前号に掲載された論文では、2006年12月5日に発生したフィジー史上4度目のクーデタについて、2007年1月4日、行政権がバイニマラマから大統領ラトゥ・イロイロに返還されるまでを検討した。本稿では、この行政権の委譲後に、どのようなメンバーで構成された臨時政府が成立し、国内の各種団体は及び諸外国の政府や関係機関といかなる交渉を重ねていったのかをみていきたい。そして、民族差別や政治汚職をなくすという理念で始められたクーデタが、皮肉なことにフィジー社会に別の形での分裂をもたらしていったことをあきらかにしていく。
以下、2節では臨時内閣の構成員、その臨時内閣によるフィジー各界、ことに公務員体制、司法への介入について記述・分析していく。3節では政権としての法的根拠等が疑問視されつつも一定の足場を築いた臨時政権が、どのように国際社会と対峙したのかについてみていきたい。そして4節で、前号と今号で描いてきたクーデタの展開の中で、フィジー社会がどのように分断されていったかについて分析を加えることで稿を閉じたい。なお、本稿の対象とする時期はおよそ2007年初頭までで、それ以降の展開については論旨と関わる限りで言及する。
2 新たな政治秩序の形成
1)行政権の返還と臨時政権の閣僚任命
2007年1月4日、バイニマラマは行政権を大統領ラトゥ・イロイロに返還した(1)。ラトゥ・イロイロは返還を受け入れると同時に、「状況を鑑みると、司令官がなしたことは、あの時点で必要なことであったのだから、まったく同じことを私でもしたであろう」と昨年12月5日の軍の政権奪取を支持する声明を出した(2)。
前年末、軍がすでに行政権の返還を明言していていたこともあり、行政権の返還自体は驚くに当たらなかった。人々を当惑させるに充分であったのは、国家の元首である大統領が合法的な政府を転覆した軍の行動を是認する発言内容にあった(3)。しかも、事態を複雑にさせたのは、以下2点の事実である。ひとつめはラトゥ・イロイロの立場に関わる点である。彼は、クーデタ以前に、軍ではなく合法的な政府によって立憲的手続きに従い任命された大統領で、そのため追放されたガラセ政権はもちろんのこと大首長会議も、この1月4日の声明まで、ラトゥ・イロイロが現職の大統領であるという点で見解を共有していた。事実、大首長会議による政治的混乱の打開策の要点は、バイニマラマがみずから臨時大統領と名乗った行為には法的意味がなく、大統領は依然としてラトゥ・イロイロであり、彼を中心として政治的秩序の回復を図るというものであった。それでは、他ならぬラトゥ・イロイロが軍の行動を是認したらどうなるのであろうか。今回の声明であきらかになったのは、まさに、合法的に任命された大統領が非合法な軍事奪取を是認するという政治的なねじれの出現であった。
各界の反応は当然のように割れた。ガラセは、ラトゥ・イロイロの声明は軍の行動を非難したクーデタ当日の彼の発言と矛盾していると指摘して、大統領の中立性に懸念を表明した。大首長会議の議長も、ラトゥ・イロイロの発言が違法であるなら、彼への支持自体考え直す必要があると批判的声明を出した(4)。キリスト教伝道団(Christian Mission Fellowship)の議長スリアシ・クルロ(Suliasi Kurulo)は、大統領は軍の「操り人形」であると厳しい発言をした(5)。こうして大首長会議、キリスト教関係団体は、ガラセと同じようにラトゥ・イロイロの発言を批判する立場をあきらかにした。
しかし、フィジーの人々にそれ以上に衝撃を与えたと思われるのは、翌5日、ラトゥ・イロイロが大統領としての権限のもと、他ならぬクーデタの実行者であるバイニマラマを臨時政府の首相に任命したことであった。これが問題を複雑にさせた第二の事実である。この事態の展開は、併せて公表された閣僚人事の顔ぶれと共に、人々を驚かせるに充分であった(6)。8日の朝には、以下の閣僚が就任式を行った。ラトゥ・エペリ・ナイラティカウ(Ratu Epeli Nailatikau)(7)は外務大臣、スヴァで活躍する弁護士のアイヤーズ・サイヤド・ハイユーム(Aiyaz Sayed Khaiyum)は法務長官兼司法大臣(8)、ポセジ・ブネ(Poseci Bune)が公共サービス・公共部門改革大臣、臨時政府の首相をこれまで務めていたチョナ・セニラガカリは厚生省の大臣へ異動された。文部大臣ネタニ・スカナイヴァル(Netani Sukanaivalu)(9)、運輸大臣マヌ・コロヴラヴラ(Manu Korovulavula)(10)、商務大臣にタイト・ワランディ(Taito Waradi)(11)、女性・社会福祉大臣にラウフィトゥ・マラニ(Laufitu Malani)(12) がそれぞれ就任した(13)。
9日には、レーク・ラーム・ヴァエーシュノイ(Lekh Ram Vayeshnoi)(14)が青年・スポーツ大臣に、チョネ・ナヴァカモゼア(Jone Navakamocea)(15)が 地方政府・都市開発・公益事業大臣に就任した。その他にも、労働、産業関係と生産性並びに観光と環境大臣にベルナデッテ・ラウンズ-ガニラウ(Bernadette Rounds-Ganilau)(16)、土地・鉱物資源大臣にテヴィタ・ヴインバウ(Tevita Vuibau)(17)、第一次産業・農業・漁業・森林大臣にジャイネンド・クマール(Jainend Kumar)(18)が就いた(19)。
同日、就任した大臣の中で、ことに人々の目を引いたのは、「不可思議な運命のよじれ」という言葉を残して、財務・砂糖・国家計画(20)・公企業のポストを受け入れたマーヘンドラ・チョードリーである。彼は1987年4月の総選挙の結果成立した労働党政権によって任命された財務大臣のポストを同年5月に起きたクーデタによって失った過去があった。ところが2006年のクーデタの結果、他ならぬ財務大臣に就任したことをこの発言は指している。2000年にはフィジー史上はもちろん、南太平洋地域でも初のインド人首相に就任するなどの政治的経験や労働党や労働組合の指導者としての長いキャリアと成果、そして与えられた臨時内閣のポストの重要性などを鑑みて、政権の柱のひとりとなっていることは疑いえない。しかし、彼は、違法な臨時政権に参加する意志はないと、2006年12月5日のクーデタ直後に明言していた行動にも表れているように(21)、政治的策謀に長けた人物として賛否両論ある。
もうひとり臨時内閣の中心を担う人材で、遅れて就任したのは、ラトゥ・エペリ・ガニラウ(22)である。これまでも軍に対する宥和的な発言や、大首長会議と軍を取り持とうとする行動などから、クーデタへの関わりが噂されていたが、その真偽はともかく、彼はフィジー人担当大臣という、土地所有権、大首長会議など先住系フィジー人と密接に関わる重要なポストの任命を受け入れている。前稿でも触れたとおり、軍の司令官、大首長会議議長を努めた華々しい経歴、父親に初代大統領ラトゥ・ペナイア・ガニラウ(Ratu Penaia Ganilau)、義理の父親がフィジー初代首相で大統領にも就任していたラトゥ・マラと、家柄にも恵まれた人物である。しかし、政治家としての経歴は必ずしも華々しくなく、VLV(キリスト教民主同盟:Veitokani ni Lewenivanua Vakarisito)に参加した後、2006年の総選挙前に国民同盟党を設立するも、結果として票全体の3%に満たない得票率しか得られず、一議席も獲得できていない(23)。
上記の任命に象徴されるように臨時政権の閣僚の特徴は、労働党と国民同盟党のメンバーが含まれている点である。たとえば、前者であればブネ(24)とチョードリーの忠実な支持者としても知られるヴァエーシュノイ、後者ではスカナイヴァルとコロヴラヴラの2名である。両政党は、2006年12月より後の政治的混乱期を通じて、臨時政権、あるいは軍に対して理解を示すような発言を一貫してかさねてきていた。逆に、SDLのメンバーで臨時政権に参画したのはナヴァカモゼアただひとりであった。そのため、臨時政権は「多かれ少なかれ労働党と国民同盟党との連合だ」と、ガラセ自身からも批判を受けることになった(25)。また、そもそも閣僚ポストは公募で決められたはずであったのに、チョードリーやラトゥ・エペリ・ガニラウなど主要な閣僚が任命されているのも(26)、選出過程自体に疑義が挟まれても致し方ない点である。そのため、当然のことながら、労働党、国民同盟党のクーデタへの事前関与、あるいは関与までいえなくとも軍部との関係に疑いの目を注ぐ者もいた。ことに、国民同盟党からの閣僚は2006年総選挙で落選した人々であったため、一般人の猜疑心をかき立てるに充分な根拠となっている。9日には、はやくも、SDLによって両政党は政治的混乱に乗じて軍と手を結んだとして、批判されている(27)。
ともあれ、16日には閣僚が集まり2007年度予算の策定に着手しはじめるなど、この政権は実質的な活動を始めるに至った。そこでは、クーデタという事態の展開に対応した経済の安定化に向けたあらたな政府予算の計上に関する議論が行われた(28)。
2)汚職防止委員会の設立と司法への介入
クーデタを経て閣僚の任命をすませた臨時政権は、改革の手をさらに広げていった。そもそもバイニマラマが繰り返し述べているところでは、今回のクーデタは国から汚職を取り除くことに最大の目的があった。そのため汚職一掃のための措置は早い段階から着手されていくこととなった。1月18日には、汚職を取り除くための政策を遂行する独立委員会の設立が公表された(29)。同月29日には、この反汚職委員会(anti-corruption commission)を率いる主任調査官として警察官ナースィル・アリー(Nasir Ali)が指名され、また、軍の副司令官であるエサラ・テレニ(Esala Teleni)も同委員会に派遣された(30)。この時点では、汚職を追及する具体的な組織が存在していた訳ではなく、彼らは汚職の情報や証拠を収集・分析するため、軍に協力しているだけであった(31)。汚職に関わった者を起訴する権限が大統領令によって付与され、彼らの活動が組織化されたのは、同年の4月4日まで待たねばならなかった(32)。
同組織は早速、1月末から情報収集を開始した。その結果、600件以上の汚職の申し立てを広く人々から得たとされている。情報の受付だけではなく、反汚職委員会は積極的に各種の国家機関に捜査の手を伸ばした。捜査の対象となった団体には、たとえば、フィジースポーツ委員会(Fiji Sports Council)、公共労働局(Public Work Department)(33) 、原住民土地信託局(Native Lands Trust Board)などがあった。
同時に、この反汚職委員会の活動とは別のかたちで、臨時政権は司法当局への介入を進めていった。1月19日、それまで停職処分にされていた高裁判事ダニエル・ファティアキが大統領令のもと馘首された。理由は2000年クーデタへの関与に関する嫌疑のためで、彼に対する裁定委員会が立ち上げることが決められた。司法に介入したのは臨時政権の側からであった。しかし、以下に示すように、結果として表面化したのは司法当局自体の分裂した状況の方であった。
司法当局の内部対立の起源も2000年クーデタにあった。2000年時の高裁判事であったティモジ・トゥイヴァガ(Timoci Tuivaga)が、2000年クーデタの混乱を収拾するため、1997年憲法を破棄するよう軍に助言したことに問題の根源がある。この際、彼の判断を支持したのが、彼の高裁判事後継者でもあるファティアキとマイケル・スコット(Michael Scott)判事で、反対したのがナズハット・シャミーム(Nazhat Shameem)とアンソニー・ゲイツ(Anthony Gates)であった(34)。そして2006年のクーデタで馘首されたファティアキ判事の席を埋めるため、2007年1月16日に高裁判事代理に就任したのがほかならぬゲイツ判事であり、彼を指名するために招集された司法委員会(Judicial Services Commission)を立ち上げたのがシャミーム判事だった(35)。この会合には、フィジー法協会の議長も臨席していた(36)。
以上述べてきたように、フィジー法協会としては一貫して2006年クーデタに批判的であったものの、軍の介入から始まり、臨時政権による開廷引き延ばし策などを受けるなかで、内部分裂が露わとなり、結果として臨時政権への有効な批判勢力たりえているとは必ずしもいえない状況である。
3)公務員体制の変革とストライキ
クーデタ直後から行われていた公務員体制の変革はさらに押し進められ、1月19日には各種CEO 23人が停職扱いにされ(37)、教育、金融、フィジー人行政局、首相官邸など4つの主要ポストに関するもののみアドヴァイザーとして再度任命された(38)。これまでの政権と関わりの深かった人物の取り替えという側面が強くあったが、それ以降の変更点はむしろ、政府の支出削減策の一環としての傾向がむしろ強かった(39)。たとえば、CEO制度が給与水準の低い事務次官(Permanent Secretary)制度へと戻され、公務員のCOLA(Cost of Living Adjustment:生活費調整)の削減、定年退職年齢の60歳から55歳までの引き下げ、給料の5%削減などが決定された(40)。
予算を圧迫しつつあった人件費等への支出の増大に対する措置は、ガラセ政権時代にもすでに懸案事項であった(41)。その意味で、公務員体制の変革という点においてはバイニマラマ臨時政権もガラセ政権と問題意識を共有していたといえる。ただし、退職年齢の引き下げと給与の削減という2点の政策は、そうした公務員体制の変革という平時にも議論されている問題と関わっているだけではなくて、1987年、2000年の2度のクーデタ後と同様、政治的混乱を経て悪化した財政の再建を目的とした措置でもあった。事実、給与削減に関しては、経済状況が安定した後にもとの水準に戻すと臨時政府の蔵相は述べていた(42)。
ただし、削減される側は政府側の政策意図に合意しているわけではなかった。歳出の削減の理由はさておき、クーデタ直後という時期に以上の政策が断行されるのは、クーデタによって打撃を受けたフィジー経済の立て直しの文脈においてであった。クーデタに関与していたわけでも、利益を得ているわけでもない人々から批判の声が広がったとしても理解できよう。事実、声高に財政再建政策に対する反対を表明したのは、各種の労働組合からであった。そのうち、特に目立った組合は、上記の政策で被害を受ける公務員、教職員そして看護士関係であった。
共通の利害関係を持っていることもあり当初こそ彼らの動きは一致しているかに思われたが、交渉が長引くなか次第に組合の結束は分断されていった。まず、フィジー公務員協会(Fiji Public Service Association)とフィジー教職員組合(Fiji Teachers Union)の2組合が2007年7月11日にスト回避で合意した。合意に達した内容は、以下の3点であった。@賃金削減に関しては1%分をもとに戻す。残りの4%に関しては経済状況に配慮しつつ政府と組合で交渉を行う、A定年退職の年齢に関してはすでに進行中である司法審査の結果に委ねる、B国と組合の組合協約(Partnership Agreement)(43)については話し合いを延期すること(44)。
合意した両組合は組合の中でも中心的な組織であり、ことに前者の組合総書記ラージェーシュワル・スィン(Rajeshwar Singh)は、公共部門の組合をとりまとめる公共部門組合連合(The Confederation of Public Sector Unions)の指導的役割を果たしていたため、この合意のもった影響力は大きかった。スト回避の背景には、臨時政権に党首が参画している労働党の影響力があったと思われる。事実、回避に合意した組合はいずれもフィジー労働組合評議会(FTUC:Fiji Trade Union Congress)の傘下にある組合であり、同評議会の総書記は労働党所属の国会議員でもあるフェリックス・アンソニーである。フィジー教職員組合の総書記アグニー・デーオ・スィン(Agni Deo Singh)も2006年まで労働党出身の国会議員であった。また、この合意に批判的な組合――フィジー人教職員組合(Fijian Teachers Association)、Viti National Union of Taukei workers、Public Employees Union――は、FTUCから離脱しFICTU(Fiji Islands Council of Trade Unions)を形成した組合であったことも、この合意がある程度政治的妥協の産物であることを逆の方向から示しているといえよう。構成員にフィジー人を抱える割合の高いフィジー看護士協会も、合意に批判的であった(45)。
臨時政権と後者の合意に納得しなかった各種の組合の話し合いは平行線をたどった。政府側は非常事態を盾にストライキを牽制するなど(46)強硬な態度を崩さなかった。一方で合意に批判的であった組合側はストを起こしつつも次第に妥協を重ね、最終的に闘争の舞台を法廷にまで移した。
3 国際社会との交渉――EPGレポートを中心に
以上が臨時内閣の直面した内政上の問題とすれば、ここでは諸外国との応接について検討していきたい。国内政治という側面では軍の力を背景に軍・臨時政権に対する反対派の声をある程度押さえ込むことは可能であったが、諸外国と交渉しつつみずからの政府の正当性を担保するためにはまた別の種類の労力が必要とされた。
クーデタに対する国際社会の反応としては、クーデタ直後にはやくも英連邦からメンバーとしての資格停止を言い渡されていた他、ヨーロッパ連合も35億ドルに及ぶ援助金の支払いを中止する可能性を示唆していた。隣国で経済的・政治的な関係も深いオーストラリアとニュージーランド政府は自国民に旅行中止を勧告していた。臨時政権成立以降も首相の座を軍の司令官バイニマラマが占めるなど、軍事政権的な色彩が一目瞭然であった臨時政権にも批判的な見解を表明し、政権に関与した人々の入国拒否という措置を下していた。フィジーでは、就職や教育の機会を求めて両国へ向かうことは頻繁にあり、多くの人が何らかの形で同地に居住する親族を抱えていることを考えると、この措置はフィジーの人々に臨時政権への関与を躊躇させるには充分であったといえる。
しかし、諸外国の側も、各国の利害関係もあって、フィジーの臨時政権に対する対応の点で足並みがそろっていたわけではない。そうしたなか、太平洋諸島地域での国際機関である太平洋諸島フォーラム(The Pacific Islands Forum)が、フィジーへの視察をすることになった。これが1月29日から2月1に行われたEPG(Forum Eminent Persons Group)のフィジー訪問である。
EPGのフィジー来訪の目的は、クーデタの関係者との面談を通じて、フィジーの状況を視察することにあった。4人のメンバーで構成されるこのグループは(47)、臨時首相や閣僚はもちろんのこと、追放されたガラセ首相、大首長会議議長、財界人、人権団体を含めた各種のNGO関係者などからも聴取を行っていた。EPGによって提出されたレポートは、英連邦、ヨーロッパ連合、国連にも提出されると目されていたため、臨時政権側にとっても、クーデタ以降の国際関係の変化を読み取り、対応策を練る際の指標のひとつとなった(48)。
臨時首相バイニマラマは、彼にクーデタ実行を決意させた要因についてEPG側に説明を加えている。いわく、臨時政権を通じて政府機構を改革することで汚職の一掃をはかる、また、そもそもガラセ内閣を政権の座から追い出したのも同じ理由に基づいている。そして、5年後の総選挙をつうじて、民主的国家へと復帰する旨を公表した。この期間は公正な選挙を行うための統計をとり、選挙区を再画定することのみならず、新たな選挙人名簿作成法を導入し、また、人々に選挙について啓蒙する活動に費やされると説明された(49)。
以上のようなバイニマラマの政権運営の見通しと照らし合わせたとき、EPG側が最終的に提出したレポートは臨時政権に対して手厳しいものであった。クーデタの非合法性を確認した上で、18ヶ月から2年以内の総選挙の開催と、バイニマラマの辞任と非常事態令の解除を求める。それ以外にも軍は1997年憲法を遵守し、司法への介入や人権侵害を行うべきでないことが確認された(50)。以降、臨時政権の政策も、ことに総選挙の早期開催などの点において、EPGレポートに配慮せざるを得なくなった。
ただし、軍出身のバイニマラマは、海外の諸政府を相手とする微妙な交渉には慣れていないようで、不用心な発言・行動から、各国と衝突を起こした。たとえば、2007年の4月にアメリカが、2006年のクーデタ以降、フィジーの人々に対して人権侵害が起きているという報告書を公表した際には、バイニマラマはアメリカ大使館の前に設置されているバリケードを撤去するよう言い渡した(51)。同様に、同年6月にも、ニュージーランド大使が「好ましからざる人物」として国外追放にされている(52)。これらは、2006年のクーデタを支持するしないにかかわらず、クーデタ後に悪化した国際社会との関係を好転させることのない非生産的な行動であるとフィジーの各界から批判を受けることとなった。
4 クーデタをめぐるフィジー社会の分断
以上、2006年12月5日のクーデタから生まれた臨時政権についてその構成員の特質とその後の対内的、対外的な対応を検討してきた。ひとつの転換点は、1月5日、クーデタ前から在職していた大統領ラトゥ・イロイロのもと、バイニマラマが臨時政権の首相に就任したことにある。それ以降、臨時政権は司令官が首相を兼任するという軍事政権色は残りつつも、正規に選ばれた大統領という切り札を使うことで、政権としての正当性の少なくともみせかけは取り繕い、国内外政治の場において変革や交渉を行ってきたといえる。バイニマラマを中心とする閣僚たちは、臨時政権という体裁のもとで、対内的には政権成立後の公務員体制の改革、対外的には諸外国との関係正常化に着手した。本節では、前稿を含めて時系列的な整理を踏まえてうえで、これまであまり触れてこなかった、クーデタに起因するフィジー社会の分断についてみていきたい。
クーデタに批判的な層は明白である。追放されたガラセ自身を含めた政権のメンバーからSDLの党員はもちろんのこと、彼らの支持層、そして多党内閣の条項に従って与党に入閣していた労働党議員の一部も批判的であった。それ以外にも、前回の原稿で触れたように、フィジー人と関連性の深い団体である大首長会議、メソディスト教会も臨時政権に好意的とはほど遠かった。彼らの多くは、非常事態令をたてにした事実上の言論の取り締まりと、汚職を大義名分にした捜査にさらされることで、また、軍が臨時政権と一体化して行動していることで、反臨時政権へむけた足並みを揃えるまでには至っていない。
むしろ、1987年、2000年クーデタと比較対照したとき、思いがけない所から支持者が現れたことが、今回のクーデタの特徴であるといえよう。軍関係者以外からの好意的な反応の例として代表的人物を3人ほど取り上げて、以下で見ていきたい。
まず、比較的早い時期に、クーデタに対してはっきり支持を示す文言を口にしたのは、フィジー人権委員会(Fiji Human Rights Commission)委員長のシャーエスタ・シャミーム(Shaista Shameem)であった。彼女が2007年1月4日に公表したレポートは、以下で述べる内容もさることながら、バイニマラマが臨時首相に就任した前日というタイミングに公表されたこともあって、多くの人に複雑な反応をもって受け取られた。
同文書の内容は、ガラセ政権に対して辛辣な批判をしつつ、バイニマラマのクーデタを事実上合法化するものであった。まず、近年のフィジーの政治的混乱を歴史的に再検討することから報告書は始まる。たとえば、2000年のクーデタが解決を見た後、1997年憲法が破棄されていない以上、首相に任命されるべき人物はガラセでなくチョードリーであったと指摘する。まずこの時点で政治的秩序の回復過程に過誤があったので、これ以降形成された政府は違法な判断の上に積み重ねられた政権であるとしている。2001年の選挙を経た後も、ガラセ政権は憲法違反の疑いがある法案を提出し、さらに、2006年の総選挙に際しては――彼女が主張するには――あまたの選挙違反があったため選挙結果自体が無効であると論を展開している。つまり、ガラセ政権の成立自体がそもそも非合法あったと判断を下すことで、2006年のクーデタを実質的に正当化する文書であった(53)。
こうしたガラセ政権に対する痛烈な批判は、彼女の長きにわたるガラセ政権との確執が背景のひとつとしてあった。それ以降、シャミームはバイニマラマ及び軍部寄りの見解を公表し続けるなど多大なる論争を巻き起こす存在となっている。
ついで、ECREA(Ecumenical Centre for Research Education and Advocacy)という市民団体の成員で、カソリックの神父であると同時に啓蒙的なソーシャル・ワーカーとしても知られているケヴィン・バー(Kevin Barr)がいる。彼は連名で出した文書で次のように主張していた。2006年クーデタの非合法性は、「民主主義や法の支配という視点からみると」争う余地のない事実であると断りを入れた後に、「社会的正義(social justice)」という視点から見ると事態の別の側面が顕わになるという。たとえば、ガラセ政権のフィジー人優遇政策(affirmative action)や論争含みの法案の提出などはフィジー人民族主義者の利害関心におもねるものであるし、汚職事件や会計検査院の報告書をみるかぎり政権の経済政策の舵取りには疑問符が付けられるという。のみならず、ガラセ政権の貧困対策の不備、ファンダメンタリズム的なキリスト教教会との親和的関係を問題点として指摘している。バー神父によると、こうした状況の中で、バイニマラマが行ったクーデタは、@多民族主義の名のもとで行われていること、Aフィジーにいる全ての人の利害関心に基づいて経済が働くよう考慮していること、という2点において現状を転換して、フィジーの未来を切り開くものとして期待をかけている(54)。
最後に、労働党最初の国会議員で1987年のクーデタ以降は国外の大学で教鞭を執っていたサテンドラ・ナンダン(Satendra Nandan)をとりあげたい。彼は作家、詩人でもあり、フィジーでの経験をもとにした著作を多く発表している。1987年政治的混乱以降、フィジーにおける民族主義的な動きをつねに批判してきた論客でもある。
彼は反汚職に関するシンポジウムの席上にて、今回のクーデタを留保付きで評価している。彼によると、「我々に迫られた問題は、善悪の選択ではなく、相対的な悪のなかからの選択である」とクーデタ自体の否定的側面に留意しつつも、今回のクーデタはいままでの人種差別的なクーデタと異なる、最良のクーデタであると述べた。そのうえで、「非合法ではあっても、非道徳であろうか」また、「その行為が憲法違反であったとしても、非倫理的であろうか」と問いかけた(55)。こうした彼の見解は、1987年のクーデタ以降フィジー人民族主義の興隆に巻き込まれた、移民の末裔ながらもフィジーを母国として成長してきたインド人としての鬱積した不満をたくみに表現していると思われる。
以上3名は、フィジーにおける1987年、2000年のクーデタに関して一貫して批判的な態度をとってきた人々であった。また、であるがゆえにガラセ政権のフィジー人民族主義と手を結ぶ政策傾向をたゆまず批判してきた人々でもある。多民族主義を標榜し、政治汚職の一掃を唱えるという点で、バイニマラマの主張と一致している彼らが、2006年クーデタに対して理解を示していることは突飛ではない。むしろ彼らからすれば、彼らの軽視されてきた政策的方向性が、今回のクーデタを通じて所を得たという感覚を持ち得たと思われるのである。2006年のクーデタで副大統領職から不本意な形で辞任することになったラトゥ・チョニ・マンライウィウィは、以上のようなこれまでのクーデタを支持してこなかった層から今回のクーデタへの共感者が出現したこと対して、次のように総括している。いわく、今回のクーデタは、ガラセ政権によって疎外された人々――インド人の他、カソリック教会、数多くの市民団体、司法制度における不平分子などの少数派コミュニティの多く――から陰に陽に支持されている(56)。事実、ラトゥ・チョニが指摘した層のなかから、臨時政権が後押ししている人民憲章の作成へと参加していく人々が輩出されていく。たとえば、正式な議長のひとりには、カソリック教会のペテロ・マタザが参加を表明している(57)。
5 最後に
いわゆるガバナンスの問題を提起して2006年のクーデタは始められた。クーデタ実行者の側から「クリーンアップ・キャンペーン」と称されるこのミッションはいつ完了し、臨時政府は立憲的な政府へと政治的秩序を移行させることができるのだろうか。できうるかぎり早期に総選挙を開き、民主的国家へと復帰するよう国際社会からたびかさなる圧力を受けていることもあり、いまのところ2009年3月に総選挙が行われると臨時政権はほのめかしている。しかし同時に先の言明と矛盾するようだが、臨時政府は、総選挙の施行と民主主義への復帰を等式で結ぶ考え方を批判している。彼らによると、そうした形式的な形で民主主義を捉えるのではなく、具体的に民族差別のない社会を実現するための準備が完了した時点で総選挙を行うことが、真の意味での民主主義の実現のために重要であると主張している。そしてそうした社会実現の為のヴィジョンとして「変革と進歩のための人民憲章(People's Charter for Change and Progress)」の作成を押し進めている(58)。
臨時政権側はこの憲章が選挙にも影響を及ぼすこと――具体的にはSDLの元議員は立候補できないようにするとか、民族区分を取り除いた選挙方法の導入など――をほのめかしているが、容易に想像がつくように、選挙の洗礼を受けても、選挙によって選ばれた議員から指名されたわけでもない成員にイニシアチブを握られて作成された文書がどこまで法的拘束力を持つのか疑問がある。また、メソディスト教会、大首長会議というフィジー人の伝統的社会と結びつきの深い機関を始め、複数の地方議会は軒並み憲章作成過程への不参加・不支持を表明している(59)。なにより先の選挙でフィジー人の8割の票を得ることに成功したSDLの参加を得るに至っていない。このように一般に開かれた協議の場を設けているとは言い難い状況では、憲章の作成に成功したとしても、どこまで一般人からの支持を期待できる文書たり得るかは闇の中である。
このように考えてみると、万人に受け入れやすい民族差別や政治汚職への批判を掲げて起こされた2006年のクーデタが、皮肉にも社会的分断を生み出していることもみえてくる。前節で述べたように、反対の声があがるサイドのベクトルが逆になったとはいえ、結局の所、フィジーにおける4度目のクーデタは、これまでと同様、フィジー社会のなかに分断を生み出しているのだ。前項で指摘したようにクーデタ実行者のイデオロギー的立ち位置が異なっているだけで、武力を通じた立憲政府の転覆という手段に訴えて自説を押し通そうとしているという意味で、本質は変わりないともいえる。いずれにせよこれまでのクーデタがそうであったように、今回のクーデタもフィジーの歴史の転換点のひとつとなるであろう。クーデタそれ自体の事件性のみならず、過去のクーデタを通じてつねに政権の座から追い出される側にいるという運命にあった労働党が今回は事実上実行者の側に肩入れしているのである(60)。
また、クーデタとは関係なく、政治家の世代交代もさらに進行している。野党の代表として幅広い支持を得ていたミック・ベッドスと、労働党の党首チョードリーは次回の選挙での政界引退を表明している。チョードリーを含め発言に揺らぎがあるものの、臨時政権に参画している閣僚はバイニマラマの公約に従うならば次回の選挙には立候補できないことになっている。ことに労働党は、草創期から関わってきた大物が相次いで引退し、次世代も充分に育っているとは言い難い状況にある。主たる支持層であるインド人自体の人口が減少していくなか、労働党は現状のままの組織であり続けるならば、その影響力・存在感は否応なしに下降線をたどっていくことになるであろう。
さらに今回クーデタの標的として暗黙のうちに含まれているフィジー人保守派にも変化が見られる。かつてフィジーの地で外来の制度である民主主義は花咲かないと述べてきた彼らのなかには、これまでのクーデタに関する見解からは一転させて、今回のクーデタでは民主主義的ルールの遵守を唱えている者もあらわれている。彼らの民主主義への肯定的な発言が失った政権の座を取り戻すための機会主義的言説である側面は確実にある。しかしそれ以上に注目しておきたいのは、フィジー保守派の言説には広い意味で民主主義以外の伝統的制度を活用して政治的運営を行っていこうとするような、これまでのクーデタ時には多少とも見受けられたような見解はいまのところ出てきていないことだ。2006年のクーデタの結果フィジー人保守派の多くがフィジー人史上初めて、クーデタを批判して民主主義を正当化する立場になったという状況の変化と相即してもいるが、同時に、民主主義か文化的制度かという二項対立で事態をとらえることは、民主主義に対して必ずしも好意的でない層においてもすでに現実的ではなくなっている状況を表しているのかもしれない。
以上がフィジーに特有の文脈であるとすれば、それ以外、より太平洋地域とも関連した変化の動向についても、目を配っておく必要がある。オセアニア諸国家においても国民国家の関係枠組みが変化しつつあり、今回のクーデタを通じて、たとえば軍事的にはビケタワ宣言が、無視し得ない形で存在していることが再度確認された。フィジーから他国へ軍事的介入を要請する動きはこれまでのクーデタ時にも見受けられたが、今回のそれにおいては具体的な条文が存在しており、オセアニア他地域には介入した前例があるため、軍事衝突がいっそうの現実感を持って語られていたのである。
以上のように、国内的、国際的な意味においてもフィジーを取り巻く状況はいやがおうにも変化している。そうしたなか、民主主義に基づく政治の運営という古くて新しい課題を巡ってフィジーの人々は厳しい舵取りが引き続きせまられ続けることになるであろう。
謝辞
この原稿は、第24回日本オセアニア学会及び太平洋諸島地域研究所での発表の一部をもとにしたものです。2006年12月のまさにクーデタ進行時に意見を交わすことのできたTarcisius Tara Kabutaulaka氏(イーストウェスト・センター)との会話も参考なりました。また、人名のカタカナ表記についてインド人のヒンドゥー系については小西公大氏(東京都立大学大学院)、ムスリム系については小牧幸代氏(高崎経済大学)からご教示頂きました。記して感謝いたします。
【前号の修正】
9頁 法曹界→法協会
16頁注56 国民連盟党→国民同盟党
17頁 法曹界→法協会
(1) 返還にいたる経緯については拙稿を参照のこと(丹羽典生 2007「フィジー諸島共和国における政治的混乱の分析に向けて――2006年12月5日のクーデタの発生前夜から臨時政権の確立まで」『パシフィック ウェイ』第130号)。
(2) The Fiji Times, January 5, 2007: 1
(3) このクーデタ容認発言を公表するまでの大統領の考えは不明確である。大統領が立場を明確に示さなかった背景には、大統領より伝統的地位の上では上位に位置する副大統領がクーデタに批判的であったため、彼の意向を汲んでクーデタ容認的な発言を差し控えていたという見解もある。
(4) The Fiji Times, January 5, 2007: 1
(5) The Fiji Times, January 5, 2007: 2。この発言は、大統領が80代後半にもなる高齢者で、病気の疑いがしばし取りざたされていることも背景にあると思われる。
(6) The Fiji Times, January 6, 2007: 1
(7) 彼は1987年にランブカ中佐がクーデタを起こした時、軍の司令官であった人物である。1987年、2000年のクーデタをつとに批判していたことで知られている。ガラセ政権の下院議長も務めていた。2000年のクーデタの際には、軍の側から臨時首相として提案されていた人物でもあった。
(8) 国民連立党の元議員サイヤド・ハイユーム(Sayed Khaiyum)の子息に当たる。ムスリムである。
(9) FIT(Fiji Institute of Technology)の前校長で事業家。2006年選挙の際、国民同盟党で立候補していた。
(10) 国民同盟党のメンバー。
(11) フィジー商業会議所の議長を務めていた人物。
(12) ラ地方出身の首長筋に属し、追放された上院の議員でもあった。
(13) Fijilive, January 9, 2007 ‘More interim ministers today’.
(14) 労働党の党員で、多党内閣の規定のもとガラセ政権ではエネルギー省を担当していた。
(15) ガラセ政権の閣僚で国家計画省担当大臣であった。SDLの党員でもある。
(16) 追放された政府野党の副指導者で、統一人民党の党員。メディア・パーソナリティとして知られていたが、2000年クーデタ直後のガラセ率いる臨時内閣にも閣僚として参加していた経歴を持つ。後に触れるラトゥ・エペリ・ガニラウは義理の兄弟にあたる。
(17) 鉱産資源局の地理調査主任であった。
(18) コロニヴィア研究所(Koronivia Research Station)の前所長である。
(19) Fijivillage News, January 9, 2007 ‘Mahendra Chaudhry Sworn in as Interim Govt Minister’, Fijilive, January 9, 2007 ‘Chaudhry takes up finance portfolio’.
(20) 国家計画大臣の職は、後に、ブネに移された[Fijilive, March 12, 2007 ‘Bune gets another portfolio’]。
(21) 丹羽典生 2007「フィジー諸島共和国における政治的混乱の分析に向けて――2006年12月5日のクーデタの発生前夜から臨時政権の確立まで」『パシフィック ウェイ』130号
(22) 彼はタヴェウニで生活していたため、実際の就任は、1月15日になった。
(23) ガラセが総選挙の時期を5月に前倒しにしたのは、創設間もない国民同盟党が足場を固めるのを警戒したためであるという説もある。また、クーデタの文脈においてメディアではあまり言及されていないが、ラトゥ・ガニラウは、ガラセ内閣で大臣を務めていたラトゥ・ナインガマ・ラランバラヴ(Ratu Naiqama Lalabalavu)と、トヴァタの大首長位トゥイ・ザカウ(Tui Cakau)をめぐって争った末、敗れてもいる。ラトゥ・ガニラウ自身はタイトルに執着がなく、人々の要請に従って首長位を争ったという発言をしている。
(24) 厳密にいうとブネはクーデタ直前の2006年12月4日に労働党から除名されていた[Fijivillage News, January 11, 2007 ‘Bune Says Chaudhry Right Man for the Job’]。原因は、多党内閣の規定に従ってガラセ内閣の閣僚に任命されていたブネが、政権運営のあり方をめぐって党の指導者チョードリーと対立したためであるという。
(25) Fijivillage News, January 9, 2007 ‘It’s a FLP/NAP coalition-Qarase’
(26) Fijilive, January 8, 2007 ‘Bune surprised with offer’, Fijilive, January 9, 2007 ‘Strange twist of destiny: Chaudhry’.
(27) Fijilive, January 9, 2007 ‘FLP, NAP accused of benefiting from coup’.
(28) Fijilive, January 16, 2007 ‘New Budget for 2007’; ‘Interim Cabinet meets today’.
(29) Fijilive, January 18, 2007 ‘Commander announces establishment of Fiji independent Commission’
(30) Fijilive, January 29, 2007 ‘Ali to lead investigation team’。アリーはガラセ政権が関与していたと噂される農業関係の汚職(agricultural scam)を捜査中の2004年、捜査長の地位から解任されていた経歴の人物である[Fijilive, February 18, 2007 ‘Anti-Corruption Unit to brief on dirty cops’]。
(31) Fiji Sun news, February 4, 2007 ‘AG brings in new changes’
(32) Fijilive, April 19, 2007 ‘Anti-corruption laws established’。法令は、フィジー反汚職独立委員会及び贈収賄防止令(Fiji Independent Commission Against Corruption and the Prevention of Bribery decrees)とされた。そのため、反汚職委員会は、フィジー反汚職独立委員会(略称FICAC)とも呼ばれている。
(33) The Fiji Times online March 29, 2007 ‘Anti corruption unit raids PWD’
(34) Lal, Brij 2007 ‘‘This Process of Political Readjustment’: Aftermath of the 2006 Fiji Coup’, Fijian Studies: A Journal of Contemporary Fiji 5(1): 100-101.
(35) Fijilive, January 16, 2007 ‘Justice Gates is Acting CJ’、 Fijivillage News, January 17 ‘Interim AG stresses RFMF/interim govt will not interfere in judiciary’
(36) Fijilive, January 17, 2007 ‘Judiciary urged to co-operate’
(37) Fijivillage News, January 19, 2007 ‘23 State CEO’s terminated’
(38) Fijivillage News, January 22, 2007 ‘Former CEOs appointed as advisors’
(39) cf. Fijilive, February 16, 2007 ‘10 of 23 CEOs apply for PS posts’
(40) Maika Bolatiki, Fiji Sun online, February 10, 2007 ‘the ‘way backward’ for workers’ right’
(41) cf. Maika Bolatiki, Fiji Sun online, February 15, 2007 ‘Workers rights must be respected’
(42) The Fiji Times online, July 11, 2007 ‘Finally, good sense prevails’
(43) 2006年の選挙の前にガラセ政権が以下で触れる公共部門組合連合と結んでいた協約のこと。給与水準の向上に関する条項があったという。
(44) The Fiji Times online, July 11, 2007 ‘Finally, good sense prevails’
(45) Biman Prasad 2007 ‘The undoing of trade unions’ The Fiji Times online, August 30.
(46) Fijilive, March 17, 2007 ‘Army has role to play in strike: Teleni’
(47) メンバーの構成は、以下の通り。ヴァヌアツの副大統領兼外務大臣サト・キルマン(Sato Kilman)を頭として、サモアの天然資源環境大臣ファウムイナ・ルイガ(Faumuina Luiga)、パプアニューギニアの元高裁判事アーノルド・アメット卿(Sir Arnold Amet)、オーストラリア軍のピーター・コスグローヴ将軍(General Peter Cosgrove)[Fijilive, January 29, 2007 ‘Democracy in 5yrs: Bainimarama tells EPG’]
(48) EPG 2007 Forum Eminent Persons’ Report Fiji
(49) Fijilive, January 29, 2007 ‘Democracy in 5yrs: Bainimarama tells EPG’
(50) EPG 2007 Forum Eminent Persons’ Report Fiji, The Fiji Times online February 21, 2007 ‘Forum wants quick elections’, Lal, Brij 2007 ‘‘This Process of Political Readjustment’: Aftermath of the 2006 Fiji Coup’, Fijian Studies: A Journal of Contemporary Fiji 5(1): 114-117.
(51) Fijilive, April 13, 2007 ‘Interim PM wants embassy barricades out’。バイニマラマはアメリカのヴァージニア工科大学で起き銃撃事件への哀悼を理由に、4月19日この提案を撤回した[Fijilive, April 19, 2007 ‘US embassy keeps security barrier’]。
(52) 何を根拠に彼を好ましくない人物と判断下したのかはあきらかにされていない。臨時政権がこの行動を起こした背景には、クーデタに関するニュージーランドの否定的見解が背景にあったと思われる[The Fiji Times online, July 14, 2007 ‘Fiji expels NZ High Commissioner’] 。
(53) 彼女は前出の判事ナズハット・シャミームの姉に当たる。
(54) Paulo Baleinakorodawa, Father Kevin Barr and Semiti Qalowasa 2006 ‘Time of uncertainty, opportunity’ the Fiji Times, December 19
(55) Fijilive, March 21, 2007 ‘Bainimarama's coup may 'end all coups'’、The Fiji Times online, March 24, 2007 ‘It's bad or worse: Nandan’
(56) Ratu Joni Madraiwiwi, 2007 ‘Looking back at the Fiji coup six months on’ The Fiji Times online June 11,
(57) Fijilive, October 10, 2007 ‘Mataca, Bainimarama to head council’
(58) The Fiji Times online, October 22, 2007 ‘Military must back off on charter’。また2007年4月付けの同憲章の草稿は、Building a better Fiji for All through a People’s Charter for Change & Progress.としてネット上に掲載されている[Fijilive.com]。憲章の作成者は、ニュージーランド在住で、アジア開発銀行の上級エコノミストでもあったジョン・サミー(John Samy)とフランシス・ナラヤン(Francis Narayan)であると目されている[Lal, Brij 2007 ‘‘Shutting Up’ and ‘Shutting out’’ Turaga: 69]。
(59) The Fiji Times online, June 20, 2007 ‘Questions for the charter’;September 12, 2007 ‘About the People's Charter’; September 27, 2007 ‘The way of the Charter’
(60) 厳密には多党条項のもとガラセ政権にも労働党議員が数名参加していた。ここで指摘しているのは、2006年のクーデタでは労働党主流派がクーデタ実行者に対して融和的な態度を取っていることを指している。