1 はじめに
フィジー諸島共和国は、地政学上南太平洋のメラネシアに位置している。イギリス植民地統治時代に南太平洋高等弁務官が所在していたフィジーは、現在でも太平洋諸島域で要としての地位を占めている。たとえば、総人口80万人を超える国家の規模を抱えていること、また、首都スヴァ(Suva)には南太平洋地域の総合大学である南太平洋大を抱えていることなどがあげられよう。しかし、同時に、1970年の独立以降、1987年の2度のクーデタ、2000年のクーデタ未遂事件と政治的混乱の絶えない国家でもある。いわば、現在の南太平洋島嶼域の持つ可能性と問題点を体現した国家といえよう。2006年には史上4度目のクーデタが発生しており、このクーデタに前後して、ソロモン諸島やトンガ王国においても政治的混乱が起きていたが、この同時性もたんなる偶然として看過するべきではなく、構造的な要因が考察されてしかるべきであろう。本稿では、政治的混乱の歴史的経験という意味でも「一日の長」があるフィジー社会の現在の動向を記述・分析することを通じて、今回のクーデタの持つ特質を明らかにしていきたい。ひいては、オセアニアにおける政治的混乱の比較分析の一助たることも目的としたい。
フィジーにおけるクーデタ、ことに1987年のそれは南太平洋おいてもっとも研究されてきた主題のひとつといえよう。歴史学、社会学、人類学、国際政治学、憲法学など様々な学問的見地から、多様な分析が加えられてきている(1)。クーデタの発生要因に関しても各論者の間に一致した見解があるにはほど遠く、大きく分けると民族的対立と経済的格差の2つの要因に配視しつつ、どちらに強調点を置くかという点で議論は割れている(2)。
ただしフィジーの政治的混乱の経緯を第三世界への民主的政治制度導入の蹉跌の一事例としてとりあげるのは、片手落ちであろう。視点を変えてみてみると、フィジーは、たびかさなる政治的混乱にもかかわらず、国際社会にも受け入れられる民主国家として再建に成功した例を提示しているともいえるからである。1987年のクーデタは、世界的にも先進的と評される1997年憲法を生み出しているし、2000年のクーデタの後にも、2001年、2006年の選挙を経て、民族的に分断化された国家を運営する試みが、試行錯誤を重ねながらなされてきた。2006年の総選挙を経て組閣された内閣も、多民族が政権に参画できるよう考案された多党条項に基づく政権を曲がりなりにも成立させ、民族的共存の理念に基づく政権運営が各界から期待されていてもいた。しかし、このフィジーにおける多党内閣の試みが完全に試される間もなく、フィジーは再び政治的混乱に引きずり込まれることとなった。すなわち、2006年12月5日、フィジー史上4度目となるクーデタの発生である。
本稿を執筆している段階(2007年7月上旬)で、今回の2006年のクーデタは進行中で先行きに予断を許さない。そこで、以下では、まず、このフィジー史上4度目にあたるクーデタの展開を整理することを目的としたい。2節ではクーデタに至る経緯を整理し、3節ではクーデタ発生以降の混乱期について記述・分析を試みる。そして最後に、この時期の政治的動向の特質について考察を加えたい。枚数の関係で、本論では2007年1月4日のバイニマラマによる行政権の返還までを扱う。この区切りはまた、追放された前政権とは別の政治的秩序が形成されはじめた段階とも対応している。1月5日以降の展開は次号で、また、以上の記述・分析を踏まえた上での、クーデタの発生要因やこれまでのクーデタとの差異に関する詳細な分析は別稿に期したい。
2 クーデタまで
2−1 和解法案をめぐる軍とガラセ政権の対立からウェリントン会談へ
軍によるガラセ政権の追放が実行されたのは、先程記したように、2006年12月5日のことであった。ただし軍ことに司令官チョサイア・ヴォレンゲ・バイニマラマ(Josaia Voreqe Bainimarama)(3)とライセニア・ガラセ(Laisenia Qarase)率いる政府との対立自体は、2000年クーデタ直後に遡る長い背景を抱えている(4)。両者の対立が、最終的にクーデタにつながる形で激化したのは2006年の総選挙を経てガラセ政権が再選され、第二次ガラセ内閣が発足してからである。対立の焦点となっていたのは、第一次ガラセ内閣の時代から繰り越しになっていた2000年クーデタ関与者への恩赦事項を含むとされる法案(Reconciliation, Tolerance and Unity Bill、以下、和解法案と記載する)の処遇をめぐってである(5)。クーデタ関与者も含まれる民族主義者層の多くを政権の支持母体として抱えるガラセ政権は、この論争含みの法案成立に推進していた。それに対して、2000年のクーデタとそれに続く内部抗争から死者もだしていた軍隊、ことにその渦中で自身生命を脅かされてもいた司令官バイニマラマは、ガラセ政権への批判的言辞をつねづね公的な場でも口にしたため、フィジーでは来るべきクーデタの噂で持ちきりとなるほど両者の緊張関係は高まっていた。フィジーでは、1987年から始まる3度のクーデタを経験しているため、国の政策に軍が容喙することに対して一般人の間にも経験と慣れが比較的あるとはいえ、バイニマラマのように踏み込んで発言を繰り返すことは尋常でなかった。それでもバイニマラマが、クーデタを起こすことはないとたびたび確言していたこともあり、クーデタ決行までに至らないであろういう楽観的な考えも一部であった(6)。
両者の膠着状態とたかまる緊張関係に危機感を抱いたのか、11月29日には、近隣国家であるニュージーランド政府が事態の打開を図るため協力を申し出た。外相ウィンストン・ピータース(Winston Peters)が仲介役として立ち回り、ガラセとバイニマラマの両者による協議の席をウェリントンにて設けたのである(ウェリントン会談と称される)。
ガラセが、翌30日に公表したウェリントン会談の要点は、以下9つにまとめることができる。
@2000年のクーデタが違法であることを再確認し、違法性の認識を公衆のあいだで高めるプログラムを立ち上げることを大首長会議(Great Council of Chiefs)に提案する。A軍によって問題含みとされていた和解法案を含む3法案(7)の提出を見合わせる。条文に違憲と判断できる箇所があれば取り下げも躊躇しない。B警察は政府から独立した機関で、政府は干渉しえないが、「フィジーの平和と安定というよりおおきな利害関心」を考慮し、軍(司令官を含む)に対する警察の取り調べの見合わせるよう取りはからう(8)。C警察長官アンドリュー・ヒューズ(Andrew Hughes)の辞任の要求については、間近に迫った彼の任期終了後、軍の意向も組み込んで、任期更新の判断を下す(9)。D海外の軍及び警察のフィジーに対する介入については政府も拒否に同意する。E警察の機関(Tactical Response Unit)(10)については、内務省を通じて役割を再検討する。F警察組織と同様、NLTB(Native Land Trust Board)(11)も政府とは別個の機関であるが、内務省を通じてその商業部門の再検討を行う。G内務省はフィジー軍の関心に配慮するべきであるという軍の要求に、政府は同意する。H政権の腐敗に関しては、軍と協力してよきガバナンスを目指す(12)。
以上の内容は軍の要求の過半を受け入れたものであることから分かるように、ガラセは最大限の譲歩っている。そしてガラセは、会談が有意義な結果をもたらしたと述べた。
しかし、対談のもう一方であったバイニマラマの理解は異なっていた。彼は、ガラセ声明が公表された直後に開かれた記者会見で、政権に最後通牒を突きつけたのである。すなわち、2006年12月1日金曜日正午を期限として、ガラセ政権が軍の要求をのまない場合、「クリーンアップ・キャンペーン」を実施すると軍は宣言したのである(13)。
先に述べたように軍はクーデタを起こさないと繰り返し明言していたこともあり、この時点で、バイニマラマの述べたクリーンアップ・キャンペーンの内実は必ずしも明確でなかった。しかし軍は、彼らの設定した条件を受け入れない場合、ガラセは辞任するよう言い渡していたことから、クーデタが起きるのではないかという噂が人々のあいだで高まってもいた。フィジーの大多数の人の反応は、何度目かの軍政府間の対立の表面化に対する既視感と苛立ちであったと思われる。たとえば、12月1日付けの全国紙フィジー・タイムズの社説では、「軍が、またしても、やった。民主的に選出された政府が軍の要求に従う期限を設定したのである」(14)と書き出されている。「またしても」という箇所に、冒頭でも手短に紹介した両者の長きにわたる対立に対するメディアの側からのいらだちを読み取ることができよう。
2−2 ウェリントン会談の決裂と事態の緊迫化
バイニマラマは、翌2日になると、記者会見の場で、政府からは反応がないとして、軍によるクリーンアップ・キャンペーンの開始を宣言した(15)。ガラセは、これ以上軍への譲歩は不可能であると述べ、また、辞任も拒否し、主たる閣僚ともども身を隠した(16)。事態が急速に緊迫の度合いを増すなか、アメリカ、オーストラリアなど各国大使館も首都スヴァへの旅行注意、フィジーへの渡航警戒を呼びかけた(17)。
同日には、軍はさらに一歩踏み込んだ行動を起こした。フィジーにおける法と秩序の安寧を目的に掲げ、警察にかわって国内の治安維持に乗り出したのである。バイニマラマによると、この措置は、2000年クーデタ時に起きたような都市暴動を押さえ込むための事前措置であると、翌3日に説明している(18)。
軍による内政の掌握は、12月4日、さらに進展する。軍は、ナシヌ(Nasinu)に位置する警察戦術対応部隊(Police Tactical Response Unit)(19)に赴き、警察の武器を取り押さえた。警察が軍の意に反して武器を使用しないことを念頭に置いた、つまり「安全確保」を目的としているというのが、軍による説明である(20)。同時に、軍は、首相を含めた主要閣僚のボディガードからも武器を押収した。こうした軍による警察への介入を受けて、警察長官代理は、武器を持ち去ることは不法でかつ不必要であるが、警察と軍は対立しておらず、軍の行動は誠意を持ってなされたと発言した。また、非常事態宣言を出していない以上、フィジーは選出された政府の管理下にあるとも述べた。しかし、現実には、警察長官代理の声明と反して、軍の介入はさらに進められた。4日午後には、ランバサ(Labasa)、ラウトカ(Lautoka)、バ(Ba)、タヴア(Tavua)など主要都市にある警察署からも武器は押収され、軍は、フィジー各地にチェックポイントを立ち上げてもいた(21)。
一方、徐々に外堀を埋められつつあったガラセは、この時点では、ナイタシリ地方議会(Naitasiri Provincial Council)に出席していた。このような重要な時期に、地方議会に参列した理由は定かでない(22)。ともあれ、ナイタシリからスヴァへと通じる道は、軍によって封鎖されていたため、身柄を拘束されることを恐れたガラセは、ヘリコプターでスヴァへと帰還している。
ただし、ガラセを含む軍と対立する側も、無駄に手をこまねいているばかりではなかった。12月4日のフィジー・タイムズには、法協会、NGOそしてフィジーの一般人に、武器によらない「法をつうじた支配」のために立ち上がろうと訴える声明文をガラセは掲載している(23)。また、財務大臣も、クリーンアップ・キャンペーンという大義名分はさておき、その費用が政府の予算から捻出される以上、所定の手続きに従った運用が求められると遠回しに軍の動きを牽制した。経済的コストはもちろんのこと、軍の行為の合法性自体が疑われるなか、政府関係以外でも、各種人権団体――Pacific Centre for Public Integrity、Transparency International Fiji、Fiji Women’s Right Movementなど――も非難の声明を出している。労働組合の中でも、The Fiji Council of Trade Union(24)は、3日にははやくも批判の声明を題している。
3 クーデタの発生
3−1 クリーンアップ・キャンペーン開始と各界の反応
バイニマラマの唱えるクリーンアップ・キャンペーンが開始されたのは、12月5日のことであった。同日朝、ガラセ首相は大統領ラトゥ・チョセファ・イロイロ(Ratu Josefa Iloilo)を訪問したが、官邸に入る際、軍による下車の命令を拒否したため面会を果たせなかった。大統領はガラセ首相に辞任を求めるものと見られていたが、ガラセ自身はその意向はなかったという(25)。その後、首相を含めた主要閣僚の車両が軍によって押収される。交通手段を奪われたガラセは、他の閣僚との面会や、それ以外の人物との電話連絡は許されたものの、事実上の行動の自由を制限された状態におかれた(26)。
ガラセと彼の内閣の閣僚を封じ込めた後、午後6時頃、バイニマラマは、軍がフィジーの行政権(executive authority)を掌握したと発表した。そしてガラセ政権は贈賄、汚職そして問題含みな法案の提出などを通じていわば「静かなクーデタ(silent coup)」を起こすことで、国家を危機的状況に陥れているため、やむを得ず、必要性の原理(doctrine of necessity)(27)から、クリーンアップ・キャンペーンを起こし、みずから大統領に就任したと声明を出している(28)。
彼はクリーンアップ・キャンペーンと呼びならわしているが、実際の行動はクーデタ以外の何者でもない。先の声明に続いて、バイニマラマは非常事態宣言を発令すると同時に、大スヴァ地域一帯の戦略的要所には、治安上の理由から、軍のチェックポイントをおいた。こうしてフィジー史上4度目となる、クーデタが発生したのである(29)。
翌6日、軍は宣言を実行に移した。早朝7時頃、ガラセ首相夫妻は、軍の要請のもと彼の出身地であるラウ諸島ヴァヌアンバラヴ(Vanuabalavu)島マヴァナ(Mavana)村落へ飛行機で身柄を送られた。以降、本稿を執筆している時点でも、ガラセは電話等を通じた声明を発表したり、同島を訪問する海外の使節との面会は行っているものの、治安を理由として本島への帰還を事実上許されていない。
ガラセ政権追放を追放したバイニマラマは、同日正午、暫定政権の首相としてチョナ・バラヴィララ・セニラガカリ(Jona Baravilala Senilagakali)を指名した。暫定政権の首相セニラガカリはラウ諸島ラケンバ(Lakeba)島ワジワジ(Waciwaci)出身で、任命時77歳の高齢者であった。臨時首相に任命されるまで、彼はフィジー医療連合会長で、軍医を務めていた。2000年のクーデタ時、ガラセとともに臨時首相の候補者にあげられていた人物であることが後にあかされている(30)。ただし、フィジーにおける一般的知名度は低い人物で、バイニマラマの傀儡として多くの人にみなされている。
臨時首相の就任を経て、臨時政権の基盤づくりが矢継ぎ早になされていった。まず、元高裁の判事で、大統領にもクーデタを容認しないよう進言していたとされる(31)副大統領ラトゥ・チョニ・マンライウィウィ(Ratu Joni Madraiwiwi)は官邸から追い立てられ、罷免された(32)。下院は解散され、開会中であった上院も停止された。さらに、政権与党であったSDLの事務所は、軍によって急襲され、汚職の調査という名目で書類等が押収された。
翌7日、暫定首相セニラガカリは、臨時内閣の閣僚を公募すると発表した。応募用件は、犯罪歴がなく、破産宣告を受けていないこと、最低10年間の労働経験があり、高等教育を受けている者という条件であった(33)。また、2000年のクーデタ後、政党を結成した臨時政権の閣僚が、現職の有利さを利用して総選挙に勝利を収めたこと、彼らの選挙キャンペーン中の汚職(34)が申し立てられていることを反省して、今回2006年のクーデタ後に成立した臨時内閣に参加する者は、続く総選挙への立候補は自粛すべきという見解を表明した。応募者は、軍の発表によると、300人ほどいたという(35)。
軍による既得権益の排除は徹底しており、クリーンアップ・キャンペーンの矛先は、上級官僚から各種国家機関のCEOまでにも向けられた。前者からみてみると、たとえば、公務員委員会議長スチュアート・ハゲット(Stuart Huggett)、同委員のCEOアナレー・チャーレ(Anare Jale)、警察長官代理モセス・ドライバー(Moses Driver)、副警察長官補佐ケヴエリ・ブラマイナイヴァル(Kevueli Bulamainaivalu)、選挙管理委員セメサ・カラヴァキ(Semesa Karavaki)、法務次官ナイネンドラ・ナンド(Nainendra Nand)、首相府次官のチョーチ・コトンバラヴ(Jioji Kotobalavu)らが停職にされた(36)。フィジーでは、アメリカのように政権交代に伴う、公務員の大規模な入れ替えがなされることがないことを考えると、この主要官僚の大幅な更迭の持つインパクトの大きさの想像がつこう。特に注目すべきは、13日に、フィジー人担当局(Fijian Affairs Board)のCEOアンディ・リティア・ギオニンバラヴィ(Adi Litia Qionibaravi)が解任されたことである。この役職は、正副大統領の指名権をもつ大首長会議の運営に関わる役職であったため、みずから大統領を名乗るバイニマラマにとって、正当性を確保するための重要なポストであった(37)。
それ以外にも、翌14日には、13名にのぼる国家機関メンバーが解雇を言い渡された(38)。また15日には、FNPF(Fiji National Provident Fund)のCEOのオロタ・ロコヴニセイ(Olota Rokovunisei)と副総支配人フォアナ・ネマニ(Foana Nemani)に代わり、FTUC(Fiji Trade Union Congress)(39)の議長ダニエル・ウライ(Daniel Urai)と事務局長フェリックス・アンソニー(Felix Anthony)が任命されている。社会保険局に相当する同機構は、かねがねその運営上の問題点が指摘されていたこともあり、人事の入れ替えはポピュリスト的な政策の一環ともいえよう。また、任命された人物が、2006年選挙に労働党から立候補して当選していた政治家であることも注目に値する。
以上のように、軍がクリーンアップ・キャンペーンと称して、政府に関わる要職人事への介入を行う一方で、フィジー国内における各種団体のクーデタに対する反応も、臨時首相セニラガカリが就任した7日頃からあらわれ始めた。労働党(40)の党首マーヘンドラ・チョードリー(Mahendra Chaudhry)は、軍主導の違法な臨時政権に参加する意志はないと断りつつ、フィジーを民主国家に戻すためなら軍との協力をいとわないと発言した。国民同盟党(National Alliance Party of Fiji)の指導者ラトゥ・エペリ・ガニラウ(Ratu Epeli Ganilau)も同様に、臨時政府を批判しつつも、国民は現状を受け入れるべきであると発言している。また彼は、大首長会議議長から、バイニマラマと大首長会議を仲介するよう要請を受けたと公表した。ガニラウ自身、バイニマラマの前任の司令官で、大首長会議の議長としても現議長ラトゥ・オヴィニ・ボキニの前任者であるため、両者の交渉役に乗り出すには好都合な位置にいたのは事実である(41)。
政権与党でガラセに率いられたSDLのメンバーは、いうまでもなく臨時政権に批判的であった。こうした批判者たちに対して、軍は基本的に表現の自由を認めるとはしつつも、容赦ない取り調べを行った。SDL関係者だけでも、12月11日頃までには、主事チャーレ・バンバ(Jale Baba)、ペゼリ・キニヴワイ(Peceli Kinivuwai)、議長ラトゥ・カロカロ・ロキ(Ratu Kalokalo Loki)が、軍駐留地に連行されている。他にもSDLの議員テッド・ヤング(Ted Young)やSDLの党員ではないが第一次ガラセ内閣の閣僚で組合運動家のケネス・ジンクス(Kenneth Zinck)も連行された(42)。
各種人権団体のなかにも、クーデタに批判的な人々がいた。彼らにたいしても軍による監視・取り締まりの目が向けられていった。国連開発プログラムの人権アドバイザーであるイムラナ・ジャラール(Imrana Jalal)の他フィジー女性権利運動(Fiji Women’s Right Movement)のヴィリシラ・ブアンロモ(Virisila Buadromo)やPacific Center for Public Integrityのアンジー・ヘファナン(Angie Heffernan)も軍駐留地と思われる場所からの脅迫電話を受けていた(43)。また、軍はより直接的なメディアへの介入も行っている。たとえば、14日には、英文日刊紙デイリー・ポストの編集主任が即日帰国を言い渡されている。彼は、タヴェウニ島ガメア(Qamea)生まれであるが、1989年以降オーストラリア国籍の保持者でもある(44)。フィジーには日刊英文紙は三紙あるが、デイリー・ポストが一番ガラセ政権寄りの論陣を張っていたというのが、軍の判断であったと思われる。
以上、クーデタ以降、軍部の独走と、それに対する各界と軍の関係について整理してきた。この時期は、追放された内閣の閣僚、野党、各種人権団体の人々が、軍の動向に対して応接する方策を模索していた状態といえる。別言すれば、この時点では、クーデタが新たな政治秩序を生み出すことに成功するか否か、いまだ先の読めない時期であったため、軍とそれが生み出した臨時政権を真っ向から否定するものもいれば、否定しながらも現状として受け入れるものもあらわれた。それ以外にも、現実主義的な妥協案を提案するものもいた。こうした最後の範疇に入る人々は、9日英連邦から停止処分にされるなど国際的にも孤立の度合いを深める状況を憂慮して(45)、国際社会にもさしあたり受け入れられる文民政府の形成を提案した。その代表的人物は、ガラセ政府下の野党指導者を務めていた、ミック・ベッドス(Mick Beddoes)である。彼は、15日、軍に恩赦を与える法的抜け道を示唆することで事態の打開案を提出した(46)。
しかし、彼らの提示した案は、追放された政権側にとってクーデタ実行者側への妥協に、逆に軍の側からすればクリーンアップというクーデタの目的を果たすには中途半端な策であった。なにより、彼らの想像以上に、司令官バイニマラマの態度は頑なであった。たとえば、17日、バイニマラマは兵士への免責が認められないなら、憲法を破棄するとまでテレビ番組内で発言した(47)。
3−2 大首長会議と軍の交渉
以上の間のバイニマラマの態度は、肯定的にいえば一貫した、否定的にいえば強硬なものであった。追放された与野党の人々、人権団体などがクーデタ反対の声明を出しても、バイニマラマの姿勢が揺らぐことはなかった。そうしたなか、12月20日から開始された大首長会議の判断が、今後のフィジーの行く末を決める上でも人々の注目を浴びることとなった。
大首長会議とは、植民地時代に形成された、世襲的なフィジー人の首長をメンバーとする機関である。現在、メンバーは大統領、副大統領、首相の他、地方議会やロトゥマ議会から選出された議員(その多くは首長層に属する)で構成されている。主な役割は正副大統領の指名(ごく限られた条件においては罷免)、一部上院議員の指名から、憲法改正や先住系フィジー人の権利関する法律に関しては拒否権も保持しているため、先住系フィジー人の権利を保護する団体とフィジーのなかでは広く目されている。
12月5日のクーデタを通じて、大統領代理に就任したと名乗るバイニマラマにとって、自己の地位を確固たるものにするためには、大統領指名権を持つ大首長会議の賛同が必要不可欠となったのである。同時に、フィジー人首長層の今回のクーデタに関する意向を伺う上でも、大首長会議が今後の事態の展開の一端を握ることとなったのである。
20日の大首長会議においては、今後の国の行く末を占う会議ということもあり、正規メンバーでないフィジー各地の最高首長も招待された。ことに、フィジーの植民地化以前から存在していた地域連合体マタニトゥ(matanitu)のなかでも、強い立場を占めている3マタニトゥの頭は招かれた。具体的には、クンブナ(Kubuna)からアンディ・サマヌヌ・タラクリ(Adi Samanunu Talakuli)(48)、ブレンバサガ(Burebasaga)からロ・テイムム・ケパ(Ro Teimumu Kepa)、トヴァタ(Tovata)のラトゥ・ナインガマ・ラランバラヴ(Ratu Naiqama Lalabalavu)である(49)。彼ら以外にも、ナモシ(Namosi)の首長で、ガラセ政権のフィジー人行政局担当大臣であったラトゥ・スリアノ・マタニトンブア(Ratu Suliano Matanitobua)も参加した。議論は地方レベルからはじめられ、ついで上記3マタニトゥのレベルで話し合われた上で結論が出されたという(50)。
バイニマラマは、大首長会議へ大統領代理の身分で招待されることを大首長会議側に要求していたが(51)、会議側の拒絶に合い参加しなかった。一方で、クーデタで追放され、みずからもすでに辞意を表明していた副大統領は参加した。
大首長会議は多少の分裂を示したものの(52)、22日に最終的にバイニマラマに手渡された決議を、報道に従って要約すると次の通りであった。
まず、民主的に選出された政府を追放したことに対して批判し、1997年憲法は破棄されていないことを確認した。そのうえで、軍が政府の機構とフィジーを実質的に支配しているという政治的現実には留意しつつも、行政権が軍の手に渡ってはいないという認識を示している。つまり、大統領、副大統領職はクーデタ前と同じラトゥ・イロイロとラトゥ・チョニが占めるとした。そして、同大統領(大統領は、役職として軍の最高司令官を兼ねてもいる)に従い、司令官たるバイニマラマと軍が駐留地へ引き返すことを呼びかけた。
今後のフィジーのすすむべき道については、ガラセ政府が実質的に無効化されていることに留意したうえで、民主主義と法による支配を支持し、利害関係者が一体となってフィジーを前進させるためのロードマップの再確認を勧めた。具体的には、行政権が委託されている大統領ラトゥ・イロイロのもと、臨時内閣を組閣して、定められた期日までに総選挙を実施することで、民主国家への復帰をはかることが提案されていた。
総選挙に至る過程については、要約すると以下の通り提案している。
はじめに、関係者(大統領、副大統領、ガラセ、軍、諸政党、大首長会議)が、緊急の審議を通じて、民主主義を回復するための合法的な解決策を見いだす。そして、ガラセ政権の辞任を促し、フィジーを前進させるロードマップに合意する任期と条件を定める協定(accord)を結ぶ。大統領は諮問機関形成後、同機関の助言に基づいて、臨時挙国一致政府(interim government of national unity)を設立する。設立は大統領令(decree)を通じてなされる。諮問機関は、大首長会議から4人、軍から2人、SDLから2人、労働党から2人、そして統一人民党(United People’s Party)から1人の総計11人で構成される(53)。同成員の任命後、直ちに、軍は居留地に引き返し、国政を臨時挙国一致政府に委ねる。臨時政府の成員が定められたら、できる限り早い段階での次回総選挙が行えるように準備をする。具体的には、臨時挙国一致政府の設立以降、15ヶ月より遅くならないことが望ましい。
立憲的な政治秩序への復帰プログラムは以上の通りであったが、それ以外にも、今回の政治的混乱に配慮して、以下の3点が言及されていた。まず、@臨時挙国一致政府は、2006年12月5日の時点の上下院議員に対して何らかの保障を準備すること。A信用に足る汚職の申し立てを捜査するために、調査委員会を設立すること。委員会の構成とその委任事項についても先程の協定に明記して、軍の要求に配慮している。そして最後に、B政治的混乱を引き起こした原因を測定し、フィジーのクーデタ文化を根絶するための答申を行う特別調査委員会の設置を推奨していること(54)。
では、以上の決議が、フィジーの各界にいかに受け止められたかを、ガラセとバイニマラマの発言からみていきたい。まず、ガラセは、彼の政府が失効していると判断を下され、自身の辞任まで提案されながらも、次期選挙に向けて動き出そうという大首長会議の決議を現実的な解決策と認めた。ただし、軍に対しては、自分を排除しないよう訴えかけることも忘れていなかった(55)。
一方で、バイニマラマはどうであろうか。1997年憲法の保持と民主主義の擁護、政治腐敗への配慮、ガラセ政権の無効化など、大首長会議側の提案は、彼の主張と広い意味で齟齬していない。ただし、そもそもバイニマラマを大統領代理として認めていないこと、現実的な解決策として提示された挙国一致内閣や諮問機関のなかにSDL側の人物を含むことを求めている点で、両者の意向は異なっていた(56)。
つまり、クーデタ以降の政治の流れにおいてみてみると、大首長会議と追放されたガラセ政権がクーデタ以前の政治的秩序に一定の配慮を示しているのに対して、バイニマラマ側は一層の決別求めているといえる。大首長会議によると、対立点をめぐってバイニマラマ側とはクリスマス後、話し合いを続けることに合意したとのことであった(57)。
しかし、大首長会議と軍との会合は実現しなかった。軍は、大首長会議からの協力を必要と考えなくなる。27日になると、軍は非常事態が発令されている限り、大首長会議を活動停止すると一方的に発表した。さらに、大首長会議の決議は、軍の行為の是非に拘泥するあまり、「その場にある現状を理解することができなかった」と切って捨てた(58)。
クーデタ以降、バイニマラマと軍の動向に批判的であった大首長会議議長のラトゥ・ボキニもあまりの事態の進展の唐突さに戸惑いを隠さなかった(59)。伝統的首長層から構成される機関として植民地時代に形成されて以降、1987年、2000年のクーデタにおいてでさえ、大首長会議が今回のクーデタのように軽視されることはなかった。軍は、先住系フィジー人の伝統の保護者と目されていた大首長会議の権威すら批判の俎上に載せていったのである。
3−3 臨時政府の負の側面
ところで、クーデタの展開の記述・分析を目的のひとつとする本稿で、理念的な側面だけに光を当てて整理するのは片手落ちであろう。たとえば、軍の意向に背く動きに対して、暴力的な手段を辞さず牽制している側面があることも見逃すことができない。事実、ガラセ政権に代表されるようなフィジー人民族主義に対して融和的な政治的、社会的秩序のあり方に対して批判的である軍のスタンスは、別言すると、民族主義的なフィジー人の層から反発を招くことは予期しやすい。軍による、たびかさなる緊急事態宣言の引き延ばしや、人権侵害に類する活動の背景には、軍への反発が先住系フィジー人のあいだに民族主義的気運の高まりを巻き起こし、ひいては暴動につながりかねないことへの憂慮が存在していたと思われる。
たとえば、軍による反臨時政権的な発言を取り締まる活動は、クリーンアップ・キャンペーン開始直後から始まっていた。軍や臨時内閣に批判的な、SDLの議員呼び出しが行われていたことはすでに指摘している。それ以外にも、より深刻な人権問題としては、24日深夜におきた人権活動家に対する暴力事件がある。彼ら人権活動家の計6人はナンブアの兵営に連行され、軍による手ひどい扱いを受けていた(60)。臨時政府に任命されていた各種COEの強制的な配置替えに批判的だった、フィジーサトウキビ生産者会議(Fiji Sugarcane Growers Council)のジャガナス・サミ(Jagannath Sami)も同様な目に遭っている(61)
また、軍の高邁な理念の影で、クリーンアップ・キャンペーンのいびつな側面をしめす事態として、年を越した2007年1月2日に行われたテレビ放送が挙げられる。軍は政権与党であったSDLが総選挙のなかで選挙違反していた証拠として、ビデオテープを公表したのだ。新たなフィジーの夜明けを告げるというテープの収録内容は、SDLの選挙参謀を務めていたテヴィタ・ナイソロ(Tevita Naisoro)とピーター・フォスター(Peter Foster)がホテルの一室で交わした会話の隠し撮りであった。テープの中で、ナイソロは警察ぐるみで投票箱を開封し、箱のなかにSDLの票を加えたと述べている(62)。しかし、そもそもピーター・フォスターは警察に勾留されていた国際的に著名な詐欺師であるため、この証拠をどこまで信用できるのは疑わしい(63)。1月4日の報道によると、追放された選挙管理委員のセメサ・カラヴァキは、警察官や選挙管理委員が投票所で監視していた以上、選挙違反ができたはずはないと主張している。また、同日フィジー法協会の議長が述べているように、選挙違反の確たる証拠があるなら適切な機関にそれを提出すれば充分であるし、そもそも軍の提示したテープにどこまで挙証能力があるのか疑わしい(64)。また、ガラセ政権の汚職がクリーンアップ・キャンペーンの前提であったのだから、事後的に盗撮して汚職の証拠集めを行っている点も論理的に矛盾していよう。
ビデオ公表以上に問題含みなのは、臨時政権が司法制度にも介入しはじめたことである。1月3日、首席裁判官ダニエル・ファティアキ(Daniel Fatiaki)は、突如、無期限の停職処分にされた(65)。司法に対する捜査、具体的には2000年クーデタ以降にみられた司法活動への疑惑、引き続いておきた司法の政治化、裁判官任命に関する疑惑など司法当局の腐敗を調査することが目的とされた(66)。
このように、バイニマラマは、非常に速いペースで既存の政治秩序の変革を断行していた一方で、臨時政権を保持するため、強権的な手段で反対派の活動を封じ込めようとしていた。政治腐敗を一掃するというクリーンアップ・キャンペーンの意図は明確ながらも、この非常に高い目標がはたして既得権益層の解体という手段で達成可能かどうか充分に説得的とは言い難い。また、バイニマラマの大統領就任は、臨時政権が事実上、軍事政権であることも意味するので、国際社会への復帰に対する障碍となる。以上の要因は、フィジーの多くの人、ことにクーデタの結果周辺化された人々の間に、先行きに関する不安を巻き起こしたことは想像に難くない。したがって、バイニマラマがラトゥ・イロイロに大統領職の返還を公表したとき、彼に対する批判者も含めてこの動きは歓迎された。ただし、現実には、事態をより複雑にすることになったのである。この点の詳細については次号で論じる。
4 最後に
以上、本稿では、2006年12月のクーデタの初期段階、すなわちバイニマラマとガラセが、2000年クーデタの後始末をめぐって対立し、バイニマラマがクリーンアップ・キャンペーンというクーデタを決行し、大統領代理に就任した後、行政権を大統領ラトゥ・イロイロに返還する1月4日までを記述・分析した。
これまでの記述・分析からあきらかになったように、この時期は、臨時政権としての先行きが不透明で、クーデタを通じた政権交代も成功するかどうか先行きのあやしい時期であったといえよう。また、ガラセによるオーストラリア軍介入の要請や12月9日の英連邦から離脱など国際社会との関わりは否応なく影を投げかけているが、国際社会へいかに対応するかという問題は前景化してきておらず、むしろ民主的な国家への復帰に向けて、海外の諸政府と慎重な交渉を重ねる必要があらわれる前の段階であった。つまり、国内政治の安定化をはかると同時に諸外国と交渉する主体を立ち上げる必要性がむしろ求められた時期であった。バイニマラマは軍の力を背景に国内を掌握したとはいえ、別の政治秩序に移行したと言い切るためには、まだ不安要素を抱えていた。たとえば、追放されたとはいえガラセは政権への復帰に期待をかけていた。それが大首長会議の決議を経て、たとえ法律的な根拠があやしいにせよ、国内を統括する政府の必要性が、フィジー国内のコンセンサスとなりつつあった時期であるといえる。
臨時政府はまだ生まれたばかりであるものの、彼らが望む方向性は明確に示していた。たとえば、フィジー史上類例がないほどの、政治的、社会的な既得権益層の破壊、先住系フィジー人の民族主義的動きを牽制して多民族主義を標榜する点などは、臨時政権が向かいたいと考えている行き先を指し示している。バイニマラマの掲げる理念(多民族主義の根付いたフィジー、政権腐敗の一層)それ自体は、高邁なものといえよう。バイニマラマの問題提起は、民族主義者層からの支持を基盤とし、2000年クーデタの関与者の処罰に対しても寛容な態度を示していたガラセ政権の抱えていた本質的問題点をえぐる指摘でもあったのだ。またであるがゆえに、ガラセ政権の諸政策をあからさまな民族差別とみて、それらの断行を苦々しく思っていた層から一定の支持が得られたと思われる。
その一方で、臨時政府に対する反対派の動きは、まだ萌芽的段階に留まっていた。大首長会議は臨時政府の意向に必ずしも従わなかったものの充分な反対勢力とはなり得なかった。むしろ、バイニマラマの掲げる理念の前では、フィジーの伝統を体現する組織として敬意の対象とされていた大首長会議は、政界の汚職と無関係な機関ではないとして、遠慮なく扱われるに過ぎなかった。また、臨時政権の合法性を問う法廷闘争の試みは、まだはじまったばかりであった。そして、臨時政権が提起する新たなフィジーへむけたクリーンアップ・キャンペーンの全体像と現実の姿があきらかになるのは、次回の原稿で記述・分析を試みるように、まだ先のことであった。
(1) 雑誌の特集号では、Pacific Viewpoint, 1989, vol.30 number 2.やThe Contemporary Pacific, 1990 vol.2 number 1. がある。ビブリオとしては、Ewin, Rory, 1992 Colour, Class and Custom: The Literature of the 1987 Fiji Coup. Canberra : Political and Social Change, Research School of Pacific Studies, Australian National Universityがある。
(2) Firth, S. ‘The Contemporary History of Fiji’ The Journal of Pacific History 24: 242-246。丹羽典生 2005「フィジー――フィジー人とインド人の共存」綾部恒雄(監修)前川啓治、棚橋訓(編)『講座ファースト・ピープルズ――世界先住民の現在 第9巻 オセアニア』明石書店。
(3) 一般には、フランク・バイニマラマ(Frank Bainimarama)と呼ばれることも多い。
(4) cf. Ratuva, Steven 2007 ‘The Pre-election ‘Cold War’: The Role of the Fiji Military During the 2006 Election’, in Fraenkel, Jon and Stewart Firth (eds.) From Election to Coup in Fiji: The 2006 Campaign and its Aftermath. Suva: IPS Publications, University of the South Pacific. また、Lal Brij 2007 ‘’Anxiety, Uncertainty, and Fear in Our Land’: Fiji’s Road to Military Coup, 2006’, The Round Table 96: 135-153.
(5) cf. Mosmi, Bhim 2007 ‘The impact of Promotion of Reconciliation, Tolerance and Unity Bill on the 2006 Election’, in Fraenkel, Jon and Stewart Firth (eds.) From Election to Coup in Fiji: The 2006 Campaign and its Aftermath. Suva: IPS Publications, University of the South Pacific
(6) たとえば、The Fiji Times, October 27, 2006: 7におけるスティーヴン・ラトゥヴァの記事。同内容で同じ日付で、彼のブログにもアップされている[Ratuva, Steven 2006 ‘Bullets and Bulletins: The Media and Coup Rumours’ ]。
(7) 和解法案の他には、ゴリンゴリ法案(Qoliqoli Bill)と土地法廷法案(Land Tribunal Bill)である。
(8) 取り調べは、司令官の政府に対する批判的な発言が反逆罪に当たるのではないかという嫌疑であった。
(9) 警察と軍では分担する治安維持の境界をめぐる衝突があり、そのことが軍によるヒューズの辞任要求へとつながっていった。
(10) この部門は、警察活動の強化を目的に設立されたもの。警察の同部門の設立は、結果として軍の勢力をそぐもことになるとして、軍の側で問題視されることがあった。
(11) NLTBとは1940年に設置された先住民所有に当たる土地を管理する組織である。フィジーにおける土地の83%以上は先住民所有の土地に当たっている。
(12) 詳細はガラセ首相のウェリントン会議に関する説明文を参照。Qarase “Address to the Nation: Government Discussions with Republic of Fiji Military Forces”, November 30. 同内容は The Fiji Times December 1, 2006: extra 1, 2.にも掲載。要約は、The Fiji Times, December 2, 2006: 7.にもある。人々からの要求が高かったためか、ほぼ同内容の司令官宛の手紙も、The Fiji Times, December 3, 2006: 19.に掲載されている。さらに、フィジー語でも再掲されている。The Fiji Times, December 3, 2006: 20.
(13) 軍の要求では、A「見合わせ」ではなく取り下げ、B警察の取り調べをただちに取り下げること、C警察長官アンドリュー・ヒューズの即時の契約打ち切りと、より手厳しいものであった[Lal, Brij 2007 ‘Anxiety, Uncertainty, and Fear in Our Land: Fiji'’s Road to Military Coup, 2006’, The Round Table 96: 135-153.]。
(14) The Fiji Times, December 1, 2006: 6
(15) 実際のデッドラインは12月1日であったが、当日スクナ・ボールというラグビーの試合があったため、クリーンアップの開始時期をずらしている[Fijivillage News, 2006 December 1 ‘Army Commander will not extend deadline given to PM’]。
(16) ガラセ自身は、電話がつながることを根拠に、身を隠してはいないと主張している[The Sunday Times, December 3, 2006: 3]。ガラセの隠れているかのような対応は、おそらく、彼を人質にする計画があったという流言の影響もあったと思われる[The Sunday Times, December 3, 2006: 1]。
(17) The Sunday Times, December 3, 2006: 3
(18) The Fiji Times, December 4, 2006: 3
(19) 注10参照のこと。
(20) ピーター・ンリティ(Pita Driti)は、クリーンアップ・キャンペーン終了後、武器は返還されると述べた[Fijivillage News, December 4 ‘Army to Return Police Arms After Cleanup Campaign’]。
(21) Fijivillage News, December 4 ‘Military Sets Up More Checkpoints’
(22) 同地方の最高首長の一人ラトゥ・イノケ・タキヴェイカタ(Ratu Inoke Takiveikata)は、2000年11月に、クーデタの余波で起きた軍の一部による反乱事件に関与した廉で終身刑に処されている。また、彼はガラセを党首とする政党SDL(統一フィジー党:Soqosoqo Duavata ni Lewenivanua)の結成メンバーでもあったことがガラセの同議会出席の背景にあったと推測できる。また、同地方議会は、ガラセ支持を表明している[The Fiji Times, December 5, 2006: 3]。
(23) The Fiji Times, December 4, 2006: 23
(24) 注39を参照のこと。
(25) Qarase, Laisenia 2006 December 5, ‘Address to the Nation’. cf. Fraenkel, Jon 2007 ‘The Fiji coup of December 2006- who, what, where and why?’, in Fraenkel, Jon and Stewart Firth (eds.) From Election to Coup in Fiji: The 2006 Campaign and its Aftermath. Suva: IPS Publications, University of the South Pacific 421.
(26) この日の朝、ガラセはオーストラリア軍に救援を求めていたという。後日の報道によると、オーストラリアの外相アレキサンダー・ダウナー(Alexander Downer)は、ガラセ首相から、オーストラリア軍を派遣するよう3度要請があったと明らかにしている。一度目はクーデタの一週間前、二度目は12月4日、そして三度目はこの日、12月5日であったという[Fijivillage News, December 23 ‘Qarase Enquired for Foreign Assistance to Stop Army Takeover’]。
(27) この原理は、緊急時に際して、政府が責務を履行し得ないならば、行政部が介入する権限を認めるものである[Lal Brij 2007 ‘Anxiety, Uncertainty, and Fear in Our Land’: Fiji’s Road to Military Coup, 2006’, The Round Table 96: 135-153.]
(28) Bainimarama, Voreqe 2006 December 5 ‘Voreqe Bainimarama’s Press Statement’
(29)歴史の皮肉として、同日、エンペラー・ゴールドマイン(Emperor Goldmine)がヴァトゥコウラ(Vatukoula)鉱山での操業停止を発表している。
(30) Fijivillage News, December 7 ‘Caretaker PM Advised the Appointment of Qarase in 2000’. また、チョナの経歴の詳細については、[The Fiji Times, December 11, 2006: 2; The Fiji Times, December 17, 2006: 8, 9]を参照のこと。
(31) Bainimarama, Voreqe 2006 December 5 ‘Voreqe Bainimarama’s Press Statement’
(32) 12月20日の報道によると、副大統領自身、後に最高首長会議に辞表を提出している[Fijilive, December 20 ‘Ratu Joni hands in resignation’]。
(33) The Fiji Times, December 9, 2006: 3
(34) いわゆるagricultural scamと呼ばれているもの。選挙期間中に農作業の用具などが、支援という名目で配布された。同件に関して上級公務員に有罪が宣告されている。
(35) cf. The Fiji Times, December 14, 2006: 5。17日の報道では、400人の応募者があったとされている[The Fiji Times, December 17, 2006: 2]。
(36) The Fiji Times, December 8, 2006: 1
(37) 大首長会議議長ラトゥ・オヴィニ・ボキニ(Ratu Ovini Bokini)は、アンディ・リティア・ギオニンバラヴィの馘首に反対している。バイニマラマは、アンディ・リティアの後任として、もともとフィジー人担当局に勤務していた彼の兄であるラトゥ・メリ・バイニマラマ(Ratu Meli Bainimara)を指名した[The Fiji Times, December 15, 2006: 3]しかし、彼女は軍の意向を無視して、15日に職場に復帰している。彼女の任命をめぐる混乱はその後泥仕合の様相を帯びていき、彼女は22日のラジオ放送の場でバイニマラマから政府基金の悪用を申し立てられるが、翌日、彼女は軍の申し立てを否定する記者会見を開いている[The Fiji Times, December 24, 2006: 3]。さらにはフィジー・タイムズに英語とフィジー語の意見広告を掲載して、自己の潔白を主張した[The Fiji Times, December 27, 2006: 15]。
(38) The Fiji Times, December 14, 2006: 1, The Fiji Times, December 15, 2006: 1, 2.
(39) 1953年に結成された労働組合。この組織のもとに多くの組合が参集している。近年では労働党と距離の取り方を原因として、組合内部に分裂を生み出しており、労働党に反発する組合が別の組合団体The Fiji Council of Trade Unionを形成している。
(40) 厳密には、多党内閣の条項を通じて、労働党の議員もガラセ内閣に参加しているので、労働党も与党の一部であった。ただし、労働党党首チョードリー自身は閣僚として参加しないで、政権との距離を維持し、クーデタ前に提出された政府予算案にも批判的なスタンスを貫いていた。
(41) Fijivillage News, December 8 ‘Ratu Epeli mediates between Military/GCC’.ただし、ラトゥ・ボキニはラトゥ・エペリ・ガニラウには何の要請もしていないと即座に声明を出している[The Fiji Times, December 9, 2006: 2]。そのため、彼のクーデタへの事前関与は、この段階からはやくも噂になっていた。
(42) The Fiji Times, December 11, 2006: 1
(43) The Fiji Times, December 11, 2006: 1
(44) The Fiji Times, December 15, 2006: 3
(45) Fijivillage News, December 9 ‘Fiji Suspended from Commonwealth’
(46) The Fiji Times, December 16, 2006: 7。具体的には、@軍は行政権を大統領に戻す、Aバイニマラマとセニラガカリは辞任する、Bガラセは自主的に辞任する、C大統領指名で71人の選出された議員から首相を指名し、臨時内閣を形成する、D軍と臨時内閣の協議のもと恩赦条項をふくめた合意に達するよう調整する。同様な考え方を提示した者には、非営利民間団体CCF(Citizens’ Constitutional Forum)のアクイラ・ヤンバキ(Akuila Yabaki)がいた[Fiji Sun, December 23, ‘Polls in 15 months, says CCF’]。
(47) The Fiji Times, December 18, 2006: 1
(48) 実際には、クンブナの最高首長位は現在空位である。彼女は先のクンブナの最高首長の子供にあたるので、首長継承者として最有力候補の一人である。
(49) トヴァタのラトゥ・ナインガマ・ラランバラヴは参加を辞退している。
(50) The Fiji Times, December 21, 2006: 1
(51) The Fiji Times, December 19, 2006: 1
(52) たとえばトヴァタは、ブレンバサガ、クンブナのようにガラセ政権側に肩入れせず、軍がフィジーにおける行政権を掌握していると主張していた。こうした大首長会議分裂の背景には、大首長会議議員の一人であるラトゥ・テヴィタ・ウルイラケンバ(Ratu Tevita Uluilakeba)――トヴァタに属するラウ諸島出身――の意見があったとされる。彼は軍の上官で、故ラトゥ・マラ大統領の子息でもある[The Fiji Times, December 22, 2006: 1, 2]。
(53)前日の報道では、若干内容がことなっていた。大統領ラトゥ・イロイロに対する助言を可能とする定員10人の諮問機関を設置すること。内訳は軍、大首長会議、SDL、労働党、統一人民党から各2人で構成されること。そして諮問機関の勧告に従い、首相、臨時挙国一致政府は、追放された議員から選出すること。同議会のもと、2年後に選挙を行うこと。(軍の意向に配慮してか、臨時内閣の閣僚は次期の選挙に立候補しないことの言及されていた。)ガラセと政府の成員に保障する協定をつくるよう勧告すること。腐敗の申し立てに対する審議委員会を結成することである[The Fiji Times, December 22, 2006: 2]。
(54) The Fiji Times, December 23, 2006: 1, 2
(55) The Fiji Times, December 24, 2006: 1, 3
(56) 国民連盟党の党首ガニラウも、軍と歩調を合わせるかのように、フィジーを軍が支配している以上、合法性を話し合うのではなく、先に進む必要があるとコメントしている[The Fiji Times, December 22, 2006: 3]。
(57) The Fiji Times, December 23, 2006: 1; The Fiji Times, December 24, 2006: 3
(58) The Fiji Times, December 28, 2006: 1
(59) 注37も参照のこと。
(60) Fijivillage News, December 8 ‘Democracy activists allege ill treatment by Army’
(61) The Fiji Times, January 3, 2007: 3
(62) The Fiji Times, January 3, 2007: 1, 2
(63) 映像は選挙違反の現場を隠し撮りしていたのではなく、クーデタ後に軍がフォスターに協力を要請して作成されたものである。文中のような発言を引き出してはいるものの、情報を入手した設定を含めて、情報の信憑性については留保が必要であると思われる。また、後に、フォスターは軍への協力と引き替えに、軍に指名された警察長官に自分に対する告発を取り下げるよう依頼していたと報道されてもいる [The Fiji Times, January 4, 2007: 1, 4]。その後フィジーからの逃亡を果たした彼は、フィジー軍の手助けで国外逃亡が可能となったと証言している[Fijilive, January 24 ‘Military denies helping Foster escape’]。そもそも、軍はなぜこうした疑わしい履歴の人物に協力を要請したのか、不明である。
(64) The Fiji Times, January 4, 2007: 3、また、Fijilive, 2007 January 3 ‘Give evidence to cops: Law Society’も参照のこと。軍は、この後、さらに汚職の証拠となるテープを公表していくと述べているが[Fijilive, 2007 January 3 ‘Army to release more Foster videos’]、本稿執筆の時点では何も提示されていない。
(65) 同時に同じ理由で、主席治安判事ナオミ・ロマイヴィティ(Naomi Lamaiviti)も休職扱いにされた。また、この時点で給与は支払われていたが、ファティアキはのちに大統領令のもと公式に停職扱いにされている[Fijilive, 2007 February 9 ‘CJ informed of suspenion’]。
(66) The Fiji Times, January 4, 2007: 1,2