はじめに
2009年4月9日、フィジー控訴裁判所で当時の暫定政府の合法性・合憲性を否定する判決が下されたことを契機に、翌10日にはイロイロ(Ratu Josefa Iloilovatu Uluivuda)大統領が憲法を破棄し、自らを国家元首に任命し、以後命令(decree)によって統治することを明らかにした。その翌日の11日には暫定政権首相であったバイニマラマ(Josaia Voreqe Bainimarama)フィジー共和国軍司令官が首相に任命され、同時に旧暫定政権の閣僚が再任され、新たな正統性をもった政権が成立した。
新政権は、選挙制度の改正をはじめとする諸改革の実行と民族区分のない単一国民を基礎とした国民の権利の平等化を実現する新憲法の制定を目標に、遅くとも2014年9月までに新選挙制度の下で国会議員選挙を実施し、立憲民主制への復帰をめざしている。
しかしながら、この新政権の成立に対する国際社会の反応は極めて批判的なものであった。2006年12月のいわゆる軍事クーデタ以来、フィジーは国際社会の批判にさらされ続け、解散されたままの下院議員選挙をあらためて実施し議会制民主主義に復帰するという「民主制復帰」を求められていた。そんな中で暫定政権の合法性を否定する判決を受けて大統領が憲法を破棄し、バイニマラマ前暫定政権首相を再び首相に任命したという事実は、国際社会からのさらなる批判を強めるのに充分な出来事であった。5月1日には、ニウエ首相タランギ(Toke Talagi)PIF議長はフィジーのPIF会合への参加資格の停止を発表し、わが国も5月22日・23日に北海道で開催された第5回太平洋・島サミットに軍事政権ゆえに、という説得力に欠ける理由によってフィジー政府首脳を招請しないという事態にも発展した。
このような国際社会の反応は当然とは言え、あまりにもフィジー政治に対する理解を欠いた居丈高な批判である。2006年12月のいわゆる軍事クーデタの実態はどうであったか。バイニマラマ暫定政権が2年余の間、どのような政策を掲げて政権運営を行い、それに対する国民の反応はどうであったか。そして、4月9日の控訴裁判決後の憲法破棄とそれに続くバイニマラマ新政権の成立の法的・政治的論理はいかなるものであるのか。フィジー政治を理解するのに必要ではあるが、一般には容易に理解しがたい問題がいくつか指摘できる。本稿では、そのうちの控訴裁判決ならびにそれに続く憲法破棄およびバイニマラマ政権成立の法的・政治的問題を整理し、フィジー政治の正確な理解の一助となるよう努めたい。
1.フィジー控訴裁判決(2009/04/09)の要点
(1)事件の概要
2006年12月6日のいわゆる軍事クーデタ後の大統領の行為の合法性・合憲性をめぐって争われた事件。大統領大権(prerpgative powers)の存否とその行使の合法性が中心的な争点であった。2008年10月9日のフィジー高等裁判所(スバ)では、大統領大権を認めその行使は合法かつ有効であるとの判断が下されたが、原告側はこれを不服としてフィジー控訴裁判所に控訴したもの。原告は、ガラセ前首相他4名、被告はバイニマラマ国軍司令官、フィジー共和国軍、フィジー諸島共和国、暫定政府司法長官。裁判官は、パウエル(Randall Powell)、ロイド(Ian Lloyd)、ダグラス(Francis Douglas)の3名で、いずれもオーストラリア人であった。
(2)判決の構成
判決全文54頁。次の27項目[1−170のパラグラフと「宣言および命令」]からなる。なお、[ ]内の数字はパラグラフ番号を示す。
1)当事者とこれまでの経緯[1−5]
2)独立と1970年憲法[6−10]
3)1987年軍事クーデタ−フィジー共和国となる[11−13]
4)1990年憲法と1992年総選挙[14−15]
5)1997年憲法[16−19]
6)1999年総選挙−チョードリー氏(Mr Chaudry)首相となる[20−22]
7)2000年5月19日文民クーデタ−ジョージ・スペイト(George Speight)[23−27]
8)2000年5月29日軍事クーデタ−ガラセ氏(Mr Qarase)首相になる[28−33]
9)プラサッド(Prasad)事件[34−40]
10)プラサッド事件控訴[41−45]
11)プラサッド事件控訴審決定への反応[46−48]
12)3人の判事、ガラセ氏、およびヤンバキ(Yabaki)事件[49−54]
13)2001年総選挙−ガラセ氏当選し首相に[55−60]
14)2006年5月総選挙−ガラセ氏再選・首相再任[61]
15)2006年首相解任と議会解散[62−65]
16)2007年1月−大統領解散を承認、主席裁判官停職、副大統領辞任[66−72]
17)司法審査可能性(Justiciability)[73−86]
18)フィジー憲法の関連条項[87]
19)フィジー憲法の解釈[88−95]
20)首相解任大権(Prerogative)または留保権限(Reserve Power)の存在[96−110]
21)大権の妥当性[111−138]
22)必要性の原理(Doctrine of Necessity)[139−143]
23)この事件の事実および状況[144−149]
24)救済措置の勧告[150−162]
25)結論[163−166]
26)結びのコメント[167−170]
27)宣言および命令(Declaration and Orders)
(3)判決の概要
以上の項目のうち、@からOはフィジー独立から2007年1月26日の副大統領辞任までの事実経過が述べられ、Pで大統領権限の行使に対する裁判所による違憲審査の可能性について検討され、関連する憲法条項が[87]で提示される。関連条項とされたのは、第1条(フィジー諸島共和国)、第2条(憲法の最高法規性)、第3条(憲法の解釈)、第45条(立法権)、第46条(立法権の行使方法)、第59条(下院の任期)、第60条(下院議員選挙の告示)、第85条(大統領)、第86条(国家元首)、第87条(軍の最高司令官)、第88条(副大統領)、第96条(助言に基づく大統領の行為)、第97条(政府の信任)、第98条(首相の任命)、第102条(閣僚および内閣の責任)、第103条(閣僚の職務)、第104条(大統領への首相の報告)、第105条(国務大臣の失職)、第106条(国務大臣の代行)、第107条(総選挙での政府与党の敗北または下院での不信任)、第108条(下院での不信任決議の場合の大統領への首相による解散の助言)、および第109条(首相の解職)である。これらの条項が6頁(20-25頁)にわたって引用されている。そして、次のRフィジー憲法の解釈[88−95]でこれら条項の解釈が検討される。
事件の争点は、Sの大統領の首相解任大権(Prerogative)または留保権限(Reserve Power)の存在[96−110]、および?大権の妥当性[111−138]、並びに?必要性の原理(Doctrine of Necessity)[139−143]の適用の可否であり、これらの点について判決書全体の3分の1に相当する18頁(29-46頁)が割かれている。ここでの控訴裁の見解を一言でいうと、フィジー憲法の下では、大統領権限は明文の規定で定められた権限に限定され、それ以外の大統領大権(prerogative power)は認められないとし[109]、必要性の原理については、その適用は究極的に憲法の回復を図るときにのみ認められるものであり、2007年1月のバイニマラマの行為には適用できないというものである[143]。
次に、?救済措置の勧告[150−162]のなかで、控訴裁判所は、現下の状況に鑑み大統領に対し勧告を行う。両当事者から独立したしかるべき第三者を選挙管理のための暫定首相(caretaker Prime Minister)に任命し、解散されないままにあると判断される下院の解散を大統領に助言し、しかる後に選挙の告示を行うことが憲法に適合する民主的ルールの回復を可能にするというものである[162]。しかし、後に述べるように、イロイロ大統領はこの勧告には従うことができないとして、憲法破棄に至る。
そして、?結論[163−166]の部分では、「ガラセとその政府の閣僚の解任および国会の解散は違法かつ違憲であり、バイニマラマ軍司令官の首相への任命とその閣僚の任命は有効になされたものではない」と宣言し[165]、「国会解散のための助言と下院議員選挙の告示を行うよう大統領に助言するために選挙管理のための暫定首相(caretaker Prime Minister)を任命することは合法である」と宣言する[166]。
また、?結びのコメント[167−170]として、裁判官の立法権および行政権からの独立を定めた憲法118条を取り上げ、政府並びに軍からの裁判官の独立に言及し[169]、「控訴裁判所の裁判官としては、フィジー国民が憲法で定めた国会議員を再び自由に選択することを期待すると表明できるにとどまる」[170]と結び、最後に?宣言および命令(Declaration and Orders)として、問題となった行為の合法性ないし合憲性の判断が示されている。
(4)宣言及び命令
判決の最後は、「宣言及び命令」(Declarations and Orders)[pp.53-54]で締め括られる。ここでは問題となった次の諸行為の違法・合法の判断が宣言される。
1)フィジー憲法の下で違法な行為(unlawful acts)と宣言された行為。
(a)バイニマラマによる行政権の掌握および非常事態宣言
(b)ガラセの首相解任およびセニランガカリの暫定首相任命
(c)セニランガカリによる国会解散の助言
(d)バイニマラによる国会解散命令
(e)2007年1月5日のイロイロ大統領によるバイニマラマ暫定首相任命およびその他の閣僚任命
(f)ガラセ首相解任、セニランガカリ暫定首相任命、および国会の解散を有効と確認した2007年1月16日の大統領令
2)フィジー憲法の下で合法(lawful)であると宣言された行為
これまでに起きた出来事の中で、大統領がフィジー憲法109条2項に従うことで、当然に必要となる国会解散を助言する暫定首相(caretaker Prime Minister)の 任命、および下院議員選挙のための選挙詔書の発布。
ここに明らかなように、判決は2006年12月6日から2007年1月16日までに行われたバイニマラマ軍司令官による行政権の掌握、およびその後の二度の暫定政権の形成と国会の解散を違法と判断したもので、これによって暫定政権の合法性が否定された。
一方、「出来事の合憲性は何であれ、暫定政府が2年以上継続した事実を無視できない。」[150]、「たとえ違法であったとしても、これらの出来事が起きたという事実を無視することは困難である」[153]として、「これらの審理の中で、暫定政府のいかなる行為の有効性も対象とはしないということをわれわれは明らかにする」[163]との立場をとる。
そして、「われわれの意見では、現時点で唯一の適切な道は、フィジーが新たなスタートを切ることを可能にする選挙が実施されること。このことを念頭に審理を進める」[156]とし、これが最後の合法とされる行為の宣言に至ったと考えられる。
付言するなら、この判決は、いわゆるクーデタの際に行われた諸行為の合憲性ないし合法性を判断し、それらが違法または違憲である旨を宣言し、その有効性を確認するものであるが、そのことによって直ちに違法・違憲とされた行為が無効という効果を発生させるものではない。宣言的判決といわれる手法で、「違憲であるが無効とはしない」というわが国の事情判決に似ている。また、フィジーでも三審制がとられていることから、最高裁に上告する道も残されていた。しかし、イロイロ大統領はこの判決を重く受け止めたのである。
2.イロイロ大統領による憲法破棄
イロイロ大統領は、4月9日の控訴裁判所の判決を受けて、4月10日午後1時30分に国民に向けて演説を行い、1997年憲法を破棄すると宣言した。この演説の中で、イロイロ大統領は、次のように国民に訴えかけた。
(1)イロイロ大統領の国民への演説
私(イロイロ大統領)は、2007年1月、前年12月5日の出来事によって失った行政権をバイニマラマ軍司令官から返還され大統領職に復帰し、大統領としてバイニマラマを暫定政府首相(interim prime minister)に任命し、その閣僚も任命した。そしてこの暫定政府は2年あまり困難な状況の中でその職務をよく全うしてきた。しかしながら、ガラセ前首相は、暫定政府首相ならびに閣僚の任命の合法性を問題にし、訴訟を提起してきたことは周知の通りである。高等裁判所の3名の裁判官は、大統領大権(prerogative power)を認め、イロイロ大統領が有効かつ合法にフィジー国民の利益のために暫定政府を任命したことを支持した。この高裁判決を不服としガラセ前首相が控訴し、昨日(4月9日)午後3時に控訴裁判所は、大統領による暫定政府の任命は、憲法上明文の規定で認められた権限によるものではないから無効であるとの判断を示した。
また、控訴裁判所は、私が裁量権(discretion)を行使し、選挙管理内閣首相(caretaker prime minister)を任命すべきであり、その人物はガラセ前首相およびバイニマラマ暫定政府首相以外の第三者であるべきだとした。この判決の直後に、国の弁護士は裁判所に対し上告の意思を伝えたが、判決の執行停止を求める聴聞は棚上げされ、裁判所は判決の執行停止を事実上拒否した。
私(イロイロ大統領)は、次のことを興味深く指摘する。すなわち、控訴裁判所は暫定政府の任命は、大統領にそのような権限を付与する憲法の明文の規定がないため、憲法に違反して無効であるとしながら、これも憲法に明文の規定がないのにかかわらず、ガラセ前首相でもバイニマラマ暫定政府首相でもない第三者を選挙管理内閣首相に任命すべきと言っているのだ。(President's Adress to the Nation - Fiji Government Online, 2009/04/10.以下 President's Adress と略す)
こうして、イロイロ大統領は、控訴裁判所の論理矛盾を指摘し、暫定政府の任命が違憲とされるなら、控訴裁判決の言うガラセでもバイニマラマでもない第三の人物を新たに選挙管理内閣首相に任命することも違憲ではないか、と疑問を呈するのである。控訴裁判決を全面的に受け入れることは、暫定政府首相ならびに閣僚の任命の違憲性を承認するだけでなく、憲法上明文の規定がない行為を行うことで、あらたな違憲行為を行うことにつながるとの理解を示す。
そして、「総合的に判断した結果、控訴裁判決の出た4月9日午後3時以降、実際的な法的意味でフィジーには政府が存在しなくなった」(President's Adress)という結論を示す。
しかし、政府のない国家はあり得ず、国家機構はいかなる国でも常に存在する必要がある。また、周知のように、私(イロイロ大統領)は、国民の諮問を経た『人民憲章』(People's Charter for Cange, Peace, and Progress : PCCPP)を承認している。国民の諮問において、その64%は諸改革の中でも選挙制度改革を望んでいることが明らかになった。私の見るところ、2007年1月5日以来、新しい制度、考え、そして様々な経済部門での変革を通じて、フィジーは急速に変化している。もちろん、地球規模の経済財政危機に起因する経済問題は、フィジー国民が一つの国民として対処を迫られている。
このようなすべての背景とフィジー国軍司令官への諮問の結果、私は、『人民憲章』で提案された選挙制度改革を初めとする諸改革を基礎に、国会議員選挙を実施するための円滑な道を決然と示さなければならないと決断した。
そこで、真に民主的な国会議員選挙の実施を容易にするため、ここに私(イロイロ大統領)は、1997年憲法を破棄(abrogate)する。憲法破棄とともに、私は自らを、新たな法秩序の下で、フィジーの国家元首(Head of the State of Fiji)に任命する。憲法破棄を有効にするため、私は以下の命令(decree)を定める。
・1997年憲法の破棄(Abrogation of 1997 Constitution)
・国家元首の任命(Appointment of Head of State)
・現行法の継続(Continuation of Exsisting Laws)
・すべての司法職の解任(Revocation of Appointment of All Judicial Officers)
今後数日間に、さらに命令を定める。(President's Adress )
(2)憲法破棄の論理と背景
控訴裁判決で暫定政府の合法性が否定されたことで、フィジーには政府機構が存在しなくなり、いわば真空状態(vacum)が生じたとの理解を示す。そのような状態で国家が存在しうるはずもないから、新たな政府機構の形成が必然となる。2006年12月5日のいわゆる軍事クーデタでは1997年憲法は破棄も停止もされなかった。それどころか、バイニマラマ軍司令官は、自らの行為を1997憲法を守るための「浄化作戦」(clean-up campaign)と呼んでいた。したがって、この時点で1997年憲法は生きていた。
それならば、憲法に定める手続きに従って、首相を選出し組閣することが考えられるが、そのために必要な国会(下院)は、控訴裁判決の言うように法的には解散されていないといっても、暫定政権の成立からすでに2年3か月を経過し、その間、国会不在のままではあるが、暫定政府は総じて国民の支持を得て着実に政策を実行し、国民の間に解散された議会の復活を望む声があったとも言えない状況があった。いまさら、以前の国会を召集し、首相を選出することは余りにも非現実的であった。
それゆえ、控訴裁判決が示したように、選挙管理のための暫定首相を大統領が選任し、選挙管理のための暫定首相があらためて下院の解散を正式に宣言し、総選挙の実施を告示することは現実的な選択肢の一つには違いなかった。しかし、ガラセ前首相でもバイニマラマ暫定政府首相でもない第三の人物を新たに暫定首相に任命すべきだという控訴裁判決の判断に憲法上の根拠はなく、本来法律判断を任務とする裁判所の権限を逸脱した政治判断の提示であり、違憲行為の推奨ともいえた。そのため、判決のこの部分をイロイロ大統領が受け入れないのは当然といえば当然であった。
その結果、控訴裁判所の憲法上明文の規定に依拠した判断については、それを真摯に受け入れ、判決が出た4月9日午後3時以降、法的にはフィジーは政府機構不在となったと判断するほかなかった。その上で、政府機構の形成を考えたとき、1997年憲法の定める手続きに拠ることは事実上困難であり非現実的であったし、この後の総選挙の実施を視野に入れたとき、1997年憲法の定める選挙制度での実施とならざるをえず、それは『人民憲章』の国民への諮問で示された民意に反することでもあった。
下院議員の選挙制度は憲法事項(憲法50条以下)であるため、現行の選挙制度の改正には憲法改正が必然的に伴い、憲法改正には国会の審議と賛成を要する(憲法190条・191条)。そのような憲法改正手続きを、選挙管理のための暫定政府に期待できるはずもなく、憲法改正を先行させるなら、早期実施を内外から要求されている総選挙がいつ実施されるとも分からなくなってしまうことは必至であった。
ここに進退が窮まった。憲法破棄は窮余の一策でもあったのではないか。「真に民主的な国会議員選挙の実施を容易にするため、1997年憲法を破棄(abrogate)する」(President's Adress)という一文は、当初の意図に反しフィジーの民族の二極化を促進させてきた小選挙区選択投票制を別の選挙制度に変更し、かつ民族別名簿・民族別議席制をなくした真に平等な選挙制度による民主的な国会を形成するための改革に障害となる憲法を破棄し、新たな憲法を制定したうえで、総選挙を実施し立憲民主制に復帰することが含意されていると解釈すべきであろう。
こうして、1997年憲法が破棄され、国家元首である大統領自身による「クーデタ」が実行されたのである。成文憲法はなくなった。しかし、このことはフィジー諸島共和国という国家がなくなったわけではない。とはいえ、大統領の地位の根拠であった1997年憲法を自ら破棄した大統領は、あらたにみずからの地位の根拠を見いだす必要があった。その方法として、自らを再び国家元首に任命するという政治行為によってその正統性の確保を試みたといえよう。まさに、大統領自身が憲法を破棄し、国家元首に自分自身を任命するという大統領の行為によって新たな国家体制の確立を図ったのであり、「国家元首によるクーデタ」という他に例を見ない政治変動が発生したのである。
憲法は破棄されたが、それによって1997年憲法の下で、あるいはそれ以前に作られた法律の効力には何ら変更はなく、その効力を維持することが宣言された。新たな法秩序の下でもすべての国民の基本的人権が保障され、軍をはじめとする治安維持にあたる諸機関に対しては、国民ならびに法と秩序を守るため、道理にかなったあらゆる措置をとることを大統領は命じたと宣言する。そして、「この方法こそがわれわれの愛するフィジーに、真の民主的な選挙を行う前に不可欠な諸改革を実行するための確実性を与え、かつそのための安定性と機会を提供する最善の方法であると国民の皆さんは同意するであろう」(President's Adress)とした。諸改革を実施するために、暫定政府(interim government)は5年間を必要とするとの見通しを述べ、遅くとも2014年9月までに総選挙を実施すると約束した。
3.バイニマラマの首相就任と施政方針
4月11日午前、憲法破棄後の新たな法秩序の下で、イロイロ大統領はバイニマラマ前暫定政府首相を首相(Prime Minister of Fiji)に任命し、続いて同日中に閣僚を任命した。これを受けて、バイニマラマ新首相は同日午後8時、フィジー国民に向けて演説(PM Bainimarama-Address to the Nation following Appointment of Cabinet 11 April 2009.以下Bainimarama-Addressと略す)を行った。
(1)暫定首相から首相に
演説の中で、バイニマラマは、「大統領閣下は、新たな法秩序の下で、今朝私をフィジー首相(Prime Minister of Fiji)に任命した」と述べた。首相という言葉の前に、2日前の大統領演説に見られた暫定を表すinterimもcaretakerもない。ただ、Prime Ministerとだけ記されている。同様に、閣僚もCabinet ministers と表記され、暫定性を示す修飾語は付されていない。すなわち、この時点で、新たな法秩序(new legal order)とは新体制であることが明らかになった。
確かに、5年以内に総選挙を実施することを目標とした内閣である点で、選挙管理内閣である。成文憲法不在、議会不在の中で大統領命令(decree)で統治する点では一時的な非常事態における緊急権発動下の状況と同様の統治形態であり、その意味では暫定内閣であると考えられる。しかし、選挙を実施する前にあらたな選挙制度の導入を含む諸改革を実施し、すなわちそれが新憲法の制定を意味するとするなら、総選挙実施のために必要な手続きをとることを主たる目的としてその存在を認められる選挙管理内閣とは大きな違いがあり、成文憲法不在ということは文字通り成文憲法が存在しないことであり、存在する憲法の停止ではないという点では、憲法に根拠をおく一時的な立憲主義の停止である緊急権発動下の状況とは様相を異にする。
したがって、4月10日午後1時30分のイロイロ大統領の演説によって1997年憲法の破棄と大統領自身による自らの国家元首任命によってフィジー新体制が成立したとみなすほかない。その新体制の中で、バイニマラマ前暫定政府首相は正式の首相に任命されたのである。
(2)バイニマラマ政権の政策
バイニマラマ首相は、その就任演説の中で、遅くとも2014年9月までに平等な投票権を基礎とする新しい選挙制度の下で総選挙を実施することを確認し、地方住民・離島住民・若者・企業家・労働者など様々な階層の国民から期待と支持が寄せられていると述べ、平等な国民として一つの国民になる、新しい始まりを迎えたと訴える。
われわれは、過去の偏見、過去の負の影響を捨て、より良いフィジーを築くことに焦点を合わせなければならない。民族にかかわらず、富裕であろうとなかろうと、子供であろうが女性であろうが、障害者であろうが少数者であろうが、すべての国民を抱えるフィジー、公平で公正なフィジーを建設しなければならない。平等な機会、経済的機会をもつフィジーである。
バイニマラマ政府は、政府組織の近代化をめざす多くの改革の実行に焦点を合わせる。経済の自由化、組織的な腐敗の除去は継続的な課題である。道路と給水システムの改善により多くの資源を投入する。砂糖を政治問題から切り離し、商業的な採算がとれるよう産業競争力を強化する。一般のフィジー系国民がその保有する土地から利益を得られ、同時に土地の開発と国民経済の成長に繋がるような正しい仕組みをつくる。そして、不可欠なことは、われわれの経済と将来に影響を与える決定から、政治を切り離すことだ。ここにいう政治とは、狭量な政治(petty politics)、民族主義の政治(communal politics)、地域主義の政治(provincial politics)、および宗教主義の政治(religious politics)である。
われわれが高度競争社会の環境の中で生き抜いていくには、われわれが成長し成熟する必要がある。数十年前にフィジーより発展が遅れていた多くの諸国の中には、今日フィジー以上の経済発展を遂げている国がある。フィジーより遙かに資源が少なく、土地も狭いのに。なぜか? その理由は、これらの国々は、国家の中心(national focus)を持っているからである。政治家は個人的利益よりも国家的利益を上位に置き、平等な国民的権利と組織的腐敗のない良好な政策決定の上に強い国家を建設してきたのだ。国民は一致団結してきたのである。われわれのフィジーは、異なった民族を抱え、様々な文化を有するという多様性と豊かさを祝福しなければならない。しかしながら、同時に、われわれすべてがフィジー人(we are all Fijians)なのである。われわれはすべて平等な市民である。われわれすべてがフィジーに忠誠を誓わなければならない。われわれは愛国者でなければならず(we must be patriotic)、フィジーを第一に考えなければならない(we must put Fiji first)。(Bainimarama-Address )
ここに現れたバイニマラマ政権の施政方針から、民族の差異を捨象した平等な権利をもつ国民の創出、自由化と腐敗の除去に焦点を合わせた組織の近代化とそのための諸改革の実行、多民族国民のなかでの国民的アイデンティティの形成による国民統合の達成、それによる経済の国際競争力の強化、といった点に政策の重点が置かれていることがわかる。
4.新体制の成立と民主制復帰への道
(1)フィジー新体制の成立
4月10日にイロイロ大統領が1997年憲法を破棄して自らを国家元首に任命し、以後命令によって統治することを明らかにした時点で、フィジーに新体制が成立した。1997年憲法による立憲政治からイロイロ大統領の命令による統治体制への変更が行われた。いわば大統領によるクーデタによる新体制の成立が宣言されたのである。
そのきっかけを提供したのが4月9日の控訴裁判決で、この判決が2007年1月以来の暫定政府体制の合憲性・合法性を否定したことで、それまでの政府機構の存立の根拠が失われ、政府機構の不在という真空状態が生じたとイロイロ大統領は理解した。そして、その真空状態の中で、唯一控訴裁判決によってもその法的根拠が問題とされなかったのがイロイロ大統領の地位であった。
同大統領は、2006年12月のクーデタ以前から大統領職にあったため、その地位は控訴裁判決で違憲・違法とされた行為による影響を免れ、その地位に変化のないことは控訴裁判決の「宣言及び命令」のなかで合法とされた行為から見ても明らかであった。控訴裁判決後、ただ一人憲法上の公職にあった大統領が、「真に民主的な国会議員選挙の実施を容易にするため」(President's Adress)に、選挙制度改正の障害となる憲法を破棄するという政治決断を行った。そして憲法の破棄と同時に大統領職の法的根拠が失われるため、自ら国家元首(大統領)となると宣言したのである。この憲法破棄および国家元首宣言という一連の行為は、法的に見てクーデタに該当する。
イロイロ大統領が任命したバイニマラマ軍司令官を首相とする政府に対する国民の黙示的な支持があり、かつその支持が政府による強制や恐怖によらない自発的なものであるとするなら、クーデタによって新体制が有効に成立したと考えられる。もっとも、ここでいうクーデタは法的な意味でのそれである。ただし、国家元首によるクーデタという概念が成立するかどうか、法的検討の余地がないわけではない。
(2)立憲民主制復帰への展望
バイニマラマ首相は、立憲民主制を否定しているわけではない。2006年12月のいわゆるクーデタは、憲法保障(憲法を守る)のための「浄化作戦」であった。1997年憲法は国民統合を目標に掲げ出発したが、その選挙制度は総選挙ごとに民族別の政党の二極化を進行させた。その間、2000年にはインド系政権に反対するフィジー系文民によるクーデタまで発生した。1997年憲法の精神・理念に誤りはないが、制度設計に誤算があった。最大の誤算は小選挙区選択投票制の採用であった。この選挙制度で選挙を繰り返すならば、フィジー系とインド系の二極化を促進させるだけで、国民統合からはますます遠のいていくだけである。
また、民族別議席制と民族別投票制を残したままでは、民族区別を捨象した単一のフィジー国民としてのアイデンティティの形成は期待できず、国民統合が困難であることに変わりなかった。1997年憲法で採用された複数政党内閣制(multi-party cabinet system)も期待された挙国一致内閣としての機能を発揮できないことが判明した。
そこで、再び国民統合に向けての試みが開始された。バイニマラマ暫定政権下に開始された『人民憲章』(People's Charter for Cange, Peace, and Progress : PCCPP)による改革の提言がそれである。問題の選挙制度の改革をはじめとする諸改革が提案され、6割を超える国民の賛成を得て、大統領の承認を得た。提案された改革の中には1997年憲法で定められている事項が含まれている。したがって、改革の実現には憲法改正が必然的にともなう。しかしながら、1997年憲法の改正には国会の賛成を必要とする。この難関をいかにバイニマラマ暫定政権が突破するのか。控訴裁判決が出る以前から注視されるところであった。
控訴裁判決が出て、暫定政権の正当性を否認した。暫定政権は瞬時対応に窮する一方、これを好機と捉えたのかもしれない。障害となる憲法を破棄し、『人民憲章』に沿った諸改革を進め、新たな憲法を制定することに思い至ったのではないか。立憲民主制を信奉する先進諸国には思いもよらない許し難い選択であった。軍事政権の延命を図り、独裁を強化するものとの疑念は当然であろう。この批判が的を射たものであるのか、あるいは『人民憲章』の指し示す改革を最大5年の歳月をかけて実行することが、すべての国民の平等を基礎とした真の立憲民主制をフィジーに確立することになるのか。すべてはバイニマラマ首相の志にかかっている。
【参考文献】
本文中に注記した資料のほか、現在のフィジーの政治状況の理解にするために、さしあたり以下の拙稿を紹介しておく。
(1)「2006年フィジー総選挙と複数政党内閣の成立−「複数政党内閣」制の由来と運用上の 問題について−」『パシフィック ウェイ』通巻128号、平成18年 8月。
(2)「フィジークーデター(2006年)の経緯・論理・展望」、『パシフィック ウェイ』通巻129 号、平成19年 2月。
(3)「フィジー『クーデタ』(2006年)の法理−『必要性の原理』(doctrine of necessity)とそ の適用可能性について−」『苫小牧駒澤大学紀要』第18号、平成19年10月。
(4)「フィジー『人民憲章』(PCCPP)と民主制復帰について」『パシフィック ウェイ』通巻132 号、平成20年8月。
(以上)