PACIFIC WAY

 

   西欧民主主義への挑戦と敗北

         −フィジー1997年憲法の成立から破棄・再生へ
 
       
苫小牧駒澤大学国際文化学部
教授 東  裕(ひがし ゆたか)

はじめに
 
 この小論において複合民族社会を持つフィジー諸島における国民統合を目的とした1997年憲法の成立過程から2000年5月のクーデタによる憲法の破棄、控訴裁判所の判決による同憲法の有効性の確認を受けた2001年8月25日から9月1日の総選挙、さらにはその後のガラセ政権の成立に至る立憲民主制への復帰の経過を概観し、その一連の経過の中で1997年憲法を巡ってあらわになった「二つの民主主義」、すなわち西欧民主主義(western democracy)と先住民フィジアンの民主主義(indegenous democracy)の問題が、フィジーの憲法政治の中でどのように現れているかを明らかにする。この問題を憲法的にどう処理するか、それが複合民族国家フィジーにおける民族的和解による国民統合にとって最大の課題であることはいうまでもない。そして、この課題はひとりフィジーのみならず西欧民主主義・近代立憲主義憲法を移入した国々にとって「伝統」と「近代化」の問題として、多かれ少なかれ共通する課題であり、わが先進国日本においても今なお現代的な課題であり続けているのではないだろうか。その意味で、フィジーの事例は全くの特殊事例というわけではなく、いくぶんかの普遍性を備えたものとみることもできよう。
 
 
1.憲法政治史概観−1997年憲法をめぐって
 
 1987年の二つのクーデタを経て共和制を宣言し、90年に先住民フィジアンの政治的利益の優越を認めた諸規定をおく憲法を制定して以来、フィジーは国の内外において困難な時期を送ることになった。フィジー社会の指導的地位にあるインド系国民の海外移民による国内経済社会の「空洞化」や国際社会からの「人種差別」批判は、フィジーの経済発展を減速させ、国際社会での政治的地位を低下させた。先住民フィジアンの利益擁護がフィジアンの生活を向上させるどころか、現実にはフィジアンの経済的困難を増大させるという結果をもたらした。

 このような状況を背景に、1995年に90年憲法の改正に向けた作業が開始され、97年には新憲法が成立、フィジーは国民統合に向けて大きく前進したようにみえた。クーデタを実行しその後選挙を経て首相の座についたフィジアンのランブカとインド系政党NFPの党首レディが協力し、改正草案の作成に当たった憲法再検討委員会(CRC)もフィジアンの政治家とインディアンの学者にマオリ系の元ニュージーランド総督を委員長とする構成で、人種を越えた国民統合へと一致協力する姿勢が明確に示された。

 1996年には憲法改正草案を含む大部の報告書が憲法再検討委員会から国会に提出され、両院合同委員会による審議を経て両院で可決され、1997年7月に新憲法が公布された。この憲法では90年憲法にあったフィジアンの政治的優位を定めた諸規定が改正され、両民族の政治的権利の平等を基調として国民統合を指向する諸種の規定が置かれた。それにより、従来の人種差別的という批判が内外ともになくなり、フィジー共和国からフィジー諸島共和国へと国名も新たに両民族の「和解」への道を歩み始めた。

 そのおよそ2年後の1999年5月に97年憲法下で初の下院議員総選挙が実施された。この選挙は従来の選挙制度にかえて97年憲法で採用された小選挙区選択投票制で行われ、インド系のフィジー労働党(FLP)が下院議席71の過半数の37議席を獲得し第一党になった。その結果、FLPの党首であるインド系のマヘンドラ・チョードリーが初のインド系首相となり、内閣が組織された。この内閣は97年憲法によって新たに導入された「複数政党内閣」の規定に従い、FLP以外の政党からも入閣し、しかもフィジアン閣僚が多数を占める民族感情に配慮した人事構成となった。

 にもかかわらず、政権発足から1年もたたないうちにフィジアンからの政権批判の声が聞かれるようになった。この国が抱える農地問題への政権の対応がインド系優遇であるという不満がインド系政権への批判となって現れたのである。そんな中、折しも政権発足から1年目に当たる2000年5月19日、首都スヴァでチョードリー政権に抗議する5000人規模のデモが行われたところに、元実業家ジョージ・スペイトが率いる武装集団が開会中の国会に侵入し、チョードリー首相をはじめ閣僚や国会議員多数を監禁、インド系政権の追放・憲法の破棄等を訴え、97年憲法で失われたフィジアンの権利回復とより手厚い保障を定める新憲法の制定を訴えた。

 その10日後、引き続く国内の混乱の収拾にフィジー国防軍が乗り出し、バイニマラマ国防軍司令官を長とする暫定軍事政権が組織された。程なく国内の治安が回復され、7月13日には元銀行家のライセニア・ガラセを首相とする暫定文民政権に権力が移譲され、同政権はフィジアンの権利を強く保障した憲法の制定を中心とする政策を発表、立憲民主制への復帰スケジュールを明らかにして、その実現に向け動き出した。そんななか、11月にラウトカ高等裁判所で軍事政権による憲法破棄や国会の解散は違憲であるとの判決が出され、暫定政権の正当性に疑問が投げかけられた。この判決に対し、政府は控訴裁判所に上訴しその判決が2001年3月に下され、暫定政権の予定した立憲民主制復帰スケジュールが根本的な変更を余儀なくされることになった。

 控訴裁判所の判決は、基本的に高等裁判所の判決を支持するもので、軍事政権による憲法破棄は違憲無効であり、依然として97年憲法はフィジーの最高法規として有効であるとする見解を示した。この判決を受けて、暫定政権は即座に軍事政権による憲法破棄以来の法的連続性を確保するための方策をとり、「解散」中の下院議員選挙の実施を決め、暫定政権は選挙管理内閣へと装いを新たにした。8月下旬に予定された総選挙をめざし、新たな政党がいくつも生まれ、選挙管理内閣のガラセ首相は5月に「統一フィジー党(SDL)」(Soqosoqo Duavata in Lewenivanua / United Fiji Party)を組織し総選挙に備えた。

 総選挙には18政党が候補者を擁立し、無所属を含め321人の候補者が71議席をめぐって選挙戦を展開した。8月25日から9月1日にかけて投票が行われ、その結果、ガラセを党首とする「統一フィジー党(SDL)」が31議席を獲得し第一党となった(1)。前回選挙で過半数の37議席を獲得したインド系のフィジー労働党は27議席にとどまり、第2党となった。SDLは、フィジー系の「保守連盟(MV-CA)」(Matanitu Vanua-Conservative Alleance)の6議席と無所属の2議席を取り込み過半数を確保し、フィジー系による組閣を行った(SDLのインド系1名を含む)。しかし憲法では議席の10%(8議席)以上を確保した政党には首相は入閣要請をしなければならないという「複数政党内閣」条項(99条)があるため、27議席を占めるインド系FLPを内閣から排除することは違憲であるとして、労働党のチョードリー元首相は高裁に提訴した。

 以上が、1997年憲法の成立過程から2001年の総選挙後に至るフィジー憲法政治の推移である。以下に、この間に生起したエポック・メイキングな「事件」を取り上げ、フィジー憲法政治における西欧民主主義とフィジアン民主主義の相剋を捉え、いわゆる西欧民主主義の普遍性への異議申し立ての試みという側面からフィジー問題を把握してみたい。
 

2.国民統合に向けて
 
(1)1997年憲法の成立と目的
 
 1997年7月25日、カミセセ・マラ大統領が新憲法に署名し、フィジーは1970年の独立以来3つ目の憲法のもとに、新たな国家形成にむけての第一歩をしるすことになった。この97年憲法(1997年7月25日成立、98年7月27日施行)は初めて人種を越えた国民概念のもとにすべての人種の存在が「フィジー諸島国民」として把握される可能性を開くことになった。

 第2の憲法である90年憲法は、独立時の70年憲法の人種別議席制の人種別議席配分数を変更し、フィジアンの政治支配の恒久化を図るとともにその権利保障を一層強化したが、そのことはインド系国民に対する差別的制度の導入を意味した。1987年のクーデタによる政権交代を経てこのような憲法が制定されたことに対し国際的な非難が浴びせられ、インド系住民の国外流出が加速し、クーデタの翌年(1988年)には、それまで国民人口の多数を占めていたインド系人口が、約40年ぶりにフィジー系の人口を下回り、その後もこの傾向に拍車がかかった。これは、フィジアンにとっては90年憲法の「成功」ともいえたが、それ以上に国内経済の低迷・雇用不安の増大といった現実の経済問題が深刻な政策課題となった(2)。このような背景のもとで、1995年には「憲法再検討委員会」(FCRC)が設置され、新憲法の制定に向けた検討が開始された。同委員会は2年間に及ぶ作業をを行い、697項目にわたる改正提案が『フィジー:統合された未来に向けて』(Fiji : towards a nited future)という825頁に及ぶ報告書にまとめられた(3)。この報告書が国会に提出され、国会は「両院合同憲法再検討委員会」(JPSC)においてこの報告を審議した。その結果、同委員会は40項目の修正・77項目の削除を行い採択、両院の可決を経て、大統領が署名し、1997年の7月に新憲法が成立し、翌98年7月から施行された。

 国名が「フィジー共和国」(The Republic of Fiji)から「フィジー諸島共和国」(The Republic of the Fiji Islands)に変更され(1条)、フィジー国民は、「フィジー諸島国民」(The people of the Fiji Islands)の名称で統一的に把握されることになった。諸民族の文化の多様性を認めつつ、諸民族の融和による国民統合のためのアイデンティティーの形成を目指してのことであった。さらに「国際社会」(コモンウエルス)への復帰(97年10月に実現)と.外資導入による経済成長のための環境整備のためにも「人種差別」の解消、「人権」のグーロバル・スタンダードへの配慮、といった目的のため統一国民名称の創出が急がれたのである。
 
(2)1997年憲法の特徴的規定(4)
 
  A. 人権とフィジアンの権利
  「権利章典」(Bill of Rights)の章(第4章(21条〜43条))が置かれ、人身の自由に関する諸権利、表現の自由、信教の自由、投票の秘密、プライバシーの権利、法の下の平等、裁判を受ける権利、教育を受ける権利など、およそ現代国家の憲法に一般に見られる諸権利が保障され、しかも、こうした人権を保障した権利章典が公権力を制限するという近代立憲主義憲法の基本的な考え方が明記された(21条)。

 第2章には「コンパクト(Compact)」(協定)として、政府の行為準則に関わるユニークな2か条の条文(6条・7条)が設けられた。そこでは政府の遵守すべき原則として個人・共同体及び集団の権利の尊重、フィジアンの慣習に基づく土地所有権の維持、信教の自由、言語・文化・伝統を保持する権利、政党結成・政治参加の権利、すべてのコミュニティーの利益への配慮、すべてのコミュニティー間での政治権力及び経済的・商業的権力の公正な共有、フィジアンの利益の至高性などの諸原則が規定された(6条)。ただし、コンパクトは、各コミュニティーの権利保護を政府の行為準則としながらも、一方でフィジアンの利益を他のコミュニティーの利益に優位する至高のものとするという矛盾をも含んでいる。

 このほかにも、人権と先住民の権利にかかわるいくつかの条項が置かれた。不利な地位に置かれているすべての集団に属する人々が、教育と訓練、土地と住宅、商業活動、及び国家サービスに実効的にアクセスできるようにするためのプログラムを定めた法律の作成を国会に義務付ける「社会正義と積極的格差是正措置」(social justice and affirmative action)(44条)、国民に対し権利章典の本質と内容について教育し、人権に関する事柄について政府に勧告するなど、人権問題について国民並びに政府を啓蒙し、人権意識の向上と人権保障の強化を目的とする「人権委員会」(Human Rights Commission)の設置(42条)。

 そして、インディアン以外の民族集団の権利保護に関する「集団の権利」(Group Rights)として、フィジアンと少数民族であるロトゥマンとバナバンの権利・土地所有などに関する法律については、通常の法律改正よりも厳重な改正要件が必要とされ、これら3つの民族集団の権利が憲法で強く保障された(185条)。また、慣習法・慣習上の権利に関わる立法を国会が行う際には、国会はフィジアンとロトゥマンの慣習・伝統・慣行・価値・及び希望を考慮することが義務づけられた(186条)。
 
 B. 政治制度の改革
 政治制度の面では、三つの重要な変更が見られた。人種別議席の改革・首相の人種要件の削除・複数政党内閣制の導入である。第一に人種別議席(下院・上院)の改革である。下院の議席数(51条)は、90年憲法の70議席から71議席と1議席増となり、71議席中46議席が人種別議席 (communal seat)として残されたが、残り25 議席は人種区分のないオープン・シートとなった。人種別議席の内訳は、フィジアン23議席、インディアン19議席、ロトゥマン1議席、その他の一般投票者 (General Voter)が3議席で、この議席数は、フィジー人口に占める人種別人口比にほぼ対応している。また、上院議席については、それまでの人種別議席配分が廃止された。第二に、首相の人種要件が削除された。90年憲法ではフィジアンに限られていた首相の資格要件(83条2項)から人種要件がなくなり(98条)、フィジアン以外に首相になる可能性がひらかれた。そして、第三に、「複数政党内閣」(multi-party Cabinet)制の採用である。大統領が首相の助言にもとづいて、下院議員または上院議員の中からその他の国務大臣を任命する際、首相は閣僚構成が下院の政党構成をできるかぎり公平に反映するよう組閣することが求められた。特に下院の全議席の10%以上を占める政党については、原則として当該各政党からその下院議席数に応じた閣僚を任命しなければならない(99条)。フィジーの諸政党は一般にそれぞれ特定の民族(人種)の支持を中心に形成されているため、議席を有する全政党の議員を閣僚に任命することは、必然的に複合民族内閣を形成することになる。

 いずれの変更も狙いは国民統合にあった。しかし、期待とは裏腹にこれらの目論見が皮肉にもクーデタ事件を惹起するもとになってしまうのである。                                        

3.1997年憲法の光と影
 
(1)1997年憲法の成功−1999年総選挙とインド系政権の成立
 
 1999年5月に実施されたフィジー諸島共和国の下院議員選挙は、新憲法下で初の総選挙として、新選挙制度(小選挙区選択投票制:AV制)のもとで行われた。インド系のフィジー労働党が過半数の議席を獲得し、チョードリー(M.Chaudhry)フィジー労働党(Fiji Labour Party:FLP) 党首がインド系フィジー人として初めて首相に就任した。第1順位の選択での政党別得票数は、FLPが32.3%、SVTが20.0%、NFP14.5%、FAPが10.2%であった。この得票をもとに小選挙区相対多数制と比例代表制の下で当選議席数を算出すると、FLPの獲得議席数は、それぞれ34議席、24議席となりいずれも過半数には達しない。特に比例代表制の場合はFLPはAV制での議席数より13議席も下回り、過半数に12議席も不足する一方、今回議席ゼロに終ったNFPが10議席という結果になることが指摘される。有権者の投票行動がFLPの勝利をもたらしたのは明らかではあるが、過半数議席獲得という圧倒的な勝利に結びつくことは、AV制の採用なくしてあり得なかった。また、首相の人種要件の削除なくしてインド系首相の誕生はありえず、FLPが過半数の議席を制した以上、複数政党内閣の規定なくしては連立政権の形成もありえなかった。

 97年憲法のもとになった「CRC(憲法再検討委員会)報告」(=「リーブス報告」)によれば、この憲法の目的とするところは、人種間の協和(harmony)・国民統合(national unity)・及びすべてのコミュニティーの経済的・社会的発展の促進をはかり、最終的には国民統合を実現することであった。その第一の目標とされたすべての民族コミュニティーが行政権を共有する『複合民族政府』(multi-ethnic government)が、早くもここに実現したのであった。

 こうして憲法の予定したインド系政権の誕生と複数政党内閣の形成は国民統合に向けて大きな一歩を踏み出したかに見えたのも束の間、インド系政府の政策への反発がフィジアンの中に広がっていった。その感情は、「先住民の不安の原因」と題して次のように表現された。
 
  「1997年憲法は、『良き統治』(Good Governnance)の枠組みとして、すべての市民 と集団の平等の基本的権利と自由を保障するものとして、そして慣習的土地所有、彼ら 自身の分離された別の行政制度を維持し自ら決定する権利、並びに独自の文化・慣習・ 伝統といった観点から、先住民フィジアンとロトゥマンのコミュニティーの保護にとっ てもっとも完全な憲法であったかもしれない。しかし、フィジーの歴史上初めて非先住 民フィジアンが首相になった。マヘンドラ・チョードリー首相は、1999年5月の人民 連立政府の発足から数カ月たって、彼が6月の大酋長会議の演説で約束したのにもかか
わらず、彼は先住民フィジアンの利益への脅威となる諸政策を導入した。そのことが、 憲法的保護や保障は、フィジアンが首相すなわち政府首長という、政府方針を決め政府 の行動を指揮する議院内閣制のなかでのキーポジションを占めない限り、現実的価値は ないことをきわめてあからさまに示した。

  また、デモクラシーを見るとき、指導者の選出という民主過程のみを見るだけでは十 分でなく、それが生み出すリーダーシップの質もまた重要なデモクラシーの試金石であ る。多人種・多文化社会フィジーの文脈のなかでは、公平で公正な民主過程を通じて選 ばれる1人の指導者あるいは指導者達をもつだけでは十分ではなく、選出された1人の 指導者又は指導者達は、民族・文化・宗教・性別・経済的社会的地位にかかわらず、あ らゆる人々、すなわち個人・集団・コミュニティーに、配慮しなければならない。指導 者たるものは、社会のある部分の人々から、自分たちに対して差別的で自分たちの利益 に無関心であると思われるようなら、それは真の指導者ではない。このことがまさしく フィジーで起こったのである。

 先住民フィジアンコミュニティーの支配喪失の恐怖は、フィジアンがすでにフィジー の経済と社会の発展において他の人種より大きく遅れていることに気づいたときに一層 激しくなった。そしてもし彼らがその土地の84%を保有するフィジーにおいて、政治 的支配権をも喪失するならば、世界中でただ一つの先住民フィジアンコミュニティーと して彼らの未来を守るためには、土地にしがみつくこと以外に方法がないのである。チ ョードリーがその父祖の地であるインドで歓迎されたとしても、フィジアンにはただ一 つの母なる土地でありかつ父なる土地があるだけであり、それがフィジーなのである。」 (傍線は引用者)(5)
 
 ここに示された「不安」が、はたして憲法的保護に値する「正当」なものか否かはここではあえて問わず、この不安感に起因するチョードリー政権への反発が、文民クーデタを生み出す原動力となったという事実だけを指摘するにとどめる。
 
(2)1997年憲法の失敗
 
 A. 2000年5月19日のクーデタ
 チョードリー政権誕生から1年を迎えた5月19日、首都スバでは、チョードリー政権に反対する5,000人以上のフィジアンのデモ行進が行われていた。折から開会中の国会に、ジョージ・スペイト(George Speight)ら、7名の武装集団が侵入、チョードリー首相をはじめ、閣僚・国会議員・国会職員などを人質にとって国会議事堂を占拠、政権の奪取を宣言した。彼らは自らフィジアンの利益を代表していると主張し、人質解放の条件として、@フィジアンの権利を強く保障した憲法の作成、Aチョードリー首相の解任、そしてBマラ大統領の辞任を要求した。これが、今回の一連の政治変動の発端となった国会人質監禁事件、いわゆる「文民クーデタ」(civilian coup)であった(6)

 総選挙の際になりを潜めていた民族意識がインド系労働党の勝利という現実を目の当たりにしてふたたび噴出し、選挙直後にフィジー先住民系の政党であるSVTとVLVがフィジアンの大連立の可能性について話し合いをもつということまで行われた(7)。その後のチョードリー政権の農地問題への対処がインド系優遇であるとの不満が先住民系のなかに鬱積していった。チョードリー政権は、連立政権(=複数政党内閣)(8)においてフィジー先住民系の閣僚を過半数登用するなど先住民系に配慮する組閣を行ったが、農地問題への対処を目の当たりにして結局首相がインド系である限りフィジー先住民の利益は保護されない、との思いが先住民系に高まっていったのである。

 このようなフィジー先住民系の不満を背景に、先住民系によるクーデタの噂がチョードリー政権の成立から1年目にささやかれていた(9)こうした状況を背景に、スペイトらの武装集団が国会に侵入して、チョードリー首相らを監禁し、フィジー先住民の利益を強く保護する新憲法の制定、チョードリー政権の解任、そしてマラ大統領の辞任という要求を突きつけたのである。先住民系でしかも大酋長の家系にあるマラ大統領への不満が公然といわれたのは、直接にはチョードリー首相誕生にあたってマラ大統領が積極的な役割を演じたことへの不満が背景にあってのことであった。だが、このような不満があからさまに表明され、マラ大統領の自宅に先住民系住民によって投石が行われるという事態は、今回のクーデタ事件がフィジー先住民対インド系住民という単純な民族対立の構図ではとらえきれない側面をもっていることを示した。貧しいフィジー先住民対エスタブリシュメントという対立の構図も重なっていた(10)

 クーデタの当日、首都スヴァでは主にインド系住民が経営する商店が襲撃され、略奪や放火が各所で発生した。翌20日にマラ大統領は「非常事態」(State of Emergency)を宣言し、自ら行政権を行使して武装集団との暴力による対決を避け公正で平和的な解決をもたらすために努力する決意を表明し、大酋長会議議長を務めるランブカ前首相に政府と武装集団との調停役を依頼することを明らかにした。また、フィジー憲法と国家の諸制度に変更がないこと、そして銃と暴力が目的達成の手段であると考える人々の邪悪さには顔を背けるよう国民に訴えかけた。(11)

 
22日にマラ大統領は記者会見を招集し、現状を次のように説明した。(12)
 @1997年憲法に変更はなく非常事態宣言下でマラ大統領が全行政権を把握していること。
 A大統領は行政の首長として警察、国防軍、裁判所、及び他の公務員の全面的な支持と忠誠を得ているほか、大酋長会議のメンバー、上院、実業界、労働組合、非政府組織、市民からの支持の声があること。
 Bフィジーを実効的に支配しているのはマラ大統領の政府であり、国会議事堂内の武装集団ではないこと。
 Cフィジー先住民の意思を十分に尊重し、先住民社会の地位を保護し強化する解決策を十分に検討すること。  
 D武装集団は武器を捨てて人質を解放し、政府と対話に入ること。
 E大酋長会議がランブカ議長によって招集され、その場で憲法的解決があることをマラ大統領自身が強調しながら協議を行うこと。
 F フィジー先住民社会の関心事に目を向けなければならないが、行動は憲法の枠内で行わなければならず、その際憲法の「コンパクト(協定)」(Compact)の章(第2章)が明確な行動の指針を提供していること。すなわち、「異なったコミュニティーの利益が対立するとき、すべての関係当事者は合意に達するために善意をもって(in good faith)交渉に努力し、こうした交渉の中ではフィジアンの利益が守られるべきという原則が適応される。この原則は、フィジアンのコミュニティーの利益は他のコミュニティーの利益には従属しないということを確認するものである」(6条)との憲法規定を指針とすべきとした。

 こうして、フィジーがおかれている現状を説明しつつ事態解決に向けた大統領の姿勢を鮮明にし、国民に事態解決に向けての理解を求めた。一方、先住民の利益を代表すると考えられる大酋長会議が5月23日から3日間にわたって開催され、25日には事態の解決に向けて決議が行われた(13)。以上のように、大統領と大酋長会議は、ともにスペイトら武装集団の要求を大きくのむ形での打開策を提示したが、武装集団側はマラ大統領の辞任を含む全面的な要求の受け入れを強硬に主張し、事態の打開に失敗した。
 
B. 暫定軍事政権の成立と憲法の破棄
 5月27日、武装集団による発砲事件が発生し、政府軍兵士2名、通信社カメラマン1名が負傷する。事態が緊迫したなかでマラ大統領は記者会見に臨み、チョードリー首相及び全閣僚の解任、6ヶ月間の国会停会、そして暫定政権樹立の方針を発表する。その声明の中で、マラ大統領は26日に秘書官を国会議事堂に派遣し監禁中のチョードリー首相との面会を求めたがかなわず、目下の危機の中で他のとりうる憲法上の措置として憲法106条による首相の解任及び99条1項によるその他の閣僚の解任を決めたことを告げた。同条1項は、何らかの理由により首相を含む大臣がその職務を遂行できない場合、別の(首相を含む)大臣をその職に任命できると規定している。また、99条1項では、大統領は首相の助言に基づきその他の大臣を任免するとしているが、首相がその職務を果たすことができない状況においては、大統領が単独でその他の大臣を任免できるとして、議事堂内に監禁されている大臣を解職することによって、人質として監禁される根拠を奪うものであることを明らかにした。これによって、大統領が次の大臣を任命するまでの間、大統領のみがフィジーの政府であり、フィジーを統治する唯一の人間であるとの立場を示した(14)

 それにもかかわらず、事態はさらに悪化の兆候を見せる。翌28日、150人以上のスペイト支持者の若者たちがTV局を襲撃し放送が中断され、このとき警備にあたっていた警察官1名が銃撃で負傷し、翌26日に収容先の病院で死亡した。1987年のクーデタの際にはなかった死者を出したことで、事態は急転する。29日の朝、バイニマラマ(Frank Bainimarama)国防軍司令官がマラ大統領と会見、大統領から権力を委譲されたとして国民に対し声明を発表する(15)。軍が全権を掌握し、戒厳令(martial law)を布告、スヴァに外出禁止令がしかれる。これまでマラ大統領支持を表明しながら事態を「静観」していた軍が事態の収拾に乗り出したのである。27日の声明においてフィジーの全権掌握を明らかにしたマラ大統領からバイニマラマ国防軍司令官にその全権が移譲されたということは、ここに第2のクーデタ、すなわち「軍事クーデタ」(military coup)が発生したことを意味する。この軍の動きに対しスペイトら武装集団側は歓迎の意を表明する。そのほとんどがフィジー先住民で構成される軍こそがフィジアンの利益を代表するものであるとの思いがスペイトらにあった。軍事政権の誕生とその措置によって、スヴァ市街は一気に平穏を回復し、翌30日、全権を掌握したバイニマラマ国防軍司令官は、1997年憲法の破棄を発表し、以後暫定軍事政権首長兼司令官として、「命令」(Decree)によって統治することを明らかにした(16)

 ここにバイニマラマ軍司令官による委任独裁体制が成立する。しかし、この体制はその成立から約1ヶ月後に文民首相とその閣僚を任命し、文民政権へ権力を移譲する。7月3日、バイニマラマ国防軍司令官は、銀行家のライセニア・ガラセ(Laisenia Qarase)を首相に任命し、18人の閣僚名簿を発表、翌4日から新政権が発足した。この暫定文民政権はフィジアンだけで構成され、18ヶ月の任期で新憲法の制定とその下での総選挙の実施を担当することになった。鮮やかな軍事政権の手法であった。暫定政権に反対するスペイト支持派のフィジアンによる抗議行動が各地で頻発し、事態は一時いっそうの混乱の様相を呈し始めたが、7月9日にはバイニマラマ国防軍司令官・ガラセ暫定政権首相とスペイトらの国会を占拠していた武装集団の間で人質解放に関する協定(マニカウ協定)(17)が調印された。そして7月13日にチョードリー前首相を含む人質全員が無事解放され、5月19日以来の一連の事件に一応の終止符が打たれた。


4.暫定文民政権の成立
 
(1)新憲法の制定へ 
 
 政権発足からわずか9日後の7月13日、ガラセ首相は大酋長会議(Great Council of Chiefs)に対し、「フィジアン及びロトゥマンの権利及び利益の保護と両民族の発展の推進に向けての青写真(ブループリント)」(18)を提出し、今後の暫定政権の方針を明らかにした。提案の多くは今後2年間での実施を予定され、人口の過半数を占める先住民の土地所有権・漁業権の保護と生活の諸側面における参加の機会の確保が、フィジーの発展にとって不可欠の前提条件であるという立場が鮮明に表現された。その際、特にフィジアン人口が50%を越えてさらに増加傾向にあることと土地の80%以上を先住民が保有していることが強調され、ここに先住民の権利が優先させるべき根拠を見いだしている。

 提言の第一に挙げられているのが新憲法の制定であった。新憲法は1997年憲法の改正憲法ではない新たに制定される憲法であることが強調され、@大統領と首相に人種要件を付すことと、A大酋長会議の意見に添ってフィジアンとロトゥマンの重要問題について憲法上配慮することを基本方針とした。そして、その他の憲法関連事項としては、B大酋長会議の権力強化、C新憲法条項に基づいたフィジアンとロトゥマンのためのアファーマティブ・アクションに関する法律の制定が盛り込まれた(19)このような新憲法の基本方針は、文民クーデタを実行したスペイトらの主張とも合致したものであり、それは多くのフィジアンの願望をも表現したものでもあった。しかし、これは「人種差別憲法」として国際的な非難を受けてきた1990年憲法への回帰か、あるいはそれ以上の「反動」的な憲法を意味するものであることは間違いなかった。
 
 A. 1997年憲法の「欠陥」
 9月4日に「なぜ1997年憲法が改正されなければならないか、そしてなぜ新憲法が必要か」という政府見解が発表され、1997年憲法の欠陥のいくつかが1999年5月の選挙の中であらわになり、最大の欠陥が選挙制度にあると指摘された(20)

 その中で次の4点が小選挙区選択投票制の欠陥として問題視された。第一は、政党主体の選挙は問題であるということ。この選挙制度は個人よりもむしろ政党を選択し議席を割り当てることを許すもので、そのことは選挙人の候補者選択の権利を侵害したという見解が示される。小選挙区制絶対多数制のこの制度をとる以上、結果的に政党本位の選択を行ったのと同じことになるのは当然の帰結ではあるが、このことが制度の「欠陥」と評価されたのである。

 第二は、得票率と獲得議席数の不一致である。小選挙区制をとる以上、得票率と獲得議席数の比例的関係が破壊されること、すなわち多数代表制であることはこの制度の特徴にほかならないが、現実の選挙結果を前にしてこの特徴が制度の「欠陥」と認識されたのである。すなわち、「選挙制度はゆがめられた結果を生みだし、そのことによっても選挙人の権利を侵害した。SVTは、全フィジアン票の38%、投票総数の19.98%の得票をして、8 議席を獲得。FAPは、全フィジアン票の18%、投票総数の13.20%の得票であったが、11議席を獲得。NFPは、全インド人票の27%、全有権者の14.91%の得票 で、獲得議席数は0。FLPは、全インド人票の53.3%、全有権者票の31.74%で、37議席獲得」(21)

 このように、投票の第1選択では全有権者の約32%の得票にもかかわらず、票が移譲された結果労働党が単独過半数の37議席を獲得したことの「不合理」がこの選挙制度の欠陥として何よりも強く意識されたことは、指摘するまでもないだろう。

 第三に選挙区画の問題がある。当選者が小選挙区で選出されるため、3つの異なる民族別議席の選挙区画と全国民議席は、同じ地理的区分をカバーするものではなく、選挙区によっては選出された下院議員同士が協働して国民に奉仕するという姿勢が見られず、インド人の議員は選挙区のインド人に、フィジアンは選挙区のフィジアンのために集中して奉仕する傾向が見られた。そのため、議会においては議員がある選挙区のすべての人々のために複合人種集団として協働するようにはならなかった、と指摘された。

 そして、第4にフィジアンとインド系との投票行動の違いがこの選挙制度の下で増幅され、インド系の労働党への過剰代表を生み出したことが言われた。すなわち、フィジアンの分裂による多党化とインド系の人種的まとまりによる労働党への集中的な支持が、小選挙区制を基本とする制度の下で、労働党の圧勝を生んだという認識が示された。「フィジー労働党(FLP)は、2%に満たないフィジアン票を得たに過ぎないが、議席数は37議席を獲得し第一党。この37議席のうち6議席が全国民議席で当選したフィジアン。インド人の選挙人はインド人としてまとまって投票、一方、フィジアンの選挙人は、5つの政党と無所属に分裂。この現象は、同盟党が敗北した1977年と1987年の選挙と同様」(22)と評価した。

 B. 新憲法構想の提示
 10月6日に「憲法委員会」(Constitution Commission)の第1回会合が開かれた。この委員会は、アセセラ・ラヴヴ教授(Professor Asesela Ravuvu)を委員長とする大統領任命の12名の委員からなる独立委員会で、新憲法について検討を行い2001年3月末までに政府に報告書を提出することを任務とし、この報告を受けて遅くとも同年6月までに政府が憲法草案を準備し、7月から11月にかけて大酋長会議をはじめとするフィジアンコミュニティーに順次諮問した後、12月のはじめに新憲法が公布されることになった。

 第1回会合に出席したガラセ首相は、大統領、大酋長会議、および暫定政府を代表して演説を行い、そのなかで次のように憲法委員会に対し首相の希望を表明した(23)
 @各委員はそれぞれのコミュニティーを背景にしているが、全国民的な利益を指針として新しい憲法を考え、多人種・多文化社会を抱えたフィジーに適合したものであると同時に、先住民フィジアンとロトゥマンの利益と希望を考慮すること。
 Aフィジーの全国民の意見を広く聴取すること。そのために一般国民の中に入って行き実際にその意見を聞き、人々の「共通意思」(common will)を探り、それを憲法に反映させること。
 B現状の政治危機を解決する鍵は、先住民フィジアンとロトゥマンコミュニティーの関心事を注意深く見つめることである。1997年憲法による先住民の利益保護は不十分で、先住民は政府において政策をコントロールしその方向を決定する地位を要求している。同時に、先住民の継承されてきた文化の不可侵性(sanctity)とその保護がフィジアンの関心事である。あえていうと、フィジーは42万人以上の人口を占めるフィジアンとロトゥマンのただ一つの祖国なのだから、彼らの文化こそがこの国の「国民文化」(National Culture)とされなければならない。
 Cどんな憲法であっても、国民のなかに経済的社会的発展の機会に巨大なギャップがあるところでは長期間にわたる平和、調和及び安定を保障することはできない。人口の多数を占め、フィジーの土地の大部分を所有しているフィジアンが教育、商業、専門職、収入、そして雇用機会において劣位に置かれている現状では、長期間にわたる社会的安定を確保することができない。こうした現状が幅広く考慮された新憲法を期待する。それには、1997年憲法にある「コンパクト」と「社会正義」の章がこのアプローチの基礎を提供している。その一方で、その他のコミュニティーも我々の多人種・多文化社会における平等かつ重要なメンバーであり、人種・文化・性別・経済的社会的地位にかかわらず、すべての市民の基本的権利と自由が維持され保障されなければならない。

 このように、ガラセ首相は、憲法委員会の今後の作業への希望を表明するとともに、委員各自が個人的な考慮を犠牲にして、国家とすべての国民のためにより広い利益を考慮することを求めた。ここにフィジーの立憲民主制の回復に向けての基本方針は定まった。その基本方針とは何か。政府文書に繰り返しふれられているところを要約すると、要点は次のようになる。
 第1に、新憲法は1997年憲法の改正憲法ではなく、新たに制定される憲法であること。
 第2に、新憲法は先住民フィジアン・ロトゥマンの利益・希望に十分配慮することを基本原則とすること。このことから特に次の諸点への考慮が要請される。
 @大統領及び首相の地位は先住民に限られること。
 A先住民の土地所有権が将来にわたって完全に保障されること。
 B経済的・社会的に劣位にある先住民に対し、さまざまな優遇措置が実施されること。
 C先住民以外にも、基本的権利・自由は保障されること。
 D選挙制度の見直し。

 ところが、このように新憲法の制定に向かって作業が開始されてまもなく、暫定軍事政権による1997年憲法の廃止は違憲であり、同憲法はなお効力を有するとした判決がラウトカ高等裁判所で出され、暫定政権の正当性と憲法制定作業に疑問が投げかけられることになった。
 

5.1997年憲法の「復活」
 
 (1)高等裁判所判決
 
 11月15日にラウトカ高等裁判所(Lautoka High Court)で1997年憲法は現在も有効であり、暫定文民政権の任命は違法であるとの判決が出された。この判決は、5月19日の武装集団による国会占拠事件後、人質危機、軍事政権、そして暫定政権の樹立、といった一連の情勢を経た今日のフィジー憲法の地位についての判断を示したもので、原告は現在ラウトカの避難所にいる一農民で、5月19日以来の一連の事件の結果発生した事態によって不利益を被ったと主張して現在のフィジー憲法の地位についての判断を求めて提訴したものである。

 原告の主張の要点は以下の7点である(24)
 @5月19日に試みられたクーデタは失敗だった。
 A「必要性の原理」のもとで、マラ大統領によって出された非常事態宣言は違憲であった。
 B暫定軍事政権の命令による1997年憲法の破棄は違憲であった。
 C1997年憲法は現在もなお効力を有している。
 D選挙によって選ばれた政府は依然として合法的に構成された政府である。
 E選挙によって選ばれた政府(人民連合政府)はなお正統な政府である。
 F裁判所が公正で公平と考えるあらゆる救済を行うべきである。  

 これに対しゲイツ(Anthony Gates)判事は「宣言的判決」(declaratory orders)として次のような判断を下した(25)
 @5月19日のクーデタは失敗だった。
 Aその当時国が直面していた状況の中で行われたマラ大統領による非常事態宣言は、憲法の定める条件の中で厳格に宣言され、その結果「必要性の法理」(doctrine of necessity)の下で当初から有効性が認められる。
 B1997年憲法の破棄は「必要性の法理」の枠内でなされたものではなく、そのような破棄は違憲であり効力を有しない。1997年憲法は今日のフィジーにおける最高かつ有効な法規である。
 C大統領・上院・及び下院で構成されるフィジー国会は、現在もなお存在し、5月19日現在及びそれ以前の在職者は依然としてその職にある。辞任したラツー・カミセセ・マラ大統領は大酋長会議によって指名された時のまま大統領職にあり、上院議員は依然として上院議員であり、選挙によって選ばれた議会のメンバーは依然として下院議員である。原状は回復される。国会は大統領の裁量によりできるだけ早期に招集されるべきである。
 Dその間政府の地位が不安定なため、大統領にはできるだけ早く首相を任命する任務が残され、下院議員は大統領の意見を入れて、憲法47条及び98条によって下院で信任を得られる政府を形成することができ、その政府がフィジーの政府となる。

 すなわち、5月19日の文民クーデタは失敗であった、軍事政権による1997年憲法の破棄は違憲で同憲法は依然として有効である、という点については原告の主張を全面的に支持したが、マラ大統領による非常事態宣言は有効であるとして原告の主張は退けた。また、政府の有効性については原告の主張とは異なった観点からの判断を示した。すなわち、原告の主張は、1999年の総選挙後に形成されたチョードリー政権(人民連合政府)が現在も正統な政府であるということであったが、ゲイツ判決は国会は依然として有効に存在することを認めたが、政府についてはその有効性の判断を示していない。なぜなら、判決はマラ大統領による非常事態宣言を有効としていることから、非常事態下でマラ大統領が憲法106条及び99条に基づいて行った首相及びその他の国務大臣の解任については、憲法手続上問題ないと判断したものと考えられる。したがって、政府は首相をはじめその他の大臣が不在の状況にあるため、大統領は早期に国会を召集するとともに下院の多数の支持が得られる首相を任命し、新たな内閣を形成することを求めたのである。つまり、チョードリー政権の有効性を否定するとともに、現在のガラセ暫定政権の有効性をも同時に否定したのが本判決である。

 暫定政府は、この判決を「宣言的判決(確認判決)」であり法律同様の強制力を持たないとしながらも、判決の執行停止命令(stay order )を求めてフィジー控訴裁判所(Fiji Court of Appeal)に控訴するとともに、ガラセ首相は国民に対し暫定政府はフィジーにおける国家政府であり立法府としての活動を継続することを声明した。そして暫定政府の優先政策として、次の3点を挙げた(26)
 @市民の安全を確保し、フィジー全土における法と秩序を維持すること。
 A国家経済の建て直し。
 B立憲民主制に復帰し新憲法の下で選挙によって国会と政府を組織すること。
 また、暫定政府のアリパテ・ゲタキ(Alipate Qetaki)法務総裁(Attorney-General)はゲイツ判決は、政府側の証拠提出が不十分なまま原告側の提示した証拠に基づいて判断されたものであるとして「国民が必要としているのは真の知恵と成熟(true wisdom and maturity)に基づいた判決であるが、この判決にはそれが欠けている」と非難した(27)

 こうしてガラセ暫定政府は控訴裁判所の判決が下されるまで、さらにその任務を継続することを明らかにしたが、この判決が法的にはマラ大統領がなおその職にあると判断したことで、マラ前大統領は、5月29日に遡って辞職することを12月20日に公式表明したと伝えられる(28)。このことでゲイツ判決によって指摘された問題点の一つが解消され、暫定政府の正当性の強化が試みられた。

(2)控訴裁判所判決
 
 この判決では1979年にグレナダで発生したクーデタの事例(Mitchell v Director of Public Prosecutions (supra), a decision of the Court of Appeal of Grenada)が参照され、その中で提示されたクーデタ後の新体制が国内法的正当性を獲得するための条件を参考に、フィジーにおける新体制の成立が検討された。(29)

 A. 革命政府が法的正当性を獲得するための条件
 グレナダの判例から、一般的に革命やクーデタによって成立した政府が正当性を確保するための条件として、次の要件が提示された。
(a)革命が成功し、政府が行政上確固として確立され、対抗する政府が存在しないこと。(b)新政府の法が有効であり、人々が全般的にその法に従って行動していること。
(c)遵法行動が人々の自発的な新秩序の受け入れとそれへの支持によるもので、強制や暴力の恐怖によるものではないこと。
(d)体制が抑圧的で非民主的なものではないこと。
 これらの条件のすべてが存在しない限り、民主国家における裁判所は革命政府を正当なものと宣言すべきではない、というのがグレナダ高等裁判所のヘイネス(P.Haynes)判事のいう「有効性のテスト」である。この4条件をフィジーでそのまま適用するのではなく、フィジーのコモンローの文脈の中では、適用に当たってさらに次の条件が必要だとされた。

 B.フィジーにおける新体制確立の条件
 一般的条件に加え、フィジーにおけるクーデタ後の新政府が正当性を確保するための条件として、次のような加重要件が提示された。
(a)事実上の政府が全体としての国民の同意に基づいて確固として国の支配を確立しようとしていることの証明が必要である。
(b)この証明が、その要求の重要性と深刻さ故、高度の市民的水準に合致しなければならない。
(c)憲法の破棄が、事実上の政府が行政上確立され、その対抗政府がないという意味で成功を収めなければならない。
(d)対抗政府が存在するか否かの審理にあたっては対抗勢力が事実上の政府を武力で排除しようと考えているかどうかには限定されない。この場合、選挙によって選ばれた政府が権力を回復しようとしているか、憲法が承認されるべきだとしているかが関係する。
(e)人々が事実上の政府の指令に従って行動していることが証明されなければならない。この文脈では、事実上の政府が以前の立憲政府下の多くの法律(例えば、刑法、商法、家族法など)を頻繁に再承認し、国民が日常生活の多くの局面で二つの体制の違いにほとんど気づいていないことがこの証明に関係する。
(f)人々の新体制への服従は、事実上の政府が強制や力の恐怖への無言の服従とは違った人々の受容と支持によるものであるということによって証明される。
(g)事実上の政府が支配を行ってきた時間の長さが関係する。明らかに、時間が長ければ長いほど、新体制が受容されている可能性が高い。
(h)選挙は有効性の有力な証拠である。人々が政府の中に選挙によって選ばれた代表をもたず、選挙権が認められない体制は、人々による受容があまり確立されているようにはみえないということになる。
(i)有効性は、決定を行う裁判所による聴聞の際に表明される。
 このような加重要件を付して新体制の有効性を検証し、同裁判所は次のような判断を下した。(ちなみに、傍線を付した部分は、暫定政権とチョードリー前政権の行動を念頭に置き、暫定政権に不利(チョードリー前政権に有利)な結論を導くためのあからさまな加重要件と考えられる。)

 すなわち、約7ヶ月間しか経過せず厳しく人々の抗議を制限した政府を真に人々が受け入れているという説得的な指標を、たいていの人々が前体制の下での日常生活との違いをほとんど気づかないといった消極的な服従の様子からは見いだすことはできず、真の受容を示す説得的な証拠の不在のため、暫定文民政府は人々の受容を証明できてはおらず、従ってフィジーの合法的な政府の確立に失敗したといわなければならない、との見解を示し。そして次の三点が結論として導かれた。
(1)1997年憲法は現在もフィジー諸島の最高法規であり、破棄されていない。
(2)国会は解散されていない。国会は2000年5月27日に6ヶ月間停会された。
(3)1997年憲法の下での大統領職は2000年12月15日にマラ大統領の辞任が有効となったときに空席となった。憲法90条によって大統領が任命されるまで、憲法88条の規定に従って、副大統領が2001年3月15日まで大統領の職務を代行する。
 
(3)控訴裁判所判決の「偏向」
 
 控訴裁判所は、以上に列挙した要件を次の二点に集約し、それを基準に判断を行った。すなわち、@暫定文民政府は確固として確立され対抗政府が存在しないこと、A人々がその政府の受容を推測できるような状況の中で暫定文民政府の指令に従って行動していること。この2つの要件が満たされているかどうか、控訴裁判所は提出された証拠に基づいて次のように判示した。

 A.対抗勢力の存否について
 対抗政府の存在に関する第一の要件については次のような判断が示された。
 「5月19日の事件後、暴力と無法状態が国を無政府状態の危険にさらしたが、暫定軍事政府は秩序回復の任務を成功裡に行った。11月2日の軍の混乱も効果的に鎮圧した。組織的な抵抗や暫定文民政府に取って代わろうとする武力による試みもない。しかし、そのことは、『対抗政府』が存在しないことを意味しない。

 チョードリー前首相と前内閣のメンバーが提出した宣誓供述書によると、人民連合は1997年憲法の下で進んで前職に復帰する用意があり、人民連合は下院の71議席中44議席という多数の支持を依然として有するため、政府を形成することが可能であるという。それに加え、人民連合のメンバーによる1997年憲法の破棄を問題とする2件の訴訟が高等裁判所に提起されている。これは、裁判所を通じてその統治権の確認を求めている対抗政府が存在することを示す証拠である。」(30)

 
このように、チョードリー前首相の人民連合が提出した宣誓供述書の記述を高く評価し、人民連合のメンバーによる憲法の破棄をめぐる2件の訴訟の提起という事実を重く見て、対抗政府の存在の証拠と評価する。なるほど、対抗政府の存在要件を武力による勢力に限らず広くとらえる立場をとった以上(あるいはこのような判断を示したいために要件を広くとらえた?)、このような判断も当然といえば当然ではあるが、ここには判断の恣意性が窺える。政府が憲法外の力によって変更されるような事態にあっては対抗する政治勢力の存在が当然予定される。その相対立する勢力の一方が闘争に勝利し新政府を樹立するのであり、新政府の樹立後においても、反政府勢力の新政府への武力や言論による対抗が見られるのは通常の事態ではないだろうか。そのような抵抗が新政府を揺るがすような勢力となってはじめて対抗勢力(対抗政府)の存在といいうるのではないだろうか。控訴裁判所はあまりにも安易に対抗勢力の存在を認定しているといわざるを得ない。

 B.国民の新政府受容について
 国民による新政府の受容に関する第二の要件については、次のような判断が示された。
 「暫定文民政府はクーデタ中もそれ以後も政府の行政機能が継続していることを人々の新体制受容の推定の証拠としているが、我々はこの事実はほとんど受容の証拠とはならないと考える。必要とされるのは暫定文民政府へ国民の広範な支持及び1997年憲法の破棄に対する人々の受容を裁判所が推測できるような事実、という証拠である。暫定文民政府はそのような証拠を提出していない。証拠はほとんどが公職にある者からのものである。パラサッド側からはフィジーの人々が概して暫定文民政府を支持していないことを示す5巻に及ぶ宣誓供述書が提出された。この証拠はフィジーの多くの人々が1997年憲法がフィジーにおける異なる民族集団の理想や希望を表現し保障するものであると信じていることを示唆している。提出された資料は、1997年憲法の破棄についてはそれを正当化する適切な理由がないと広く信じられていることを示している。

 2000年8月27日から9月5日にかけて「コモンウエルス人権イニシアチブ」が後援する人権代表団がフィジーを訪問し、各地の市民団体と協議し報告書を作成したが、その7頁に次のような記述が見られる。『市民社会団体、とりわけ先住民フィジー人社会を代表する団体との協議の結果、軍が背後にある暫定政府への国民の支持がほとんどないことが明らかになった。』

 裁判所は、1997年憲法の存在の継続を承認してきた。ゲイツ判事がこの事件の聴聞を行った2000年8月23日から判決を下した11月15日の間に、1997年憲法の有効を基礎とする4件の判決が高等裁判所で出された。」(31)

 ここでも、暫定政府の主張をほとんど考慮せず、「必要とされるのは暫定文民政府へ国民の広範な支持及び1997年憲法の破棄に対する人々の受容を裁判所が推測できるような事実」という要件を持ち出し、原告側の提出した資料や海外の団体の作成した報告書の記述を重く評価するという偏向がみられるのである。
 
6.選挙管理内閣への再編と総選挙
 
(1)控訴裁判決の受容
 
 暫定政権はこの判決に異議を唱えたものの、結局この判決に沿う方向に政策を転換した。それはまず、5月30日の憲法破棄の時点に遡り、そこからの法的連続性を維持するという観点から、政権の合法性を確保するための手続きがとられることになった。

 3月14日に、ラツー・ジョセファ・イロイロ(Ratu Josefa Iloilo)大統領代行が暫定政権首相のライセニア・ガラセ(Lisenia Qarase)の辞任を受けて、5月30日の時点で首相職を代行していたラツー・モモエドヌ(Ratu Momoedonu)を暫定政権首相に任命し、イロイロ大統領代行の代行期限が切れるその翌日3月15日にイロイロがフィジー大統領の就任宣誓を行い、直後に同大統領は下院を解散した。翌16日の朝には、ガラセが選挙管理内閣の首相として再び任命された。そして、総選挙が8月25日から9月1日にかけて実施されることに決まった。

 こうして、この控訴審判決は、2000年7月以来、新憲法の制定とその憲法の下での総選挙の実施という立憲民主制への復帰に向けて独自の努力をつづけてきたガラセ暫定政権のスケジュールを白紙に戻し、「強引」に2000年5月まで時計の針を押し戻したのである。判決の中で、法的判断のみを行い政治的判断を行うものではないと明言しつつ、その宣言とは裏腹の政治的判断を行ったといえる。司法権による「植民地支配」といっても過言ではないような印象さえ受ける。
 
(2)ガラセ新政権の成立と「違憲」の組閣
 
 2001年8月25日から9月1日にかけて下院議員総選挙の投票が行われた(32)。3月に総選挙実施が決まってから、フィジー系の政党が叢生し、総選挙には18政党が候補者を擁立し、無所属を含め321人の候補者が71議席をめぐって選挙戦を展開した。その結果、選挙管理内閣の首相を務めるライセニア・ガラセ(Laisenia Garase)を党首とする「統一フィジー党(SDL)」が31議席を獲得し、前回選挙で過半数の37議席を獲得したインド系のフィジー労働党は27議席で第2党にとどまった。SDLは、フィジー系の「保守連盟(MV-CA)」(Matanitu Vanua-Conservative Alleance)の6議席と無所属の2議席を取り込み過半数を確保し、フィジー系による組閣を行い政権をスタートさせた(SDLのインド系1名を含む)。しかし憲法では議席の10%(8議席)以上を確保した政党には首相は入閣要請をしなければならないという「複数政党内閣(multi-party Cabinet)」(99条)条項があるため、27議席を占めるインド系FLPを内閣から排除することは違憲であるとして、労働党のチョードリー元首相は高裁に提訴した。

 これに対し、ガラセ首相は10月15日の初の国会演説において、組閣は憲法の定める複数政党内閣の規定に従って行ったものであり、労働党に対しても入閣要請を行ったが、労働党は入閣を拒否したものであるとして、次のように述べた。「私は憲法の規定に従い労働党に入閣を要請したが、その要請は、党首が諸条件を付けることによって、実際は拒否された。その条件は、私の考えでは違憲であり、それゆえ受け入れがたいものであった。・・・・・・誰が本当の人種差別主義者なのか。彼らは今インド系が内閣から排除され、インド系は周辺に追いやられその権利が無視され否定されているとの嘘をまき散らしている。・・・・・・私は、すでに憲法の要請する複数政党内閣を、憲法に従って組織した。この内閣は、複数の民族によって構成されているだけでなく、さらに一層重要なことは、機能的な内閣であるということである。なぜなら、内閣を構成するすべての政党が内閣の政策の枠組みとしてのSDLの政策を受け入れることで一致しているからである。」(33)

 ガラセ首相の主張は、入閣要請を行わなかったのではなく、入閣要請を行ったのにかかわらず労働党のチョードリー党首が受け入れがたい条件を提示したため、事実上の入閣拒否の態度と理解せざるを得なかったというものである。これは、1999年の労働党政権の構成時に入閣要請された前与党のSVTが、受け入れがたい条件を提示して事実上入閣を拒否したのと同じ状況であるとの見解に立つものである。はたしてガラセ首相のいうようにチョードリー労働党党首に対し入閣要請があったのかなかったのか、真相は藪の中である。しかし、こうしてガラセ政権はその発足段階から早くも、フィジー系とインド系の対立を顕在化させることになった。

 それからまもなく11月3日と4日に、シャングリラリゾートホテルにおいて、フィジーの指導者達を集めて第4回タラノア(Talanoa)会議が開催された。この会議は、協調的な対話と行動を通じて、国民統合・調和と安定・そして国民の生活の向上を促進しようとするものである。会議後ガラセ首相とチョードリー労働党党首は、「フィジー再建に当たっての調和と安定に関する指導者声明」という共同声明を出し、その中で次の4点についての合意が確認された(34)
 @異なったコミュニティーのそれぞれの価値についてよりよく理解し、その価値について真の敬意を抱くために、政党指導者間で、そして異なったコミュニティー間で、信頼を構築し、懐疑と恐怖をなくすこと。
 A調和と安定は「良き統治」と「法の支配」に基礎を置くものであり、そのために「法の支配」広く受け入れられること。
 Bすべてのコミュニティーの人々がフィジーを祖国として安心して住むことができるように、フィジー社会で劣位にあるコミュニティーや援助を必要としている人々に積極的格差是正措置(affirmative action)がとられるべきであること。
 C憲法は人々によって作られる生きた文書(living document )である。改正の必要な規定があるときは、改正は憲法の定める手続きに従っておこない、人々の意見を広く聞く必要がある。改正が必要な事項を確認し、そしてそれらの事項について一般的な理解に到達するために我々は対話を継続する。さらに、憲法と憲法問題についてより広範な国民教育が必要である。

 こうして、ガラセ政権と労働党との間で「和解」に向けた合意が形成され、危惧された
対立の深刻化が一応回避されたかのように見える。しかし、同様の状況は1997年憲法の成立時にも見られたものであり、これによって「和解」へ向けて大きく前進したと結論するのは早計に過ぎよう。1997年憲法の成立によって終わったかのように思われた憲法問題が2000年のクーデタによってまたしても問題提起され、2001年3月の控訴裁判決によってそれも決着したかに見えたが、ここにまた憲法問題の存在が確認されたのである。
 
 
むすびにかえて
 
 1997年憲法の成立によってフィジーの国民統合にとっての憲法問題は一応の終止符を打たれたと誰もが考えた。新憲法下で初の選挙が実施された1999年、選挙前の世論調査においては憲法問題や民族問題を争点とする声は国民の中にほとんどなく、焦点は雇用問題や経済問題に移行していた。ところが、誰もが予想しなかったインド系政権の誕生を目の前にして状況は一変する。そのわずか一年後には1987年のクーデタの再現という最悪の結果を招くことになった。軍事政権によって1997年憲法は破棄され、暫定政権に権限が移譲されたが、9か月にわたって憲法の空白期間がつづいた。2001年3月、控訴裁判所の判決によって1997年憲法が復活、選挙管理内閣へと装いを変えた暫定政権の下で下院総選挙が実施された。新政権が誕生し、10月に国会が開会され、立憲民主制への復帰を果たす。そして今また民族的和解による国民統合を掲げたフィジーは、憲法改正の必要が与野党一致の合意となっている。

 このような近年の流れを顧みるとき、1987年のクーデタ以来のフィジー憲法政治の歴史はなんだったのか、との思いに駆られたとしても不思議ではない。歴史の教訓から何を学んだのか、民族的和解は本当に両民族の願いであるのか、国民統合は実現されることのない「永遠の課題」なのか・・・・・・。外国人、とりわけ先進国の「知識人」がフィジーの状況を観察してこうした感想を抱くのは当然であろう。しかし、多少ともフィジーを知る者にとっては、違和感のつきまとう感想である。確かに、本稿に紹介した文書に表現されたところからは相当深刻な民族間の対立感情を読みとることができよう。両民族間には癒し難い傷が生々しく残っているように見えよう。

 筆者は2000年8月25日から9月1日にかけて実施された総選挙の投票から開票に至る2週間あまりの期間のうち、開票開始前後の約一週間をフィジーの首都スヴァで過ごした。投票所の前には各政党の小屋(shed)が架けられ、フィジー系・インド系が入り交じって投票者を待ち受けながら、カヴァを飲み食事をするのどかな光景が各所に見られた。わずか一年余り前にクーデタを経験した国、民族対立のある国、という面影はどこにもなく、過去何度かの訪問の際よりもいっそう活気に満ちているかのような印象さえ持った。国連やコモンウエルスから選挙監視団が派遣され、諸外国の注目の下に行われた投票であったが、大きな混乱もなく終了した。

 これもまたフィジーの紛れもない現実の顔である。選挙という西欧民主主義のルールに従って代表を選出し、その代表が政府を形成するという議院内閣制による代議政治があり、一方にそれが先住民の利益を蔑ろにするときは、政党に選出された代表による政治であっても、それは民主主義とはいえないとする先住民の民主主義観がある。選挙によって選出された代表による政治だけが民主主義ではない。伝統的酋長制度の中で培われた政治もまた我々の民主主義だ。こうした「民主主義」観が深く強く根を張っている。この二つの民主主義観が折々に一方が他方を凌駕し、フィジーの憲法政治は大きな振幅を伴って変動していく。そこには伝統と近代化という普遍的なテーマが内在する。その調和をどう図っていくかという課題がつねにつきまとう。グローバルスタンダードの名の下に、ここに一元的尺度を持ち込むことは慎まなければならない。文化的多様性を抑圧するところでは深みのある人間生活を期待できないだろう。

 本稿では、「西欧民主主義への挑戦と敗北」といういささか大仰な題目を掲げたが、それにふさわしい考察を十分に行うことができなかった。「紙幅の関係により」、というおきまりの逃げ口上を付け加えたいところであるが、じつは事実経過を提示することによってフィジー憲法政治のダイナミズムを描写できないかと試みたが故である。このようなフィジー憲法政治をどう評価していくのか、それはさらに次の課題としたい。フィジーの現実は容赦なく進行し、凡庸な研究者に考察の暇を与えでくれないのである。
 
 
(注)
(1) ラ(Ra)選挙区(オープンシート)の候補者が選挙公示後に死亡したため、同選挙区の投票が延期され、9月下旬に実施された。その結果SDLのインド系候補者が当選し、SDLは最終的に32議席となった。ちなみにこの当選者George Shiu Rajは、多民族問題担当相(Minister for Multi Ethnic Affairs)として入閣した。なお、選挙結果とその分析については、小川和美「2001年フィジー総選挙の分析〜民意はどこにあったのか〜」『パシフィック・ウェイ』通巻119号・(社)太平洋諸島地域研究所・2001年、に詳しい。
(2) 拙稿「フィジー共和国憲法にみる『伝統』と『近代化』の相剋」(『法政論叢』 第33巻・日本法政学会)・1997年、239頁。また、「近い将来、憲法の人種差別条項が廃止される可能性が考えられる。とするならば、差別条項の存在が、差別条項の必要のない状態を作ったということになる」として、90年憲法の政治・社会的効果とその歴史的意義を評価する(同、243頁)。
(3) 『CRC報告』、pp.64-67参照。これは1996年9月に出された「憲法再検討委員会」 (Fiji Constitution Review Commission)の報告書である。『リーブス報告』、『FCRC報告』とも呼ばれる。目次19頁、本文791頁、写真15頁で、全825頁の大冊。正式名称は、『フィジー諸島:統合された未来にむけて:フィジー憲法再検討委員会報告 1996年』(‘The Fiji Islands:Towards A United Future'−Report of the Fiji Constitution Review Comission, 1996.)で、ポール・リーブス(Sir Paul Reeves:マオリ系ニュージーランド人)、トマシ・バカトラ(Tomasi Rayalu Vakatora:フィジアン)、ブリジ・ラル(Brij Vilash Lal:インディアン)の3名の委員の執筆になる。697項目に及ぶ改正提案で、すべてに提案理由を付す。これが「両院合同特別委員会」(Joint Parliamentary Select Committee)に提出され、最終的に697項目のうち577項目が採択され、憲法に規定されることになった。残りの項目については、修正40項目、拒否または削除が77項目であった。本報告の要点については、拙稿「フィジーの憲法改正動向について−『憲法再検討委員会報告』を中心に」、『ミクロネシア』通巻第102号・(社)日本ミクロネシア協会・1997年、34-35頁、参照。 

(4) 97年憲法の構造といくつかの特徴的な規定については、拙稿「フィジー新憲法の成立と構造」『ミクロネシア』通巻第105号・(社)日本ミクロネシア協会・1997年、20-33頁、および同「フィジー新憲法(1997年)の若干の特徴について」『ミクロネシア』通巻第104号・(社)日本ミクロネシア協会・1997年、43-44頁、参照。 
(5) 7月13日にガラセ首相は大酋長会議(Great Council of Chiefs)に対し、「フィジアン及びロトゥマンの権利及び利益の保護と両民族の発展の推進に向けての青写真(以下、『青写真』と略す)」(BLUEPRINT FOR THE PROTECTION OF FIJIAN & ROTUMAN RIGHTS AND INTERESTS, AND THE ADVANCEMENT OF THEIR DEVELOPMENT)を提出した。この『青写真』は、フィジアンとロトゥマンの権利及び利益の保護に関わる重要問題と両民族の発展の推進と加速化に関わる提案を扱っている。(拙稿「フィジー・クーデタ、その後−2001年新憲法の制定へ−」『パシフィック ウェイ』通巻116号・(社)太平洋諸島地域研究所、2000年、13-14頁.)

(6) 拙稿「フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察」『苫小牧駒澤大学紀要』第5号・2001年3月、および同「フィジー・クーデターの推移」・『South Pacific』(南太平洋シリーズNo.231)・(社)日本・南太平洋経済交流協会・2000年7月、13-16頁、参照。
(7) 前掲「フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察」93頁、および山桝加奈子「フィジー連立政権のその後」、『パシフィック・ウェイ』通巻114号・(社)太平洋諸島地域研究所・2000年4月、14-23頁、参照。
(8)「複数政党内閣」は、首相が内閣の組織にあたっては下院の総議席の10%以上を占めるすべての政党から、その議席数の割合に応じて閣僚を指名しなければならないとするもので、行政権の共有を憲法上義務づけることによって国民統合を意図した制度である。この点で、いわゆる連立内閣とはその組織原理を異にする1997年憲法独特の制度である。(拙稿「フィジーの国民統合と『複数政党内閣』制」・『憲法研究』(憲法学会)・第32号・2000年、129-144頁、参照。)
(9) Brij V. Lal, Madness in May, Fiji before the Storm: elections and the politics of development, 2000, Asia Pacific Press, Austraria National University, p.186。この論文を紹介したものに、山桝加奈子「ジョージ・スペイトとフィジー−5月の狂気−(抄訳)」『パシフィック ウェイ』、通巻119号・(社)太平洋諸島地域研究所・2001年、19-38頁がある。ここでは31頁参照。。
(10) Brij V. Lal, ibid. p.182。山桝「ジョージ・スペイトとフィジー−5月の狂気−(抄訳)」、26-27頁。
(11) ADDRESS TO THE NATION BY HIS EXCELLENCY THE PRESIDENT RATU SIR KAMISESE MARA 20TH MAY 2000. (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_20.html)
(12) PRESS CONFERENCE-MONDAY 22 MAY, 2000. THE PRESIDENT OF THE REPUBLIC OF THE FIJI ISLANDS, HIS EXCELLENCY THE RT HON RATU SIR K.K.T. MARA, GCMG, KBE, OF, KSt, MSD(http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_22.html)
(13) 一方、原住民の利益を代表すると考えられる大酋長会議が5月23日から3日間にわたって開催され、25日には次のような決議がなされた。
 @大酋長会議は、フィジー諸島共和国大統領が目下の非常事態からフィジーを正常化させようとしている努力に対し全面的な支持を表明する。 A大酋長会議は1997年憲法が改正されること、そうしてその改正は原住民によって表明されたすべての関心事を含むべきものであることに賛成する。 B大酋長会議はフィジー諸島共和国大統領としてのラツー・サー・カミセセ・マラ大統領と副大統領としてのラツー・ジョセファ・イロイロを全面的に支持する。 C大酋長会議は、暫定政府指導者としてのマラ大統領を補佐するため助言者会議(Council of Advisors)のメンバーを任命することに賛成する。 D大酋長会議は、大統領だけが助言者会議を任命する権限をもっていること、そしてその助言者のうちの何人かはジョージ・スペイトのグループから選ばれることに同意する。 E大酋長会議は、大統領に対し、国会を占拠し人民連合政府(People's Coalition Government)を人質に取ったすべて人々に恩赦を与えることを要求する。 F大酋長会議は、大統領に対し、最近の抗議行進の中でさまざまな原住民グループによって掲げられた不満に十分かつ緊急の注意を払うことを要求し、大統領と首相の地位及びその他のいくつかの政府の上級の地位が、つねに原住民であるフィジアンかロトゥマンによって占められることを保障するよう特別の注意を払うこと。 G大酋長会議は、国会議事堂内のすべての人質の解放とすべての武器の警察への引き渡しを即座に要求する。 H大酋長会議は、暫定政府が一定の任期を与えられ、第1の任務は1997年憲法の改正とそれに関連する下位法の改正及び関係立法であることに同意する。 I大酋長会議は、ジョージ・スペイトとその部下との一層の対話が継続することに同意する。( BOSE LEVU VAKATURAGA RESOLUTION (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_25_2.html))
(14)  STATEMENT BY HIS EXCELLENCY THE PRESIDENT, RATU SIR KAMISESE MARA ON THE HOSTAGE CRISIS.(http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_27_2.html)
(15)  ANNOUNCEMENT TO THE NATION BY THE COMMANDER OF THE REPUBLIC OF FIJI MILITARY FORCES, COMMODORE FRANK BAINIMARAMA, 7pm, Monday 29 May, 2000. (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_29_2.html)
(16) FIJI CONSTITUTION REVOCATION DECREE 2000, INTERIM MILITARY GOVERNMENT, DECREE NO.1. (http://fiji.gov.fj/core/press/2000_05_30_2.html)
(17)  THE MUANIKAU ACCORD FOR THE RELEASE OF HOSTAGES HELD AT THE PARLIAMENT COMPLEX VEIUTO, (http://209.15.72.151/crisis/accord.htm)
(18) BLUEPRINT FOR THE PROTECTION OF FIJIAN & ROTUMAN RIGHTS ANDINTERESTS, AND THE ADVANCEMENT OF THEIR DEVELOPMENT.(The Review, July 2000, p.30)
(19)  同。および前掲「フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察」、101頁。
(20) WHY THE 1997 CONSTITUTION MUST BE CHANGED AND WHY A NEW CONSTITUTION IS NEEDED, PRESS RELEASES, 04 September 2000.(http://fiji.gov.fj/core/press/2000_09_04_2.html)。および拙稿「フィジー・クーデタ、その後−2001年新憲法の制定へ−」・『パシフィック ウェイ』、6-9頁、参照。
(21) 新憲法の必要性が説かれる一方で、廃止された1997年憲法の欠陥が強調される。2000年9月4日に『なぜ1997年憲法が改正されなければならないか、そしてなぜ新憲法が必要か』(注20)という政府見解が発表され、1997年憲法の最大の欠陥が選挙制度であり、それが1999年5月の選挙で明らかになったと指摘された。すなわち小選挙区選択投票制の欠陥であり、それは次の4点に集約される。
 @この選挙制度(=小選挙区選択投票制)は個人よりもむしろ政党を選択し議席を割り当てることを許すもので、そのことが選挙人の候補者選択の権利を侵害したこと。 A得票率と獲得議席数の不一致で、第1順位の選択では全有権者の約32%の得票にすぎない労働党(FLP)が、票が移譲された結果、単独過半数の37議席を獲得したこと。 B選挙区画の問題で、当選者が小選挙区で選出されるため、民族別議席(46議席)の選挙区画と全国民議席(25議席)の選挙区画がズレたため、インド人の議員は選挙区のインド人に、フィジアンは選挙区のフィジアンのために集中して奉仕する傾向が見られ、議員同士が選挙区のすべての人々のために複合人種集団として協働できなかったこと。 Cフィジアンの小党分立化とインド系の人種的まとまりによる労働党への集中的な支持という民族ごとの投票行動の違いが小選挙区制を基本とする選挙制度の下で増幅され、労働党の圧勝を生んだこと。
 以上、1997年憲法の欠陥が提示されることで新たな選挙制度を定めた新憲法の必要が示唆されるのである。また、1997年憲法の規定に従って国民統合のための複数政党内閣が構成されたが、フィジアンが議会と政府で多数を占めても多数の政党に分裂したため、政府の政策形成にほとんど影響を与えることはできなかった。結局、首相職を占めない限りいくら議会や内閣の中で多数を占めても政策に決定的な影響力を行使できないことが明らかになったのである。
 こうした気持ちが、借地期限切れ農地の補償問題(ALTA問題)への政府の対応を通じて原住民系フィジー人の中に形成されたのである。そのままの状態が続くと、土地所有の根幹にかかわる法律改正すら現実化するかもしれないという不安感がフィジー原住民系の中に兆した。そこで、フィジアンが自らの権利保護のために憲法的及び政治的枠組みを強化するには、憲法で首相職と大統領職をフィジアンに限るほかなく、それには新たな憲法の制定が必要であるという結論に導かれたのである。(「ガラセ暫定政権の政策と課題」『南太平洋シリーズ』No.239・(社)日本・南太平洋経済交流協会・2001年3月、2-3頁)。
(22) WHY THE 1997 CONSTITUTION MUST BE CHANGED AND WHY A NEW CONSTITUTION IS NEEDED, PRESS RELEASES, 04 September 2000. および前掲「フィジー・クーデタ、その後−2001年新憲法の制定へ−」、6-9頁、参照。
(23) 前掲文書および論文、同所、参照。さらに MR LAISENIA QARASE PRIME MINISTER AND MINISTER FOR NATIONAL RECONCILIATION AND UNITY, ADDRESS AT THE FIRST MEETING OF THE CONSTITUTION COMMISSION, Office of the Constitution Commission, ParliamentFriday, 6th October, PRESS RELEASES)(http://fiji.gov.fj/core/press/2000_10_06_2.html)
(24) STATEMENT FROM THE ATTORNEY GENERAL AND MINISTER FOR JUSTICE, ALIPATE QETAKI, IN RELATION TO JUDGMENT DELIVERED YESTERDAY IN THE  CHANDRIKA PRASAD CASE, November 16th, 2000. (http://www.fiji.gov.fj/press/2000_11/2000_11_16-01.shtml)、Full text of Justice Gates ruling, Thursday, November 16, 2000.(http://www.fijilive.com)、および 前掲「フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察」、106-108頁。
(25) 前掲両文書、同所。および前掲論文、同所。
(26) STATEMENT BY THE INTERIM MINISTER MR LAISENIA QARASE, STATE WILL APPEAL JUSTICE GATES DECISION, 15th November 2000. (http://www.fiji.gov.fj/press/2000_11/2000_11_15-01.shtml)
(27) STATEMENT FROM THE ATTORNEY GENERAL AND MINISTER FOR JUSTICE, ALIPATE QETAKI, IN RELATION TO JUDGMENT DELIVERED YESTERDAY IN THE CHANDRIKA PRASAD CASE, November 16th, 2000. (http://www.fiji.gov.fj/press/2000_11/2000_11_16-01.shtml)
(28) FIJI'S PRESIDENT RATU SIR KAMISESE MARA OFFICIALLY RESIGNS, Pacific Islands Report, 00/12/26. (http://pidp.ewc.hawaii.edu/PIReport/2000/December/12_21_01.htm)
(29) 拙稿「フィジー控訴裁判決(01.3.1)要旨」・『パシフィック ウェイ』通巻118号・2001年、10-12頁。
(30) 同、12-13頁。
(31) 同、13頁。
(32) 小川和美、前掲論文、4-18頁。
(33)  Multi-Party Cabinet With Constitution-Qarase, Fiji Government Press Release, http://www.fiji.gov.fj/press/2001_10/2001_10_15-03.shtml.
(34) Talanoa W- Fiji Government, http://www.fiji.gov.fj/speeches_features/F2001/F2001-17.shtml
ちなみにtalanoa とはフィジー語で、「おしゃべりすること、物語をすること」の意。
 
 
*本稿は、筆者がこれまでに発表したフィジー憲法政治に関する以下の論文のうち、特にEILNOを骨格に配しつつ構成したものである。詳細については各論文を参照願いたい。
    
@「フィジー共和国憲法にみる『伝統』と『近代化』の相剋」『法政論叢』 第33巻・1997年5月。
A「フィジーの憲法改正動向について−『憲法再検討委員会報告』を中心に」『ミクロネシア』通巻第102号所収・(社)日本ミクロネシア協会・1997年3月。
B「フィジー新憲法(1997年)の若干の特徴について」『ミクロネシア』通巻第104号・(社)日本ミクロネシア協会・1997年9月。
C「フィジー新憲法の成立と構造」『ミクロネシア』通巻第105号所収・(社)日本ミクロネシア協会・1997年12月。
D小林泉と共著「強いられた国民国家」佐藤幸男編『太平洋世界叢書 1 世界史の中の太平洋』所収・国際書院・1998年8月。
E「国民国家形成と憲法−フィジー諸島共和国の場合−」『憲法政治学叢書1 近代憲法への問いかけ』所収・成蹊堂・1999年7月。
F「フィジー諸島共和国憲法(1997年)における人権と原住民の権利」『苫小牧駒澤大学紀要』第2号・1999年10月。
G「フィジー諸島共和国の新選挙制度とその思想」『パシフィックウェイ』通巻112号・(社)太平洋諸島地域研究所・1999年10月。
H「フィジーの国民統合と『複数政党内閣』制」『憲法研究』(憲法学会)第32号・2000年5月。
I「フィジー・クーデターの推移」、『南太平洋シリーズ』No.231・(社)日本・南太平洋経済交流協会・2000年7月。
J「フィジーの選挙制度と最近の政治動向」、カミセセ・マラ(小林泉・東裕・都丸潤子共訳)『パシフィック・ウェイ−フィジー大統領回顧録』所収・慶應義塾大学出版会・ 2000年8月。
K「クーデタの法理について−フィジーのクーデタ(1987年)を中心に−」『苫小牧駒澤大学紀要』第4号・2000年9月。
L「フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察」『苫小牧駒澤大学紀要』第5号・2001年3月。
M「多民族国家における国民統合と選挙制度−フィジー1997年憲法下の選挙制度の理念と現実」『環太平洋・アイヌ文化研究』創刊号(苫小牧駒澤大学・アイヌ文化及び環太平洋先住民族文化研究所)・2001年3月。
N「ガラセ暫定政権の政策と課題」『南太平洋シリーズ』No.239・(社)日本・南太平洋経済交流協会・2001年3月。
O「フィジー控訴裁判決(01/3/1)要旨」『パシフィックウェイ』通巻118号・(社)太平洋諸島地域研究所・2001年5月。
P「クーデタと司法権−フィジー控訴裁判所判決(01/03/2001)の批判的検討」『苫小牧駒澤大学紀要』第6号・2001年9月。
 
 
初出:憲法政治学研究会編『近代憲法の洗練と硬直』(成蹊堂)、2001年8月。