである。
伝統社会を継承すべき大酋長という立場の一方で、現代国際社会におけるフィジーの位置を十二分に認識していたマラには、フィジーの国家建設にとって国内人口を二分する先住フィジー人と移民インド人との融合が絶対必要条件であるとの信念があった。だが、こうした広く、将来を見据えた視野からの国家形成観は、独立初期段階を終えたこの国の先住民の一部に不満と不安を与え、これが、「所詮貴族の考え」、「マラは我々の手の届かぬ別世界の人」とマイナスの評価に繋がっていった。幼少の頃から、人民に奉仕するための帝王学を伝授され、科学者か医者になりたかった少年時代の夢を捨てて近代国家の建設に生涯を捧げてきたマラにとって、人生晩年に起こった政治混乱と先住フィジー人の中の反マラ評価に接して、なんとも無念であったにちがいない。
シンポジウムで来日
マラは、政治的には名誉職ともいえる大統領になってから、自らの半涯を綴った自伝「パシフィックウェイ」を出版した。ここには出生から現在まで、伝統社会、独立に至る経緯、クーデタ発生時の状況等々、フィジーの社会構造とフィジーおよび太平洋島嶼地域の現代史を理解するうえで欠かせない情報が満載されている。島嶼地域を学ぶ者にとっては、必読の書だ。そこで私はこの自伝を翻訳し、それを縁にマラを日本に呼んで皆で彼の話を聞きたいと考えた。
私が、マラ大統領の官邸に完成した翻訳書(『パシフィックウェイ・マラ自伝』小林
泉・東 裕・都丸潤子訳 慶應義塾大学出版会)を持参できたのは2000年9月。そのとき大統領は私の次なる計画に興味を示してくれたが、その直後に文民クーデタが起こり、大統領を辞任してしまった。これでもうだめか、と私はガッカリしたのだが、幸いにも事件が沈静化すると、公職から外れて身軽になったマラの環境は、かえって日本行の好条件となった。そこで私は、島嶼諸国の元大統領、元首相たちが集う会合を企画した。こうして2001年2月の二日間、大阪において本研究所主催の国際シンポジウム「パシフック
ウェイの共有」が実現したのである。マラの他にはパプアニューギニアのマイケル・ソマレ初代首相(その後4度目の首相に返り咲き、今日に至っている)、パラオ共和国のクニオ・ナカムラ前大統領など太平洋の要人や国内有識者ら20名が集う豪華なシンポジウムとなったが、ここでもマラの存在感は、居並ぶ要人の中でも群を抜いていた。本来、太平洋島嶼の酋長とは人民の上に君臨するのではなく、権威をもって人民に奉仕するというのが伝統的な姿だったが、マラはまさしくそれにふさわしい伝統的指導者のように私たちの目に映り、その場を共有した多くの一般参加者にも感動を与えた。だが、肝心のフィジー先住民たちの民意は、マラが身につけた国際的視野や時代感覚を受け入れ難かった。そこにフィジーの不幸があったように思う。今となっては、国内二大民族の融和実現以外に、フィジー政治の恒久的安定を作り出す道はないと、私も考えるからである。
ところで、「太平洋の巨人」を日本に招くことができて私は大いに満足したのだが、マラの国際舞台での活動は、持病の心臓病の悪化で、このシンポジウムが最後となってしまった。来日を決めた時すでに体調には不安があったようで、私たちはフィジー側の要請で万一の場合に備え、シンポジウム会場近くの心臓病専門病院への受け入れを準備していた。結局、日本で病院を利用することはなかったが、帰国すると間もなくニュージーランドの病院に入院、その後も入退院を繰り返す闘病生活に入り、治療入院以外に出国することができなくなってしまったのである。もともと強健を誇っていたが、クーデタ以後の心労と無理が重なって、体調を悪くしていったのだろう。こんな健康状態を押して、日本でのシンポジウムに参加してくれたマラ前大統領の好意は極めて重い。それゆえ、私自身の感謝の念は一層深まっている。
誰がマラの意志を引き継ぐか
伝統社会から近代社会へ、植民地から独立国へと、マラが活躍した半世紀は、太平洋島嶼地域がもっとも激しい変化を遂げた時代であった。それだけにこの先、たとえ抜群の資質に恵まれた人物が現れたとしても、マラのように太平洋全体を活躍の場として与えられる政治家は二度と出現することはないだろう。その意味でマラは、最初で最後の太平洋の巨人だった。
とはいえ、現在フィジーが抱える伝統の崩壊と二大民族による政情不安の問題は、近隣大国の圧力で一時的に沈静化したとしても、マラが最後まで主張して譲らなかった民族的融和が成立しない限り、根本的な解決はない。であれば、一人の巨人ではなしえなかったフィジーの国民統合を、マラの意思と思想を引き継ぐ複数指導者の出現によって実現するしか道はない。フィジーの国内問題は、フィジー国民自ら解決しなければならないからである。そのためにもこの機会に、マラの政治的業績とその思想をもう一度検証、再認識することが大事だ。それがマラへの真の追悼になると私は思うのである。