PACIFIC WAY
   国際選挙監視体験記 
    
2010年ソロモン諸島国会議員総選挙
      

研究員 加藤向一(かとう こういち)


1.リスク不回避を決断
太平洋諸島地域研究所の専務理事から、外務省が国際選挙監視員をソロモン諸島総選挙のために派遣しようと検討しているが、やってみる気はないかと打診を受けたのが2010年5月下旬。投票日は2010年8月4日(水)と決まった。

  私は以前から選挙研究に興味があった。東京都選挙管理委員会事務局職員として選挙管理者の側から選挙実務に携わったこともある。いずれは選挙運動をする立場での体験もしてみたいと思っていたが、国際選挙監視員として選挙に関わる機会があるとは考えていなかった。何も問題のない国で、国際選挙監視は行われない。従って、これに参加するにはある程度のリスクがある。無用なリスクは避けるべきだが、全てのリスクを避けていてはチャンスをつかめない。そこで、多少のリスクを覚悟の上でソロモン諸島での国際選挙監視員を務めようと私は思った。
 
2.国際選挙監視団派遣の背景
 私は本誌でパプアニューギニア情報を担当していたが、ソロモン諸島についてはその隣のメラネシア系の国だという程度の認識だった。国際選挙監視に行くといっても、ソロモン諸島そのものを何も知らないで行ったのでは、何が何だか分からないまま終わってしまう。そこで付け焼き刃的に、ソロモン諸島について調べ始めた。

  1998年、ガダルカナル島(特に首都ホニアラ周辺)において、同島在来民と近隣のマライタ島出身者との間の武装闘争が始まり、エスニック・テンションと呼ばれる国内紛争に発展した。政府は自力での治安回復は無理として、太平洋諸島フォーラムに治安回復の協力を要請した。これに応えて、2003年7月に太平洋諸島フォーラム加盟国の警察・軍隊からなるソロモン諸島地域支援ミッション(RAMSI: オーストラリア・ニュージーランドからの派遣員が中心)がソロモン諸島へ派遣されて、急速かつ著しく治安が回復した。これに伴って、RAMSIの規模は次第に縮小されていった。

  こうした状況下、国際選挙監視団が見守る2006年4月、国会議員総選挙が平和裏に実施された。この後、新国会で新たな首相が生れたが、この首相選出は中国系実業家から資金援助を受けた議員買収による多数派工作が成功した結果だと考えた人々が憤慨して暴徒化。首都ホニアラ市内の中華街になだれ込んだ暴徒は、商店を襲い略奪・破壊・放火といった行動に及んだ。暴動勃発の翌日には急派されたRAMSIが到着したが、中華街はすでに壊滅的打撃を受けていた。エスニック・テンションは一応収まり治安が回復していたが、今度は反中国人暴動が発生。2010年の総選挙は、このときの議員任期満了に伴うもので、政府はトラブル回避のために打てる手は全て打つことになった。国連に対して国際選挙監視団編成を要請したのも、その一環といえる。

  しかし、国際選挙監視団がソロモン諸島に派遣されたのは、今回が初めてではない。1998年に始まったガダルカナル島在来民とマライタ島出身者との間の武装闘争が一応の落ち着きを見せた2001年12月、国会議員総選挙に国際選挙監視団が派遣された。また前述のように、2006年4月の総選挙においても国際選挙監視団が派遣されており、今回の派遣は三回目となる。

  RAMSIの警察・軍隊は規模が縮小したとはいえ、依然としてソロモン諸島に駐留している。今回の総選挙に当たっては、混乱の予防と混乱発生時の迅速な対処のために、警察・軍隊が増員された。国際選挙監視団編成に加え、今回初めて国内NGO数団体による国内選挙監視団も編成された。
 
3.国際選挙監視団の構成
私はてっきり外務省からの派遣で「国連選挙監視団」に参加するものと思っていたが、実際には「我が国選挙監視団」、つまり日本国選挙監視団の一員としての参加だった。また、日本が派遣する選挙監視員は私一人かと思っていたのだが、日本を離れる直前に、外務省職員6名と私の計7名だと知らされた。

 「国連選挙監視団」ではなく「国際選挙監視団」に参加する。しかも外務大臣からソロモン総選挙への「日本選挙監視団」に関する業務を委嘱されるというのは、私にはどうにも理解困難であった。私が各種文献を読み、また一緒に任務についた外務省の人達との話でようやく理解したのは、以下のとおりである。

 ソロモン諸島政府から国際選挙監視団編成の要請を受けた国連は、国連職員数名を「国際選挙監視団編成チーム」として首都ホニアラに派遣した。このチームはあくまでも国際選挙監視活動のための幹事役であり、国際選挙監視団全体の司令部ではない。この国連幹事チームと、ソロモン諸島政府からの要請に応えて各国・国際機関が派遣した選挙監視団とを合わせたもの全体が「国際選挙監視団」にあたる。国連幹事チームと各国(または各国際機関)選挙監視団との間には、指揮命令関係はない。しかし、いずれの選挙監視団も、ソロモン諸島における自由で公正な選挙実現の一助となることを目的として集まったのであり、国連幹事チームの手配・要請に特段の不服がない限りはそれに従う。だから、全体が国際選挙監視団として機能したのである。

 私を除く日本国選挙監視団の内訳は、在ソロモン日本大使館から2名、在パプアニューギニアの大使館から2名、大洋州課から2名である。このうち、在ソロモン大使館の臨時代理大使が団長を、大洋州課地域調整官が副団長を務めた。その他在ソロモン大使館の専門調査員が、日本選挙監視団の事務局として各種手配をしてくれた。

  臨時代理大使は本務を完全に離れるわけには行かないので、ホニアラ周辺を自由に選挙監視するという立場で参加し、その他の6名はフルタイムでの参加であった。私たち団員の安否確認を毎日行い、国連幹事チームからの退避勧告がなくても、危険な状況になったら団長の独自判断で退避を決定するとのことだった。

 しかし、ここでもう一つややこしいことがあった。実際の選挙監視活動においては、日本国選挙監視団が一つの「団」として行動するわけではなかったのだ。国連幹事チームの依頼に従い、国際選挙監視員は二人一組のチームを形成して、全国各地へ派遣された。このときのチーム編成は、国際選挙監視団を構成する各国・国際機関の選挙監視団を完全に無視したものであった。おそらくは、意図的に無視したのだろう。例えば、私はモンゴル人の選挙監視員とともにチーム414を形成して、投票日には西ホニアラ選挙区ブブル地区にある6つの投票所を順次回って投票監視をし、その翌日は同選挙区開票所で開票監視をした。ほかの方たちは、それぞれ別の国・国際機関選挙監視団の人とペアになって、ソロモン諸島各地へと派遣された。

  私のチームメイトは、モンゴルの選挙管理委員会委員長で、かつてはモンゴル政府の大臣を経験した人だそうだ。ところが、国連幹事チームが配布したリストによると、彼はアメリカ合衆国派遣監視員という扱いになっていた。これについても当初は不思議に思ったが、アメリカ合衆国派遣員とされている人達は、実際にはハワイ州にあるイースト・ウエスト・センターに拠点を置くアジア太平洋民主主義パートナーシップが派遣した人達で、多様な国籍者で構成されていた。

 今回選挙監視団を派遣したのは、日本国のほか、アジア太平洋民主主義パートナーシップ、太平洋諸島フォーラム、オーストラリア、ニュージーランド、EU、英連邦英国のほか多くの旧英国植民地によって構成される国際機関)であった。
 
4.首都ホニアラでの研修(2010年7月31日・8月1日)
 私は7月29日の夜に成田空港を発ち、翌朝ブリスベンに到着。すぐに乗り継ぎ便でホニアラへ向かった。到着したのは、7月30日の夕方近くだった。そして、その翌日から二日間、国連幹事チーム主催の国際選挙監視員研修に参加した。

 研修は全て英語、研修資料も全て英語である。ソロモン諸島での公用語が英語であること、また、英語が事実上の国際語であることからして、これは当然のことであろう。次々に講師が登壇して、研修内容も多様であった。この中で、一つ驚いたことがあった。治安状況および投票所・開票所警備についての説明をしたソロモン諸島警察署長が、ニュージーランド人だったからだ。副所長はソロモン人であった。RAMSIの人たちが外国人なのは当然だが、独立国であるソロモン諸島の警察署長が外国人というのはあまりにも意外であった。あとで知ったことだが、この国では部族紛争が起きたときに、警察が一方の部族に肩入れするということがあり、問題となったそうだ。そのため、いずれの部族にも属さない外国人を警察署長にする必要があったのかもしれない。もちろん、このニュージーランド人署長は、優秀な警察官僚でもあるのだろう。ハンサムで、スラリとしてりりしい感じの人だった。結局のところ、ソロモン諸島とニュージーランドとの間で特別な条約を締結して、彼を派遣してもらったらしい。つまり、特別な事情があるので、特別な方法で特殊な人事をしたのである。

  成田空港からブリスベンまでが夜の便で、機内ではよく眠れなかったので、かなり疲れた状態で研修に臨むことになった。それでも一日目は熱心に研修内容を聞いて二回質問をするほどだったが、二日目はいよいよダメ。居眠りこそしなかったものの、何を言っているのかさっぱり分からなかった。疲れていると日本語でも上の空になりがちだが、英語なので、いとも簡単に本当に何が何だか分からなくなってしまった。

 ただ、幸いなことに、二日目の研修は丸一日ではなかった。途中から実際の監視活動に必要な資材の引き渡しが始まったからである。しかも私の場合は、チームメイトがまだ到着していなかったので、必用資材を受け取るや早々に解放してもらえた。なお、この説明のときに、私たちチームの担当地域である西ホニアラ選挙区の航空地図と投票所のリストとを受け取り、西ホニアラ選挙区のブブル地区にある6つの投票所で投票監視をするように依頼された。
 
5.移動と下見の二日間(2010年8月2日・3日)
投票日は8月4日(水)だが、2日(月)と3日(火)は担当選挙区への移動と投開票所下見の日とされていた。私のチームはホニアラ市内の同じホテルに宿泊していればよく、これは助かった。ゆったりとすごして、体力の回復を待つことが出来たからだ。

  研修の翌日(8月2日)から毎日、午前8時には私たちのチーム名「TEAM 414」が表示されたクルマがホテルの前で待っていて、ドライバーがどこへでも好きなところに連れて行ってくれるとのこと。遅れてはドライバーに悪いと思い、疲れているのに午前7時に起床して身支度をしてレストランで食事を済ませ、午前8時前からフロントでクルマを待った。しかし、それらしいクルマは見当たらない。約束の時間に遅れるのが太平洋流だと経験的に知っていた私は、ある程度の遅れはやむを得ないと、のんびりとクルマの到着を待っていた。ところが、一時間近く待っても来ない。気づくと、私と同じようにクルマを待っているとおぼしき人達がフロント付近に何人もいる。いい加減に行動を起こすべきだと思って、国連幹事チームの一人にクルマが来ないと電話した。間もなく折り返し電話があり、30分以内にクルマが来ると言われた。

  結局、30分以内には来なかったが、とにかく「TEAM 414」との紙を持った現地人男性がにこにこしながらフロントへやってきた。私が 414のメンバーであり、もう一人はまだ到着していないこと、投票所の下見をしたいことを伝えて、投票所へ連れて行ってもらった。遅れについては、一言も文句を言わなかった。そもそもどこでどのような支障があって、遅れたのかが分からない。彼の責任ではなく、手配者の責任だったかもしれないし、国連幹事チームの連絡に何らかの不手際があったのかもしれない。とにかくクルマは来たのだから用が足りる。それに、その日は投票所の下見をして、あとはホテルの部屋でゆっくりと本番の選挙監視に備えるつもりだったから、時間は十分にあったのだ。彼は親切に投票所を案内してくれた。投票所の下見は昼頃終わり、ホテルまで送ってもらってドライバーと別れた。

  ホテルで昼食をとり、部屋でゆっくりしながら研修で配布された選挙監視関係資料を読み進めた。日本を出る前にも国連幹事チームからの事前配布資料を外務省経由でもらって、ホニアラ到着までに一通り目を通しておいた。しかし、研修で配布された資料はかなりボリュームがあり、これに目を通すのには随分と時間がかかる。それでもかなりしっかりと読んだが、遠隔地へ移動をした人達は十分な読み込みの時間・余力がなかったかもしれない。とくに、私のチームメイトのように到着が遅れて研修に参加できなかった人はなおのことである。とにかく、私のチームメイトほか数名もこの日にホニアラに到着したので、夕方になって彼に会うことが出来た。

  翌8月4日は、朝からチームメイトと一緒にクルマで担当投票所をもう一度見て、開票所の下見もしたのち、昼頃にはホテルに戻ることが出来た。
 
6.西ホニアラ選挙区
ソロモン諸島の国会は、議員定数50名の一院制、任期は4年である。選挙制度は小選挙区制、全国50の選挙区に分かれている。首都特別区であるホニアラには、西、中央、東の三選挙区が設定されていた。私たちの国際選挙監視チーム(TEAM 414)を含む4チームが、西ホニアラ選挙区に割り当てられた。なお、中央ホニアラ選挙区と東ホニアラ選挙区には、それぞれ2チームが配置された。

  西ホニアラ選挙区の全投票所数は30。選挙区内はさらにいくつかの地区に分けられていたが、その一つであるブブル地区の6つの投票所が私たちチームが監視依頼された担当場所だった。当然ながらこれら6つの投票所の全てで投票開始時刻から終了時刻まで(午前7時から午後5時まで)立ち会えないので、実際にはこれらの投票所を巡回することになる。それぞれの投票所である程度の時間を過ごして、国連幹事チームが用意した報告書用紙に、それぞれの投票所での監視結果を記載した。

  また、担当投票所の中のいずれか一つでは、投票開始手続きに立ち会い、そして最後に再び最初の投票所へ戻って投票終了についても立ち会って報告書を書く。よって、投票日には合計8枚の報告書作成を要求された。

  下見の段階で、ブブル地区にあるボコナ小学校の部屋4つがそれぞれ投票所とされ、あと2つの投票所は天然資源省地質調査部敷地内に設けられることを確認した。この段階で、一つは敷地内の小屋だが、もう一つはどの部屋を使うのか分からなかった。この小屋はソロモン諸島の伝統的建築素材を使って伝統的建築様式で建てられたものであり、調査部員たちが、仕事の後にビールを飲んだりダーツをして遊ぶ福利厚生施設だった。私はこの小屋がすっかり気に入り、投票日はこの投票所の投票開始と投票終了に立ち会いたいと考えたが、幸いにもチームメイトの了解を得ることが出来た。
 
 ところで、国際選挙監視員というと随分と偉い人のようだが、実はそれ程ではない。要するに、投票所と開票所で立会人を務め、立ち会い報告書を作成して国連幹事チームに渡すだけのことだ。ただし、私たち国際選挙監視員の存在が、投票所・開票所での選挙管理の杜撰さや不正に対する抑止力として機能した可能性はあると思う。
 
7.投票開始手続き監視
8月4日の投票日は、投票開始時刻(午前7時)に遅れてはならないと、地質調査部の小屋を目指して早めにホテルを出た。6時20分頃に目的地に着いたが、まだ薄暗かった。調査部にはすでに多くのスタッフがいて、小屋へ行くともう投票所の設営がほとんど終わっていた。投票管理者以下投票スタッフ(計3名)に私たち2人は国際選挙監視員だと告げて、身分証明書であるネームプレートを示して投票開始に立ち会う許可を得た。

 投票管理者は、投票開始時刻になると投票開始を宣言し、神に祈りを捧げた。この国にクリスチャンが多いのは知っていたが、少なくともこの投票所は政教分離ではなかった。日本での厳格な政教分離に慣れていた私は、少しびっくりした。投票責任者は、投票箱が空であることを私たち国際選挙監視員および立候補者代理人(各立候補者がそれぞれの投票所に二人まで派遣できる)に示して、プラスチック錠で投票箱をガッチリ締めた。投票開始時刻には、警察官1名も同席。準備が整い、全てのスタッフが自分の席に着いたものの、まだ有権者は現れない。しかし、投票開始報告用紙への記入を済ませた私たちは、この投票所をあとにした。
 
8.ボコナ小学校での選挙監視
次に行ったのは、すでに下見をしたボコナ小学校。投票所は4つの教室に設けられ、有権者が次々と投票していた。各教室の入り口は一つで、教室の机と椅子とを部屋の奥の方に積み上げて、入り口に近い方を投票所としていた。教室内に照明はなく薄暗い。そのせいか、やや怪しいような、怖いような感じだ。どの投票所にも次々に有権者が訪れて、投票していたが、一つの投票所では、担当助手が名簿から名前を探す作業に手間取っていた。ここが一連の手続き上のボトルネックとなっていた。私たちがこの投票所にいる間に、ここの投票管理者は、並んでいる人達および投票所前の名簿を見ている人達に向かって、中に入ったら自分の名前または選挙人名簿登録番号を告げるように呼びかけた。ここでのポイントは、名前ではなく登録番号でもよいとした点である。その目的は、投票資格確認作業のスピードアップであろう。適切な臨機応変の処置だと思う。この投票所を出てみると、投票を待つ37人の列が出来ていた。それぞれの投票所で、10人以上が投票するのを見て、投票監視報告書に監視結果を記載した。

  時間に余裕がありそうなので、次にテントを張って投票所にしているところへ行った。担当場所以外でも監視が可能ならば行ってもかまわないと聞いていたからだ。この投票所は、直前に付近の民家の人が投票所としての使用を拒否したので、空き地にテントを張って投票所としたものである。西ホニアラ選挙区の中でも、そのあたりは最も危険なところだとウワサされている。投票所内外では警察官・警備員が厳戒態勢を敷いていた。警備員二名が投票所入り口で、名簿チェックの進行状況を確認しながら、有権者を1人ずつ投票所に入れており、投票は整然と行われていた。ここでも、投票監視報告書を作成した。
 
9.天然資源省地質調査部での選挙監視
次に、天然資源省地質調査部へ戻って、まず、小屋でないもう一つの投票所の方へ行った。調査部庁舎にコの字型に囲まれた中庭が投票所だ。中庭を囲む庁舎には庇(ひさし)がついており、その下はコンクリートの通路となっている。この通路に受付、投票記載所、投票箱、候補者代理人である立会人の席が設けられており、雨が降っても大丈夫な体制が整っていた。ここは明るく開放感があり、快適な投票所だったが、ポツリポツリとしか有権者が来なかった。それでも、10人以上の有権者の投票を監視することが出来た。

  ここではちょっとしたハプニングがあった。若い女性が投票所に現れて、投票管理者と何か話をしていたが、そのうち「あーあ」とふてくされて立ち去ったのだ。投票管理者が彼女の背中に向け「悪いけど法律でそう決まっているんだ!」と言った。

 事情が飲み込めなかった私は、彼にどうして彼女は投票せずに帰ってしまったのか聞いた。彼女のシスター(姉または妹)が投票したときに彼女の名前が名簿上で投票済みとチェックされてしまったから、自分はシスターの名前で投票したいと言ってきたので、それはダメだと言ったとのことであった。

  合点のいかない私は、本人である彼女が現にまだ投票していないのであれば、自分自身の名前で、仮投票(その投票所で投票する権利のある有権者であると主張して行う特別な投票手続き)することが出来るのではないかと聞いた。すると、その投票管理者はニッコリして、詳しい内容を分かりやすく説明してくれた。結局、彼女の名前は別の投票所の選挙人名簿に記載されており、彼女のシスターがそこで彼女の名前で投票してしまったのだそうだ(これは、不正ではなく手違いであろう)。そのため、彼女は、彼女のシスターが名簿登録されている中庭投票所の方でシスター名で代わりに投票させて欲しいと言ってきたのだ。そこで、そういう事情があっても、この投票所の選挙人名簿に登載されている本人でない以上、ここでの投票を認めることは出来ないと言ったのだそうだ。ただし、彼女が自分の名前が登録されている投票所へ戻って仮投票をすることは、確かに可能だと教えてくれた。私は、この投票管理者の深い選挙法知識とその厳格な適用とに、すっかり感心してしまった。

  ソロモン諸島の選挙法によると、選挙区長(開票管理者でもある)が、投票所の場所とそれぞれの投票所で投票できる人の氏名とを投票日の7日前までに公表することとなっているが、どの程度大々的に公表されるのかはよく分からなかった。最終的には、投票日に各投票所の外にそこで投票できる人の名簿が掲示されるので、その名簿を確認して投票することになる。ただし、例えば私たちが担当したブブル地区では、計6つの投票所のどこで自分が投票できるかが、有権者にとって必ずしも明確ではなかったようである。ある投票所の前に掲示されている名簿を見て自分の名がなければ、別の投票所へ行って自分の名前を探すのだ。いくつもの投票所で掲示された選挙人名簿の前に人だかりが出来ていて、名前を探している姿が見られた(前号表紙の写真)。

  続いて、その日の朝一番に投票開始を監視した小屋投票所へ行った。訪れる者はまばらであったが、それでも10人以上の投票を見届けた。投票時間終了が近い頃に、女性高齢者が杖をつきながらやってきた。4段の階段を上がって小屋に入ったところで、入り口脇のベンチに腰掛けてしばらく休んでいた。小さなスプレーを取り出して口の中にそれを一回吹きかけた。あれは、心臓の悪い人が使用するニトログリセリンだったのかもしれない。さらにしばらく休んでから、座ったまま名前を告げて、左手小指に投票用紙受けとり済みを示す特殊インクが塗られた。彼女が投票記載所へ向かうときは、投票管理者が彼女を抱きかかえるように助け、投票記載にあたっては誰に投票したいのかを聞いた。これは、自分自身で投票することが出来ない人に対しては適切な行為であり、日本でいう代理投票にあたる。介助されている有権者は小声でこれを投票管理者に伝えることになっているのだが、彼女の声は大きく、そこにいる人みんなに聞こえてしまった。しかし、そんなことが問題となるはずもなく、彼女は投票管理者に助けられながら、自分自身で投票用紙を投票箱へ入れて帰っていった。ここでの投票管理者の態度は、適切にして親切なもので、私は大いに感銘を受けた。
 
10.投票終了手続き監視
私たちのチームはそのまま小屋投票所にとどまり、投票終了時刻(午後5時)を待った。午後4時55分に投票管理者が投票所の外に出て、大きな声で残り時間は5分だから投票手続きを急ぐように呼びかけるはずであったが、実際にこれをやったのは警察官だった。しかし、とにかく呼びかけはなされたのだから、これは大きな問題ではない。この警察官はそれから投票所の中へ入り、入り口脇のベンチに腰掛け、腕時計を見ながら、あと何分、あと何分と、残り時間を告げはじめ、投票終了時刻には大きな声で「時間終了!」と告げた。終了間際に投票所入り口に掲示してある選挙人名簿に近づいてきた人がいたが、投票所の中には入ってはこなかった。

  投票管理者が立ち上がって、ごく短いスピーチをして神に祈りを捧げた。そして、投票箱の投票用紙挿入口に封をして、厳重にヒモで縛った。このとき、私はこの投票所で仮投票が一票投じられていたことに気づいた。あるいは、中庭投票所で投票できなかった若い女性有権者が、こちらで仮投票をしたのかもしれない。荷造りが終わるとまもなく、警察のクルマがやってきて、警察官が投票箱を受け取ってどこかへ運んでいった。秘密の場所にしまっておいて、翌日に開票所へ持っていくのだそうだが、西ホニアラ選挙区の場合は、その場所とはどう考えても警察署である。

 この段階で、立候補者代理人たちは帰ってしまった。間もなく、あたりが暗くなってきた。ソロモン諸島の投票時間は午前7時から午後5時までだが、これは首都ホニアラにおいては日の出後すぐから日の入り少し前まで。照明設備がない投票所が多いからであろうが、一日の明るい時間を有効に利用している。
 
  しかし、私たちは、まだ帰らなかった。より厳密に言うと、私が帰ろうとしなかったのだ。私のチームメイトは明らかに帰りたそうにしていた。疲れていたが、私は粘った。投票所には、投票者にチェックの入った選挙人名簿、使用されなかった投票用紙の束、投票所管理スタッフが記入すべき用紙などがまだ残っていた。投票管理者マニュアルによると、これらの用紙への記載を終えてから、これら全てを投票箱と一緒に荷造りして送り出すことになっているのに、彼らはそれをしなかったのである。私はそれからの彼らの行動を監視していた。

  助手が数えてみると、選挙人名簿に投票済みと記録のある有権者数よりも、発行済み投票用紙の方が50以上多かった。数え直したが同様であった。人間だから間違いがあるのはやむを得ないにしても、かなりの違いである。私はこの投票所で何らかの不正が行われたとは特に思わない。彼女は、有権者の名前を選挙人名簿上で見つけると、有権者の氏名と選挙人名簿登録番号とを読み上げ、その人の名前のところに投票済みのチェックを入れて、その人の左手小指に二重投票防止のための特殊インクを塗布する。インクを塗布しなければという思いが強くて、名簿上に投票済みのチェックを入れるびをうっかり忘れることが何度もあったのだろう。私は、一連の投票手続きの中で、受付担当助手の負担は過大であったように思う。
 
  投票箱を送り出したあとに残っていたものをどうするのか投票管理者に聞くと、投票箱のあるところに別途送り届けるのだという。私は送り届けるところまで監視を続けようと思っていたのだが、投票管理者が「もう帰っていいよ」と何度も言うので、おそらく帰って欲しいのだろうと思い、その場をあとにした。私たち国際選挙監視チーム414が立ち去ったあと、選挙人名簿の投票済み記録を50以上書き加えて書類上のつじつま合わせをしたかどうかは、われわれには分からない。翌日、開票所へ行くと、この投票所から送り出した投票箱と、投票用紙などその他ものが一緒になっていた。しかし、たとえ彼らが、投票者数のつじつま合わせをしたとしても、それはこの投票所で不正投票が行われたかどうかとは、別問題である。この投票所の選挙管理は杜撰だと感じたが、不正投票を思わせるようなものは何もなかった。各候補者が派遣した立会人がずっといたのだから、実際にも不正投票は行われなかったであろう。
 
11.開票監視
私たちチームが担当した西ホニアラ選挙区の開票所は、選挙区内にあるローブ警察クラブに設置された。これは、警察官のための福利厚生施設である。投票日の8月5日午前9時に開票開始のはずだったが、午前10時頃に警察のクルマが到着して投票箱を開票所へ運び込んだ。実際の開票開始は午前11時頃。なお、開票所内外は、警察官によって厳重に警備されていた。しかも、隣の敷地はRAMSIの駐屯地で、銃器を手にした兵士がごろごろしていた。おそらくは開票所が襲撃されないよう威嚇すると同時に、騒擾が起きた場合には速やかに出動できる体制をとっていたのであろう。

  開票所中央に、大きく長いテーブルが置かれ、その周りにいすが並べられた。ここに着席したのは開票管理者1名、副開票管理者1名、助手5名(開票スタッフ計7名)と、西ホニアラ選挙区で立候補した6名の候補それぞれの代理人各1名との計13名であった。そのテーブルから少し離れたところに、国際選挙監視員と国内選挙監視員のための席が設けられた。ただし、国際選挙監視員と国内選挙監視員は、選挙監視の必要に応じてテーブルに近づくことが許されていた。また、報道関係者が何人もいた。

  テーブルに着くべき人間がそろった午前11頃、開票管理者を務める選挙区長が立ち上がり、開票開始を宣言して一つ目の箱をテーブルの上にのせた。投票箱のプラスチック錠の固有番号を立候補者代理一名とともに確認して、これをハサミで切って投票箱を開けた。箱をひっくり返して全ての票を大テーブルに出して、箱が空になったことを自ら確認、さらに箱を頭上に掲げて体を回転させて、全ての立会人に中が空であることを示した。次に投票箱をテーブルの下に置き、開票スタッフ全員が立ち上がり、それぞれの開票スタッフが候補者別に票の山を作っていき、ほかのスタッフの山と合わせて立候補者全員(6人)分の票の山を作り、これらを開票管理者の席の前に並べて、開票スタッフ全員が元の位置に着席した。

  私が驚いたのは、ここからである。まず、一人目の候補者の票の山を開票管理者が手に取り、候補者の名前を告げた上で、「1、2、3、・・・」と数えていき10枚ごとの山を作る作業を繰り返し、10枚に足りない端数が出たところで、10枚ごとの山を数えてそれに端数を足して、その候補者の獲得票数を宣言する。次に、隣に座っている副開票管理者が同じ方法ではじめからこれを数え直す。数が同じなら、開票管理者が候補者名と票数を大きな声でもう一度告げて「確定!」と宣言して記録する。数が一致しない場合は、開票管理者が隣で見守る中、副開票管理者がもう一度数え直して、開票管理者が獲得票数を確定して記録する。この作業を候補者ごとに続ける。西ホニアラ選挙区には6名の立候補者がいるので、この方法ではかなりの時間がかかった。しかし、開票の透明性・確実性は、あまりにも明らかであった。誰に投票したのか不明確な票があれば、その票を全員に示して解説を加えてそれを処理した。

  開票には、迅速性・透明性・確実性のいずれもが重要である。しかし、ソロモン諸島のように選挙においてトラブルが発生する可能性のある国においては、透明性・確実性を最重要とし、迅速性を犠牲にするのは、適切な判断だと思った。結局、午前11頃に始まった開票作業は、1時間の昼休みを挟んで、午後5時過ぎに終了した。正味5時間強の開票作業で、30箱中8箱しか開票が終わらなかった。残りの投票箱は、翌日に開票することとなった。投票箱は警察がまた厳重に保管し、翌日また開票所に持ち込み、開票作業が続けられるのだ。翌日開票はよいとして、開票が翌日中に終わらないのには驚いた。日本における開票の早さとは、あまりにも違いすぎる。

  開票が一日で終わらないとは思っていなかったのは、国連幹事チームも、日本の外務省も同じだったようである。本省勤務の2人と私は当初の旅程の通り、翌日の昼過ぎにホテルからホニアラ国際空港に向かい、西ホニアラ選挙区における開票結果を見届けることなくソロモン諸島を後にした。パプアニューギニア大使館勤務の2人も、同日任地へ戻ったはずである。
 
12.選挙結果
 何しろ私は担当選挙区の開票が終わらないうちにソロモン諸島を離れてしまったので、この選挙結果報告は、後日収集した情報によるものだ。天候不順で投票用紙等の到着が間に合わず、投票日を遅らせた地域があったが、国際選挙監視員・国内選挙監視員の存在もあってか、投票そのものは全体として自由で公正に行われたといえる。開票についても、一部でトラブルが発生したものの、50議席全てが確定した。
 
  私が担当した西ホニアラ選挙区では、前職議員が落選し、大々的な選挙買収をしているとウワサされた対立候補者が、かなりの票差で当選した。英連邦派遣選挙監視団の報告書によると、ある立候補者代理人(おそらく前職議員の代理人)が初日に開票した8箱についての再開票を求めたが、開票管理者は、得票数第一位候補者と第二位候補者の得票数には大きな差があり、はじめの8箱の再開票をしても当選人が変わることはあり得ないとして、この求めを退けた。そして、この開票管理者が当選人発表を行ったとき、落選した候補者の支援者とおぼしき人々から暴行を加えられた。ソロモン諸島国会議員総選挙全体では重大なトラブルがなかったことになっているが、この報告書を見るかぎり全くトラブルがなかったわけではなかったようだ。

  開票を進めて当選人を確定することが開票の本来的目的だが、混乱を避けるためには負けた候補者およびその支援者達に、選挙結果について納得してもらうことも大切である。特にソロモン諸島のように、これまで様々なトラブルを経験してきた国にとってはなおのこと。開票管理者がはじめの8箱の再開票を拒否したのは、開票本来の目的からすると合理的で正しかったのだろう。しかし、再開票の求めがその資格のある者からなされた場合には、再開票要請を取り下げるように説得を試みて、それでも相手が応じなければ、無駄と知りつつも再開票とすべきだったように思う。
 
  なお、今回の国会議員総選挙の後も、当選した50名の議員の間で多数派工作が行われた。その結果、首相候補は二人に絞られて、国会における首相選出投票では26票、23票、棄権が1票となり僅差の勝負となったが、前回の首相選出投票とは違って、今回は大きな暴動は起きなかった。           
 
  選挙が終われば、選挙訴訟の季節である。東京都選挙管理委員会事務局で選挙訴訟副担当を経験したことのある私にとって、これは驚きではない。結局、私が担当した西ホニアラ選挙区当選者に関するものを含む計18件の提訴が、ソロモン諸島高等裁判所に対してなされた。だが、いくつかのトラブルがあったものの、暴動・クーデター・革命が起きなかったのだから、選挙は基本的には平和裏に終わったといえる。
 
13.国際選挙監視員を務めての感想
 疲れたけれども面白かったというのが、私の率直な感想である。国際選挙監視員を務めるのは危険ではないかと思っていたが、実際にはそんなことはなかった。本当に危険になったら退避すればよいし、あえて危険そうなところへ近づかなければいいのだから。また機会があれば、是非とも国際選挙監視員を務めたいものである。
 
  私にとって、ソロモン諸島は今回が初めてだった。現地の人たちの姿を見て、話をする機会を得て本当によかった。日本で文献を読めば、読んだ範囲内のことは通り一遍には分かるが、現場でそこにいる人たちと接するのでない限りピンと来ないものだ。私の専門分野は政治学だが、政治は人間の活動の一側面であり、どのような人がどのような環境の中でどのように生活しているのかを知らずに、そこでの政治だけを適切に理解することは不可能である。今回の経験とそれに伴って得た知見とを生かして、今後は是非ともソロモン諸島政治の研究をしてみたい。

  今回国際選挙監視員を務めたことで、私は大いにソロモン諸島に興味を抱いた。よって今号から、本誌「太平洋諸島情報」のソロモン諸島を担当することになった。
 

 

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