(1) はじめに
2000年1月、前年の総選挙で多数派を占めた統一民主党(United Democratic Party; UDP)の支持を受け、ケサイ・ノート国会議長が大統領に選出された。マーシャルでは史上初の平民大統領の誕生であった。国民は、大統領が約した汚職追放・政治改革の断行する姿勢を歓迎し、新政権に対し大いに期待した。
1999年の総選挙は、建国後初めてイマタ・カブア大統領率いる政権与党とノート議長率いるUDPとの二大政党による選挙戦となった。すなわち、事実上アマタ・カブア政権から引き継いだ伝統的権威を背景にした前者と、民主主義制度に則った政党政治を主張する後者との争いであった。当初は、政権与党側が、マーシャル独自の選挙制度を利用し、伝統的支配者層(1)の支持を受けて政権を維持するものと予想されていた。というのも、結成されたばかりのUDPは、ノート議長をはじめとした政権与党からの離脱者と少数野党グループ(2)の寄せ集め政党であったため、現選挙制度の下では極めて不利とみなされていたからである。しかし結果は、UDP候補者が現職議員を破り、議会における多数派を占め、政権を獲得した。その後、UDPは2003年の選挙でも議会の過半数を獲得し、政権を維持している。この政権交代への一連の流れは、マーシャル国民による政治の民主化を求める動きと受け取ることもできるだろう。
本稿では、UDPが政権交代及び政治基盤を確立した2度の総選挙(1999年及び2003年)に至る動きと選挙結果を分析し、伝統的支配層による政治から政党政治へと移行していく政治の「民主化」のプロセスについて考察していく。まず、伝統的支配層による政治を支えることに繋がってきたマーシャル独自の選挙制度の特徴を示す。次に政権交代によるノート政権発足の過程から第二次政権に至るまでの流れについて選挙戦術を中心に概説し、その戦術の有効性について選挙結果をもとに分析する。最後に上記の分析をもとに、UDP政権の課題とマーシャルの政党政治の可能性について言及する。
(2) マーシャルの選挙制度
UDPの選挙戦術を見ていく前に、マーシャル独自の選挙制度の特徴について触れておく。マーシャルの選挙制度に関しては、1979年に制定された憲法において規定されている。
一つは、マーシャル独特の複数議席選挙区の存在である。憲法の規定では、国会議員選挙区は24、議員定数は33人であり、通常1選挙区1議席の小選挙区制であるが、マジュロ(5議席)、クワジェリン(3議席)、アイリンラプラプ、ジャルート及びアルノ(各2議席)選挙区は複数議席となっている(憲法第4条2項(1)号)。さらに、複数議席選挙区では、投票者は複数の立候補者に投票できる。例えばマジュロ選挙区の投票者は、5人の選挙人登録者に投票することができる(憲法第4条2項(2)号)。
もう一つは、小選挙区(1議席)の離島選挙区を中心とした離島選挙登録制度である。憲法の規定では、投票者もしくは立候補者は、現在の居住地または土地権利(所有権、貸借権、小作権)を有している土地において選挙登録・投票ができることになっている(憲法第4条3項(3)号)。このことが選挙登録者(選挙人)の移動に繋がっている。移動登録者の多くは、自己の支援候補者に投票するために出身地の離島に登録する傾向にある。事実これまでの選挙において、マジュロやイバイという都市における居住者投票が離島居住者投票を上回り、選挙結果を左右してきた。また、居住地以外に土地の権利を有している選挙区においても選挙登録・投票ができることから、選挙ごとに選挙登録地を変更することも可能であり、有権者数の変動が著しいという特徴もある(3)。
こうしたマーシャルの選挙制度に関して、ジェーン・ディブリンは著書の中で次のように述べている。
「現在マーシャルで行われている選挙制度は、イギリスとアメリカのモデルを組み合わせたものである。しかしマーシャル人の中では、それが古い社会構造の上継ぎ合わされたものであるので、選挙で得た権限と伝統的な権力をうまく結合させている人がいることを非常に懸念している人々がいる。…(中略)…大統領のアマタ・カブアは、同時にイロージラプラプ−王の中の王−でもあるので、これらの権限を結合し、揺るぎない地位を確立しているとされる」(p.335)(4)
この記述からもわかるように、マーシャルの選挙制度は、英米の選挙制度をモデルとしていながらも、アマタ・カブアを中心としたイロージという伝統的支配者層が、その地位を近代的政治制度に反映させるために作り出した制度である。その結果、従来の選挙では国会議員の選出において、それぞれの地域のイロージの意向が強く反映される傾向にあった。つまり、居住地以外に土地の権利関係のある地域での立候補を認めることや複数議席選挙区での複数候補を選択できることによって、伝統的な身分制度の影響を間接的に残そうとした。確かに1995年の総選挙まではこの目論見は成功し、国会はラタック及びラリック両列島にまたがるイロージラプラプとしての伝統的権威を持ったアマタ・カブア大統領を支えるべく、圧倒的多数の与党議員で占められていた(5)。
(3) UDP政権への歴史的変遷
上記のような伝統的支配者層の権限を維持するべく作られた選挙制度に対して、民主政治を標榜するUDPはどのような選挙戦術で政権交代を成し遂げ、ノート政権を確立させたのか。まずは、アマタ・カブア大統領以後の政権の歴史的変遷と選挙結果の概要を述べていく。
(a)
政権交代にむけての動き―イマタ・カブア政権の誕生と政治的混乱−
マーシャル諸島共和国は1979年に米国信託統治領より独立以来、首都マジュロのイロージラプラプでもあり、第二の都市イバイ(クワジェリン環礁)を含むラリック列島のイロージでもあったアマタ・カブア初代大統領が、伝統的権威と近代民主政治システムを両方利用しながら国家建設を行なってきた。すなわち、彼は民主主義国家の代表である大統領となり米国や日本などと外交交渉を行いながら、各ドナー国から経済援助を引き出す一方で、土地所有問題等の国内問題に関してはイロージラプラプとしての伝統的権威を背景にリーダーシップを発揮した。また、33名いた国会議員の多数は酋長筋であったため、政治運営上で支障を来たすことは極めて少なかった。こうした、いわばアマタ・カブア大統領の個人的な資質に依存する政治運営は、一方では不必要な妥協や議論に振り回される必要がなく、長期的な視野に立った国家開発をすすめられるというメリットがあった。
1996年12月アマタ・カブア大統領が死去すると、後継政権を確立する必要が出てきた。ところが、これまでアマタ・カブア大統領の個人的資質に基づく政治が行われてきたため、次期政権の首班指名をめぐり混乱が生じた。翌年1月の国会開会冒頭、旧政権の閣僚の大部分を引き継ぐという条件の下で、アマタ・カブア大統領の従兄弟で、ラリック列島のイロージラプラプの一人であるイマタ・カブアが2代大統領に就任した。
当初は「米軍基地のあるクヮジャレインの大酋長として、アメリカとの基地使用交渉に辣腕をふるうものと期待」(p.3)(6)されたものの、国会審議中でも飲酒泥酔するなどの個人的資質や一部閣僚の職権乱用による私利私欲的な政策が問題となり、国民の間で政権自体への嫌悪感が高まり、国民は「イマタ・カブア政権下の政治の混乱=伝統的権威に基づく政治の弊害」とみなすようになっていった。
とりわけイマタ・カブア政権下で大きな問題となったのは、ギャンブル法案をめぐって裁判所を巻き込み繰り広げられた一連の不信任動議である。フィリップ・ムラー外相やトニー・デブルム議員が音頭をとったギャンブル法案は宗教界を中心とする国民からの猛反対を受け、大統領派とノート国会議長派とで対立、不信任案が提出され、その後3ヶ月近く院内混乱ないし政治的空白が生じた(7)。イマタ・カブア政権不信任決議案が10月16日に否決され、不信任案を支持したケンダル資源開発相は辞任し、反大統領グループに加わった。反対派グループ16名は不信任否決後、政府改革党(Government Reform Party)を結成し、党首選びにとりかかった。その後、1999年の選挙に向けて、政府改革党が中心となり政党政治を目指し成立したのがUDPである。
もっとも、マーシャルでは議会が混乱しても、イロージ制度が生活上で重要な役割を果たしており、家族間の繋がりが強いため政情不安による治安の混乱や暴動の発生といった事態は考えられない。しかし一方で、強力な指導者の下で一致団結して国家の発展、特に経済発展に努めるといった状況は当分期待できなくなった。とりわけ国民の間では、2001年9月末に切れるコンパクト協定の継続をめぐる交渉に対して不安を高めることになった。
(b) 第7回総選挙−政権交代へ向けた統一民主党の攻勢
こうした政治的混乱を受けて、1999年11月15日、第7回総選挙が行われた。選挙戦が始まると、UDP側は、「説明責任(accountability)」「透明性(transparency)」及び「良い統治(good governance)」という三つのスローガンを掲げ、候補者が団結して、イマタ・カブア政権批判を展開した。特にマジュロでは、党公認の5人の候補が一団となって市内各地で選挙キャンペーンを繰り広げ、それぞれの候補の支援者に対して、自らはもちろん同党が公認する他の4人の候補者にも投票するようにという「ブロック投票」を訴えた。一方、離島地域に対してもジェラルド・ザキオス検事総長やマイク・コーネリアス運輸通信次官ら国民に広く知られている高級官僚を候補者に担ぎ出し、イマタ・カブア派の現職候補と互角に戦いをすすめた。
また統一の公約として「腐敗追放キャンペーン」を訴え、政府の退職金ファンド流用問題や旅券販売問題等を指摘し、これらの問題の調査・是正を約した。さらに支持者を利用した家庭訪問や教会などのコミュニティ訪問等を積極的に行い、草の根レベルでの選挙運動を展開した。一方、政権与党側は、従来の伝統的指導者頼みの選挙戦を進めるとともに、減税や良好な外交問題をアピールした(8)。
こうした選挙戦の結果、獲得議席では政府与党・イマタ・カブア派が解散以前の19議席から14議席へと激減し、野党・UDPは14議席から19議席となり、過半数を獲得した。政権与党派では、トニー・デブルム蔵相、フィリップ・ムラー外相、エモス・ジャック法相、ジョンセイ・リクロン資源開発相という現職大臣が次々と落選し、政権交代を印象づけた。有権者は、UDPの進める腐敗キャンペーンを中心とした政党重視の選挙戦に政治の変化を感じ、クリーンな政治、私利私欲に走る閣僚の排除、大統領の指導力回復、議会制民主主義の確立等をUDPに期待した。選挙結果に対して、UDPの中心人物の一人であるアルヴィン・ジャックリック議員は「国民がUDPに政治改革の機会を与えてくれた」と述べている(Marshall Islands Journal,1999.12.2)。
その後12月後半には、イマタ・カブア派による新人当選者を引き抜くための多数派工作も行われたが、結局UDPの有利は崩れず、翌年1月に行われた国会議員による大統領選出選挙ではイマタ・カブア大統領が出馬せず、UDPが推薦したノート国会議長が大統領に無投票で当選した。
(c) 第一次ノート政権−「政治改革」と改訂コンパクト交渉
ノート大統領は非常に温厚・誠実な性格であり、アマタ・カブア大統領に忠実で非常に愛された。それゆえに3期連続して国会議長に推薦された。イマタ・カブア大統領とはギャンブル法案をめぐり対立し、政権与党から離脱しUDPに参加、総選挙ではリーダー的役割を果たし、政権交代の結果、第三代大統領に就任した。
第一次ノート政権にとって最大の懸案は、改訂コンパクト交渉であった。新政権発足のため停滞していた改訂コンパクト交渉は、2001年7月から本格的に始まった。当初は、第一次コンパクト協定と同程度以上の水準を求めるマーシャル側と、負担を軽減させたい米国側との間で調整が順調に進まなかった。マーシャル側は交渉人を変更し、国家開発計画を示した「VISION 2018」(9)を作成しながら、改定交渉のための猶予期間に入った12月に漸く正式の改訂要求案を提出した。2002年11月にマーシャル側は一部留保を付して仮署名をしたものの、その後も両国間の交渉は延期が繰り返された。結局2003年4月30日に正式署名がなされ、以後両国の議会での承認手続きに入った。こうした政府の対応について野党からは大統領のリーダーシップの欠如を指摘する声が上がった。
とりわけ、クワジェリン地主側及び伝統的指導者を中心とした野党議員は、クワジェリン環礁の軍事使用協定に関する政府の対応振りに不満を表明し、反政府の動きを高めた。一時は米国への8項目提案で共同歩調をとるに至ったが、その後の仮合意における米国側の補償内容をクワジェリン地主側が不十分とし、政府の対応に不満を表明した。
また経済面では、アマタ・カブア及びイマタ・カブア両政権のもと公共事業中心に膨れ上がった財政を健全化するため、厳しい財政緊縮政策を断行した。前政権では、経済の民営化の促進、公務員の削減、所得税の削減等を行ったが、ノート政権は逆に公務員の増加、各種税金の税率増加、コプラ生産奨励の停止等を行った。こうした政策は国会予算に基づく公共事業や政府資金で潤っていた民間企業を直撃し、大手企業の規模縮小等、経済の停滞を招き景気後退を余儀なくされた。
進展しない改訂コンパクト交渉、クワジェリン問題への地主の不満、経済の停滞を受けて、イマタ・カブア派はこれらをノート政権の失政と非難し、2001年1月9日、野党議員7名(代表イマタ・カブア及びジャスティン・デブルム)が共同でノート大統領に対する不信任動議を提案した。10日にジャスティン・デブルムがその提案理由を説明したが、クワジェリン基地の租借地料引き上げ問題、政府のコンパクト交渉に臨むスタンス、景気対策などに対するノート政権のハンドリング振りに対する不満であった。15日の採決では反対19、賛成14で不信任動議は否決された。この否決の結果、議会に信任されたノート大統領の政権基盤や政局運営は一段と無難なものになった。他方、野党は不信任動議の提案が時期尚早かつ説得力不足であり、強い権力欲の現れとみなされて、国民からの信頼を失った。
(d) 第8回総選挙−安定政権作りの戦略と二大政党制への動き
不信任決議を否決し、無難に政権運営を進めた第一次ノート政権は、2003年11月17日に第8回総選挙を迎えた。それでも選挙戦当初は、UDPとイマタ・カブア派はほぼ互角と予想されていた。というのも、1999年の選挙は腐敗・汚職、クリーンな政治、アカウンタビリティの確立といったことが争点であったのに対し、2003年の選挙には大きな争点が見当たらず、新たな不確定要因も生じていたため、前回に増して予想を困難にさせていた。
不確定要因の一つとして、改訂コンパクト交渉についてのノート政権への評価が今ひとつ明らかでなかったことがあげられる。2002年からの改訂コンパクト交渉では米国の態度が硬く、交渉が難航すると思われ、2003年は厳しい選挙戦を迎えるものと思われていたが、その後米国行政府はマーシャルに譲歩を示し始め、4月末の代表者による署名後もさらに米国議会はマーシャルの追加的な要望に好意的な反応を示した。その結果、改訂コンパクト協定はマーシャルにとって納得のいくものとなった。ただし、同年9月末までに改訂コンパクト協定について両国議会が承認したとしても、実際にコンパクト資金がマーシャル政府にとり使用可能となり、行政・経済面での効果が現れるのは2004年以降であると考えられていたため、2003年の総選挙には間に合わず、コンパクト効果で選挙を有利に導けるかは疑問であった。
また選挙管理委員会は第8回総選挙より在外居住者の投票も集計することにしたため、在外居住有権者の投票動向がつかみにくい点が上げられた(10)。これまで郵便事情(日付の確認や配達の遅れ)等のため、ほとんど選挙結果に影響のなかった約1万人の海外居住者の投票が注目された。こうした動きに対応すべく、ノート大統領は2002年、03年と二度米国アーカンソー州を訪問した。これは同地のマーシャル人社会の不在者投票(郵便投票)の獲得を狙ったものといえる。ジョン・シルク資源開発相も訪米中にオレゴン州のマーシャル人社会を訪問しており、野党側もイマタ・カブア元大統領やトニー・デブルムがアーカンソー州のマーシャル人居住地を訪問している。
さらに、マジュロやイバイなどの都市部で、従来の権威、土地支配にとらわれない新たな有権者が急増し、投票動向が一段と不明になったこともあげられた。
こうした不確定要因の中で、ノート大統領率いるUDPは、前回同様の政党主導型の選挙キャンペーンを展開した。とりわけ、今回は大統領特権を利用して、国内航空便のスケジュールを変更させ、激戦の離島選挙区へ次々と遊説を行った。その際、米国大使を始めとした外交団やコンパクト交渉室スタッフを同行させ、改訂コンパクト協定のもたらす利益・効果を強調・説明した。
一方野党陣営は、イマタ・カブア元大統領は総選挙に出馬せず、中心となるリーダーが確立できないまま選挙戦に望んだ。選挙戦当初は、クワジェリン基地の使用をめぐる地主の不満をクローズアップさせ、2003年初めに再び不信任決議を提出する動きもあったが、結局実行に移せず、経済の停滞や国会運営の不手際を印象付ける戦略に出た。10月半ばには、「我が祖国」党(Aelon Kein Ad; AKA)を結成し、選挙戦ではマジュロの一部で統一候補を結成したものの、実際には個人及び伝統的酋長頼みの選挙戦を余儀なくされた。
このようにUDPは改訂コンパクトの合意を功績として掲げ選挙戦を展開したのに対し、AKAは改訂コンパクト自体ではなく、その内容、特にクワジェリン基地についての補償額に対する不満を掲げてキャンペーンを展開した。
その結果、総選挙での獲得議席では、政府与党UDPが解散以前の19議席から20議席へ、野党AKAは14議席から13議席となった。選挙区の動きから見ると、UDPは伝統的酋長及び地主勢力の強いクワジェリンで1議席を失う一方で、大統領が出馬を直接要請したナムリック及びリキエップでAKA議席を奪い、結局1議席増となった。ノート大統領はシンパ議員の増加と大物野党議員の落選により議会内運営は容易になるものと思われた。
2004年1月4日、国会議員による大統領選出選挙では、ノート大統領が20票を獲得し再選され、第二次ノート政権がスタートした。
(4) 2度の総選挙における投票結果の分析
以上のように、UDPは政権奪取及び維持を目指して、複数選挙区ではブロック投票を積極的に進め、離島選挙区に対しては、高級官僚や現職大臣を擁立し、議席確保が望めそうな選挙区に対し、集中的に大統領及び主要閣僚の遊説をするという政党中心の戦術をとった。それでは、このようなUDPの戦術に対して有権者はどのように判断したのだろうか。
投票結果の分析にあたり、1選挙区に2議席以上を有する複数議席選挙区と1選挙区1議席となっている場合が多い離島選挙区(11)に分けて考えていく。
(a) 複数議席選挙区
複数議席選挙区では、クワジェリン選挙区を除き、UDPがブロック投票という戦術を巧みに利用した選挙戦が見られた。
定数5人のマジュロ選挙区ではとりわけブロック投票が大きな効果を示している。表1で明らかなように、1999年及び2003年の両選挙で、UDPが4議席を確保し、野党側はマジュロの大酋長であるチューレーラン・ザダカイア議員の1議席を確保するにとどまった。
表1 マジュロ選挙区における当選者と得票数
|
1999年(第7回)総選挙 |
2003年(第8回)総選挙 |
1位 |
ウィフレッド・ケンドル(UDP):2568 |
アリック・アリック(UDP) :2640 |
2位 |
ウィットン・フィリッポ(UDP):2555 |
ウィフレッド・ケンドル(UDP):2636 |
3位
|
チューレーラン・ザダカイア(政権与党)
:2357 |
チューレーラン・ザダカイア(AKA)
:2495 |
4位 |
ブレンソン・ワセ(UDP) :1966 |
ブレンソン・ワセ(UDP) :2436 |
5位 |
アリック・アリック(UDP):1556 |
ウィットン・フィリッポ(UDP):2278 |
(選挙管理委員会正式発表より作成)
表2 マジュロ市ジェイロック地区における投票パターン動向(2003年)
|
投票パターン |
割合 |
A |
UDP現職4候補+ザダカイア(AKA) |
32% |
B |
UDP現職4候補+ジョルバン(UDP) |
20% |
C |
AKA4候補+カヌー(AKA) |
11% |
D |
AKA4候補+「その他の候補」一人 |
8% |
|
その他 |
29% |
(投票所での開票調査をもとに筆者が作成)
注)・UDP現職4候補:ケンダル・ワセ・フィリッポ・アリック候補
・AKA4候補:カブア・ザダカイア(現職)・ムラー・ドミニック(元職)候 補
・Dの「その他の候補」としては、主にケンダル・アリック・クレーマー候補等
ブロック投票の威力を明確に示したものが、2003年選挙でのマジュロ市ジェイロック地区における投票パターンを示した表2である。ジェイロック地区はマジュロ市郊外に位置し、マジュロの代表的な酋長であるザダカイア家の地盤の一つであると同時に、UDP候補ケンダル教育相やフィリッポ法相(当時)の地元でもあり、混戦が予想された地区である。選挙の結果、この地区の全体の52%の票が現職4人のUDP候補者へのブロック投票となっている。一方、今回始めてブロック投票を採用したAKA側は、全体の19%しか成功していない。そのため、UDPのブロック投票パターンにかろうじて食い込むことができたザダカイア議員が一議席を守るにとどまった。
表3 複数議席選挙区(2人区)における得票の動向(3位(次点)まで)
|
アルノ(2003年)
|
ジャルート(2003年)
|
アイリンラプラプ
(1999年) |
アイリンラプラプ
(2003年) |
1位
|
ロラック(UDP)
:823 |
アービン・ジャックリック (UDP):986 |
ロヤック(UDP)
:756 |
ザカラス(UDP)
:754 |
2位
|
ザキオス(UDP)
:804 |
モリス(UDP)
:956 |
ザカラス(UDP)
:629 |
ロヤック(AKA)
:550 |
3位
(次点) |
ラウコン(AKA)
:168 |
アルデン・ジャックリック (AKA):263 |
ノート(その他)
:323 |
カチャン(UDP)
:549 |
(選挙管理委員会正式発表より作成)
注)ロヤックは、クワジェリン基地問題等でUDPからAKAに鞍替えした。
一方、国内に3箇所ある2人区でも、UDPによるブロック投票は大きな効果をもたらした。UDPは1999年選挙では6議席すべてを確保し、2003年選挙でも現職5人に加え、新人候補が現職AKA議員に1票差に迫る大接戦を行った。表3からもわかるように、2003年選挙ではアルノ及びジャルートのUDPの両当選者がほぼ同じ得票数を得ている。一方、アイリンラプラプ選挙区では、1999年選挙でブロック投票を行った現職議員が、2003年選挙では両陣営に分かれた。そのためUDPはルービン・ザカラス副議長に加えて、カツオ・カチャン氏の出馬を要請し、二人によるブロック投票を行った。カチャンはマジュロの現職の市議会議員であり、選挙戦出馬は遅れたが、ザカラスとのブロック投票で自分の地元ボーラン地区とザカラスの地元アイロック地区で大量得票を稼いだ(表4)。一方、野党現職議員であるクリストファー・ロヤックはブロック投票を行えなかった結果、事前の予想とは異なり、得票が伸び悩み、再集計の結果のわずか一票差という辛勝であった。
表4 アイリンラプラプ選挙区における得票動向(2003年 通常投票分のみ)
|
ロヤック(AKA) |
カチャン(UDP) |
ザカラス(UDP) |
備考 |
ボーラン地区 |
15 |
107 |
114 |
カチャンの選挙地盤 |
アイロック地区 |
29 |
74 |
90 |
ザカラスの選挙地盤 |
エネビン地区 |
88 |
7 |
32 |
ロヤックの選挙地盤 |
ウォジャ地区 |
63 |
21 |
63 |
− |
アエンカン地区 |
10 |
11 |
15 |
− |
(選挙管理委員会正式発表より作成)
このようにUDPは有力現職議員が協力して、投票するブロック投票を実施することで、確実に議席をものにしている。
ただし、3議席を占めるクワジェリン選挙区では、依然として伝統的支配の影響が強いため、3議席すべてがAKA候補者によって独占されている。2003年選挙では、UDPに乗り換えた現職議員アタジ・ボラスと、コンパクト改訂交渉を中心となって進めたボビー・ムラーを擁立し、1議席確保を狙ったが、イマタ・カブア元大統領の後継者でAKAの中心人物でもあるマイケル・カブアを中心とした野党3候補による緩やかなブロック投票が行われ、UDPがクワジェリンでの議席を失った。
(b) 離島選挙区
表5 2003年総選挙の結果と地域の関係
〈 〉内は1999年の結果
|
統一民主党(UDP) |
わが祖国党(AKA) |
合計 |
全 国 |
20〈19〉 |
13〈14〉 |
33 |
ラタック列島 |
13〈11〉 |
2〈 4〉 |
15 |
ラリック列島 |
7〈 8〉 |
11〈10〉 |
18 |
ラキン・メト地域 |
5〈 5〉 |
0〈 0〉 |
5 |
イオン・メト地域 |
2〈 3〉 |
2〈 1〉 |
4 |
エニン・メト地域 |
0〈 0〉 |
4〈 4〉 |
4 |
カビン・メト地域 |
0〈 0〉 |
4〈 0〉 |
4 |
注1)ラリック列島の分類(同地区の中心的筆頭酋長)
ラキン・メト:ジャルート・キリ・ナムリック・エボン(ネイマタ・カブア)
イオン・メト:アイリンラプラプ・ジャボット・ナム(アンチュア・ロヤック)
エニン・メト:クワジェリン・リブ(リグォール・リトクワ)
カビン・メト:ラエ・ウジャエ・ウォッソ・ロンゲラップ(イマタ・カブア)
注2)ラリック列島のうちエヌエタック環礁はどの地域区分にも含まれない
注3)ラリック列島の地区分類は代表的な考え方によるものであり、カビン・メトを中心にその範囲は使用者によって変更する。
一方で離島選挙区のほとんどは小選挙区であり、従来は伝統的支配を背景にしたAKA側が有利であった。しかし、過去2回の選挙結果と国内の地域分布を調べると、特徴的なことが見えてくる。表5によると、マジュロを中心としたラタック列島ではUDP側が優勢なのに対して、クワジェリンを中心としたラリック列島では、AKA側が優勢である。しかしながら、ラリック列島についてさらに詳細に調べると、ジャルートやアイリンラプラプを中心とした南部地域ではUDPが優勢であるのに対し、クワジェリンを中心とした北部地域ではAKAが完全に支配していることがわかる。
このことについて興味深いことを示しているのは、離島選挙区と都市居住投票者との関係である。表6が示すように、ラタック列島やラリック列島南部の有権者の約半数は首都マジュロに居住している。一方、リブやラエといったクワジェリン周辺に位置する選挙区の有権者の約半数がイバイ市に居住している。
表6 主な離島選挙区における都市居住投票者の割合
|
アイルック 選挙区 |
ナムリック 選挙区 |
アウル
選挙区 |
リブ
選挙区 |
ラエ
選挙区 |
ウォッソ 選挙区 |
通常選挙区 |
22% |
26% |
24% |
11% |
22% |
12% |
マジュロ |
54% |
42% |
53% |
10% |
18% |
22% |
イバイ |
4% |
9% |
4% |
68% |
45% |
49% |
郵便投票 |
10% |
15% |
13% |
4% |
6% |
7% |
その他 |
10% |
15% |
6% |
7% |
9% |
4% |
(選挙管理委員会正式発表をもとに作成)
さらに詳細に分析すると、表7のように、ラタック列島に位置するアイルック選挙区やラリック列島南部に位置するナムリック選挙区では、投票結果はマジュロにおける次点候補者との得票差が大きく影響していることがわかる。アイルック選挙区では離島での通常投票による得票数はAKA候補者に敗れているものの、マジュロでの得票差でリードを奪い、勝利している。ナムリック選挙区の場合も、UDP新人は、著名なAKA元職に在外投票やイバイでリードされたものの、やはりマジュロでの得票数の差で勝利を収めた。一方、ラエ選挙区では、現職のAKA候補がマジュロでの得票数はUDP候補者に敗れたものの、イバイで100票以上の大差をつけ、全体としても完勝した。
表7 投票形式別離島地域における当選者と次点者との間の票差(2003年)
( )は当選者の所属政党
|
アイルック(UDP) |
ナムリック(UDP) |
ラエ(AKA) |
通常投票 |
▲8 |
6 |
27 |
マジュロ |
67 |
83 |
▲37 |
イバイ |
3 |
▲12 |
136 |
その他 |
33 |
16 |
18 |
郵便投票 |
6 |
▲5 |
18 |
全体 |
101 |
88 |
162 |
(選挙管理委員会正式発表より作成)
注1)▲は次点者がリードしている。
注2)3選挙区とも次点者は当選者と反対の政党所属者
このように離島選挙区では都市部での投票動向が結果に大きな影響を示していることがわかる。全体としてはマジュロ居住者の占める割合の大きい離島地域ではUDPが優勢で、イバイ居住者の占める割合が多い地域ではAKA候補が優勢となっている。UDPはこうしたマジュロ居住者の占める割合の多い選挙区へ集中的に大統領遊説を行った結果、ほとんどの選挙区でUDP議員を当選させることができた。
(5) 考 察
ノート政権の推移と選挙結果の分析を通じて、ノート大統領率いるUDPは、複数選挙区ではブロック投票を利用して確実に議席を確保していくと同時に、離島選挙区でもマジュロ居住有権者による得票で有利に進めていくという都市型選挙を実行した。一方、AKA側はイマタ・カブア大統領の本拠地であり、伝統的支配体制が色濃く残っているクワジェリン選挙区で3議席を独占し、イバイ居住者の多いラリック列島北部地域の選挙区を確保するにとどまった。
UDP候補者は閣僚または高級官僚出身が多く、有権者に広く知られていた。とりわけ表8からもわかるように、1999年に現職もしくは元職候補者たちを破り当選してきた新人議員をすぐに大臣に登用することで、2003年の選挙では知名度も上がり、優位に選挙戦を進められた(12)。また、新聞報道で推薦候補者を一覧にした広告を掲載するなどUDP候補者を明確に認識させる方法を採用し、UDPのメンバーであるということを国民に印象づけさせ、知名度の高い閣僚のみならず、新人候補者も宣伝することができ、効果的に働いた。
表8 1999年総選挙初当選大臣と次点候補者との惜敗率の変化
( )内は次点者の現職・新人区分
|
ザキオス外相 |
コーネリアス運輸通信相 |
シルク資源開発相 |
第7回総選挙 |
78%(元職) |
91%(現職) |
79%(現職) |
第8回総選挙 |
21%(新人) |
49%(新人) |
31%(新人) |
(選挙管理委員会正式発表より作成)
さらに2003年選挙では、伝統的権威とは異なる、民主政治における「大統領」としての権威を利用した選挙活動を行っている。UDPにとって政権与党という立場が何よりも選挙に有利に働いた。例えば政府首脳は、半官半民公社である国内航空便のスケジュールを変更し、積極的に選挙運動を展開している。特に、ノート大統領は選挙日前日の2日間に劣勢または激戦が伝えられているメジット・アイリンラプラプ・ナムリックへ選挙応援に駆けつけた。その結果、表9が示すように大部分の選挙区で勝利を収めている。これは大統領が遊説で訪れたことによる有権者の政権与党への追随効果に繋がったものと思われる。
表9 大統領の主な遊説先と当選の関係
|
遊説先(UDPからの立候補状況) |
結 果 |
2003年5月 |
ジャルート(現職大臣2名) |
2名当選 |
同年5月 |
エボン(現職大臣) |
当選 |
同年9月 |
リキエップ(新人・激戦) |
現職を破り当選 |
同年10月 |
アルノ(現職大臣2名) |
2名当選 |
同年11月 |
ナムリック(新人・激戦) |
有力対立候補破り勝利 |
同年11月 |
メジット(現職議員・苦戦) |
有力新人候補破り辛勝 |
同年11月
|
アイリンラプラプ(現職副議長と新人・激戦) |
現職勝利・新人は惜敗(1票差) |
しかしながら、このことでUDPの選挙戦術を単純に民主主義に基づいた戦術とみなすわけにはいかない。現実にUDPの地盤となっているラタック列島やラリック列島南部でも伝統的権威関係は残っている。こうした面については、UDP候補者の顔ぶれをみると興味深い特徴がわかる。表10のように、UDPの候補者、とりわけラタック列島の候補者の中には伝統的支配層出身者が多いことがわかる。
また、ラリック列島、とりわけ2回の選挙とも議席を独占しているラリック列島南部、ラキン・メト地域に関して、表5の中で触れているネイマタ・カブアの娘、キャサリン・ネイマット・レイマーズ夫人の存在が上げられる。彼女は2003年における酋長評議会副議長である。ラリック列島の4人の筆頭酋長の一人(正式には彼女の母親であり、彼女はその代理人)であり、ジャルートやナムリックに強い影響力を持っている。ラリック列島の4人の筆頭イロージの中でもノート大統領に協力的であり、UDP側も重要視している(13)。
1999年総選挙において、UDPが勝利した背景には、圧倒的な影響力・人気を持っていたアマタ・アブア大統領の死去に伴う政治的空白を埋める力量をイマタ・カブア大統領が持っていなかったことにあった。伝統的権威と近代民主政治システムを両方利用しながら国家建設を進めてきたアマタ・カブア大統領に対して、イマタ・カブア大統領は伝統的権威に固執するあまり、近代政治システムをうまく利用できず、国民からは「反民主政治」のレッテルを貼られ信頼を失い、政権を手放すことになった。一方、ノート大統領は、UDPと協力しながら、民主主義と大統領制度という近代的政治システムを利用して政権運営及び選挙戦略を進めるとともに、伝統的支配者層に対しても国会議長時代に培ったバランス感覚を駆使して、候補者選定等において配慮してきた。その結果、伝統的支配層からも一定の支持を得て、政権の安定を確保した。