目次
(1)
ビケタワ宣言採択の経緯
(2)
宣言の内容
(3)
宣言の適用例:ソロモン諸島紛争への対応
(4)
宣言の効力と問題点
(5)
さいごに
はじめに
長らく武力紛争とは無関係であった太平洋島嶼地域も、冷戦崩壊の辺りからブーゲンビル、フィジーなど各地で武力衝突や武装勢力によるクーデターが発生するようになった。太平洋島嶼諸国は、小国であるがゆえに大規模で強力な軍隊を保持していない。そのため、民族対立や部族対立などに脆弱で、一国のみの紛争解決は難しいのが現状である。また、最近の相互浸透状態の国際関係では、ヒト・モノ・カネが国境を越えやすく、従って武器の流入も容易になったことが、各地で起こっている紛争を助長しているのであろう。
1998年から続くソロモン諸島の部族対立も、この地域に重大な影響をもたらしており、ソロモン諸島一国では解決できずに、主に地域の国際機関である太平洋諸島フォーラム(以下フォーラム)がそれらの紛争解決に腐心してきた。様々な試みがなされたが、2003年6月には、ソロモン諸島政府の要請によりフォーラム加盟国の軍隊が治安維持のために派遣され、治安を回復するのにほぼ成功している。
オーストラリア、ニュージーランドおよび島嶼諸国の計16カ国で構成するこのフォーラムは、これまで域内的には経済や開発、環境問題に取り組んできたが、1990年代前半以降、政治的問題にも目を向け始め、紛争の解決に積極的に取り組むようになった。これまで4つの安全保障に関する宣言が発せられているが、その中でも2000年の第31回フォーラムで採択されたビケタワ宣言は、域内の軍事的な紛争解決への道筋をつけた極めて重要な宣言であり、2003年のソロモン諸島への地域支援団派遣の際は、この宣言が初めて適用された。
本論は、ビケタワ宣言採択の経緯や内容を解説し、次に宣言の適用例をソロモン諸島紛争のケースに当てはめて考え、さらにビケタワ宣言の国際法における位置付けや問題点にも触れたい。最終的に、このビケタワ宣言が、太平洋島嶼地域の安全保障に関する何らかの規範となっているのかという点にも踏み込んでみたい。
(1)ビケタワ宣言採択の経緯
近年地域的国際機関の役割が注目をされているが、島嶼地域におけるフォーラムとその事務局も重要な存在である。1971年に結成されたこの地域的国際機関の政治的役割は、当初は非核地帯の設置とニューカレドニアなどの独立運動の支援という、域内諸国と域外諸国(主にアメリカ・フランスなど)との関係にほぼ限定されていた。ところが、1980年代後半、フィジー、ニューカレドニア、ヴァヌアツ、パプア・ニューギニアで立て続けに紛争が発生したのを契機に、その流れは一変する。ベン・レイリーの論文によると、1980年代後半からの傾向として、それまで定着していたかに見えた島嶼地域内の民主主義制度が揺らぎ、政治制度の弱体化、民族アイデンティティーの複雑化など、地域の“アフリカ化”が進行していると警鐘を鳴らしている(1)。核実験や放射性廃棄物の不法投棄、独立運動など、1980年代までフォーラムは主に対外的な安全保障に関心を払ってきたが、これらの紛争を機に、域内における安全保障とその脅威に対し重大な関心を示すようになった。実際起こっている一国内の民族紛争や部族対立に対して、それまで国内問題不介入の原則を貫いてきたこの地域機関が、いかに対応できるかを検討し始めたのである。
1990年代前半以来、域内の安全保障問題に関しては、フォーラムが主な役割を担ってきた。毎年開催される首脳会議の際に採択されるコミュニケと呼ばれる最終文書に、安全保障のミクロからマクロな問題までを盛り込み、各国・各勢力などに要請をする他、現在まで、主に4つの安全保障に関する宣言を採択している。それは1992年の「司法協力に関するホニアラ宣言」、1997年の「地域安全保障に関するアイトゥタキ宣言」、2000年の「ビケタワ宣言」、2002年の「ナソニニ宣言」である。
これらのうち、ホニアラ宣言、アイトゥタキ宣言、ナソニニ宣言はいずれも極めて抽象的で、問題の長期的な解決を探っているのに対し、ビケタワ宣言は、域内の国際・国内紛争に対して、フォーラムとして、また加盟国がいかに対応できるかの具体性を示した指針となっている。第31回フォーラム首脳会議の議長であったキリバスのテブロロ・シト大統領は、Australian
Financial Review誌に、ビケタワ宣言採択に関して、「もはや平和の地でなくなった我々の村(ここでは太平洋地域を指す)において、今回初めて共通の規範(Common
rules)を導入することになった」と語っている(2)。
なぜビケタワ宣言がこの時期に採択されたかについては、2000年当時の背景を考えなければならない。この年、太平洋地域には2つの紛争が連続して発生した。一つはフィジーでの武装グループによる国会襲撃事件(文民クーデター)、二つ目はソロモン諸島で発生したガダルカナル人勢力とマライタ人勢力との部族対立である。ところがそれらの紛争について、フォーラムは首脳会議で遺憾声明を発しただけで、それ以上の行動を取ることができなかったのである。代わってオーストラリアやニュージーランド、英連邦による限定的な制裁実施や平和維持軍派遣の検討など、一国もしくはフォーラム外による介入や制裁、調停が行われた。すなわち地域内の安全保障の問題に関して、これまでホニアラ宣言などを採択してきたフォーラムだったが、フィジーやソロモン諸島で実際に発生した紛争を前に活動の限界を露呈した。そこで予防を含めてこれから起こり得る突発的、危機的な紛争に対して、いかに対応するかという指針が必要となった。これを示したのがビケタワ宣言だと言える。ニュージーランドのヘレン・クラーク首相は、Australian
Financial Review誌に、「(ビケタワ宣言採択の)動きは、これまでの対話に基づいたものから大きく一歩を踏み出し、重要な地域的国際機関になることを可能にさせた」と語り(3)、また同氏は、フィジーの有力雑誌であるIslands
Business誌にも、「創設以来30年の時を経て、フォーラムはついに成熟した地域的国際機関になった」とも述べている(4)。
フォーラムの中の超大国であり、常に指導的役割を果たすオーストラリアは、太平洋地域への具体的な安全保障措置の導入、特に近年、軍事的な措置の実施に極めて積極的であると言われている。1980年代前半に誕生した労働党政権時から現在のハワード自由党/国民党連立政権まで、隣国として、また域内超大国として、地域の安全保障に常に重大な関心を示してきており、政治的・経済的な危機に対して援助を惜しまないとする外交政策が依然として引きつがれている。特にエバンズ前外相は、在任中、自身の著書において、「建設的関与(Constructive
Commitment)」という言葉を用いて、地域諸国との関係をオーストラリア外交の最重要課題とし、平等互恵やパートナーシップを基礎とした経済支援、防衛協力などの援助を行う用意があると述べている(5)。また2003年に発表された外交政策白書
“Advancing the National Interest”で、太平洋島嶼国の主権を尊重しつつ、政治的・経済的な問題が生じれば援助する用意があるとしている(6)。他の大国がそれほど関心を示さない“太平洋島嶼地域”という隙間を見つけ、その外交に専念する“隙間外交”(7)(ニッチ外交とも呼ばれる)は、政権が交代しても政策に変化はないのである。
しかしホーク・キーティング労働党政権は、軍事的介入や援助の実施は他の加盟国だけではなく国際的な反発を招くのではないかと一貫して慎重になっていた(8)。ブーゲンビル紛争の際、オーストラリアは1994年に「南太平洋平和維持軍」として軍事的援助に参加しているが、その役割は監視的な役割に限定されていた(9)。というのも、当時のオーストラリア軍は、他国の治安維持を目的とした長期間の部隊の派遣には構造上限界があったからである(10)。
1996年3月に保守政権に移行したオーストラリアは、1998年の停戦監視を目的としたブーゲンビルへの軍隊の派遣を皮切りに、1999年の陸・海・空三軍合同による緊急展開部隊の編成、東チモールへの平和維持軍派遣、そして国内外から非難を受けた9月のいわゆる「ハワード・ドクトリン」発言(11)と、着々と労働党政権時の軍事的不介入の原則を変更し、オーストラリアを取り巻く地域紛争への軍事的アプローチを積極的に採用してきた。またアレクサンダー・ダウナー外相は、ビケタワ宣言が採択される前の2000年7月17日、シドニー・インスティチュートでの演説で、国際社会が紛争解決の際にとるべき手段として、制裁や国際司法制度と同様に、軍事的介入の重要性を強調している(12)。特に1999年の東チモールへのオーストラリア軍の派遣は、ベトナム戦争以来の海外派遣であったのみならず、史上初のオーストラリア主導の軍事的措置であった。そして死者なしに平和維持の任務が遂行され、一定の成果が得られた結果、当局は地域紛争への介入や支援に大きな自信をつけたのである。
(2)ビケタワ宣言の内容
ビケタワ宣言は、大きく2つの条項で構成されており、第2条でフォーラムとしての域内紛争への具体的関与の方法や指針が述べられている。ここには、「紛争による重大局面、あるいはその他の重大局面がフォーラム加盟国に発生した場合、その国の援助要請に応えるために、フォーラムが取り得る措置の必要性をはじめに認識した上で、フォーラム事務総長はフォーラム議長と協議して、あらゆる過程に緊急に着手しなければならない」とある。すなわち紛争に対するフォーラムの、それもフォーラム事務局のトップである事務総長の役割を強調している。事務総長は、紛争の状況や重要性を把握し、更なる措置の検討をフォーラム議長やその他の加盟国首脳と開始しなければならない。
そして第2条(iii)にはフォーラムとしての措置を決定するために緊急外相会議を主宰するとある。この外相会議では、以下に述べる7つの中の1つ、または複数措置の決定ができることになっている。その措置とは、
(a) フォーラム加盟諸国の意見を代表した声明の発表
(b) 閣僚行動グループの創設
(c) 事実調査、またはそのような委員会の設置
(d) 賢人グループの創設
(e) 第三者による仲介
(f) 紛争解決を支援する機関やメカニズムへの支持
(g) フォーラム地域安全保障委員会の高官レベル特別協議、もしくはフォーラム特別閣僚会議の開催
である。以上の措置により紛争が解決できなかった場合、更なる必要な措置の検討のために、フォーラム特別首脳会議を開催すると第2条(iv)で述べられている。
また、ビケタワ宣言の付属文書Aは、紛争解決措置を行う際に、7つのガイドラインを定めている。それを要約すると、
(i)
フォーラム加盟国の協議による措置の検討
(ii)
紛争解決のための公正・公平な仲介
(iii)
整合性を持った紛争解決手段
(iv)
措置の継続性と完結性
(v)
他の国際機関・地域機関との協力
(vi)
コンセンサスを得られるような紛争解決
(vii)
介入(intervention)の際は、コスト効率良く行わなければならない
となる。その中で注目すべきは(vii)の“介入”であろう。すでに述べたように、ビケタワ宣言は地域紛争に対する加盟国の介入を容認したものであるが、“介入”という言葉はここにしか表れてこない。軍事的介入方法を容認しているのか、非軍事的介入のみに限定しているのかは明確ではないが、後述するビケタワ宣言第1条にある内政不干渉の原則は遵守する必要があり、一方的な介入である軍事制裁や経済制裁は、この“介入”には含まれないものと考えられる。実際、ビケタワ宣言採択の過程で、オーストラリアとニュージーランドは、当時のフィジーのような民主主義を逸脱する国に対して、フォーラムが今後経済制裁措置を行えるために、ビケタワ宣言に“経済制裁”という文言も加えるべきだと主張し(13)、他の加盟国に対してロビー活動を行ったが、フィジーの強い反対で、その目論見は叶わなかった(14)。これについてフィジー代表はビケタワ宣言採択の際、「メラネシア諸国とミクロネシア諸国のサポートにより、ビケタワ宣言を骨抜きにすることができた」とまで、Islands
Business誌に語っている(15)。
第1条(vii)にある紛争の平和的解決という行動指針を鑑みれば、ビケタワ宣言における“介入”の意味とは、すなわち軍事制裁や経済制裁をはじめとする強制的で一方的な介入は容認できないが、紛争の当事国からの要請があれば軍事的な介入も容認されると解釈できる。すなわち、軍事的援助ということになる。
一方、フィジーは、ビケタワ宣言が加盟国への制裁を課すものになるのを防ぐために “内政不干渉の原則”を宣言に盛り込むように要求し、各国から支持された。その原則は第1条のはじめの部分に謳われている。その宣言の第1条は、
「太平洋諸島フォーラム加盟国首脳は、1995年の“良い統治”に関する8原則と、1997年のアイトゥタキ宣言を想起した。地域協力の更なる発展とこれまでの安全保障への取り組みをいっそう発展させることを目的として、加盟国の内政への不干渉の原則を踏まえつつ、加盟国はいくつかの行動指針・方針を明確にする。」
という文章で始まっている。以下はフォーラムやその加盟国が取るべき安全保障や政治一般に関する行動指針や方針が7つ挙げられている。それを要約すると、
(i) “良い統治”(Good Governance)の実現に取り組む
(ii) 加盟国個人の不可分な政治参加の権利の尊重
(iii) 民主的政治過程や機能を支持
(iv) 公正な経済的・社会的・文化的発展への認識
(v) 文化的価値や伝統、習慣などの尊重と保護
(vi) 加盟国の安全保障の脅威に対する脆弱性(Vulnerability)を認識
(vii) 紛争の平和的解決
であり、(vii)を除いて、いずれも長期的な政治的・安全保障的課題を視野に入れており、第2条と比べ極めて具体性に欠けている。例えば(vi)は地域内の安全保障の脅威に対する脆弱性を認識するとあるが、具体的に地域や加盟国として何が安全保障の脅威であり、いかにそれに対して脆弱であるか、ビケタワ宣言では全く触れられていないのである
(16)。
しかし域内の民主化支持やその促進を明示した(i)・(ii)・(iii)は注目すべきであると考える。制裁か内政不干渉かで議論が分かれた上述の介入の問題の根幹は、フィジー問題に端を発している。2000年7月、誕生したばかりのフィジー・ガラセ政権に対し、オーストラリアとニュージーランドは限定的な制裁(17
)を行い、フィジーはそれに強く反発していた。また他の太平洋諸国は、両国の制裁に参加しなかった。その問題が、結局同年10月のフォーラム首脳会議に持ち込まれたのである。つまりはフィジー問題を含めて、今後フォーラムとして、制裁という“強制力”によってフォーラム加盟諸国の民主化を促進しようとする民主主義国のオーストラリアやニュージーランドと、それに反対する民主主義国家とは言い難い当時のフィジーなどの意見が対立し、結局前者の主張は支持されなかった。ところが、少なくとも地域内の民主化支持とその促進を宣言に明記したことは、政治体制が様々に異なる太平洋諸国にとり、民主主義政治体制の実現というある一定の方向性を示したものとして注目される。従って、2000年に起きたフィジーのケースように、武力で権力を奪取するようなことが今後起きた場合、その政権に対する風当たりは強まりそうである。
(3)ビケタワ宣言の適用例:ソロモン諸島紛争への対応
ビケタワ宣言の最初の適用例となったのが、ソロモン諸島の紛争である。2000年8月のハロルド・ケケの投降と武装解除により終結したソロモン諸島紛争は、近年の太平洋地域における最大の武力紛争であったといえる。ここでは、フォーラムとその加盟国が、ソロモン諸島の紛争に対して、どのようにビケタワ宣言を適用させたかを見てゆく。この紛争の詳細な経緯は、小柏葉子(18)やエルシナ・ウェインライト(19)、岩田哲弥(20)の論文を参照していただきたいが、ここでも簡単に紛争発生の原因や経緯を述べておこう。
ソロモン諸島では、1978年のイギリスからの独立以来、1997年まで5回総選挙が行われ、ほぼ安定した民主主義体制を維持していた。しかし木材や魚などの一次産品輸出という脆弱なソロモン経済は、折からのアジア通貨危機の影響をまともに受け深刻な財政危機に陥り(21)、国は政治的にも非常に混乱していた。その不満が、1998年12月から、首都のあるガダルカナル島のガダルカナル人と、隣の島であるマライタ島からガダルカナル島に移住してきたマライタ人との間の衝突となって爆発したのである。ガダルカナル人はイサタブ解放運動
(Isatabu Freedom Movement) を、マライタ人はマライタ・イーグル・フォース (Malaita Eagles
Force) をそれぞれ組織し、ライフルやマシンガンなどの小型武器で武装し、両者の武力衝突に発展した(22)。
2000年6月には、当時の首相であったウルファアル首相が、マライタ・イーグル・フォースという非国家の武装勢力に監禁されるという、前代未聞の事件が起こる。ソロモン諸島は独立以来軍隊を保持せず、イサタブ・マライタの両武装勢力の登場で、国家として治安を維持してゆくことが困難になったのである。首相監禁事件は、治安を維持できない国家・ソロモン諸島を象徴した出来事であった。ウェインライトは、このようなソロモン諸島の状態を、ソマリアやリベリアなどが陥っているFailed
State (解体国家) になる可能性を示唆した “Failing State”(敢えて訳すなら解体しつつある国家)と称している(23)。
治安維持ができず、解体しそうな国家であるソロモン諸島にも、一様は総督・首相以下政府が存在しており、あちこちの国や機関に援助・介入を要請した。英連邦やオーストラリア、ニュージーランドによる調停工作、太平洋諸国による多国籍警察援助グループや国際平和監視チームの派遣など様々な試みがなされた。その結果、2000年10月には、政府と武装勢力との間でタウンズビル和平協定が締結され、その翌年には総選挙が開催された。
ビケタワ宣言は、タウンズビル和平協定が締結された直後に採択されたわけだが、そのビケタワ宣言が最初に適用されたのは、2001年12月5日の総選挙の際に組織された国際選挙監視団への「太平洋諸島フォーラム監視グループ
(Pacific Islands Forum Observer Group)」の派遣であった。そのことが、翌年2002年8月開催の第33回フォーラムで採択されたコミュニケの中で明確に述べられている。これまでフォーラム加盟国は、それぞれブーゲンビルなどに選挙監視団要員を派遣したことはあるが、フォーラムとしての要員派遣は、2001年11月27日付けの対記者声明にあるように、創設以来初めてであった
(24
)。このグループは、フォーラム事務総長とソロモン諸島政府、他のフォーラム加盟国と協議の上で結成されたもので、ミクロネシア連邦の元副大統領や当時のパプアニューギニアの判事など7人によって構成され、選挙が公正に行われているかをソロモン諸島全土に於いて監視することが任務であった。
選挙監視団を構成・派遣するという文言は、ビケタワ宣言にはないが、敢えて選挙監視という行為の根拠をこの宣言から見つけ出そうとすれば、第1条(iii)の民主的政治過程の支持、及び(vii)の紛争の平和的解決、第2条(iii)(e)の第三者による仲介、及び(f)の紛争解決を支援するメカニズムへの支持が当てはまるのではないか。
(4)宣言の効力と問題点
フォーラム首脳会議で採択されたコミュニケや数々の報告書には、ソロモン諸島紛争でビケタワ宣言が果たした役割の重要性が強調されている。また、前述の2003年7月24日に締結されたRAMSI派遣に関する多国間協定の前文にも、ビケタワ宣言が引き合いに出されている。ビケタワ宣言は、これほどソロモン諸島紛争の解決に一定の役割を果たしたのである。
吉村祥子らが唱える「国際機構法」(28)が未だ確立されていない現状では、国際法としてビケタワ宣言を議論するのが妥当であるが、ビケタワ宣言は国際法上どのように位置づけることができるのか、あるいは国際法的に見て問題点があるか否かを、ここでは追求してゆきたい。
国際司法裁判所規程第38条は、(1)条約、(2)国際慣習、(3)文明国が認めた法の一般的原則、さらに補助的手段として(4)国際法学者の学説並びに(5)裁判における判例の5つを国際法の法源と定めているが、ビケタワ宣言はこの5つの法源のいずれにも当てはまらない。それでは、なぜビケタワ宣言を国際法として議論する余地があるのか。それは国際司法裁判所規程38条が定める法源に加え、近年、国際機構や国際会議での決議や宣言も国際法上の規範として認めよう、さらには国際法の法源に加えようという動きがあるからである。少なくとも、イラクやソマリア、ボスニアなどへの介入を容認した国連安全保障理事会の決議は、加盟国に対し拘束力を発生させるので、完全な国際法とは言わないまでも、法に近いものとして近年認識されている。また基本的には拘束力はなく勧告のみに留まる国連総会決議も、「植民地独立付与宣言」や「友好関係原則宣言」などのように、これまで国際関係上大きな役割を果たしてきたものが多い。その他にも、国際会議での宣言、行動原則、行動指針、モデル規則、紳士協定など義務性がほとんどないものを一般的にソフトローと呼び、“法”と“非法”との中間段階にある規範として位置づけ、何らかの法的効力を認めようという傾向がある(29)。
ビケタワ宣言は、このソフトローに当たると考えられる。宣言を採択したフォーラムは、他の国際機構とは違い、極めて特殊な経緯で設立された。1971年に始まった太平洋諸島フォーラム(当時は南太平洋フォーラム)には、設立条約というものがない。設立以来、毎年1回の会議が加盟国の持ち回りで開催され、最終日にコミュニケとよばれる文書が採択されるが、このコミュニケは、他の国際機関が採択する決議(Resolution)とは意味を異にする。すなわち設立条約がないために、コミュニケが加盟国に対し拘束力を持つ決議として正式に認められてないのである。またコミュニケ以外に採択された文書も、同様に拘束力はないと考えてよい。従って、ビケタワ宣言は拘束力のない規範、すなわちソフトローである。
国際法的な効力を多少なりとも持つビケタワ宣言ではあるが、効力の他にも問題を抱えているように思う。その一つが、紛争当事者の問題ではないだろうか。ソロモン諸島の紛争では、マライタ・イーグル・フォースとイサタブ解放運動という非国家の武装勢力の台頭により、当時のケマケザ政権が国内の安全と秩序を維持できずに、フォーラム加盟国の支援を受けたが、ケマケザ政権は曲がりなりにもソロモン諸島という国家の正当な代表であったため、支援する相手が明確であった。しかし、ソロモン諸島のようにFailing
Stateな状態であれば問題はないが、Failed Stateのように中央政府がもはや存在をしなくなった時、どの勢力の代表と協議すればよいのか、どのように対処すればよいのかが問題となる。これまでそのような紛争は、太平洋島嶼地域には発生していない。
次に指摘されるのが、ビケタワ宣言による紛争への対処方法である。ビケタワ宣言は地域内において発生した紛争に対し、軍事を含めた域内諸国による対処方法を認めた画期的な決議であることに疑いの余地はないが、その方法は、声明の発表や閣僚行動グループの設置、事実調査委員会、賢人グループ、フォーラム加盟国外相会議など、極めてソフトであり、尚且つ期間を要する方法だと言わざるを得ない。RAMSIは、フォーラムとは別に多国間の条約として設立されたものであり、フォーラムのそれに対する役割はRAMSIに対してお墨付きを与えたのみである。
ところが、もしツバルやキリバスのような軍隊を持たない極小島嶼国(30)で主権が何者かによって侵略された場合、このような方法ではそれらの主権を守ることはできないのではないか。1988年に傭兵という非国家の戦闘要員に侵略されたインド洋の極小島嶼国・モルディブは、自らの軍事力・警察力では傭兵の侵略を防ぐことができずに、地域的国際機関である南アジア地域協力連合(SAARC)に援助を要請せず、隣国であるインドに軍事支援を要請して、傭兵の侵攻を退けた。ソロモン諸島紛争の場合は、モルディブのように直ちに主権が崩壊するかもしれないという非常に危機的な状態ではなかったので、ビケタワ宣言に則った介入が一定の成功を収めたが、緊急に加盟国の主権が侵された場合、現在のビケタワ宣言では対処できない。
また同じ対処方法に関して、軍事・経済援助のみに限定するのか、それとも軍事的・経済的制裁を含めた介入にその範囲を広げるのかを巡り、実質的なコンセンサスがフォーラム加盟国内にできていないと考える。上記で触れたように、ビケタワ宣言が採択された際、紛争への対処方法を巡り、オーストラリア・ニュージーランドなどのいわゆる「介入派」が経済制裁を含めた方法を主張したのに対し、フィジーなどの「援助派」が主権絶対尊重の立場から反対し、結局後者の意見が多数を占めたため、ビケタワ宣言に“制裁”という文言は記載されなかった。これに介入派はかなり不満を示し、コンセンサスを信条とするフォーラムに大きな亀裂が走った。2002年8月にフィジーで開催された第33回フォーラム首脳会議で、安全保障に関する新たな宣言である「ナソニニ宣言」が採択されたが、その際にも結局制裁という文言は見られず、介入派の主張は再び受け入れられなかった。
(5)さいごに
これまでに繰り返し述べてきたように、ビケタワ宣言は域内に発生した紛争に対する対処の方針を示し、それを“法的に”(拘束力を伴わないソフト・ローではあるが、敢えて“法的”という言葉を使った)認めた画期的な規範である。確かに、ソロモン諸島の紛争解決には、小柏葉子が述べる英連邦やオーストラリアの役割、岩田哲弥が述べるY・サトー議員の役割など、様々な要素が働いたのは事実であるが、やはりビケタワ宣言に基づいたフォーラムの役割とフォーラムが容認したソロモン諸島地域支援団・RAMSI派遣が、紛争解決を早めたのではないか。ソロモン諸島での実績を踏まえ、今後もフォーラムはビケタワ宣言に則って、積極的に域内で発生した紛争に関わってゆくであろう。
しかし、紛争は一国家内の武力衝突に限ったものではない。二国間以上の紛争もあれば、テロリストによる爆弾事件、クーデター、傭兵侵攻など、紛争の形態は様々である。どのような紛争が今後太平洋地域で発生するかは、誰にも予測はつかない。従ってビケタワ宣言が、紛争当事者の要請や同意なしに軍事的措置を行うことを含む“介入”まで適用範囲を広げるのか、あるいは紛争当事者の要請や同意のみに対応する“援助”という従来の方針を維持するのか、これからの動向が注目されるところである。
それと同時に、ビケタワ宣言の行方を考える上で非常に重要なのが、域内で圧倒的な国力、とりわけ軍事力を保持するオーストラリアの意向や外交政策ではないかと思われる。近年、東チモールやソロモン諸島に軍隊を派遣してそれらの治安維持に当たって、一定の成果を収めたオーストラリア軍の役割は、地域内でも注目されている。ところがビケタワ宣言に関する議論でオーストラリアは、経済制裁導入を推進する「介入派」であり、ニュージーランド以外のフォーラム加盟国内との間には、紛争に対する対処方法に関して温度差がある。今後域内で紛争が発生した場合、オーストラリアがどのような対応を取るのか、また他のフォーラム加盟国がそれに対してどのような反応をするのか、注視しなければならない。